ショパンを愛したパリの女性たち

 ショパンが1831年9月に到着したころのパリは、人口75万人あまりで、現在と同じく活気に溢れ、朝から晩まで石畳の広くない通りを馬車が行きかい、あらゆる階層の人達が混在していた。屋根裏部屋にひしめくような暮らしから遠くないところに、豪華なサロンに蝋燭を明明とともして夜会を開き、家紋付きの馬車がその門の前に並ぶ王侯貴族、資産家たちの屋敷が並ぶ通りがあった。大都会に仕事を求める音楽家たちも多く、ほんの一握りの裕福なサロンでのひとときの機会を何とか得ようと必死だった。
 ショパンにはそのような必要は全くなかった。ウィーンでベートーベンの主治医だったマルファッティがパリ音楽界の重鎮パエルに紹介状を書いてくれたからだ。パエルの紹介で大人気の演奏家リストの知己を得ると、メンデルスゾーンロッシーニと音楽家たちの輪の中にすぐ入り、彼らと共に評判のサロンに賓客として迎えられた。


<デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人>
 ショパンがパリで最初に親しくなった女性はポーランド出身のデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人だ。あまりの美貌に、画家ドラクロワをして見とれてしまうと言わせるほどだった。歌ばかりでなくピアノの名手でもあったデルフィナに、ショパンは「協奏曲第二番」「子犬のワルツ」を献呈している。スカートを履いたドン・ファンとの異名を取るほどに多くの愛人を持ったデルフィナだったが、音楽を深く理解し合う特別な友人としてショパンとはその生涯にわたり互いをとても大切にしあった。


<プラテル侯爵夫人>
 デルフィナと同様に優雅に暮らすポーランド人が、パリには少なくなかった。娘を弟子にと最初に頼んだプラテル公爵家もその1つで、毎週木曜日に音楽の夕べが開かれ、最も大切な常連客の一人がショパンだった。夫人はショパンを家族のような温かいもてなしで迎え入れてくれた。


<マルツエリーナ・チャルトリスカ公爵夫人>
 ショパンがワルシャワを出発したころ、ロシア圧政への抵抗運動で揺れ動いていた祖国だが、結局失敗に終わり、革命政府を率いていたチャルトリスキ公とその一族もパリに逃れていた。公はパリ・セーヌ川のサン・ルイ島のランベール館を住まいとし、月曜日にサロンを開き、亡命ポーランド人救済のための音楽会や舞踏会を定期的に行なった。
 そこで出会った一人にマルツエリーナ・チャルトリスカがいる。ショパンが8歳のとき、イーロヴェッツの協奏曲を演奏してワルシャワ・デビューを果たした劇場を擁する、大貴族ラジヴィウ家の出で、デルフィナとともにピアノの大切な弟子として、生涯の友として強い絆で結ばれていく。


<ベッティ・ロスチャイルド男爵夫人>
 誰もが憧れるジェームズ・ド・ロスチャイルド家のサロンでショパンが演奏する機会を得たのは、パリ到着の翌年だ。パリ最高のサロンで演奏すると、ピアノ愛好家のベッティがショパンに弟子にしていただけないかと申し出た。瞬く間にこの話は広がって、レッスン料は20フランと高額であるにも関わらず、レッスン依頼が相次いだ。ベッティの娘、シャルロッテはショパンお気に入りの生徒となった。ショパンの教えを受けられるのは、音楽的な感性が優れていて、その品性、人格がショパンに気に入られなければならなかった。


マリ・ダグー伯爵夫人
 ショパンに「練習曲」作品25を献呈されたマリは音楽にも文学にも才能があり、リストの愛人として3人の子供を生むほど、エネルギーに溢れ、同じような性格のジョルジュ・サンドとは一緒に旅をするほどの仲だった。リストの作曲活動を陰で支えたのはマリと言われているが、その才能を表立って生かせないことから、マリは徐々にサンドの活躍に嫉妬するようになっていく。ショパンとサンドがマヨルカ島を目指す頃には、お互いを中傷しあうほどに険悪なものとなった。


<ジョルジュ・サンド>
 ショパンの生涯を支えた女性というと、その筆頭に名を上げなければならないのが、ジョルジュ・サンドだ。1804年にパリに生まれたサンドは、本名をアマンティーヌ・リュシル・ド・フランクイと言う。祖母はルイ王朝の流れを受ける貴族で、溺愛した一人息子モーリスが妻としたのは、スペイン戦役に出征したときに出会った上官の愛人。その血筋を祖母は全く受け入れることなど出来なかった。しかし、父から知性を、母からは逞しい生活力を受け継いだサンドは、4歳からノアンの館に住まう祖母のもとで、厳しく育てられることになった。
 落馬がもとで父が死んでしまい、パリの生活を好む母は、幼いサンドを広大な敷地の中に立つ館に残していくことに躊躇はなかった。教養のある祖母と、父の家庭教師によって、サンドはラテン語、文学、歴史、さらには農村に伝わるハーブや野草を使った伝統の民間療法まで身に付けるようになる。緑あふれる肥沃なフランス中部のベリー地方の農村地帯には古くから民話がたくさん残り、幼い頃から祖母の口から聞かされて育ったサンドは幻想的な物語にとりわけ魅了され、想像の世界に一人入り込むこともあった。その一方で乗馬を得意とし、台所で使用人が作る料理にも興味を持った。
 祖母の死とともにノアンの館ほか全ての財産を相続し、翌年には9歳年上のカジミール・デュドバン男爵夫人となった。結婚生活は退屈だったが、長男モーリスの誕生が救いとなった。しかしそれもひと時で、サンドはやがてベリーの名士の家柄で文学に興味のある青年たちの集いに足しげく通うようになった。行動的なサンドはそのうちの一人と恋に落ちパリに向かったが、それもつかの間で、また館に戻ると、他の文学青年と恋に落ちるといったように、サンドの人生には常に愛人の存在が欠かせなくなる。
 長女ソランジュが2歳半になろうとする1831年の冬には、教養も趣味も違う夫との別居を決め、年間生活費の確約を得ると、パリでの文筆活動を本格的に始めることにした。男装し、石畳を闊歩するようなサンドはすぐに新聞記者の仕事を手にし、翌年発表した「アンディアナ」でセンセーショナルなデビューを飾った。階級社会の中で夫に忍従しながら暮らすアンディアナが恋をきっかけに、その人生を大きく変えていくという物語に、人々は夢中になった。さらに退廃した修道院を舞台にした「レリア」は、宗教的タブーへの挑戦であるかのようで、センセーショナルな話題を沸騰させた。次々に問題小説を発表するサンドは瞬く間に文学界最高の執筆量を誇る作家としてのし上がっていった。


 二人の出会い
 そのようなサンドがショパンの姿に目が離せなくなったのは、1836年、リストとマリー・ダグーのサロンで出会ったときだ。ショパンの方はというと、サンドが高名な作家だということは知っても、独特の服装で葉巻を手にする姿に共感するものを見出せなかったようだ。しかし1838年には、愛し合う二人の様子に魅せられたドラクロワは、自分のアトリエにピアノを運び入れ、二人の姿を描いた。この絵は後に切り離され、現在では最も有名なショパン像として知られている。


 マヨルカ島
 その後、ショパンはサンドの子供たちと一緒にスペインマヨルカ島に滞在した。パリでの優雅な生活に慣れたショパンは、馬車もままならず、食事も口に合わず、体調もよくない、いいのは自然に恵まれた美しい風景だけと嘆いた。しかし手厚く看護してくれる頼もしいサンドが傍らにいるおかげで、パリから運び入れたプレイエルのピアノで「前奏曲集」など数々の作品を書き上げることができた。


 ノアンの館での生活
 翌年の2月には帰路につき、イタリアにしばし滞在し、6月からパリではなくサンドの館のある中部ベリー地方、ノアン村で恵まれた夏を過ごすことになった。この年から7年にわたり、夏になるとノアンで作曲、秋から春までパリでの社交とレッスンという生活パターンが、やはりサンドの手で整えられていく。サンドはショパンの健康を心から気遣いながらも、出せば売れる小説を世に送り出すために、寝る間も惜しんでペンを走らせていた。自然の中の生活を愛するサンドは、寒くなっても川での水浴びを欠かさなかった。屋敷の周囲の所有地では野菜や果物を作らせ、森の小径には花々を絶やさず、滋養の高い鶏を飼い、サンドの監督のもと使用人たちが作る料理は、ショパンの体調を効果的に維持した。
 サンドはパリからの客を招くことにも熱心だった。二人が共通して到着を心待ちにするのが、画家のドラクロワとソプラノのポーリーヌ・ヴィアルドだ。ドラクロワは穏やかな人柄で、ノアンの居心地があまりにも良すぎるからと、少しは仕事をと、あえて絵筆を握り、サンドの使用人をモデルに「聖母の教育」を描き、それはしばらく館前の教会の壁を飾った。ショパンはドラクロワと庭の小道の散歩を楽しんだ。

 サンドはジャム作りも得意だった。季節の果物はたくさんの壜の中のジャムへと姿を変え、それが食卓のご馳走の1つとなっていた。
 食卓によく並んだ食材はすべて、敷地で育てられたものばかりで、新鮮なことこの上なかった。このような館には代代に渡った料理が残っている。そこを覗くと、ショパンの健康を支えたであろう栄養価が高くて、消化の良いものが並んでいる。例えば、小麦と牛乳、チーズを豊富に使ったニョッキのグラタン、若鶏のフリカッセなどだ。食欲がないときは、小麦粥ノアン風が供されたのではないだろうか。
 そして田舎の夜は暗く長い。その時間は、ショパンが笑いを取ることもあった。モノマネが上手でそれも人物描写が得意だったからだ。そして即興の天才は、物語のようにピアノを演奏し、サンドが語って、ショパンが情景描写をして、家族たちを楽しませたのだろう。即興劇も人形劇も楽しんだ様子は、今に残る館の舞台が物語っている。


ポーリーヌ・ヴィアルド
 サンドとショパンにとって、最も大切な友人の一人がポーリーヌだ。1821年にスペインに生まれ、父も姉も有名なオペラ歌手という一族で、ピアノの才能もあり、作曲もし、注目のソプラノで、リスト、クラーラ・シューマンなど、同時代の芸術家達からの賞賛の言葉が絶えないほどだった。テノールからソプラノにわたる音域の歌声は自然の美しさに溢れていた。すっかり魅了されたショパンは、ポーリーヌと古典作品から即興までと自在に奏で、ピアノを前に二人の楽しい時間は尽きることがなかった。
 終生の友となったポーリーヌはサンドとショパンのことをとても良く理解していた。それ故に、二人が突然に別れた1847年から、2年後のショパンの死まで、サンドの心を翻そうと何度も心をくだいた。その思いは叶わなかったが、ショパンにはポーリーヌの情け深く温かい心遣いはとても救いで、晩年に旅行したイギリスで一緒に共演すると、その喜びは例えようもないものとなった。パリ最初の頃、仲の良かったリストと意思の疎通を欠くようになった原因の1つが、自分の作品を勝手な解釈と編曲で演奏されることだった。ショパンにとって、作品番号を付けて世に出した曲は、いわば完全版であって、他の形はないといった自負がそこに込められている。しかし、音楽の解釈において尊敬すべき才能と謙虚さを備えるポーリーヌには、ショパンは何でも許し、自分のマズルカを歌いたいとの申し出には喜ぶばかりだった。


<ソランジュ そしてサンドとの別れ>
 サンドの娘、ソランジュもショパンの生涯で重要な役割を演じた一人だ。サンドが29歳の時に生んだソランジュは母から勝気さだけを受け継ぎ、その芸術的才能は兄のモーリスにいってしまった。幼い頃から集中力に欠け、努力することもなく我がままだと、母からレッテルを貼られたソランジュはショパンの優しさを救いとした。他の誰よりも自分を理解し大切にしてくれ、才能がなければ弟子となることを認めないショパンなのに、さして見込みのないソランジュだけは例外だった。楽しげにピアノを教え、その後には一緒に馬車で散歩に出かけた。ソランジュは母への反発からショパンを自分の味方にし、その愛を勝ち得ようとし、それが母サンドには鬱陶しく、しかしショパンはソランジュをあくまでも自分を慕う可愛い妹という距離感を変えることはなかった。一方、兄のモーリスは母とショパンの関係に嫉妬し、成長するにつれてますます疎ましく思っていることを隠そうともしなくなった。モーリスを溺愛するサンドはショパンが体調の悪さから気難しさを募らせていると、息子に共感し、ショパンとの生活に重荷を感じるようになっていった。

 そこにソランジュが決定的な事件を起こし、ショパンと突然の別れを迎えることになる。
 母に反発しかしないソランジュと珍しく意見が一致したのが、彫刻家クレサンジェへの評価だった。人間的に決して評判が良くないのに、その勢いある雰囲気とサンドの胸像をぜひ作らせて欲しいとの申し出に、二人はすっかり騙されてしまった。そしてソランジュはクレサンジェと瞬く間に結婚を決めてしまった。サンドもソランジュのような娘には、クレサンジェのような強さがあったほうが良いと考えて、きっと反対するであろうショパンには何も知らせずに、ノアンで結婚式を挙げた。ことに顛末は、破産したクレサンジェがノアンに乗り込み騒動を起こし、妊娠しているソランジュにショパンが同情したことが発端だ。ショパンがサンドに、母なのだから娘さんを大切にといった手紙を書くと、責められるべきはソランジュなのに、家族でもないショパンが口を出した、とサンドの怒りは収まることがなかった。ペンを取ると、一人パリに残るショパンに迷うことなく、別れの手紙を書いた。


 <ジェーン・スターリング>

 サンドと同じ年齢でイギリス出身の資産家ジェーン・スターリングがショパンの弟子になったのは、1840年の頃だ。ショパンの弟子になる条件は決して甘くない。レッスン料が当時では破格の20フランと高く、さらに貴族的な教育を受けた礼節と気品など、ショパンの好みに合わないとレッスンを受けることは出来なかった。ピアノ演奏の才能が第1条件であるのはもちろんだ。
 先生としてのショパンの力がどのようなものであったかを知ることが出来るエピソードがある。当時の大ピアニストのカルクブレンナーやモシェレスが、後に音楽家になる才能を備えている息子、娘のレッスンを依頼したからだ。父自身が最高の音楽家でそのレッスンこそ望む人が多いのに、ショパンの指導力とその音楽の素晴らしさを認めて、子供たちへの教えを乞うてきたのだ。
 異イギリス人のジェーン・スターリングの演奏力もかなりのものだったので、ショパンは熱心に指導した。現在、ショパンの楽譜を出版するにあたり重要な資料の1つであるのが、ジェーン・スターリングが持っていた楽譜だ。ショパンは指導にあたって、ジェーンの楽譜に様々な書き込みをしていたからだ。

 1847年、ショパンがサンドと会えなくなったことは、社交界の衝撃として受け止められた。ショパンを先生として慕うばかりでなく、できればその恋人に、そしてさらには結婚もと望んでいたスターリングは、イギリスへの演奏旅行に熱心に誘った。ショパンは体調が思わしくないのは分かっていたが、パリに滞在していても、毎日が覇気のないものとなってしまったので、スターリングの誘いに乗ることにした。出発前にはプレイエル・ホールで演奏会をし、それを成功させて気分良く旅に出た。ロンドンに到着すると、資産家のスターリング家が用意した部屋には早速、3社からピアノを入れる申し出があった。その演奏は多くの人に待たれ、サザーランド侯爵家で行われたコンサートにはヴィクトリア女王も臨席し、その後も貴族にサロンからの招待が相次いだ。
 滞在の最初の頃はショパンの体調も悪くなく、ポーリーヌ・ヴィアルドとの共演も出来たので、イギリスに来たことへの後悔はあまりない。しかし、やがてスターリング一族が住まうスコットランドに向かう列車に乗り込み、連日の移動と、退屈な社交でショパンは疲れ果てた。パリに帰ることばかりを望むようになり、ロンドンにやっとの思いでたどり着くと、チャルトリスカ公妃が見舞いに来てポーランド語で語り合えたのが大きな慰めとなった。誰もがパリに戻れる体力があるかと心配したが、そのような時でも、同胞のためならと、ポーランド難民のためのチャリティー演奏会には迷うことなく舞台に立った。


<最後の日々を支えた女性たち>
 念願のパリ帰還は1848年11月24日で、スクワール・ドルレアンの自宅に戻ると、親しい友人や弟子たちが待ち受けていた。長年の友人ポトツカ伯爵夫人は美しい歌声で見舞い、体調がいいときは、ドラクロワがショパンを馬車に乗せて気分転換にと外に連れ出した。マルツェリーナ公妃など数を少なくした弟子のレッスンは横になりながら、かろうじて行なっていた。しかし息を吸うのがやっとといった様子に、医者は空気のいい場所で暮らすことを勧めた。富裕な弟子たちの一人、スーツオ公妃の母が緑豊かなシャイヨーの住まいの費用の援助を申し出た。レッスンもままならないショパンに最大の援助をしたのはスターリングで、その死後、大半のショパンの遺品を買い取ったのもスターリングだった。そのおかげで、ピアノなど多くのものが散逸せずに残ることとなった。
 1849年6月になると大量の咯血をし、姉のルドヴィカを呼び寄せて欲しいと最後の願いを口にするようになった。富裕な弟子たちの政治的に強力なコネによって、ポーランドを出国出来た姉が8月9日に到着した。

 4歳年上のルドヴィカはピアノを得意として、まだショパンがノアンでサンドと暮らしていた頃に、一度、夫と共にポーランドから訪ねてきたことがあった。その頃は大切な弟の日々を温かく支えてくれるサンドの存在にルドヴィカは感謝するばかりだった。サンドと友情を交わすほどに心を通わせたが、今回は違う。ルドヴィカの到着を知るとサンドが手紙を送ってきたが、弟の気持ちに反して別れを告げたサンドにルドヴィカは会うつもりなど全くなかった。ルドヴィカからワルシャワに暮らす年老いた最愛の母の様子を聞くうちに、ショパンは心を落ち着かせることが出来た。
 秋が近くなると、温かい街中の暮らしがいいと再び引っ越した。今度はパリ随一の高級住宅街にある南向きのアパルトマンだ。ベランダからセーヌの美しい眺めを楽しむ体力も全くなくなっていたが、姉やソランジュの姿を救いとしていた。


 <葬儀>
 ショパンが最後に聴いた音楽はデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人の歌声だった。危篤の知らせで10月15日に駆けつけると、ショパンの願いでベッリーニなどのアリアを歌った。チャルトリスカ公妃はフランコムとチェロ・ソナタを演奏した。
 ルドヴィカ、チャルトリスカ、サンドの娘のソランジュや弟子のグートマンなどが見守る中、10月17日午前2時にショパンは息を引き取った。
 10月30日に大群衆が取り囲むマドレーヌ寺院で執り行われた葬儀では、その遺言どおりにモーツアルトの「レクイエム」と「前奏曲集」から第4番と第6番などが演奏された。棺の傍らにはドラクロワ、プレイエル、マイアベーアなどが付き従い、ペール・ラシェーズ墓地に向かった。
 誰もが予想したサンドの姿はどこにも見当たらなかった。二人の共通の親友のソプラノのポーリーヌ・ヴィアルドは耐え難い悲しみの気持ちをぶつけるかのように、サンドに手紙を書いた。
 ルドヴィカがヴァンドームのショパンの住まいで遺品を整理すると、6000フランが残っていることが分かった。しかし、それだけでは足りないのでスターリングから借金をし、遺品を匿名のオークションにもかけることにした。スターリングがその多くを買い取り、最後まで使っていたプレイエルのグランドピアノの響板に「ルドヴィカのために」と書いてワルシャワに送った。さらにスターリングはルドヴィカのためにブレスレットも作った。ショパンの横顔を彫ったカメオを中心に、青の七宝にマズルカやバラードの楽譜の一部を焼き付け、それを連ねたものだ。

 ショパンの遺品の中には、お守りのような小さな包があった。中に入っていたのはサンドの髪だった。
 ルドヴィカはショパンの心臓を入れた壺と、大切に保管されていたサンドからの手紙を鞄に入れて、ワルシャワへの帰途についた。サンドの手紙はポーランドに入る前に手放すが、心臓はワルシャワの聖十字架教会に安置された。
 パリのショパンの墓の完成は死後1年経ってからだ。今に残る少女像が佇む優雅な姿の墓石をデザインしたのは、ショパンが終生その存在を大切にしたソランジュ、その夫クレサンジェの手によるものだ。

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