ピアノの歴史

<イントロダクション>

ピアノの祖先は2種類の弦楽器に分類される。弦をつま弾くものと叩くものである。


 最も古い時代の人々は伴奏にハープやリラを用い、これらの撥弦楽器は音がより反響するように、弦の下に響板を持つように改良された。そのようにして生まれたプサルテリーと呼ばれる撥弦楽器はチェンバロ誕生のきっかけとなり、一方、弦を叩いて演奏するタイプはダルシマーと呼ばれ、初期のピアノ考案者たちの発想を刺激したと思われる。


 鍵盤は221年からオルガンに用いられ、1361年には半音鍵を備えるようになったという記録はあるものの、昔の有弦鍵盤楽器の形状を目で確認できるものとなると、1425年までしか遡れない。この年から現存するドイツ、ミンデンの聖堂の祭壇彫刻にはクラヴィコードチェンバロの両方が彫られている。1440年に書かれたアンリ・アルノーの手稿は何種類もの有弦鍵盤楽器を取り上げ、それらの機構を総合的かつ詳細に図説している。現存する最古の有弦鍵盤楽器はドイツのクラヴィツィテリウム(プサルテリーをもとにして作られた垂直に弦が張られた鍵盤楽器で、鍵盤に連動するジャックによって弦が弾かれる)である。1490年頃の作とされるこの楽器は現在、ロンドン王立音楽大学のドナルドソン・コレクションに所蔵されている。


 16世紀の中頃には有弦鍵盤楽器はヨーロッパに広く普及していた。繊細な響きを持つ安価なクラヴィコードは、特にドイツの教会や学校で多く使用され、チェンバロは宮廷内の演奏会用楽器として人気を博した。チェンバロと同時期には小型の撥弦鍵盤楽器がいくつも生み出され、スピネットやヴァージナルは主に家庭用の楽器として用いられた。しかし、次第に強弱の変化をつけることが出来ないチェンバロや音量の小さいクラヴィコードは、当時発達してきた表現力豊かな声楽曲に於いて役に立たなくなってくる。18世紀には台頭した中流階級にアマチュア音楽家が急増し、彼らは鍵盤楽器の供給不足や、メンテナンスの難しさに不満を抱くようになり、新たな形態の楽器を望む気運が醸成されていった。そこへイタリアの鍵盤楽器製作者バルトロメオ・クリストフォリが登場する。彼は時代の気運を予知していた。1700年までに、クリストフォリは独自のグラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(優しい音と強い音を持つ大型のチェンバロ)を設計、製作した。この打弦鍵盤楽器はクラヴィコードの豊かな表現性を取り入れつつも、チェンバロの反響と音量を維持することに成功した。ピアノ時代の到来である。


 ピアノがいつ、チェンバロに代わって人気の座に付いたかを正確に特定することは難しい。多くの製作者がチェンバロの強弱コントロールを改良するための実験を続けていた。中には、ピアノをチェンバロのように響かせるために、弦の上に金属片が降りるような装置を提供する者まで現れた! 18世紀の中頃は大半の工房であらゆる種類の有弦鍵盤楽器が作り続けられ、2種類の鍵盤を持つ複合式のチェンバロも数多く製作された。片方の鍵盤は発現機構を採用し、もう片方の鍵盤は打弦ハンマーと連動する仕組みだ。


 1770年代はまだ、ピアノフォルテに反対する者が大勢いた。ヴォルテールは1774年にピアノについて、「チェンバロに比べれば、ボイラー職人が作った楽器」と書いている。1770年代は依然としてチェンバロが生産され続け、新たな楽器の出現によって、バーカット・シューディーやジェイコブ・カークマンのような製作者の生産高や売り上げが打撃を受けることはなかった。一方でクレメンティーハイドン、J.Cバッハのような作曲家は曲の標題紙に「チェンバロとピアノフォルテのための」と書くようになり、伴奏用としても独奏用としても、ピアノという楽器の強弱表現の感度が広く認められるに至った。


 18世紀の終わりには、ピアノは正真正銘の楽器として認められるようになっていた。イギリスの歴史家チャールズ・バーニーは1803年、「スピネットの羽軸がひっかく耳障りな音にはもはや耐えられない」と主張した。他の木製鍵盤楽器と比較されることから解放され、新しい作曲家たちの期待に後押しされ、また、産業革命の進展に助けられて、ピアノフォルテは自由に発展し始めた。


 18世紀の前半、ちょうどクリストフォリのアイデアが南ヨーロッパに広まっている頃、もうひとつ別の楽器が、パンタレオン・ヘーベンシュトライトという旅芸人に端を発して、ドイツでセンセーションを巻き起こしていた。ヘーベンシュトライトはヨーロッパの各地の宮廷を巡り、長さが9フィート(275センチ)以上、音域が55音もある巨大なダルマシーを演奏した。ヘーベンシュトライトは名人芸というべき演奏をする際、楽器の端から端へと飛び跳ねては木製あるいは布を巻いたバチで186本もあるガットと金属の弦を叩き、さまざまな音色を響かせた。1704年に、この新しい楽器を発明者の名にちなんで、「パンタレオン」と名付けたら良いと言ったのは、ほかならぬルイ14世であった。ヘーベンシュトライトの才能はザクセンで人々にさらなる感銘を与え、ドレスデン宮は彼を楽長と同等の給与で宮廷「パンタレオニスと」に任命する。楽器パンタレオンのメンテナンスの大役を担うことになった、ゴットフリート・シルバーマンはこの楽器の複製を世に送り出すようになった。しかし、ヘーベンシュトライトとの間に諍いが生じ、1727年にヘーベンシュトライトが複製を禁ずる命令を宮廷から取り付けたため、以後、ジルバーマンはパンタレオンを作れなくなった。


 ヘーベンシュトライトの楽器が生む音色効果の素晴らしさに加え、この楽器の習得の圧倒的な難しさが楽器製作者たちを駆り立て、より扱いやすい楽器への改良を促した。18世紀にドイツの楽器製作者たちが作り上げた「パンタロン」は、チェンバロまたはクラヴィツィテリウムのような形をしており、エスケープメントやダンパーの機構は持たず、木製のハンマーを動かして弦を打つ鍵盤を備えていた。


 我こそがピアノの「発明者」だと主張する者は数多くいた。法律家で発明家でもあったジャン・マリウスは、1716年、マレット付きクラヴサン(ハンマーのある鍵盤楽器)の4種類の設計図をパリ王立科学アカデミーに提出した。


 それらの設計は粗削りなもので、4つのうちの2つはダウンストライク・アクション(ハンマーが上から弦を打つアクション)で、ダンパーやエスケープメントの機構はなかった。また、クラヴィコードに似て、鍵盤の先端に取り付けられたハンマーが直接、弦を打つものもあった。マリウスは国王から特許を取得することに失敗したため、これらの設計は製作にまで至らなかったが、彼の考案は当時としては草分けだった。1738年、オルガニストであり、作家、楽器製作者でもあったクリストフ・ゴットリープ・シュレーターは、すでに1717年に打弦鍵盤のための2種類のアクションを製作していたと主張し、以後、1782年に亡くなるまで、自分こそがピアノの発明者だと言い張った。ゴットリープがその主張をしたときにはもう、アクションの実物はなく、その存在は彼の自己申告によってのみ知られている。


 しかしながら、150年を超える時間をかけて設計の修正を重ね、絶えず改良されて今日、私たちが知るモダンピアノにまで発展したのは、バルトロメオ・クリストフォリが発明したピアノフォルテなのだ。とは言え、クリストフォリからスタインウェイに至るまでの道のりは決して単純な一本道ではなかった。どの時代も、同時にさまざまなスタイル、タイプ、デザインのピアノが作られ、弾かれてきたのだ。


<ピアノの発展>

 クリストフォリは現代のピアノフォルテへ繋がる楽器の発明者として広く認められているものの、打弦鍵盤楽器が15世紀にすでに存在していた可能性を示す証拠がある。


 1440年にブルゴーニュでアンリ・アルノーによって書かれた楽器製作に関する詳細な手稿には、跳ね返りと打つ動きによる機構の完全な設計図があった。この機構を有弦鍵盤楽器に組み込めば「ハンマード・ダルマシー:バチで叩いて演奏するダルマシー)のように響く」はずだという。すでに1426年には、ブルゴーニュからフェッラーラのニッコロ・デステの宮殿へさまざまな楽器が贈られた記録があるが、その中にアルノーの考案したような楽器が含まれていた可能性がある。1598年にイタリアの宮廷のオルガニスト兼、楽器管理人は一連の手紙の中でインスツルメント・ピアノ・エ・フォルテに触れており、その楽器が実際に存在したことを示唆する簡単な説明からは、それが打弦機構を持つ有弦鍵盤楽器だったとも推測出来る。


 しかしながら、バルトロメオ・クリストフォリが17世紀の終わりに設計した効果的な打弦機構は現代のピアノへと発展し続けたのであり、それは彼の発明が群を抜いて精巧だったからである。

チェリーピアノ(松崎楓ピアノ教室)
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<グランドピアノ>

「グランドピアノフォルテ」という言葉は、1777年にロバート・ストダートが作ったと考えられている。ストダートによるイギリス式グランドアクションの改良と1790年代にジョン・ブロードウッドが行った音色の改良によって、1800年代のイギリスのピアノが生み出す音の力と深さは、それまでに誰も聴いたことがないものとなった。グランドピアノの発展に於けるブロードウッドの主な貢献は、理論的に段階を追って行われた駒の改良だ。ブロードウッドは駒の断面を四角にして、上面を平らにし、3本弦に同じスピーキングレングス(有効長。弦が振動する部分の長さ)を持たせるように削った。現在も用いられているこの技術はピアノの調律と音色を向上させた。低音の反響を増すため、ブロードウッドは低音部の駒を分離するが、やがてそれは交差弦の発想へと繋がっていく。しかしながら、精巧な発明によってピアノを高いレベルへと引き上げたのはフランスのセバスティアン・エラールであり、エラールによってピアノは、19世紀の作曲家たちが音の詩を表現するために好んで用いる楽器になった。


 1808年、エラールはアグラフという真鍮の鋲の特許を取得する。アグラフによって弦のスピーキングレングスが正確に決まり、また弦がハンマーに叩かれて浮き上がることを防げるようになり、調律の安定度が上がった。1822年、エラール社は1808年の特許をさらに発展させたダブル・エスケープメント・アクションの特許を取得するこの機構の起源はクリストフォリのアクションに見られるが、エラールの機構では、ハンマーが戻る時に弦の近くのチェックヘッドにキャッチされるだけでなく、バネの付いた斜めのレバーの上にも乗る。そして鍵盤を離すと、このレバーがハンマーを投げ返して早い連打が可能になる。イギリス式グランドアクションと比べて、エラールの設計はより速いレペティション(連打機能)のみならず、軽さと確実性も評価されており、現在も用いられているグランドピアノ・アクションの基礎となった。エラールはハンマー機構の開発に留まらず、あまり成功しなかったものの、ダンパー機構の実験も試みた。


 初期のイギリス式ピアノにおなじみの、よく反響する音を目指し、エラール社は弦の下から押し当てるダンパーを採用した。この急進的なアプローチによって得られた音はそれまでとはかなり異なるものとなり、基本周波数はすぐに消えても、高次倍音が揺らめくようにやや長めに響いた。


 当時は確実なアクションとともに、音楽の好みの変化に応え、ピアノにもっと力を与える、より豊かな響きが求められていた。アントワーヌ・ボールが1840年にカポ・ダストロ・バーの特許を取得し、プレイエルのもとで働いていたジャン=アンリ・パープがなめし革の代わりにウサギと子羊の毛の高密度なフェルトで覆ったハンマーを開発した。しかし、ハンマーが重くなったことで弦が強化され、音域が広がったために、グランドピアノの支持構造を改良する必要が生じた。18世紀の翼型ピアノは全体がほとんど木で出来ており、金属の支柱はレストプランクとほかのフレームとの間にしか使われていなかった。1800年にエンジニアのジョン・アイザック・ホーキンスがキャビネット・ピアノに初めて総鉄フレームを導入する。木で物を作る伝統にどっぷり浸かっていた当時の多くの音楽家やピアノ製作者にとって、楽器に金属を多く使うという考えは忌み嫌われた。1820年代には、鉄の支柱を金属のヒッチプレートにボルトで固定する設計の特許が次々に取得される。これらは合成フレームとして知られている。


 鋳鉄製の連続フレームはすでに1825年にスクエアピアノに使用されていたが、グランドピアノでは1843年にボストンのピアノ製作者ジョナス・チッカリングが導入したのが最初だった。当時、チッカリングのもとで働いていたのが、1825年に初めてスクエアピアノに総鉄フレームを用いたアルフェウス・バブコックであったことは不思議ではない。


 セオドア・スタインウエイ(テオドール・シュタインヴェーク)は1876年に完成した「スタインウェイズ・センテニアル」コンサートグランド(アメリカ独立100周年記念として製作)によってモダン・グランドピアノを確立する。この傑出した楽器は急速な発展の頂点と言えるもので、重くなったハンマーを持ち上げる事ができるレペティション・アクションや、デュープレックス・スケール、改良された「キューポラ」鉄フレーム、ベントリム・ケースなど、特許を取得した改善点を多く取り入れていた。同社は1867年のパリ万博に、当時は画期的だった交差弦と総鉄フレームのグランドピアノを出展していたが、今回のピアノはそれにとって代わるものとなった。新たな時代の波がヨーロッパ各地やアメリカに押し寄せ、19世紀の終わりまでには交差弦と総鉄フレームのグランドピアノが一般的になった。


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