超絶技巧と脱力奏法

<疲れ知らずのピアニスト>

 

ピアニストは普段の練習や本番の演奏中に筋肉が疲労してしまうと以下の3つの問題が生じます。
 第1の問題は、身体を痛めてしまうことです。


 手や腕の筋肉が疲れてしまうという事は、それだけ仕事をしている、働いているということです。筋肉の繊維には負荷が蓄積し、もしかすると炎症を起こしているかもしれません。また、筋肉が疲労すると、普段はあまり使わない、弱くて小さな筋肉も働かなければならなくなります。そのまま演奏し続けると、このような筋肉を痛めてしまう危険があるのです。そのようなリスクを回避するためには、ピアニストは手や腕の筋肉を少しでも疲労させないようにすることが不可欠です。
 第2の問題は、演奏時間が長いということです。
ピアノのコンサートを思い浮かべてみて下さい。1時間半から2時間に及ぶコンサートの間中、ピアニストは様々な曲を弾き続けています。もし、途中で筋肉が疲れてしまうと、最初の2,3曲はうっとりするような演奏だったとしても、段々とミスが増加し、リズムや音量がばらつき、音楽の芸術性が次第に損なわれていく。


 筋肉は、たった数秒間の短距離走でも疲労します。超絶技巧の作品を演奏する時のように、極端に大きな負荷が筋肉にかかると、数秒から数十秒で筋肉が疲労してしまうこともあります。弾き始めた時には華やかだった超絶技巧が、曲が進むうちに次第に影を潜めてしまうこともあり得るのです。コンサートの最後の1音まで美しい音楽を奏でるためには、ピアニストの筋肉は疲れるわけにはいきません。


 第3の問題は、筋肉が疲労すると、それ以上の練習が出来なくなるということです。
優れたピアニストになるためには、また、優れたピアニストであり続けるためには、1日に何時間もの練習を、毎日継続しなければなりません。しかし、練習中に筋肉が疲れてしまうと、疲労が回復するまで休息しなければならないので、練習時間は減少し、上達するチャンスを失ってしまいます。逆に言うと、筋肉を疲れさせずに演奏できるピアニストには、上達に必要な練習時間をより多く確保できるチャンスがあります。



<1分間に1800打鍵>

 それにしても、筋肉を疲れさせずにピアノを弾く」というのは、口で言うほど容易なことではありません。ピアノ曲の中には、1分間に数千個の鍵盤を打鍵する曲が多くあります。例えばリストの「パガニーニ練習曲第6番の第11変奏」では、1分間におよそ1800個の鍵盤を打鍵することが必要と言われています。他にもこれに匹敵するような音符数の曲はたくさんあるでしょう。例えばフランツ・リストの「ラ・カンパネラ」や「ダンテを読んで」、ラヴェルの「スカルボ」なども、相当な打鍵数になりそうです。


 したがって、打鍵の動作にほんの僅かでも筋肉の余分な緊張があれば、曲が進み打鍵の数が増えるにつれて負荷が蓄積していき、筋肉は容易に疲労してしまいます。ピアノを習いたての初心者が演奏する姿を思い浮かべてみて下さい。手に力が入って筋肉はカチコチに固まっており、肩は上がっています。このような状態では、1年間で490キロもの距離を縦横無尽に移動させることはおろか、数十分、練習するだけでも、筋肉はへとへとに疲れてしまいます。


 したがって、毎日何時間もの練習をこなし、コンサートで予定の曲目が終わってもさらにアンコールを何曲も軽々と弾いてしまうようなプロのピアニストは、おそらく幼い頃から長年の練習の中で、筋肉を疲れさせずに演奏する何かを獲得しているはずなのです。この何かのおかげで、ピアニストは音楽家ではない人に比べて、より長時間、筋肉を疲労させずに、フォルテの音量で和音を打鍵し続けられることがわかりました。


<我慢強い筋肉>

 筋肉には大きく分けて2種類あります。
 大きな力を発揮出来るけれど、すぐに疲れてしまう速筋と、大きな力は発揮できないけれど、長時間力を発揮し続けることが出来る遅筋です。長距離走者やクロスカントリーの選手など、持久力の必要な競技に取り組んでいるアスリートは遅筋が発達しており、短距離走者は反対に速筋が発達しています。
 では、ピアニストはどうでしょうか?


 その目まぐるしい指の動きからピアニストは速筋の方が発達しているのではと思う方もいるかも知れません。しかし、ペン博士らの研究によると、むしろ遅筋のほうが発達していることがわかりました。


 通常、筋肉の中の速筋と遅筋の割合を正確に調べるためには、バイオプシーという筋肉の1部を削り取った上での検査が必要ですが、そんな痛い実験に進んで参加してくれるピアニストはそうそういません。そこでペン博士らは、筋肉が収縮する時に発生する電気活動から、遅筋と速筋のどちらが発達しているかを推定しました。調べたのは親指の筋肉なのですが、研究の結果、ピアニストの方が、音楽家ではない人よりも、遅筋が発達していることを示唆する結果が得られたのです。


 ピアニストの手の遅筋が発達しているということは、ピアノを弾くことは、持久性の高い運動であると言えます。ピアニストは幼少期からの長年の練習を通して、長時間弾き続けても疲れにくい筋肉を育んでいるとも言えるでしょう。


<脱力について>

 さて、ピアニストは長時間弾き続けても疲れにくい、我慢強い筋肉の持ち主であることはわかりました。しかし、それだけではなく、この点でもピアニストの脳は、実に賢い働きをしています。無駄な仕事をうまく省きながら、つまり省エネしながら演奏することで、筋肉を疲れさせないようにしているということが、近年の研究から明らかになりました。


 その詳細の前に、ピアノ演奏に於ける「筋肉の省エネ」とは何か、定義しておきましょう。
 省エネとはいっても、鍵盤を押さえるために使うエネルギーを節約して、その結果、音が小さくなったり、音色の美しさが損なわれたり、テンポが遅くなってしまっては、良い演奏にはなりません。ピアノ演奏に於ける省エネとは、同じように質の高い音楽を、より少ないエネルギー消費量で創り出すことと言えるでしょう。演奏時の身体のエネルギー消費量というのは、筋肉がする仕事の量ですから、無駄な筋肉の仕事を極力省いて、美しい音楽を生み出すこととも言えます。


 ピアノの教育では、腕をはじめ身体の力を抜いて楽に弾く「脱力」ということが100年以上も前から言われており、それがいかに重要かを記した書物は山のようにあります。ピアニストやピアノ指導者の多くは、経験的に脱力が重要であることを良く知っているのですが、一体どのようにすれば脱力できるのかは、個々人の感覚や経験に頼る部分が大きく、本によっても指導者によっても実に様々です。人間の身体というのは普遍的な現実のはずですが、その現実に即した合理的な方法が未だに確立されていないのです。


 脱力と言うと、単に、筋肉を緩める、リラックスさせるというように語られることが多いのですが、それだけでは身体はそもそも動きません。この問題は、ロシアに於ける20世紀最大の身体運動学者と呼ばれたニコライ・ベルンシュタインによって、既に1930年頃に指摘されていました。しかし、ピアノを弾く身体の動きを科学の考え方や方法を用いて調べた研究は、近年まで皆無に等しい状況だったのです。ピアニストがどうやって無駄な力を省いてピアノを演奏しているかは、長い間、神秘のヴェールに包まれたままでした。


 さて、ピアニストがどうやって省エネをして演奏しているかについて知りたいと思ったら、一体どうしたら良いのでしょうか? 肉眼で良く観察すれば分かるのでしょうか?


 しかし、ピアノの演奏は大抵の場合、非常に高速で行われますから、肉眼で全ての現象を捉えるのは至難の業です。例えば、手を持ち上げた状態から鍵盤を押さえるために降ろしていく動作は、時間にして0.1〜0.2秒程度しかありません。まして、鍵盤にどれだけ力を加えているか、筋肉にいつ、どのくらい力が入っているかは、目を凝らして観察してもわかりません。
 名教師と呼ばれる人たちの中には、こうしたことを推し量れる卓越した目や感覚を持った人もいるのですが、それでもどの筋肉が打鍵の何秒前にどのくらいの力を発揮したかを正確に表現することは不可能でしょう。したがって、ハイスピードカメラや力センサー、筋肉の活動を計測できる装置(筋電図)といった、文明の利器の力を借りる必要があるのです。


 こうした科学の目を通してピアニストの身体の使い方を調べてみたところ、ピアニストの驚くべき省エネのスキルが次々と明らかになってきました。


<ピアニストの省エネ術>

①無駄な時間に仕事をしない

仕事が出来るサラリーマンはサボり上手などという言葉があります。サッカーでも、よく点を決める選手は、ここぞという時だけ瞬発的に働き、残りの時間はうまく休んでいます。実はピアニストも同じで、必要な時だけ筋肉を働かせて、それ以外は休ませていることがわかっています。


 1990年代の終りにハノーファー音大で行われた研究なのですが、ピアノの鍵盤の底の部分にセンサーを敷き、ピアノを弾いている時に、指先が鍵盤にいつ、どれだけの力を加えているかを調べました。実験では、プロのピアニストと、趣味でピアノを弾いているアマチュア・ピアニストに、親指・人差し指・中指で鍵盤を押さえながら、薬指と小指で交互に鍵盤を打鍵するトリルと呼ばれる課題を行ってもらい、その時に指先が鍵盤を押さえる力を計測しました。


 その結果、プロのピアニストはアマチュアに比べて、鍵盤が底に着いてから力を加えている時間が短いことがわかりました。つまり、アマチュアは、鍵盤が底に着いたあとも力を加えて鍵盤を押さえ続けていたのに対し、プロは、鍵盤が底に到達するやいなや、すぐに力を弱めて
いたのです。


 ピアノという楽器が、どんな音を響かせるかは、打鍵のしかたによって変化します。したがって、打鍵が済んでしまってから、つまり鍵盤が底まで降りてしまったあとにいくら力を加えても、音は変化しないと考えられています。そのため、鍵盤が底についた後に鍵盤を押さえるのは無駄な仕事と言えるでしょう。音を鳴らすという目的にとっては不必要な時間に筋肉を働かせないことで省エネをしている訳です。


 この研究では、もう一つ面白い現象が発見されています。先程の例で、鍵盤を押さえたままロングトーンを保持している親指、人差し指、中指が発揮する力を調べました。その結果、アマチュア・ピアニストは、プロの3倍もの力で鍵盤を押さえ続けていたのです。長い音を鳴らし続けるためには、鍵盤を押さえるために必要な最小限の力(およそ50グラム)だけ鍵盤に加えておけば良いので、これもまた無駄な仕事です。プロのピアニストはこういった無駄を省くことで、筋肉が疲労することを巧みに回避しているのです。


 ハノーファー音大のこの実験は、ピアノを弾く人ならばなかなか衝撃的なもので、なんと、数百万円はするスタインウェイのピアノを、鍵盤を一度全て取り外し、鍵盤の底にセンサーを埋め込むという大改造を行った上で実験しています。この研究グループは他にも大掛かりな研究を数多く行っており、ピアニストがピアノを弾いている時の脳活動を調べるために、金属(磁性体)を一切使わないピアノをオーダーメイドで作ってもらってMRIの中でピアノを弾くといったことを実現させたりしています。


②フォームを工夫する

 ピアノに限らず、ヴァイオリンやフルートなどの楽器演奏、バレエやスポーツなどでは、全ての身体動作に於いて、身体を動かす時のフォームがたいへん重要です。野球選手やプロゴルファーがフォームを変えてスイング速度が上がったと言ったり、スキーのジャンプ選手がフォームを変えたら飛距離が伸びたといった話をするのを良く耳にします。このように、フォームはパフォーマンスを大きく左右します。


 あるフォームを保持するためには、筋肉は収縮し続けないといけません。関節には、周りに筋肉が付いていて、その片方の筋肉を主動筋、反対側の筋肉を拮抗筋と呼びます。これらの筋肉の緊張のバランスで、関節のフォームが決まります。したがって、ある片方の筋肉だけがより強く緊張すると、それに伴って、関節のフォームが変わります。


 ここで、ピアノを弾いている時の手のフォームを考えてみましょう。鍵盤を押さえようと、いくつかの指が動いている時、一方で、残りの指は何をしているかというと、次の動作の準備をしていたり、何もしていなかったりします。この何もしていない指はどんなフォームをしているのでしょうか? うまくなると、このフォームは変化するのでしょうか?


 この疑問に答えるために、モーションキャプチャシステムでハイスピードカメラ13台を用いた計測装置を用いて、プロとアマチュアのピアニストにトレモロと呼ばれる動きをしてもらい、その時の手指の動きやフォームを、1秒間に120コマの速さで計測しました。トレモロというのは、親指と小指で交互に鍵盤を打鍵する課題です。この時、他の指、つまり、人差し指・中指・薬指は、何もする必要はありません。指が鍵盤に触らないように、持ち上げていれば良いだけです。


 打鍵に必要のないこの指のフォームを調べたところ、アマチュア・ピアニストはプロに比べて、人差し指と中指をより持ち上げた状態で打鍵していました。つまり、プロのピアニストの方が、無駄な仕事の少ないフォームで打鍵していたのです。


 なぜアマチュア・ピアニストは、人差し指と中指を大きく持ち上げていたのでしょうか? 指を持ち上げるということは、そのための筋肉をたくさん収縮させていたということです。筋肉が収縮すると、バネの硬さが変わるように筋肉も固くなるのですが、実は、筋肉を固めると、動きがより正確になることが知られています。針の穴に糸を入れる時に筋肉が固くなるのは、このせいです。従って、アマチュア・ピアニストは狙った鍵盤を狙った速度で正確に打鍵しようと思うあまり、筋肉を固めてしまい、結果、エネルギー効率の悪いフォームで打鍵していたと考えられます。


 ギターやヴァイオリン、フルートでも、必ずしもいつも全ての指が音を鳴らすために使われているわけではないので、おそらく、同じことが言えるのではないでしょうか。


③重力を利用する

 筋肉を使わずに、身体を動かす。なんだかトンチのようですが、それが出来れば究極の省エネでしょう。幸い、私達の世界には、筋力以外にも様々な力があります。例えば
物が落下する時に加速するのは重力によるものですし、電車がブレーキをかけると前に倒れそうになるのは慣性力です。


 実は、今から半世紀以上も前に、ベルンシュタインという身体運動学者が、運動を学習することによって、脳は筋力以外の力を効果的に利用できるようになるという仮説を提唱しています。それならば、もしかするとピアニストは、筋力以外のこうした力をうまく活用して、筋肉をあまり働かせずに音を鳴らしているのではないかという仮説がたてられる。


 まず、プロのピアニストと、ピアノを習い始めて1年未満の初心者に、鍵盤を1回だけ打鍵してもらい、その時の上腕の筋肉の活動を、筋電図という装置を用いて調べました。上腕には、肘を曲げ伸ばしする筋肉があります。上腕二頭筋(力こぶを作ることの出来る筋肉)が力を発揮すると、肘は伸びていきます。


 さて、ではピアノの鍵盤を打鍵する時には、これらの筋肉はどう働いているのでしょうか?
打鍵の際にはまず手を持ち上げるわけですが、この時には、ピアニストも初心者も共に、肘を曲げる筋肉(上腕二頭筋)が収縮し、手を持ち上げていました。ところがその後に違いが現れます。初心者は肘を伸ばす筋肉(上腕三頭筋)を収縮させて肘を伸ばし、鍵盤を打鍵していたのですが、ピアニストの上腕三頭筋は、肘がのびているのにも関わらず、収縮していなかったのです。よく観察してみると、ピアニストだけが、肘を曲げる方の筋肉(上腕二頭筋)が緩んでいることがわかりました。


 つまり、ピアニストは、手を持ち上げるために収縮した力こぶを緩めることで、重力に任せて腕を落下させ、打鍵していたのです。


 さらに面白いことに、大きな音を鳴らそうとすると、ピアノ初心者の場合は、肘を伸ばす筋肉(上腕三頭筋)をより強く収縮させていたのに対し、ピアニストは力こぶをよりたくさん緩めていました。


 これはどういうことかというと、音量を大きくするためには肘の回転スピードを上げる必要があるのですが、そのための手段として、初心者は筋力を使って力ずくで腕を降ろしていたのに対し、ピアニストは重力の助けを借りて、腕を落としていたのです。大きな音を出すには、より大きなエネルギーが必要ですが、こういう時こそ、ピアニストと初心者のエネルギー効率の差が顕著になるという訳です。


 ただし、腕を落とすだけでは足りないほど大きな音を鳴らす場合には、ピアニストも筋力を使う必要があります。しかし、大抵の場合は筋力に頼らず、重力を利用して音を鳴らせるピアニストの省エネ術は、長時間疲れずに演奏し続けるためには不可欠なスキルと言えるでしょう。


<脱力はそう簡単ではない>

 しかし考えてみると、重力に任せて手を落とすくらいのことは、初心者でも出来そうなものです。なぜ初心者は重力を利用して打鍵することが出来ないのでしょうか?


 おそらく、重力によって腕を自由落下させると、少なくとも初めのうちは、狙った音を適切に鳴らすことが難しいからだと思われる。


 重力を利用して打鍵するには、肘を曲げる筋肉(上腕二頭筋)を緩めなければなりません。しかし、上腕二頭筋を完全に弛めてしまっては、毎回同じ大きさの音しか鳴らせません。従って、狙った音量の音を鳴らすためには、音量に応じてどの程度力を弛めるかを調節する必要があります。しかし私達の日常生活の中では、筋力を弛めて狙った速度で腕を落とすという状況は、ほとんどありません。従って、どれくらい筋肉の力を弛めれば、どれくらいの速さで腕が落下するのか、私達の脳は正確には知らない訳です。重力を利用しながら狙った大きさの音を出すというのは、ある程度訓練しないと、実はとても難しい作業なのです。


 実は、筋肉というものは、狙った大きさだけ力を発揮するときよりも、弛める時の方が、よりたくさんの脳部位が働くことがわかっています。意外に思えますが、脳にとっては、筋肉を収縮させるよりも弛めるほうが、大変な作業なのです。ピアノの先生はよく、生徒に、脱力しなさいといいますが、もしかすると、そう言われた脳の方は、簡単に言ってくれるけどと思っているかもしれませんね。


④しなりを利用する

 さて、ピアノ演奏で(筋力以外で)活用されているのは、重力だけではありません。慣性力や遠心力も使われています。


 慣性力というのは、車が急発進したり急ブレーキをかけたりする時に生じる力のこと、遠心力というのは、車がカーブを曲がる時に身体が外側に引っ張られるように感じる力のことです。実は、ピアニストはこのような力も巧みに操っているのです。
 打鍵するために、手を持ち上げ、その後、鍵盤に向かって腕全体を振り下ろしているところを想像してみて下さい。この間、上腕も前腕も鍵盤に向かって下降していますが、その途中で上腕の動きに急ブレーキがかかるとどうなるでしょうか? 例えば、肩から肘までの上腕を電車、肘から手首までの前腕を乗客だとしましょう。電車に急ブレーキがかかると、乗客は前に(進行方向に)引っ張られます。それと同じで、上腕の急ブレーキによって、前腕の下降動作はより一層加速されます。このような力をしなりの力と呼ぶこととする。


 プロのピアニストはピアノ初心者に比べて、肩の筋肉を強く収縮させることで上腕の動きに強いブレーキを掛け、肘から先を加速させるしなりの力を増加していることがわかりました。その結果、ピアニストの肘や手首はなすがまま加速するため、筋肉をあまり働かせずに打鍵することができるのです。つまり、ピアニストは肩から指先までをムチのようにしならせて打鍵することで、無駄な筋肉の仕事を省エネしている訳です。


 さらに興味深いことに、ピアニストは大きな音を鳴らそうとするときほど、上腕の動きにより強くブレーキをかけ、肘から先をより強くしならせていました。一方、ピアノ初心者は、上腕や前腕の筋肉をより強く収縮させることで、より大きな音を鳴らそうと指先を加速させていました。したがって、重力と同様に、ピアニストと初心者のエネルギー効率の違いは、大きな音を鳴らす時(より多くの筋力を使うので、容易に筋肉が疲労しがちなとき)ほど、顕著になるのです。


 もっと大きな音を鳴らしたい時には、もっと腕を加速させる必要があると考えるのが普通です。しかし、ピアニストの腕の動きはその直感に反し、むしろ腕の動きを減速させるブレーキの量を増やすことで、肘から先をより強く、しならせていたのです。ここで重要なのは、上腕の動きにブレーキをかける分だけ、ピアニストのほうが、初心者よりも、肩の筋肉(三角筋前部、大胸筋)の仕事は大きいということです。つまり、ピアニストはピアノの初心者に比べて、肘から先にある筋肉の仕事量が少なく、肩の筋肉の仕事量は大きいということになります。


 私達の身体の筋肉というのは、胴体に近いほど太く疲れにくく、指先に近づくほど細く疲れやすい構造になっています。したがって、疲れやすい肘から先の筋肉を使わず、代わりに疲れにくい肩の筋肉を積極的に使うピアニストの打鍵動作は、まさに疲労を回復するための卓抜な省エネ術と言えるでしょう。
 また、腕をしならせて打鍵するスキルを習得できるかどうかは、何を意識して練習するかが鍵になります。


 野球のバットをスイングする動作(素振り)を数日間練習し、その後スイング時の腕の使い方がどう変化するかを調べた研究があります。その結果、スイングする際にバットが狙った軌道を正確に描くように意識して練習する時と、どうバットを振るかはともかく、全身でスイングすることだけを考えて練習する時では、結果的に習得される腕の使い方が違うというのです。つまり、全身でスイングする事だけ考えて練習すると、肩から肘にかけて、腕をムチのようにしならせながらスイング出来るようになるのですが、正確にバットを振ることだけを強く意識して練習すると、腕をしならせたスイング動作を習得出来ませんでした。


 もしかすると、ピアノでも習いたての頃の練習で、狙った大きさや音質の音を出そう、絶対にミスしてはいけないということを意識し過ぎると、腕をしならせる効率の良い弾き方を習得する妨げになってしまうかもしれません。


⑤鍵盤から受ける力を逃がす

 音を鳴らすためには、鍵盤に力を加えないといけません。この時、鍵盤は指先を押し返そうととします。そのまま放って置くと、この力に負けて、関節は跳ね上がってしまい、鍵盤を押さえ続けることができません。鍵盤からの力に負けないように、手や腕の筋肉は収縮する必要があるのです。


 例えば、人差し指の指先でゆっくりと机や鍵盤を押さえてみて下さい。手や前腕の筋肉に力が入るのが分かると思います。それでは、人差し指で机を押さえる際に、指を伸ばした時と、指を指を曲げた時、どちらのほうが、これらの筋肉に力が入りますか? 指を伸ばした場合ではないでしょうか。これはどうしてかというと、指先に加わっているのが同じ力であっても、指先と関節の中心までの距離(水平距離)が長くなるほど、関節を回転させようとする力が大きくなるため、それを押さえ込もうとして、筋肉をより強く収縮させるからです。いわゆるてこの原理です。体重が軽い人でも、シーソーの中心から遠い所に座るほど、大きな力が生まれるということを、体験的に知っていると思います。


 このように、鍵盤を押さえている間に筋肉が発揮する力の大きさは、手指や腕のフォームによって変わるのです。ということは、フォームを工夫すれば、筋肉の仕事を省エネできるチャンスがあるはずです。そこでピアニストとピアノ初心者の鍵盤を押さえている指のフォームについて調べてみました。


 プロのピアニストとピアノ初心者が鍵盤を押し下げる間の手指や腕の動きを、1秒間に150コマを撮れる高速度カメラで計測しました。初心者は指を寝かした状態のまま鍵盤を降ろしていたのに対し、ピアニストは、指先が鍵盤を降ろしている間に、徐々に指をたてていっていました。指を寝かしたまま打鍵すると、筋肉は大きな力を出さなければいけません。したがって、指を徐々に立てていたピアニストは、鍵盤から受ける力を逃しながら、鍵盤を押さえていたと言えます。これによって、打鍵中の指の筋肉にかかる負担は、ピアニストは初心者に比べて、実に33%も軽減されていることがわかりました。


 さらに、ピアニストが指を徐々にたてていく動きは、肩から作られていることもわかりました。つまり、肩の関節が回転し、上腕と前腕が前に動くことで、指が回転していき、鍵盤から受ける力を逃していたのです。ここでも先ほどと同様、疲れにくい肩の筋肉を使うことで、疲れやすい手先の筋肉の仕事量を減らすという法則が見られる訳です。「トムとジェリー」の映画「ピアノ・コンサート」の中でトムがこの動きを使っているのを見ることが出来ます。


 また、こうした動きは、他のスポーツなどの分野でも様々な例を見ることが出来ます。剣道の達人が竹刀の角度をうまく変えることで力を逃がしたり、テニス選手がラケットとボールが当たる瞬間に脇を締めることで手が弾き飛ばされないようにするなど、身体の外から受ける力を巧みに逃がすスキルは、武術やスポーツでも使われています。


 さて、ピアニストはもう1つ、別の方法を使って、鍵盤からの力を緩衝していることもわかりました。筋肉は関節を囲むようについているもので、片方が収縮すれば関節は曲がり、もう片方が収縮すると関節は伸びます。しかし、関節を曲げる方と伸ばす方の両方の筋肉が同時に収縮すると、いわゆる綱引きのような状態になって、関節は動きません。その代わり、その関節はネジがしっかりとしまったように、硬くなります。これを同時収縮と言います。


 打鍵の瞬間の筋肉の同時収縮の大きさを、プロのピアニストとピアノ初心者で調べた結果、プロのほうが手首の筋肉の同時収縮の大きさが小さいことがわかりました。ピアニストは手首の筋肉をあまり固め過ぎず、むしろ筋肉そのもののクッションを利用して、打鍵の衝撃を逃がしているのです。これは、高いところからジャンプして飛び降りる時、膝がクッションの役割を果たすのと同じようなものです。


⑥イメージしてから打鍵する

 これから鳴る音をイメージしてから、打鍵しなさい。ピアノのレッスンなどでよく耳にする言葉です。実際のところ、イメージするとどういう効果があるのだろうか? ドイツにあるマックス・プランク研究所のケラー博士らがその問題について調べた研究があります。


 ピアノの場合、どの鍵盤を押せば、どの音が鳴るのか、あらかじめ容易に予測出来ます。ですから、音を鳴らす前に、「今からラの音がなるな」と、これから鳴る音をイメージすることは容易です。しかし、鍵盤と音とが対応しておらず、ランダムな音が鳴るピアノがあるとしたら、どの鍵盤を押せば何の音が鳴るのか、あらかじめイメージすることは出来ません。つまり、ドの鍵盤を押しているのに、ある時はラの音が鳴り、またある時はミの音が鳴るようなピアノです。


 ケラー博士らはこのような状況を意図的に作り出すことで、打鍵する前に、あらかじめこれから鳴る音をイメージするかしないかで、指の動きがどう変化について調べました。その結果、あらかじめ音をイメージして打鍵したほうが、イメージせずに打鍵するよりも、指先が鍵盤に衝突する瞬間の加速度が小さいことがわかりました。つまり、これから鳴る音をイメージせずに打鍵すると、必要以上に強く鍵盤を叩いてしまうということです。したがって頭の準備も、エコな演奏を実現する上では重要なスキルの1つと言えるでしょう。


<ピアニストの身体は洗練の極致>

 ピアニストは筋肉の働きを省エネするエキスパートです。ここではその省エネ術の数々をご紹介しました。1回だけ鍵盤を打鍵するということならば、省エネといっても、ほんのわずかな違いにしかならないかもしれません。しかし、1曲を通して演奏したり、2時間に及ぶコンサートで演奏したりすることを考えれば、そのわずかな差が大きな違いとなり、ピアニストのエネルギー消費量、筋肉の仕事量を実に劇的に節約してくれるのです。


 聴衆の心を動かす素晴らしい音楽は、ピアニストが動きの無駄を極限まで切り詰め、洗練を極めた身体技能の賜物であると言えるのです。

チェリーピアノ(松崎楓ピアノ教室)
お気軽にお電話下さい!
TEL.0154−64−7018
お問い合わせメール:niku_kaede-tabeyo@yahoo.co.jp
釧路市浦見8丁目2−16

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<超絶技巧を支える運動技能>

 これまで、ピアニストの超絶技巧は脳が生み出している、ということを紹介してきました。ピアニストの素早く正確な指さばきや、巧みな身体の使い方は、幼いころから積み重ねた練習によって、特殊に発達した脳が可能にしていました。


 しかし、ピアニストの脳と身体の働きについてより深く理解するには、脳の大きさを測ったり、脳のどこが活動しているかを調べるだけでは、不十分です。身体のどの部分やどの筋肉が、度のタイミングでどの程度働いているか、あるいは、演奏が上手になるにつれ身体の使い方はどう変わるか、そういった身体の動きのしくみを調べないことには、超絶技巧を生み出すメカニズムを解明できません。近年、ピアニストの身体の動きについての研究も盛んに行われるようになり、ピアニストの卓越した運動技能の仕組みが次第に明らかになってきました。


1.手指の巧みな動きの秘密

 私達の手には、27個もの骨と、39個の筋肉があります。ただしこれらを1つずつ個別に動かすことはできません。筋肉や腱、神経、脳といった様々な要素が複雑に絡み合っているため、ある指を動かそうとすると、周りの指も多かれ少なかれ同じ方向に一緒に動こうとします。例えば、右手の薬指だけを曲げ伸ばししようとしてみて下さい。わずかにですが、中指も一緒に動きませんか? こうした作用は、実は、私達の日常生活では、たいへん都合の良いことでもあるのです。


 日常で最もよく行う、物を掴んだり離したりする動作を思い浮かべてみて下さい。5本の指全てが、同時に動きます。これは、どのような物を掴む時でも、また、目をつむって物を掴むような時にも、共通して見られる動きの特徴です。他にも、一見、複雑に見えるコンピュータのキーボード操作でも、実は、人差し指・中指・薬指の第2関節は、同時に同じ方向に動いていることが知られています。


 では、ピアノ演奏でも日常動作と同様、それぞれの指は同時に、同じ方向に動いているのでしょうか? あるいは、ピアニストはもっと違った手指の使い方をしているのでしょうか?

 
 実は、ピアノ演奏の時に、手指にあるたくさんの関節がどのように動いているかは、これまで全く知られていませんでした。そこで、ミネソタ大学のセクティング教授とフランダース教授と共に、ピアノ演奏の際の手指の動きを詳細に調べる研究を行いました。


 実験には、国内外のピアノ・コンクールで入賞歴のあるピアニスト5名の方に来て頂きました。ロシア、フランス、ドイツ、アメリカ、日本と、それぞれ異なった国で学んだピアニストに参加してもらうことで、逆に、ピアニストの間に共通して見られる手指の使い方を明らかにしようとしたのです。


 彼らに、ショパンの練習曲やバッハの「平均律クラヴィーア曲集」、モシュコフスキーの練習曲といった楽曲から抜粋したさまざまな旋律を右手で演奏してもらい、その際の手指の全ての関節の動きをデータグローブという装置で計測しました。この装置は手袋のようなもので、手に装着すると、各関節に取り付けられたセンサーによって、手指の全ての関節の動きを非常に高い精度で計測出来ます。このグローブから得られたデータを分析し、ピアノを演奏する際の手指の使い方は何パターン位あるのか、それはどのような動きなのかについて調べました。


 研究の結果、一見、無数にあるように見える手指の使い方には、いくつかの基本的なパターンがあることがわかりました。つまり、ピアノを弾く際の手指の使い方には、どのような曲でも共通して見られる、ある決まったパターンが隠されていたのです。


 また、このパターンは、親指で打鍵する時と、他の4本の指のいずれかで打鍵する時とで異なることもわかりました。まずは、親指で打鍵する際に、ピアニストは手指をどのように使っていたかを解説します。


<巧みに動く親指>

 親指で鍵盤を押さえる時、他の4本の指はどのように動いていたのでしょうか? ただじっとしていたわけではなく、親指を降ろすと同時に、残り4本の指が一斉に伸ばされていました。これは、程度の差こそあれ、どのような旋律を演奏する際にも共通して見られた動きでした。このように、指が同時に同じ方向に動くというのは、物を離したり掴んだりする際の手指の動きと似ています。親指で打鍵する際には、残りの指は独立に動いている訳ではなく、むしろ日常生活で行うように、4本の指がいつも同じように動いていた訳です。


 一方、鍵盤を押さえる親指そのものの使い方には、大きく分けて2つの異なるパターンがありました。鍵盤を押さえながら親指を曲げるか(=つかむ)、伸ばすか(=広げる)です。なぜこのような動きが必要なのでしょうか? ここでポイントになるのが、ピアノ演奏に於ける、親指の特別な役割です。


 親指は、打鍵しながら曲げたり伸ばしたりすることで、演奏中の手の位置(ポジション)を左右に移動させたり、手のフォームを変えることが出来ます。例えば、親指で打鍵したあとに手を開くか閉じるかが異なる時、共に右手で引く場合ですが、手を開くには、鍵盤を押さえながら親指を外側に伸ばし、手を閉じるためには親指を手の内側に曲げていきます。このように、鍵盤を押さえながらダイナミックに手のポジションを変えられるのは、親指の関節が、他の指の関節に比べて多様な動きが出来るためです。


 さらに大きく手の位置を左右に移動する時には、親指を他の指の下にくぐらせて、手のポジションを移動する指くぐりというテクニックを使います。これらの場合も、手の位置を右方向に動かしたければ、鍵盤を押さえている間に親指をグッと外側に伸ばし、左方向なら手の内側に曲げることになります。


 このように、ピアノ演奏時の親指の使い方が大きく2つのパターンに分かれるのは、打鍵の前後で手のポジションやフォームを変える必要があるからなのです。もちろん、どの程度、手を移動させたりフォームを変えたりするかによって、親指をどの程度強く曲げ伸ばしするかを調節する必要があります。こうした多様な親指の使い方は、日常動作では必要ありませんから、親指を巧みに動かすスキルは、ピアノ演奏に特徴的な身体技能の1つと言えます。


<独立した4本の指>

 それでは、親指以外の4本の指を使って打鍵する際、ピアニストはどのように手指を使っているのでしょうか?親指で打鍵する時のように、全ての指を同時に曲げ伸ばししているのでしょうか?


 研究の結果、4本のうち、いずれの指で打鍵する場合でも、各々の指は互いに独立して動いていることがわかりました。つまり、それぞれの指が別々の動きをしていたのです。


 鍵盤を打鍵するためには、たとえそれがショパンの曲であってもバッハの曲であっても、①指を持ち上げ、②打鍵するために指を降ろし、③鍵盤から指を離すために再度持ち上げる、という一連の動作が必要です。これは基本的に、どの指でどんな旋律を演奏するかを問わず、共通した動きのパターンです。もちろん、動きの大小やタイミングに差はあります。


 人差し指を使って打鍵する旋律を50種類近く集め、それぞれの旋律を弾く際に各指の第3関節(手に一番近い関節)がどのように動くかを示しています。1本1本の線は、異なる旋律を弾いた時の指の動きを示しています。打鍵する指である人差し指は、どんな旋律を弾く時でも程度の差こそありますが、指を持ち上げ、降ろし、また持ち上げるという動作をしていることがわかります。


 一方、ある指が打鍵している間、打鍵していない他の指は何をしていたのでしょうか?
実は、どの旋律を演奏するかによって、全く異なった動きをしていました。中指や薬指が典型的ですが、大きく分けて、3つの動かし方があります。打鍵に使う人差し指は、どんな旋律を弾くときも似た動きをしていますが、一方で、周りの指は、人差し指の動きにつられず、旋律によって様々な動きをしていたわけです。これは、どの指で打鍵する場合も共通して見られる特徴でした。


 もし、指が独立していなければ、打鍵する指の動きにつられて、周りの指もいつも同じ動き(持ち上げる→降ろす→持ち上げる)をしてしまうはずです。そうではなく、ピアニストが演奏する際には、打鍵する指と、周りの指は、互いにつられず、違った動きをしていたのです。これは親指で打鍵する場合と全く異なります(親指では、どんな旋律を弾く時でも、他の4本の指を同時に曲げ伸ばししていました)。また、物を掴んだり、パソコンのキーボードを叩くような日常動作とも、大きく異る特徴です。ピアノ演奏では、4本の指は独立に動いているのです。


<動かしやすい指、動かしにくい指>

 ところで、指が全て独立して動いていると言っても、独立して動かしやすい指と、そうでない指とがあるのでしょうか? というのも、ピアニストではない人の手指の運動機能を調べた研究によると、通常、中指と薬指は、人差し指や小指に比べて、独立に動かしにくいことがわかっているからです。


 例えば、机の上に手を置いて、ある指で机をトントントントンと一定のリズムで叩いてみて下さい。ただしこの時、残りの指は全て机から離さないようにして下さい。人差し指で叩く場合、親指・中指・薬指・小指は机から離さないようにして、人差し指だけで叩く訳です。これをそれぞれの指でやってみると、人差し指で叩く時に比べて、薬指で叩く時のほうが難しくないでしょうか? これは指同士を独立に動かすしやすさが、指によって異なる証拠です。つまり、人差し指で叩く時に比べて、薬指で叩く時のほうが、周りの指はよりつられて動いてしまいやすいので、速く叩けないのです。


 しかし、驚いたことに、このような中指や薬指の動かしにくさは、ピアニストにはみられませんでした。どの指を使って打鍵する時でも、他の指は同じ程度に独立に動いていたのです。つまり、独立して動かしにくい指が特にあるわけではなく、どの指も均等に使えるということです。このことから、ピアニストが長年の練習によって、全ての指を等しく独立して動かす能力を獲得していることがうかがえます。


 ピアニストの指の独立性は、他の研究でも明らかになっています。例えば、先に紹介した机の上に手指を置いて、ある一本の指だけで机を一定のリズムで叩く課題を、その人にとって最速の速さで行ってもらいます。すると、ピアニストでない人では、薬指で叩く速さが一番遅くなるのですが、ピアニストの場合、どの指を使う際でも、その速さに顕著な差はありませんでした。また、薬指だけに目を向けてみると、叩く速さは、ピアニストのほうがそうでない人に比べて、実に2割以上も早いことがわかりました。これらの研究結果も、ピアニストは各指を独立に動かせる特別な能力を獲得しているという証拠です。


<ピアニストの指はなぜそんなに器用なのか?>

 このように、ピアノを演奏するためには、指同士を独立して動かさなければならないこと、そのため、ピアニストはそれぞれの指を独立して動かす能力に秀でていることがわかりました。では、そもそもなぜ、ピアノ演奏では、ある指を動かしながら、他の指は違った動きをするといった器用な手指の使い方が必要になるのでしょうか? 少なくとも理由は2つあります。


 1つ目は、ピアノ演奏は、決められたリズムとテンポで手指を動かす必要があるためです。例えば、ある程度の速さで「レーミーファーソー」と「人差し指→中指→薬指→小指」の順に弾くとしましょう。この時、ファを弾く薬指は、少なくともミを弾く前あたりにはすでに、準備動作、つまり指を持ち上げる動きを始めています。さて、ミの音を打鍵するために中指を降ろす時に、それにつられて薬指も降りてしまうと、どうなるでしょうか? ファの鍵盤を、狙ったタイミングよりも早く叩いてしまい、「レーミファッーソー」と変なリズムになってしまいます。このように、指同士がつられて動いてしまうと、ある一定以上のテンポで弾いているときには、意図したリズムで演奏できなくなってしまうのです。


 このように、ある決まったリズムやテンポで手指を動かさないといけないという動作は、日常生活の中にはありません。パソコンのキーボードを「タン タン タン」と叩いても、「タンッタタン」と叩いても、画面に表示される文字はどちらも同じです。これがなぜピアノ演奏だけ、指同士を独立に動かす必要があるのか?の1つ目の理由です。
 2つ目の理由は、ピアノ演奏では、複数の旋律を同時に奏でるために、指同士が異なった動きを同時にすることが求められるためです。これは、特にクラシック音楽の基本が多声音楽であることと関連しています。


 「インベンション」や「平均律クラヴィーア曲集」に代表されるように、バッハのピアノ曲では、1つの手で異なった旋律(声部またはパート。ソプラノやアルトなど)を弾き分けることが求められます。生徒に、手のそれぞれの指がまるで別の人の声や異なった楽器を奏でているように演奏しなさいと教えるピアノの先生もいますが、2本の手で、あたかも3,4人の演奏者が合奏(合唱)しているように演奏しなければなりません。このように、複数の旋律が折り重なって出来ている音楽の形式はポリフォニーと呼ばれ、後世の音楽の基盤となっています。

 例えば、シューマンのピアノ曲では、あるメロディーを奏でながら、残りの指で別の旋律(内声)を奏でるような場面が数多く登場します。この時、物を掴む時のように、全ての指が同じ方向に同時に動いてしまうと、どうなるでしょうか? まるで合奏の最中に隣の人の歌声につられて正しく歌えなくなってしまうのと同じように、メロディと内声という2つの旋律がごちゃごちゃになってしまいます。1つの楽器でポリフォニーを奏でるというのは、ピアノ演奏に特徴的な性質ですから、ピアニストは指同士を独立に動かす能力に優れている訳です。

チェリーピアノ(松崎楓ピアノ教室)
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