ショパン最愛のパートナー ジョルジュ・サンド

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 ショパンの生涯の中で最も影響を与えた女性がジョルジュ・サンドである。本名はオーロール・デュパンで1804年にパリで生まれた。ショパンより6歳年上である。オーロールは父が亡くなると祖母に引き取られるが、この祖母が住んでいたのが、後にショパンとサンドの愛の舞台となるノアンの館である。18歳の時にカジミール・デュドヴァン男爵と結婚し、モーリスとソランジュという二人の子供をもうけるものの、やがて別居し、その後、オーロールはジョルジュ・サンドという名前で小説を書き始める。


 サンドは、男女関係や社会のあり方に対して、当時としては非常に革新的な考え方を持っており、今でいうフェミニストの先駆けであった。その思想を体現するようにサンドは男装をして葉巻を吸うスタイルで知られた流行作家となる。ショパンとサンドが初めて出会ったのは、1836年10月末に、リストとマリー・ダグー伯爵夫人が滞在する館を訪ねた時のこととされる。ショパンははじめ、サンドのことをあまり良く思っておらず、帰り道では友人の作曲家ヒラーに「この人は本当に女性なのか」と語った。一方のサンドは、年下のショパンの貴族のように優雅な物腰とその美しい音楽に魅了された。二人が近づいていくには出会いから2年ほどの時間を要した。1838年の冬、ショパンとサンドは、サンドの子供たちと共にマヨルカ島への逃避行へと出かける。地中海の西にあるマヨルカ島は気候の温暖な美しい島で、健康を害していたショパンにはうってつけの療養地としてここが選ばれた。着いた当初は爽やかな空気と輝く太陽に満たされ幸せな日々を送る二人だったが、やがて島が雨季に入ると湿気と寒さのため、ショパンの病状は急激に悪化してしまう。ショパンは苦しみながら作曲を続け、そんなショパンをサンドは献身的に介抱した。1839年6月、マヨルカ島を出たショパンたちはノアンにあるサンドの館に落ち着くが、以後、1846年まで、ショパンは、ほぼ毎年、夏をノアンで過ごすようになり、バラードやノクターン、ピアノ・ソナタ第2番「葬送」や第3番など、数々の傑作がこの地で生み出された。


 サンドはショパンの音楽的才能を愛し、ショパンがその才能を発揮することができるようにと、献身的にショパンに尽くした。自らも小説家という仕事をもっていたにもかかわらず、サンドは日々の雑事を全て引き受け、実に細かくショパンの生活の面倒をみた。サンドなくしては、ショパンはあれほど多くの傑作を世に送り出すことは出来なかったであろう。


 一方で、二人が純粋に男女の関係にあった期間はそれほど長くはなかったと考えられている。サンドはある時期から、ショパンの人生のパートナーとなったのだろう。しかし、男女の恋愛関係から離れていても、二人は互いに深い愛情と尊敬で結ばれており、その関係は10年近く続いた。二人が別れる原因となったのは、サンドの二人の子供たちの存在が大きく関係している。兄のモーリスは父親のように振る舞うショパンを毛嫌いするようになり、一方、母親に愛されていないと感じていたソランジュはあからさまにショパンにすり寄るような態度をとったため、サンドとショパンとの間が次第にギクシャクしていくことになる。そして1847年に、ソランジュと彫刻家オーギュスト・クレザンジェとの結婚をめぐって二人の破局は決定的なものとなる。


 クレザンジェはペール・ラシェーズ墓地にあるショパンの墓の彫刻を作った人物であり、才能はあったものの粗野で大酒飲みで借金を抱えていた。ショパンは二人の結婚に反対したが、サンドは家庭の問題だからとショパンに黙ったまま結婚を許してしまう。ところが、その後、借金に追われたクレザンジェがノアンのサンド邸で乱闘事件を起こし、怒ったサンドがソランジェとクレザンジェを追い出すと、ソランジェはショパンに泣きつき、元々この結婚に反対だったショパンはサンドに反省を促すような手紙を送ってしまう。
 長い間、尽くしてきたショパンから、自分を非難するような手紙を受け取り、サンドは裏切られた気持ちになったのだろうか。ついにサンドは次のような手紙をショパンに書いて二人の関係は終わりを告げる。「さようなら、我が友よ。早くご病気がすっかり良くなられますように。そして、この9年間の二人だけで占めてきた友情のこの変な終局を神様に感謝します。時々ご消息をお聞かせ下さいませ。ほかのことは一切、問答無用でごさいます。


 別れた後もショパンはサンドの黒髪のひとふさを持ち歩き、サンドからの手紙は大切にまとめていたという。一方、サンドはポリーヌ・ヴィアルドに時折ショパンの様子をたずねたりしたものの決してショパンに会おうとはせず、それは、ショパンが亡くなるまで変わらなかった。マドレーヌ寺院で行われた盛大なショパンの葬儀にも、サンドは最後まで姿を現さなかったのである。

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