ショパンとサンドのノアンの館

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
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 ジョルジュ・サンドの祖母マリー・オロール・デュパンは、まだ前世紀中に、フランス中部の小さな町ラ・シャトルにほど近い村ノアンに家を求め、ここで未来の女流作家を育て、教育した。建物はルイ14世時代のかなり大きな2階建てで、ファサードだけが18世紀のものだった。村はずれに位置していて、ロマネスク様式の教会に隣り合い、背後から公園とその付属墓地とに抱かれるようにして立っていた。現在でも保存状態は良好である。2階には小さめの部屋がいくつもあり、階下には台所、食堂、居間がある。ショパンにあてがわれた部屋は公園に面した側の2階にあり、図書室を控え、さらにその図書室からはサンドの寝室へと通じていた。ショパンはここで、あらゆる便宜、快適さと同時に、完全な自由の保障された生活を満喫した。夕方5時、銅鑼の音とともに始まる全員いっしょの夕食を除けば、シャトー・ド・ノアンにやかましい規則は一切なかった。朝食は、家族そして客人それぞれの部屋に運ばれ、それが済めば、あとは各人各様好きなように1日を過ごした。

 ショパンの健康に関しては、隣村に住むサンド家の主治医ギュスタヴ・パペが目を光らせていたが、ショパンは彼を好み、信頼した。マルセイユの医者同様、パペもまたショパンは結核ではなく、単なる慢性の喉頭炎にかかっているだけで、自分の処方する治療に従っていれば、完治とはいわないまでも、必ず元気は回復すると言った。事実、めざましい速度でショパンは復調し、体力も創作力も取り戻した。もともと田園生活が好きだった上に、ここノアンでは、温もりある親切な家で、サンドの思いやりと愛に包まれて、ワルシャワを出て以来、常に夢見ていた家庭を、人生の波穏やかな寄港地を見つけたようだった。

 ショパンはここで、毎年春から晩秋にかけての数ヶ月を暮らすことになる。1846年まで、いわば7回の長いヴァカンスをノアンで過ごすのである。


 サンドが手配してくれたプレイエルのピアノもあり、ノアンには創作活動にも理想的な環境が整っていた。パリの喧騒を離れ、次から次へと枚挙にいとまがない用事、出来事、面会、パーティー、演奏会もなく、レッスンその他の仕事からも解放され、本当にしたいことに集中することが許された。ショパンの生涯で、これほど順調に仕事が進み、これほど重要な作品が多数生まれた時期は他にはない。ここノアンで、チェロ・ソナタを含め大きな「ソナタ」が3曲、最後の「バラード」2曲、同じく「スケルツォ」2曲、「ポロネーズ」の大曲「嬰ヘ短調」「変イ長調」そして「ポロネーズ 幻想曲」、「幻想曲 ヘ短調」、「舟歌」、「子守唄」、最も洗練された「夜想曲」、最も美しい「ワルツ」の数々、5曲の「マズルカ集」が生まれるのである。

 出来上がった楽譜の草稿はパリへ送られ、忠実無二の友ユリアン・フォンタナが清書し、写し、一部は直ちに出版社へ回された。写譜や出版社との交渉のみならず、パリに於けるショパンの代理人としてのフォンタナの仕事はいたって多岐にわたった。ノアンからの発注に応じて、手袋、石鹸、香水などの日用品から食品に至るまで、さまざまな品物をフォンタナはショパンに送った。1841年9月13日の発注書はこんな具合である。パテは大きいのを送ってほしい。月末には煤で真っ黒なここの台所で作った僕のパテをを送ってやるから。次から次への注文で親友に負担をかけていることを承知のショパンは、親しみあふれる冗談口調で何とか相手の怒りをかわそうとした。


 今までどおりに僕を愛してくれ。発注書に顔をしかめないでくれ給え。リュウマチも痛風もないだけましだと、あるいはヴォウオフスキ爺さんに自分が似ていないこととか、似たような不幸は何も自分には降りかからなかったとか、そう思って喜び給え!


 「夜想曲」は明日には着くはず。週の終わりには「バラード」も「夜想曲」も届くはずだ。写譜が厭になったときには、大いなる自分の罪をこれで償うと思って頑張ってくれ。くれぐれもよろしく頼む。もし僕がまたこの18ページをもういっぺん書く羽目にでもなったら、気が狂っちまう。


 ノアンでもピアノに向かう時間は長かったが、自分の曲作りだけに熱中しているわけでもなかった。いつものようにバッハをよく弾き、特に今回は「平均律クラヴィーア曲集」のフランスで出された版を念入りに調べ、全ての誤りを細かくメモし、訂正していった。作曲者が全く書き込まなかったテンポ、デュナーミク、アーティキュレーションなどの誤った指示がたくさんあるとショパンは考えたのである。


 他に何もしないで、バッハのパリ版を直している。製版屋の間違いだけでなく、バッハがわかっていると言われている連中お墨付きの誤りもだ。僕の方がバッハをよくわかっていると自惚れる気はないが、時にはもっとましな見当が付けられると思うから。


 またショパンはソランジュにレッスンをつけることもあった。ショパンを初めから嫌っていた兄モーリスよりも、妹の方がはるかに馬が合った。ちなみに、サンドだショパンを夫のように扱っていたにもかからわず、どちらの子もショパンに父親を求める素振りは全く無かった。


 ノアンでの生活の単調さを破ってくれるのが、客の来訪であった。しょっちゅう顔を見せたのは、女主人の異母兄、陽気で酒好き、ショパンの大ファン、イッポリト・シャティロンである。女主人がもろ手をあげて歓迎した客にはサンドの政治社会観に大きな影響を与えた思想家で社会主義者のピエール・ルルー、評論家で政治家、やはり左傾気味の共和主義者エマニュエル・アラゴがいた。ショパンはショパンでいつもポーランド人の訪問を楽しみにしていて、来れば存分にポーランド語の会話を楽しんだ。最初の夏に現れたのはヴォイチェフ・グジマワである。当初からショパンとサンドの間柄を暖かい目で見守ってきたグジマワは、いずれにとっても大切な友人だったが、とくにジョルジュにとっては、ショパンとの間に生じるいたって内密な問題も含めて、全てを打ち明ける事のできる貴重な話し相手だった。詩人ステファン・ヴィトフィツキも少なくとも2度ノアンを訪れている。この時期ショパンはステファン・ヴィトフィツキに「パルマのマズルカ」の入った「マズルカ集 作品41」を献呈した。数多い知人の中でもとりわけ待たれ、歓迎されたのは、画家ウジェーヌ・ドラクロワで、ドラクロワは42年に初めてノアンに来た。ドラクロワとは互いに精神的に深く理解し合えたショパンは、音楽や芸術一般についての自分の考えを、ドラクロワに最も素直に語った。私もとても好きだし、とにかく非凡な人間であるショパンとは、いくら語り合ってもこれで終わりということがない。生まれてこのかた私が出会った中でも、いちばん芸術家らしい芸術家だ。そうドラクロワは友人に書いている。また別の手紙では、


 場所は素晴らしいし、私にとってこれほど親切なホスト、ホステスは他では望めないと思う。夕食や昼食で食卓を、あるいは玉突き台を囲むとか、いっしょに散歩に出たりしない時は、一人自分の部屋で本を読んだり、長椅子にのんびり寝そべったりしている。時折、庭に面した窓の隙間から、これまた一人で自分の仕事をしているショパンの音楽が、ふっと吹き付けるように入ってくる。そしてナイチンゲールの声や薔薇の茂みの香りと混じり合う。


 ノアンにはまたサンドの女友達、マリー・ド・ロジェール伯爵令嬢もよく訪れた。彼女はもともとショパンの弟子であったのが、1840年、ソランジュの家庭教師にどうかとショパンがサンドに紹介したのだった。その1年後、この活発な女性は自分よりはるかに年下のアントニ・ヴォジンスキと浮名を流し、一向にその気のないアントニを無理やり縁談に引きずり込もうとしたばかりか、ショパンとヴォジンスキ家の関係についてあることないこと噂を広めたため、ショパンの方で愛想を尽かすに至った。この時のショパンの憤りは一通りではなかった。鼻持ちならない豚だ。僕の庭に奇妙な方法で潜り込んできては地面をほじくり返し、薔薇の間にトリュフがないか探そうとしている。触って動かすわけにもいかない人物だ。ちょっとでも触れば、不躾きわまる仕方で嗅ぎ回り出す。要するに、オールドミスだ。我々オールド・バチュラーの方がはるかにましだ。もっともその後ヴォジンスキが彼女から逃れてポーランドへ戻り、すぐに結婚した頃からは、ショパンもマリー・ド・ロジェール伯爵令嬢に向けた怒りの矛をおさめ、晩年にいたってはむしろ親しく付き合うまでになった。


 ショパンが並々ならぬ好感と関心を示した女性に、ポリーヌ・ヴィアルドという若く才能ある歌い手がいた。ヴィアルドもまたノアンの常連客であった。二人は協力して音楽の夕べを催し、ショパンが弾き、ヴィアルドが歌った。ヴィアルドがいるとたいそう機嫌が良くなり、刺激も受けたショパンは、ここぞとばかりに即興演奏も技の限りを披露し、客はみなそのアイディアの豊かさに驚嘆させられた。聴衆の一人、エリーズ・フルニエ(ラ・ロシェル市の弁護士の妻)は、そうしたある夕べの後で母親にこう書き送った。

 

 こんな才能に接するのは人生初めての経験でした。素晴らしい簡潔さ、甘美さ、善良さ、そしてユーモア。そのユーモア精神で、ベッリーニのオペラのパロディを演奏してくれましたが、聴きながら私たちはおなかを抱えて笑いころげました。ベッリーニの音楽的な癖やスタイルが本当に緻密に観察され、面白おかしい冷やかしになっていました。続いては、逆境にあるポーランド人たちの祈りが、私たちの涙を搾りました。そして警鐘のモチーフに基づいた練習曲には、体を震えが走りました。そして葬送行進曲。ピアノで、煙草入れだの、人形芝居だのに付いているオルゴールの旋律を真似したのですが、これがまたあまりに真に迫っていて、もしも同じ部屋にいなかったら、きっと誰かがピアノを弾いているとは思わなかったろうというほどでした。たぶんチロル地方のメロディだと思いますが、シリンダーの音が1つ欠けているオルゴールをやってみせてくれました。毎回その音だけが、あるべき場所で聞こえなくなる音楽を。


 家の者やお客にとっての娯楽の1つに、芝居の夕べというものもあり、ショパンも役者としてソランジュやモーリスと一緒に活人画や即興芝居(あらかじめ大筋は打ち合わせてあったが)に参加したり、いろいろな出来事を音楽で伴奏、描写したりした。


 館の住人が村へ出かけて行き、農民の遊びや行事に参加するという事もあった。そこでバグパイプや民謡を聞きながら、ショパンはこの地方の旋律(ブーレ)を2つ記録している。


 天気のいい日には散歩や遠足が企てられた。最もショパンの体は弱すぎて、何キロも歩き通すのは無理な相談だったので、サンド夫人はショパンのためにマルゴという牝ロバを買い求め、乗りやすい鞍をつけた。ロバにまたがったショパンがポカポカとのんびり進み、その脇をサンドがのしのしと歩む。そんな光景が見られるようになった。「牝ロバはたいへん善良。パン屑が臭う私のポケットに鼻を突っ込んでいられるときだけ前に進む。おとついなどは、実行力のある種ロバが一頭、私たちを追いかけて来たかと思うと、マルゴの貞操を狙った。彼女は、本物のルクレツィアよろしく強力な蹴りで身を守ったのだけれども、ショパンは叫ぶやら笑うやら、私は傘でもってセクトスに応対した次第とサンドは息子宛の手紙で書いている。


 彼らはそんな具合に、時には2,3日かけてこの地方の風物を訪ね歩くこともあった。同じ年の10月2日、サンドはシャルロット・マルリアーニに宛てて次のように書いた。クルーズ河の岸を伝ってちょっとした山旅をしました。高くはないけれども、とても景色のいい山が連なっていて、道路も宿もまったくないのでアルプスよりも近寄りがたい山地。ショパンは例のロバにまたがったままどこでも登っていって、藁を敷いて寝たり、いろいろ危険もあったし、疲れもしたけれども、ショパンがあれほど元気なことはいまだかつてなかったことです。


 田舎暮しはショパンの心身ともに好影響を与えていた。こうしてノアンと結びついていた年月は、祖国を離れて以後のショパンの人生で最も幸せな時代となった。これを失う1846年以降は、ショパンは生きる喜びも、それとともに想像力も肉体の力も失ってゆくのである。


 














 

 

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