ショパンがパリで出会った作曲家たち

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 パリの音楽界に仲間入りしたショパンは、難なく新しい友人を獲得していった。その選択には、それなりの年齢、つまり若さという要因は当然のこととしても、相手の個性だけではなく、その芸術家が新しい芸術に対してどのような態度を持しているかということも、大事な判断だった。音楽院作曲家の教授レイハやケルビーニといった、世に尊敬されることこの上ない、しかしいたって保守的な旧世代の代表者たちに対しては、ショパンは、敬して之を遠ざくという態度をとった。これらお偉方は、畏敬の念をもって眺め、その作品からは専ら学ばせていただくだけの、いわば干からびた木偶のようなものですね。ショパンはパリ音楽院の大先生たちをこう皮肉っている。ショパンが惹かれたのは、自分と同じように新しいロマン主義的な理想に燃えた、若い世代の芸術家たちだったのも無理はない。ヒラー、リスト、メンデルスゾーン、フランコム、ベルリオーズ、彼らこそ、新芸術の息吹とともに、因襲にとらわれぬ自由なボヘミアン的生活スタイルをも連想させ、パリ市民の口の端に絶えずその名が上がった、若き名士たちであった。そして彼らがそのまま、パリ生活の最初の時期、ショパンが毎日をともにした友人になったのである。とりわけ、いちばん早く知り合ったうちの一人、ヒラーとはきわめて親密な仲となった。


 ショパンより1歳若い、フランクフルト出身のドイツ人、母とともに留学中のフェルディナント・ヒラーは、一流のピアニストであり、また今でこそ忘れられてはいるが当時としてはなかなかの作曲家であった。1831年の12月、ショパンはヒラーが自作を披露した演奏会に赴いているが、後期ベートーヴェン様式ともいえるその作品は多分に気に入ったと見えて、ティトゥスにこう知らせている。一昔前、協奏曲や交響曲が大流行したフンメルの弟子、一種ベートーヴェン的だが、詩情、情熱、精神性に溢れた男だ。初めて会ったときから二人の間には親密な、まるで兄弟のようにわかりあえる、先の作曲家たちの誰よりも近い関係が生まれた。1歳年下ながら、フェルディナントにとって、ショパンはいわば天啓だった。ショパンを崇拝し、ショパンの人間にも音楽にも傾倒した。ショパンは私を愛していた。だが、私もまたショパンに惚れ抜いていたと付け加えるべきだろう。少なくともそういう他には、ショパンが私に吹き込んだ感情を名付ける術がない。ショパンが傍らにいるだけで私は幸せだっだし、いくら聞いてもショパンの話は聞き飽きるということがなかったし、しばらく会わないと淋しくて仕方がなかった。ヒラーは自分の回想録にそう記している。ショパンはヒラーに、この時期書かれたものの中では最も奔放な「3つの夜想曲 作品15」を、詩的で優しさに満ちた、二人の友情のいわば音楽的形見を捧げている。


 ヒラーを介して、ショパンはもう1人のドイツ人作曲家、母国では幼い頃から広く名を知られたフェリクス・メンデルスゾーン=バルトルディと知り合った。ショパンより1歳年上のメンデルスゾーンは、パリへは12月に来たが、1冬過ごした後、英国へ渡る予定であった。フランスでは、メンデルスゾーンの新しいロマン主義的様式の傑作「夏の夜の夢の序曲」が既に演奏されていた。メンデルスゾーンは作曲家であるばかりか、ベートーヴェンの協奏曲演奏でも知られる。すぐれたピアニストでもあった。気取るところがなく、親しみの持てるメンデルスゾーンもショパンの大いに好むところであり、メンデルスゾーンもショパンを「ショピネット」と呼んで親しく交わった。メンデルスゾーンにとって何より感銘深かったのはショパンのピアノ演奏であり、作曲はといえば、あまりに前衛的で好みに合わないために、距離をおいて見るという風だった。メンデルスゾーンは同意見のヒラーとともに、ショパンはすでに完全に成熟したピアニストであり、カルクブレンナーの教えを乞う必要はないとする陣営の側に立った。そもそも始めから、ショパンに対して、君はカルクブレンナーに何も学ぶことはない、君の演奏はカルクブレンナーよりも上だ、と言ったとされるのはまさにこのメンデルスゾーンなのである。


 同じ意見は、1825年以降パリで私的にケルビーニとレイハのもとで学んでいたハンガリーのピアニスト・作曲家、フランツ・リストも表明していた。ショパンはリストともやはりヒラーを通じて知り合った。1つ年下のリストとも、ショパンはやはり親密な芸術的絆で結ばれ、晩年はやや疎遠になるものの、その親交は長く続いた。情熱的でエネルギーみなぎるリストは、自身が子供の頃からその大向こうを唸らせるブラヴーラ奏法でヨーロッパじゅうに名を轟かせた天才ピアニストでありながら、ショパンの演奏を聞いて、それが自分の演奏とは違う種類の価値ではあっても、最高の芸術家を目にしていることを即座に悟っている。大音量と、名人芸的な目も眩むような華麗な技を好んで披露するリストは、このポーランド人青年の奏でる、繊細で、柔らかく、洗練されたニュアンスに富んだ音ばかりでなく、メンデルスゾーンとは異なり、その作曲にもいたく感動した。とりわけリストが魅了されたのは、ショパンの音楽にある、極めて大胆で、独創的で、近代的な要素であった。リスト自身が自分独自の作品を創造し、偉大な革新的作曲家になるまでには、まだ歩むべき長い道のりがあったが、このパリ時代のリストはまだ、流行りのオペラから取った主題を天才的なテクニックで飾り立てる、皮相な小品集程度しかものにしていなかった。ショパンの曲は、新しいと同時に深い内容を持つ、芸術的に完成されたものであると、直感的に感じ取っていた。


 あるとき、平生何でも見事に初見で弾きおおせたリストが、ショパンに自作の「練習曲集」の譜を渡されて、うまく弾けないということがあった。そしてその直後、リストは忽然として姿を消した。フランツ・リストがパリから失踪したらしい、なぜか?と、様々な憶測が飛び交った。数週間後、リストはショパンの「練習曲集」を、そのメリハリの付け方や、細かなニュアンスを1人で研究し、毎日、何時間もかけて練習していたのだということがわかった。このあまりに斬新な傑作の意味を消化するまでには、それだけ時間を要したということだった。そしてその研究の成果を友人たちに披露したときのこと、曲の作者自身が驚嘆し、フランツ・リストは自分が弾くより見事に弾いたと認めたのである。ショパンはこの「練習曲 作品10」をリストに献呈した。自分のペンがいったい何を書いているのか、わからぬままに僕は書いている。というのも、今、リストが僕の練習曲を弾いていて、僕をまともな思考の圏外に追いやるのだ。僕の作品をどう弾けばいいのか、僕はリストから盗みたい。リストとフランコムと3人で、ヒラー宛に悪戯半分の手紙を書きながら、ショパンはそう告白している。


 仲間のうちで唯一のチェリスト(同時に作曲もしたが)、世評高い音楽院のオーケストラに所属する感受性豊かな音楽家、20歳のオーギュスト・フランコムとは、ショパンはリストに紹介されて知り合い、すぐに意気投合した。まだ長期契約を結ぶ前のこと、シュレザンジェの依頼で書いていたマイアベーアの「鬼のロベール」の主題による変奏曲はフランコムの協力を得て書かれたものである。それがピアノとチェロのための大掛かりな作品「協奏的大二重奏曲(グラン・デュオ・コンセルタン)」である。ショパンはフランコムとデュエットすることを好み、多くの時間をともに過ごした。またオーギュストの親戚が住む田舎に案内され、大いに歓待されもした。フランス人の中では、フランコムが最も親しい友人であり、その交遊は終生続くこととなった。


 仲のいいこれら青年音楽家グループは、大通りに面したここかしこの流行りのレストランにたむろして、一緒に食事をし、一人が全員の分を払い、毎日違う者が順繰りに支払うといった光景がしばしば見受けられた。食事は、冗談飛び交う陽気な雰囲気の時間もあれば、芸術家の役割は何か、芸術の使命は何か、古典主義との関係は如何にといったことをめぐって口角沫を飛ばす白熱の議論に発展することもあった。彼らはまた、保守的で、お高くとまった音楽家を材料に悪戯を考案して気勢を上げることも少なくなかった。この国際的な顔ぶれのサークルには、やがてフランス人スタマティと英国人オズボーンという、カルクブレンナーの二人の弟子も加わった。


 ショパンは、月曜日にはアダム・チャルトリスキ公の館へ、木曜日はルドヴィク・プラテル伯の家へといった具合に、懇意にしてもらっている家にも仲間をよく案内した。プラテル一家などはショパンを家族同然に遇してくれて、しかも楽の音の絶えないサロンであっただけに、才能ある青年音楽家たちの来訪はいつでも大いに歓迎された。私ももし若くて美貌に恵まれていれば、ショパンちゃん、貴方を夫にして、ヒラーを親友に、リストを愛人にしてたわと冗談を飛ばすプラテル伯爵夫人のサロンで過ごした数々の夜のうち、後年、ヒラーはある一晩がとりわけ忘れがたいと書いている。その日は3人のピアニストがある問題に決着をつけるべく演奏試合に臨んだのであった。それはもともとショパンの言い出したことがきっかけで論争となったもので、ポーランドの旋律に固有な雰囲気と情感は、ポーランド人の演奏によってしか引き出せないのかどうかということだった。例として、パリでも知られた「ポーランド未だ滅びず」の歌詞で始まる「ドンブロフスキのマズルカ」が選ばれた。これを順に、リスト、ヒラー、そしてショパンが弾いたのである。ショパンが弾き終わるや、二人の友人は負けたと感じ、やはりこの歌はショパンの演奏が最も美しく、様式的にもしっくりしたと認めたという。

 1832年の12月には、この若者の一団にフランス人エクトル・ベルリオーズも加わった。ベルリオーズは、アカデミーのローマ大賞を勝ち取り、1年ほど前からローマに奨学生として留学していたところを、パリに戻ってきたのである。すでにだいぶ以前からあれこれ噂されてきた話題の人物は、グループの最年長となった。話題となったというのは、言葉によってもはっきり表明され、作品にも歴然と表れた、その過激なまでに新しい音楽のスタイルであり、また、劇的な経過をたどりつつあったロマンス、初め報われぬ不幸な恋から出発し、やがて結婚へと結実した、イギリスの女優ハリエット・スミソンとの大恋愛であった。ショパンは音楽院で「幻想交響曲」とモノドラマ「レリオ、あるいは生への復帰」という、ベルリオーズのきわめて革命的な2作品を聞いていた。これらの曲で作者は、単にオーケストラの音色をこれまでにない方法で扱い、発展させているだけでなく、自らハリエットに寄せる思慕の情を主題とする文学的標題性は、ショパンの趣味ではなかった。だがその作者を知ってみると、その行動の奇想天外さ、独特なユーモア感覚、若々しい情熱はむしろ好ましいものだった。パリでイギリス劇場を運営していた(どのみち赤字経営だったようであるが)スミスソン嬢が脚の骨を折った際には、ショパンとリストが彼女のための募金コンサートを行なっており、二人の演奏を聞こうとする大勢の客を動員、全収入がベルリオーズの婚約者に渡された。


 1833年、イタリアの有名なオペラ作家、1801年生まれのヴィンチェンツォ・ベッリーニがパリにやって来た。ショパンはベッリーニの作品を既に知っていて、なかでも「夢遊病の女」は、けっこう好んでもいた。そして今、作曲家本人に会うやぞっこん気に入り、ベッリーニとともに時を過ごすのを大いに楽しみ、喜んで一緒にベッリーニの知り合いのイタリア人を訪ね歩いた。だがこの交遊、長くは続かぬ運命にあった。1835年9月23日、ベッリーニはパリ郊外で客死するのである。


 グループは、そのメンバーが一人二人とパリを去ることで次第に小さくなっていった。最初にいなくなったのはドイツ人たちである。メンデルスゾーンにとっては、そもそもパリは通過地点に過ぎなかった。英国滞在の後はドイツに帰り、1833年、デュッセルドルフで開かれたライン下流地方音楽祭で指揮して市の音楽監督に就任した。この音楽祭は聖霊降臨節の時期に毎年場所を変えて開催されていたもので、翌34年にはアーヘンで行われ、プログラムにはフェルディナント・ヒラーの新しい編曲によるヘンデルのオラトリア「デボラ」上演も予定されていた。この音楽祭に行くついでに、君の知らないライン地方を観光してはどうか、とヒラーはショパンを誘った。そして二人は出かけていった。アーヘンで二人の友人の顔を見たメンデルスゾーンは喜び、音楽祭が終わった後は彼らをデュッセルドルフへと案内した。ここでは十分時間もあり、皆で演奏を楽しみ、九柱戯(ボーリングのようなゲーム)にうち興じ、遠足をした。このドイツ旅行で最も美しい思い出となったのは、ライン川の船旅である。ショパンとヒラーは、素晴らしいゴシックの大聖堂で知られる古都ケルンを訪ね、その川辺の波止場でメンデルスゾーンと別れ、次に二人だけで中世の面影濃い町コブレンツにたどり着き、そこからパリへ戻った。しかしヒラーも数カ月後にはパリ生活に終止符を打ち、1835年ドイツに帰国した。祖国に戻る可能性はなく、そのしょうがいの最後までパリにのこることとなったのはショパン一人であった。

 



















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