19世紀ロマン派の批評、音楽学校、名作

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 19世紀に入ると貴族と教会は、音楽のパトロンというそれまでの特権的地位を市民に譲り渡し、音楽史の舞台からほぼ完全に退場する。代わって公開講演会が定着し、お金を出せば誰もが音楽を聞けるようになり、楽譜出版は隆盛を極めた。少なくとも理念的には作曲家たちは、演奏会や楽譜を通して公論に自らをアピールすることが完全に可能になった。こうして、かつての貴族の多分に私的な趣味に代わり、音楽をより公正に判断すべく登場してきたのが音楽批評である。無数の音楽雑誌が創刊され、新しく出版された楽譜のほぼすべて、そして評判になった演奏会やオペラ公演の多くが、批評の対象とされるようになる。シューマンやベルリオーズも音楽批評家としての活動を盛んに行っていた。これは、現代に於いて新譜CDのほぼすべてが音楽雑誌で批評されるのと、ほぼ同じ状況である。
 19世紀に於ける音楽批評の究極の使命は演奏会という公共の空間に於いて演奏されるにふさわしい作品、つまり末永く聴かれるに値する記念碑的作品を選定することだったと考えられる。まだ知られていない優れた才能を世に送り出すために雑誌「一般音楽新聞」でショパンを紹介した際のあの有名な「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」という言葉は、まだ誕生して間もない当時の音楽批評の初々しくも誇り高い抱負を物語って余りある。こうして名曲レパートリーが19世紀から20世紀前半に確立された後、20世紀後半に於いては、名曲についての末永く聴かれるに値する演奏を選ぶことが音楽批評の主たる役割になる。
 こうした後世に残すべき名作を選定するという批評の営為は同時代だけでなく、過去の音楽にも及び始める。シューベルトの「交響曲第7番グレート」や遺作の3つのピアノ・ソナタを発見した音楽批評家としてのシューマン、批評家でこそなかったものの、バッハの「マタイ受難曲」を100年ぶりに復活演奏したメンデルスゾーンなどがその典型である。またベルリオーズもベートーヴェンの偉大さを語ってやまなかった。当時はまだ、批評家と作曲家は今日のように完全に分離してはいなかった。とりわけドイツ語圏の場合、フランスやイタリアに対抗しようとする文化ナショナリズムも加わって、批評家や学者達は自国の過去の大作曲家を次々に発掘しては、その偉大さを称揚する傾向にあった。19世紀はバッハやヘンデルやモーツアルトやベートーヴェンといった大作曲家の伝記が次々に書かれ、その資料や作品目録が整理されていった時代でもある。このように19世紀は大作曲家と名作と音楽批評と伝記が生まれた時代だった。

 名作を発見するのが批評や伝記だとすれば、それを大切に保存していく上で欠かせなかったのが音楽学校である。近代的な音楽学校のモデルとなったのは1792年に作られたパリ音楽院である。ヴェネツイアやナポリなど、イタリアではそれ以前にも音楽学校があったが、それらは孤児院のような性格をもっていた。音楽学校という制度が定着したのは、実質的に19世紀のことだ。プラハ、ウイーン、ミラノ、ライプツイヒ、ベルリン、モスクワなど、名だたる学校が次々に設立される。音楽学校とはつまり封建的な徒弟制度ではなく、ある程度の才能がある生徒なら誰もが音楽の体系的な高等教育を受けられる民主的制度であって、これもまた19世紀に於ける音楽の公共化の産物であった。
 今日、音楽の勉強といえば、ほとんど楽器演奏の勉強と同義である。だが18世紀までの徒弟制度的な音楽家養成に於いては、音楽学習は何より作曲の勉強を意味した。音楽家はあくまで、自分の作品を自分で弾いて人前に披露できるようになるために楽器を学んだのであった。少なくとも独奏者の場合、演奏とは基本的に自作自演のことであって、もっぱら他人が作った作品ばかりを演奏する演奏家などというものは存在しなかった。それに対して音楽学校の場合、入学当初から専攻が決められている。ヴァイオリン科やピアノ科に入学した生徒は、もっぱら自分が先行する楽器だけを、しかも巨匠の名作に即して学ぶ。自分で作った曲をレッスンに持っていくヴァイオリン科の生徒などというものは想像も出来ないだろう。この音楽学校で過去の優れたレパートリーを学ぶという制度も、名作の成立を促した要因の1つだったと考えられる。とりわけドイツの音楽学校ではバッハやモーツアルトやベートーヴェンの作品が、まるで聖典のような畏敬の念をもって教えられ学ばれたことは言うまでもない。
 端的にいって18世紀までの音楽は、原則として一度演奏したらそれで終わりの消耗品だった。オペラの場合、ヒットした作品が別の都市でも上演されたりすることはあったが、それでも数年たてばれぱーとりーから消えるのが常だった。大事なことはその時、その場での需要を満たすということ。具体的にはパトロンの要求に応えることであって、永続的にレパートリーに残るものを書くという意識は、作曲家にはあまりなかった。18世紀までの西洋音楽に於ける作曲意識は、今日のポピュラー音楽とあまり変わらなかった。それに対して19世紀とは名作を軸に音楽史が展開し始めた時代だった。過去の偉大な音楽が演奏会レパートリーに取り入れるようになったのは、19世紀後半になってからのことである。バッハはパレストリーナを知っていたが、決してそれを演奏したりはしなかった。また晩年のモーツアルトは大バッハの作品を知っていたが、それを演奏会で弾きはしなかった。しかし、彼はヘンデルのメサイアを編曲している。ヘンデルは音楽史上で初めての、死後も継続的にその作品が名作として上演され続けた作曲家である。だがメンデルスゾーン、リスト、クララ・シューマンやアントン・ルービンシュタインやハンス・フォン・ビューローは、バッハやベートーヴェンを演奏会で弾いた。19世紀に於いて演奏会は、過去の不滅の傑作を陳列する音の美術館になり始めた。

 こうして19世紀の多くの作曲家たちの間にはバッハやベートーヴェンの横に並べても恥ずかしくない不滅の名作を書かねばという使命感が芽生えてくる。18世紀までは演奏されるのは原則として同時代の作品だけだったのに対して、19世紀の公開演奏会では過去の名作と同時代の新作が並べて演奏されるようになったのだから、作曲家が偉大な過去を意識するようになったのも当然だろう。自分の書いた演奏会用の序曲がベートーヴェンの交響曲に先立って演奏されるということが頻繁に起こるようになったのであるから、これは作曲家にとって大変なプレッシャーだったはずである。シューベルトは多くの交響曲やピアノ・ソナタを構想しては破棄したし、シューマンやブラームスは最初の交響曲を書くまでにおそろしく時間がかかった。これらはすべて、過去の偉大な名作、つまりベートーヴェンに対する一種のエディプスコンプレックスのゆえだったと考えられる。交響曲を、あるいはピアノ・ソナタを書く以上、ベートーヴェンに匹敵するものにしなければならないという過剰な気負いである。
 リストやワーグナーが未来音楽といい、マーラーがやがて私の時代が来ると述べた背後にあったのも、同じ歴史認識である。作曲家にとって大事なのは過去の大いなる遺産に匹敵する記念碑を未来に残すことであり、現在など取るに足らないものなのだ。そして、あまりにも偉大なものは、浅はかな同時代人には受け入れられないという考え方であり、これはとりわけドイツで強かった傾向であり、まずは目の前の需要を満たすことを優先する傾向にあったフランスやイタリアの作曲家とは対象的であった。特に絶大な一般人気を誇っていたロッシーニやマイヤベーアはシューマンやワーグナーの怨みの的で、彼らには執拗に同時代人の軽薄な好みへの迎合という非難が浴びせられた。こうして19世紀に於いて時代を超えたドイツの偉大な名作VSイタリアやフランスの軽薄な流行音楽という図式が作られていくのである。

 

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