ショパンとサンドのマヨルカ島の冬

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
お気軽にご連絡下さい!
TEL.0154-64-7018
営業時間:土曜日、日曜日、祝祭日の9:00〜18:00
FAX.0154-64-7018
お問い合わせメール:mi3tu2hi1ro6@gmail.com
釧路市浦見8丁目2−16
URL https://www.cherry-piano.com

 二人は別々にパリを発った。ショパンとしては「レリア」の作者とのごく個人的でロマンティックな旅は世間に対して内密にしておきたかったのである。旅の計画は、一部の親友にしか明かしていなかった。マトウシンスキ、グジマワ、かなりの金を貸してくれたレオ、「前奏曲集」の前金を払ってくれたプレイエル、そして今やショパンのパリに於けるあらゆる職業的活動を管理する秘書役を引き受けたフォンタナである。ショパンと同い年のユリアン・フォンタナは、高等学校とワルシャワ音楽学校を通じての学友であり、ピアニストであり、さらには音楽院作曲科でもショパンと同じく、エルスネルの学生であった。11月蜂起には砲兵隊中尉として参加した後、まずハンブルグへ逃れ、32年にはパリの亡命者集団に合流、直ちにショパンと密な連絡を取り始めたのだった。それはフォンタナが44年に渡米するまで続いた。全幅の信頼を置かれたフォンタナは、ショパンの留守中、その住居の管理、財政のマネージメント、出版社との交渉、郵便物の仲介や転送を任された。


 先に1838年10月18日に出発したのは、15歳のモーリスと10歳のソランジュの二人の子供を伴ったジョルジュ・サンドである。10日近く遅れて出たショパンであったが、落ち合う約束をしていたスペイン国境近くの町ペルピニャンには、ジョルジュ一行を1日しか待たせないという猛烈な速さで到着した。3年前両親に会うためにカルロヴィ・ヴァリへ急行したと同じく今回もまた、そうした無理が恐ろしい結果となって崇るということを無視し、4昼夜馬車に揺られどおしで行ったのである。それも愛する者のためにすることではあったが、サンドの方はたとえ1週間でも待つ覚悟はあったはずなのである。一行はあくる日にはもうポール・ヴァンドルの港からバルセロナへ船で移動した。ここで5日間、街を観光しながらマヨルカ島への渡し船の瓶を待った。11月7日、小さな貨物船「エル・マヨルキン」号に乗り込んだショパンらはカタロニアにほど近い、地中海のバレアレス諸島に属するマヨルカ島第1の町パルマへと渡った。

 温和な気候の太陽の下、豊かな緑におおわれ、切り立った岸壁を見せるマヨルカ島は、旅人たちの目に、大いに夢と希望を叶えてくれそうな予感を与えて横たわっていた。しかしパルマに到着して間もなく、ショパンらを困らせる意外なことが判明した。当時繰り広げられていた内戦を逃れ、スペイン本土から来た大勢の人々で島はごった返し、ホテルには全く空き部屋がなかったのである。失意の旅人たちは結局、港に近いカリェ・デ・ラ・マリナのみすぼらしく汚い、南京虫だらけの宿屋に泊まらざるを得なかった。ようやく数日後、フランス領事のピエール・フリュリの尽力があって、パルマから4キロほど離れた場所に、オリーヴ林のなか、海を望む丘の上に立つ、庭付きのこじんまりした別荘ソン・ヴァンに入居することが出来た。領事はまた、山の上の修道院を紹介してくれた。かつてのカルトウジオ(カルトウハ)修道会が使っていたもので、ヴァルデモサという村にあり、今は独房を安く貸し出しているということだった。ロマンティックな想像力を刺激するこの建物を見学したショパンらは、万一こんな人気のない場所に引きこもりたいという気になった時に備えて、3部屋予約しておいた。とりあえずは生活上はるかに便利のいい別荘ソン・ヴァンに、気分良く喜び勇んで住むことになった。この時のことを、11月15日、つまり入居の当日、ショパンはフォンタナにこう報告している。


 僕は今パルマにいる。椰子の木、杉、サボテン、オリーヴ、オレンジ、レモン、アロエ、いちじく、ざくろ等々に囲まれて。どれもこれもパリでは植物園のストーヴのまわりでしかお目にかかれないものだ。トルコ石色の空、紺碧の海、エメラルド色の山。夜は一晩中ギターと歌声。葡萄棚の下の巨大なバルコニー。ムーア様式の壁。全ては、町全体、アフリカの方を向いている。つまりは、極上の生活ということ。僕を愛してくれ(ユリアンに対して頼み事を切り出すための句)。プレイエルのところまでちょっと散歩がてら行ってみてくれ。ピアノがまだ着かないんだ。どんな経路で送ったんだろう?「前奏曲集」はもうじき送る。僕はおそらく、この世でいちばん美しいポエジー、あの素敵な修道院に住むことになる。海、山、椰子の木、墓場、十字軍の教会、モスクの廃墟、1000年のオリーヴの古木。ああ、僕の命、僕はほんの少し多く生きている。僕は今最も美しいものの近くにいる。僕は元気になった。


 当面は借り物の安楽器しかなかったけれども、ショパンは勢い込んで仕事を始めた。「ポロネーズハ短調」が完成しつつあり、連作「前奏曲集」も次第に全体像が見えつつあったし、数あるマズルカの中でも最も美しい、作曲家自身が「パルマのマズルカ」と呼んだ「マズルカ ホ短調作品41}も生まれた。天国のような自然に囲まれ、ジョルジュといて、ショパンは幸せだった。全員であちらこちら長い散歩や遠足にも出かけた。ショパンの健康状態はいたって良好と思われた。だが、それは依然として楽観的に過ぎる判断であった。ある日の散歩で、突然の嵐に見舞われ、全身濡れ鼠となったショパンは、風邪をひき、熱を出した。パリからの無茶な旅の疲れと天候の悪化が大いにこたえたようであった。激しい雨が降り、強風や湿気が建物の薄っぺらな壁をものともせずに入り込んだ。今やこの別荘のあらゆる欠陥が露呈したようだった。風邪は急性気管支炎に転じ、11月末にはあまりの病状の悪化に心配も頂点に達したサンドは、島内最良の医者を3人呼びつけた。この時のことをショパンは、しばらくたってからユリアン宛の手紙で、彼一流の嘲るような皮肉を込めた文章にしている。


 この2週間は病気で犬のようにへばっていた。気温18度、薔薇、オレンジ、椰子の木、いちじくのなかで、風邪をひいたわけだ。島じゅうでいちばん高名な医者が3人、1人は僕の吐いたものを嗅ぎまわり、2番目は僕がどこから吐いたか調べ、3番目は僕がどのように吐いたか触り、聴いた。1人は僕はもうくたばったと言い、2番目は僕がくたばりつつあると、3番目はもうすぐくたばると言った。排膿管はやらないということで辛うじて我慢したがね。神のお恵みで、今日はもう元に戻った。

 ところが具合の悪いことに、医師たちの往診の後、別荘ソン・ヴァンには結核病みがいるらしいという噂があたり一帯に広まってしまったのである。結核と言えば、この頃のスペインでは迷信的な恐怖を呼んだ感染病であった。家主セニョール・ゴメスは恐れおののき、客人たちに即刻立ち退くよう命じたばかりか、消毒や壁の塗り替えの費用、さらには敷布類も含めて家具は全て焼却しなければならないということで新しい設備の購入代金まで請求した。唯一の救いは、先にヴァルデモサの修道院に部屋を取っておいたことだった。問題は空っぽの独房に据え付ける家具をどうするかということだったが、これは、これから島を去るというある家族が手頃な値段で譲ってくれた。修道院の部屋が住めるようになるまでの数日は、親切なフリュリ領事が自宅に泊めてくれた。12月15日、一行は馬にひかせた荷車に全財産を(借りたピアノ、買ったストーヴも含め)積み込み、丘を登り始めた。難儀な登りが終わると、山上には、いちばん古い部分では中世の記憶をも留める立派な建造物が待ち受けていた。そこからは、青々とした豊かな緑にうずもれる谷や、林におおわれた丘陵、地中海の広い空間を見晴らす、息を飲むような展望が開けていた。

 ヴァルデモサ、岩山と海の狭間、うち棄てられた修道院で、扉付きの独房の中にいる。パリでは玄関の扉もなかったというのに。髪の手入れもせず、白手袋もせぬままの、例の如く青白い僕を想像してみたまえ。独房は深い棺桶のような形状で、巨大な、埃だらけのアーチ天井に小さな窓、窓の外にはオレンジ、椰子の木、糸杉。窓の反対側にはムーア式の精緻な細工の薔薇窓、その下に僕のベッド(縦横に組んだベルトで支える式の)。ベッドの横には、辛うじてものを書くのにつかえないこともない危なっかしい四角い、古ぼけた机もどきのがらくた。その上には鉛の燭台(ここではたいへんな贅沢品)と蝋燭。バッハ、僕の下書きやら僕のではない紙切れやら(いずれも楽譜)、静かだ、叫んでもいい、それでも静かだ。要するに、この手紙は不思議な場所で書いているということだ。(12月28日付けフォンタナ宛て)
 修道院には他に住人も観光客もいなかった。無人の聖堂を守るのは、門番、薬屋、それに2人のお手伝いをかかえる家政婦だけだった。

 もうクリスマスという時期になってようやく、プレイエルが11月に送り出した、待望のピアノが入港した。しかし税関役人との煩雑な交渉を終えて、楽器を手にしたのはさらにその10数日後であり、これをショパンの独房に運び込むまでがまた一苦労だった。ともかくもこれでやっと思う存分ピアノが弾けるようになったショパンは好きなバッハを弾き、「前奏曲集」をさらに彫琢し、「バラード ヘ長調」に手を入れた。


 だがヴァルデモサの稀有な美しさも、二人の恋人が世を避けて暮らす、この隠れ家のあらゆる神秘的な詩情も、ロマンティックな魔力も日を追うごとに山積してゆく生活の苦労や難しさには打ち勝てなかった。何よりも自然そのものがショパンらの期待を裏切った。凄まじいばかりの豪雨の日々と執拗な湿気とは、ショパンの健康に決定的な悪影響を及ぼしていった。繰り返し襲う咳と肺の痛みに、仕事もままならず、床に伏したままになることも多かった。並々ならぬ献身ぶりでショパンの看護をし、二人の子供の世話をし、毎日勉強の時間をもうけて教え、その上で自分の執筆、そして家事の切り盛りをするジョルジュにとって、自分のせいでどれだけ余計な手間が増えていることか、ショパンはそう心配した。サンドにとっていちばん厄介だったのは、食料の入手の難しさであった。家政婦もお手伝いも仕事に精を出さないばかりか、図々しくもショパンらのものを盗み食いし、品物をくすねさえした。


 土地の住民の見せる態度も、二人の様子や行動がおよそ理解できない以上、冷たいものでしかなかった。二人は夫婦ではないらしい、女は煙草を吹かして、夜な夜なものを書き、男は何時間もピアノにかじりついている、二人とも教会に姿を見せたことは一度もないし、男の子はあたりをほっつき歩いては何か描いているかと思えば、女の子は男の子の格好をさせられている。村ではそんな話ばかりが囁かれた。冬のさなかこの辺鄙な場所へ、何をすき好んで来たのかわからない奇矯な芸術家達に対して、村人たちは、黙契のうちにも示し合わせて困らせ、自分たちの土地にいたたまれなくなるよう、あれこれと嫌がらせをした。彼らは二人に法外な値段で食料を売りつけ、多少でもその値段に抗議をしようものなら売らないという手に出た。せめて乳だけでもと思い、ジョルジュは牝山羊を買ってまで防戦したが、そのうち、見かねたフリュリ領事が2,3日おきに自分の召し抱える調理人に必要な食物を持たせてパルマから運ばせることになった。


 そうした逆境も、二人の愛情を壊しはしなかった。愛は試練を乗り越えた。だが二人が夢にまで見たマヨルカの旅ではあったけれども、結局は壮大な失敗であったと、ジョルジュ自身認めざるを得なかった。


 春の訪れとともに(この辺りでは1月末)、サンド夫人が子供らとともに遠足に出かけられるほどには、陽気も良くなった。しかしショパンの弱った体にはそれすら無理で、ショパンに出来ることと言えばせいぜいが庭の散歩であった。その孤独がショパンにはこたえた。不気味な舞台装置のなか、何時間も、時には夜遅くまで一人きりで取り残され、かつて独房に住み、そして去っていった修道僧たちの霊と交わるうちに、ショパンはやがて現実感覚を失いはじめ、熱を帯びた想像力はショパンに様々な奇怪なイメージを現出させた。それでも、体の衰弱と精神の不安にも関わらず、ショパンは仕事に励もうとした。連作「24の前奏曲」を、またフォンタナに献呈した「ポロネーズ 作品40 イ長調/ハ短調」をパリに送り、「バラード ヘ長調」を完成した。やがて島と大陸を結ぶ航路が再開され、ショパンは一日も早く島を出たいと思った。他方もう少し滞在してもいいと考えていたジョルジュではあったが、ショパンがあまりに辛そうなのを見て、帰還を決めた。


 帰りの旅も楽ではなかった。結核患者に乗物を貸そうという者はおらず、ショパンは、ヴァルデモサからパルマに至る3時間、穴だらけの急な下り道を、スプリングも何もない、ただの農作業用の荷車に揺られて行くほかはなく、その結果、激しい咳の発作と喀血を見ることになった。パルマで二人を迎えたフランス領事フリュリは、エル・マヨルキン」が次に出向する日まで、もう1週間ここで休養した方が良いと熱心にすすめたが、ショパンは結局これを聞き入れず、翌日1839年2月13日、サンド夫人一行とともにこの不運な島を離れた。しかし船上ではまた新たな苦しみが待ち受けていた。バルセロナ行きのこの貨物船は、たまたま生きた豚を輸送することになっていて、その豚たちは甲板にいて、動かずにいると船酔いするということで、一晩じゅう甲板の端から端へと追い立てられていたのである。その下の船室では、不眠不休で走らされる豚たちの鳴き声を聴きながら、堪え難い悪臭と噎せ返る空気のなか、旅人たちもまたまんじりともせず夜を明かした。ショパンはまた喀血し、バルセロナに着いた時には、即刻医師の手当を必要とする半死半生の状態にあった。ショパンらはしばらくバルセロナで休息を取ることにした。ホテルで1週間養生した後、ショパンも再び動けるようになったことでル・フェニシアン号に乗船、マルセイユへ。フランスに戻ったことで安心もし、喜びもした一行はしばらくの間、南フランスにとどまることにした。その決定の背景には、当地で名医と評判のコヴィエール博士の診断により、ショパンの病気は結核ではなく、単に軽い肺炎であることが判明したことと、博士が責任を持って治療にあたることになったという事情があった。その治療の眼目が、まさにこの地での滞在延長と休養なのであった。


 名医による朝に夕にの治療が効を奏し、ショパンはみるみるうちに回復していった。ショパンは3月12日、グジマワに宛てて書いている。体調はだんだん良くなっている。発泡膏、食事療法、阿片を使った丸薬、水浴、それに何より僕の天使の惜しみない、ありがたい看護のおかげで、ぼつぼつ元気が出てきた。さらに月末には、僕の調子ははるかにいい。もう弾いたり、食べたり、歩いたり、喋ったり、人並みに始めている。とフォンタナに報告した。サンドは新しい小説にとりかかり、ショパンは自分の収支や楽譜出版にまつわる諸事を整理しはじめた。


 この頃マルセイユのショパンらに1つの悲報が届いた。ショパンもよく知り、高く評価していた大歌手、アドルフ・ヌーリがナポリで自殺を遂げたのである。マルセイユにヌーリの未亡人がやって来て、葬儀のミサでショパンにオルガンを弾いてもらえないかと頼んできた。ショパンはこれを断らず、ヌーリが得意としていたシューベルトの歌曲を1曲演奏した。


 春もたけなわとなった頃、すっかり良くなったショパンは、コヴィエール博士の許可を得て、イタリアへの小旅行に出かけた。5月初め、ジョルジュや子供たちと一緒にジェノヴァへ船で行き、街を観光し、コロンブスの足跡をたずね、もろもろの新たな印象を心ゆくまで味わいながら、楽しい2週間を過ごした。ショパンは元気旺盛で、マルセイユへの帰路、ショパンらの船を襲った急な嵐も、今回ばかりは彼の健康に何ら悪影響を及ぼすことはなかった。コヴィエール博士の家に数日客となった後は、アルル、アヴィニョンを通って我が家を目指した。といっても、それはパリではなかった。ジョルジュはショパンをノアンの田舎へ連れて行くことにしたのである。都会にいれば不快な夏もすでに始まっていた。ショパンにとっても、サンド自身にとっても、田園でのんびりとした休暇が必要だった。 


 
















ショパン・マリアージュ(北海道釧路市の結婚相談所)/ 全国結婚相談事業者連盟 正規加盟店 / cherry-piano.com

恋の戦は白馬に乗って素敵な出会いを探しに行こう♡ ショパン・マリアージュは一人ひとりの希望や要望に基づいて最適なパートナーを見つけるサポートをします。貴方が求める条件や相手に対する期待を明確化し、その条件に基づいたマッチングを行います。また信頼出来る情報や適切なアドバイスを得ることができ、健全なパートナーシップの形成に向けてのサポートを受けることができます。