印象派 ドビュッシーとラヴェル

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
お気軽にご連絡下さい!
TEL.0154-64-7018
営業時間:土曜日、日曜日、祝祭日の9:00〜18:00
FAX.0154-64-7018
お問い合わせメール:mi3tu2hi1ro6@gmail.com
釧路市浦見8丁目2−16
URL https://www.cherry-piano.com

 絵画の印象派といえば、モネとかセザンヌだが、音楽にも印象派がある。


 印象派絵画は19世紀のフランスで始まるが、音楽もフランスの作曲家、ドビュッシーやラヴェルのことを印象派と呼ぶ。


 絵画に於ける印象派の位置付けは、写実主義の対極にある。だが、音楽にはもともと写実主義というものはない。音楽というものは、要するに印象的なものだからである。写実的とされるベートーヴェンの「田園」にしても「田園の印象」を感じるだけである。


 要するに印象派音楽は、絵画の印象派にその感じが似ているということで、そう呼ばれているだけで、グループとして活動したわけでもなければ主義や主張があったわけでもない。


 だが、やはり同時代に同じ地域にいると、画家であれ音楽家であれ、その時代精神は共有するもので、印象派の絵画と音楽とが似ていることは確かである。印象派絵画といえば、輪郭が曖昧で、色彩が華麗というのが特徴だが、ドビュッシーやラヴェルの曲も、ドイツのブラームスやブルックナーなどの曲が、がっしりとした構成を感じさせるのに対し、曖昧模糊とした印象の曲である。リズムも漠然としている。そしてメロディーは美しい。


 そして、印象派絵画が20世紀のキュビスムやシュールレアリスムに影響を与えたように、音楽の印象派も、リズムとハーモニーを崩壊させていく20世紀の「現代音楽」に大きな影響を与えている。曲そのものの素晴らしさはもちろんのこと、音楽史に於いても、印象派は重要な役割を果たしている。


 フランス印象派を代表するドビュッシーとラヴェルは、互いに知ってはいたが、それほど親しかった訳ではない。

 ドビュッシーは文学者になりたくてなれなかった作曲家ともいえる。「印象派」と呼ばれ、絵画とのつながりが深いイメージがあるが、そうではない。


 ドビュッシーは1862年にフランスのサン・ジェルマン=アン=レーに生まれた。両親は音楽には何の関心もない人達で、ドビュッシーは伯母に育てられた。この伯母は銀行家の愛人で、裕福な暮らしをしており、絵画のコレクターでもあった。ドビュッシーが最初に出会った芸術は美術だったのである。おっして、この伯母がカンヌに引っ越したのに伴い、少年時代のドビュッシーもカンヌによく滞在し、その海の景色が心に刻まれた。


 音楽の世界に入ったのも伯母の手引きだった。ショパンの弟子だった女性の目にとまり、その人が両親を説得してくれて、10歳にしてパリ音楽院に入るのである。この音楽院では12年間、学んだ。


 在学中の19歳の時には学費を稼ぐために、チャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人が長期旅行に行くときのピアニストとして雇われたこともある。その縁で作曲した小品をチャイコフスキーへ送ったものの、酷評を受けた。


 1884年、ドビュッシーはカンタータ「放蕩息子」でローマ大賞を受賞した。新人作曲家として認められたのである。最初はワーグナーに心酔していたので、バイロイト音楽祭を訪れたが、本物のワーグナーの音楽に触れたことで、逆にその音楽の限界を感じて転向し、ワーグナーとは異なる音楽を目指すことにした。つまり「もっと本能的な、形式に縛られないもの」である。


 1889年にはパリ万国博覧会で日本などの東洋の藝術と触れ合う。こうしてドビュッシーの芸術観は出来上がっていった。


 そして1914年にガンを発病し、1918年に亡くなった。


 ドビュッシーは交響曲といった様式のある曲は書いていない。オーケストラで演奏する曲としては、「牧神の午後への前奏曲」「海」などが知られ、歌曲、ピアノ曲も多い。そういう意味では後期ロマン派に分類出来る。


 オペラ「ペレアスとメリザンド」はメーテルリンクの戯曲が原作で、音楽はとてもワーグナーに似ている。


 その音楽は、どこか東洋的に響くところもあり、西洋音楽の枠を逸脱しようとしている。その後の「20世紀音楽」に大きな影響を与えるのである。


 ドビュッシーより1世代後になるが、ともにフランス印象派とされるのが、ラヴェルである。同じ国に同じ時代に生きたので交流はあるが、それほど親しいわけでもなければ、すごく仲が悪かったわけでもない。要するに、あまり関係がなかった。


 ジョゼフ=モーリス・ラヴェルは1875年に、フランスの南西部、スペインとの国境に近いバスク地方で生まれた。父はスイス系のフランス人で技師だった。母はこの地域の人で、スペイン系の血も混ざっている。このバスク地方は闘牛で有名だが、魔術への関心が高い地域だった。そのせいか、ラヴェルの音楽には魔術的な響きがある。メロディーは明確で、リズムはしっかりあるのだが、どこか輪郭が曖昧で、とらえどころのないイメージなのだ。


 ラヴェルは1889年にパリ音楽院に入り、1900年にはローマ賞に応募するが落選、音楽院から除籍になる。聴講生として音楽院には残り、ローマ賞には合計5回も挑戦するのだが、結局、最後の1905年にも落選してしまう。コンクールでは本当の評価は定まらないとはいうものの、これはかなりひどい成績である。1905年の時点ではラヴェルはすでに音楽院の外ではかなり有名で評価されていたので、要するに、その新しさが、審査員たちに理解されなかった、あるいは嫌われたということであろう。実際、審査に不透明なところがあって問題となり、音楽院院長が辞任に追い込まれている。


 20世紀になって、ヨーロッパにもその新しさが伝わった音楽が、アメリカで生まれたジャズだった。アフリカから奴隷として連れて来られた黒人の音楽と、ヨーロッパからの移民の音楽とがぶつかり、化学反応のようなものを起こして生まれた音楽だ。その発祥の地であるニューオーリンズはアメリカ大陸の中で元はフランス領だったところなので、フランス文化の影響が強い。つまり、ジャズにはもともとフランス的な何かが潜んでいる可能性があるのだが、ラヴェルは敏感にそれを感じ取ったのか、ジャズの影響を受けた。


 すでに音楽院在学中から作曲家として名をあげていたので、ラヴェルはそのままプロの作曲家となり、次々と傑作を生み出していく。この時代の作曲家は、オーケストラやバレエ団、あるいは演奏家たちからの依頼で曲を書く。


 ラヴェルの代表作はバレエ「ダフニスとクロエ」「亡き王女のためのパヴァーヌ」などで、最初はピアノ曲として書かれ、後にオーケストラ用に自ら編曲したものが多い。自作だけではなく、ムソルギスキーのピアノ曲「展覧会の絵」をオーケストラ用に編曲したものも有名である。メロディーを作る能力も極めて優れていたが、編曲の才能も秀でていた。そのため、ラヴェルは「オーケストラの魔術師」とも呼ばれる。


 第1次世界大戦では、愛国心に燃え、パイロットを志願するが、その希望は通らず、トラック運転手として前線に向かった。しかし、戦争中に病に倒れてしまう。戦後も、名声は高まっていたので、アメリカにピアノの演奏旅行に行くなどの活動をしていた。しかし、やがて体調を崩し、記憶障害も起こし、脳外科手術をするもうまくいかず、1937年に亡くなった。62歳だった。


 同性愛説もあり、そのためなのか、無神論者でもあったようで、神話に題材をとったものはあるが、キリスト教にちなむ曲はない。


 ラヴェルの編曲の才能が最も明確に現れているのが「ボレロ」だろう。これは同じメロディー、同じリズムが楽器を変えるだけで何度も繰り返される。退屈で、途中で飽きてしまうところだが、段々と楽器が増えていくので、盛り上がっていき、なかなかスリリングである。なんでこんな単純なものに感動してしまうのか、聴いたあとで不思議になる。最後は、まるで風船がしぼむように終息する。完璧に計算されているわけだが、その計算を、まったく感じさせない。原始的でありながら現代的だ。不思議な曲である。


























ショパン・マリアージュ(北海道釧路市の結婚相談所)/ 全国結婚相談事業者連盟 正規加盟店 / cherry-piano.com

恋の戦は白馬に乗って素敵な出会いを探しに行こう♡ ショパン・マリアージュは一人ひとりの希望や要望に基づいて最適なパートナーを見つけるサポートをします。貴方が求める条件や相手に対する期待を明確化し、その条件に基づいたマッチングを行います。また信頼出来る情報や適切なアドバイスを得ることができ、健全なパートナーシップの形成に向けてのサポートを受けることができます。