作曲家、ピアニストとしてのクララ・シューマン

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 「シューマン夫人は、他のいかなる男性ピアニストにも勝る才能をもっている」


 作曲家としてのクララは、ピアニストとしてのクララと分かちがたく結びついている。彼女は作曲家として、「ニュアンスに富んだ響き、曲の性格、着想豊かな旋律」などに加えて、「旋律の絡み合い、興味をそそる展開、機知に富んだ予想外の組み合わせ、細部に宿る感情」といった要素が盛り込まれた作品に魅力を感じていた。これはまた、ピアニストとしてのクララが厳密に再現しようと努めたものでもある。


 クララはまた、作曲家の目をもって、音にせよ、フレーズにせよ、あるいはまた発想記号にせよ、そのひとつひとつを真摯に受けとめ、それぞれのもつ表現や感情、意味について常に考えていた。大勢の聴衆の前で演奏するときに「全身全霊をこめて作品と向き合うことが要求される」バッハの作品を、毎朝練習したのは故なきことではない。バッハの多声音楽は、どんな作品にも通じる演奏技術や音楽性を含んでいる。絡み合った声部をほぐし、それぞれの声部の響きを明確にし、楽譜に含まれた多様で豊かな内容を音の響きとして表出していくことは、どんな作品においても重要である。誰かが曲に対する共感も理解もなく、音符をただ単に速い速度でパラパラ演奏でもしようものなら、「指の訓練ではありません!」と絶望的な声で叫んだ。聴衆が理解しやすいようにと、各声部や旋律、あるいは響きの多様性を犠牲にして単純に表現することは、受け入れがたいことだった。弟子たちにも、ピアノからオーケストラの響きを引き出すよう求めた。フレーズひとつひとつを丁寧に観察し、表現して、それぞれのフレーズが異なる楽器によって奏されているかのように演奏しなさい、というのである。例えば、ローベルトの「交響的練習曲」やピアノ協奏曲の冒頭のテーマを際立たせるにあたって、旋律を豊かに響かせるのではなく、刻々と変化していく和声の多様な響きを繊細に表現した。


 もちろんクララには、旋律をレガートで歌わせるという効果抜群の選択肢もあったはずである。ポリーヌ・ヴィアルドがかつて語ったところによれば、クララは実際に声を出して歌うよりも、ピアノの鍵盤上でのほうがはるかに素晴らしく歌っていたという。


 多彩なアーティキレーションも、クララが音楽を作っていく上で重要視していた要素だった。娘のオイゲーニエの回想によれば、彼女が母親からローベルトの「子供のためのアルバム」所収の「愛する5月よ」を習っていたとき、「どんなフレージングもレガートスタカートもスラーも、楽譜に書かれているように弾く」まで、休憩をとることが認められなかった。リズムを曖昧にすることも許されなかった。ローベルトの「交響的練習曲」の第6曲にみられる対照的なリズムを、クララは非常にはっきりと弾いたため、あたかも左右の手を二人の人間が別々に弾いているかのようだったという。それはまたポリリズムでも同じだった。たとえばショパンの「3つの新しい練習曲」第1番ヘ短調では、左手の声部は8分音符4つで1単位であるのに対し、これに対応する右手のパートは4分音符3つで1単位となっている。クララはこの両者を「融合させる秘訣を知っていた。リズムを厳格に保ちながら、感情はまったく自由だった!」


 受け狙いのはったりとは無縁な、作曲家によって書かれた音が描き出そうとするものを簡潔かつ明瞭に表現していく比類ない力、音楽的にさまざまな意味をもつ多様な音型や、複数の声部、あるいは響きが複雑に絡み合っていても、それらを明確にくっきりと表現していこうとする志向性、これらは、知の勝った、アカデミックで時代遅れの演奏様式とみなされることがしばしばあった。あいまいで恣意的に変わるリズムやテンポ、悪趣味な感傷といった誤解されたロマン主義とは、クララはもちろん縁もゆかりもない。彼女の演奏芸術の神髄は、単なる技術や正確さといったものを越えた、「性格や雰囲気を、音の響きを通じて表現にもたらす」点にある。直感で音楽の本質を把握する能力に恵まれていたのだ。「音楽作品に対する正確な感覚」をもっていたのである。また、それをピアノで豊かに表現するすべも知っていた。
 たとえば、クララのレジェーロ(軽く)については、「優美で、軽やかで、さっとかすめ過ぎるような表現において彼女は大変優れていた」という証言がある。あるいは、繊細で陰影に富んだニュアンス豊かな響きは、「メゾフォルテやピアノ、さらにはピアニッシモであっても、会場の最後列まで届き、絶大な効果を発揮することが出来た」この弱音を、クララは「弱音ペダルのないピアノでも」作り出すことができた。それは「骨がおれ、たくさん練習する必要がありますが、そのかわり比類なく美しい響きを得ることができるのです」フォルティッシモが「硬かったりきたなかったり」することは、決してなかった。「このような柔らかな打鍵法」や「豊かな音」を、クララは力を抜いて演奏することで手に入れた。「力強さと充実した響きは、背中の筋肉を使って生み出されるべきです」いくつかの批評にみられる力強さに欠けた演奏という批判は、おそらく倍音を豊かに含み、硬さが微塵も感じられない音を、力強さの不足と取り違えたものだろう。


 こうしたニュアンス豊かな響きや繊細なアーティキュレーションを生み出したのは、通常とは異なる斬新なフレージングである。クララのフレーズは、最小のまとまりから全体の大きな流れにいたるまで、ひとつひとつがどこを目指しているのかが明確だった。また、重みを与えたり、力を抜いたりすることでアクセントをつけていったが、それは大きな流れをふまえたうえでなされているので、拍のきざみが無味乾燥に陥ることはなく、むしろ音楽が生き生きとして雄弁なものになった。クララが弟子の楽譜に書き込んだ数多くの「細かい楽句のまとまりやレガートを示すスラー」は、緻密なフレージングを浮き彫りにしており、それに従うと「しばしば小さなアクセント」が現れるが、これによって音楽に躍動感や、言葉にも似た意味の連関が与えられる。ちなみに、これらは弟子のひとりであるファニー・デイヴィスの録音に聴くことができる。こうした細かいフレージングは、「それ自体が細部に意味を与えると同時にさらに大きなフレージング」すなわち小節線を越えて音楽に息を吹き込む大きな弧を描くような流れのなかに組み入れられていった。

 このフレージングという技を駆使してクララ自身は音楽を奏でたが、ここから後年いくつかの理論書が生み出される。「フレージングの手引」を著したフーゴー・リーマンは、ライプツィヒで過ごした学生時代や、ハンブルク音楽院で教職についていたときにクララを聴いたにちがいない。またイギリスの教育学者トバイアス・マッセイは、クララの友人ベネットの弟子であったばかりでなく、マッセイの修行時代はクララが「スター」としてロンドンを頻繁に訪れていた時代と重なる。そのマッセイは、「音楽の解釈」を著し、そのなかでいわゆる書かれていない(隠れた)スラーをとりあげて、拍にさまざまな軽重ををつけることで、フレージングの何たるかを伝授しようとした。これは後年、アルトゥール・シュナーベルがやろうとしたことと似ている。


 「フレージングと陰影」、「決して硬い音にならない、エネルギーを与えるアクセント」、「クライマックスへ向かう高揚感」、「無数の微妙なニュアンス」ーこれらはクララのベートーヴェンを評するキーワードである。こうした言葉で語られるクララのベートーヴェン演奏は、他のピアニストと大きく異なるものであったが、同時代のもっともすぐれたベートーヴェン解釈のひとつとみなされている。すでに1838年、リストはクララの「熱情」の演奏を「並はずれた、瞠目にあたいする美しさ」と称えている。グリルパルツァーはクララの演奏について、一編の詩を物にした。ローベルトは、ベートーヴェンのソナタ作品27−1、作品31−2、及び作品53のクララの演奏について、「原曲を決して損ねることなく、まったく独創的に解釈している」と評した。さらに作品101の第2楽章について、「この曲をあなたのように弾ける人はいない」とメンデルスゾーンから賞賛されたことを、クララは40年近くのちに回想している。


 クララはベートーヴェンの作品を、英雄的なものや戦闘的なものとは解釈していない。工夫を凝らしたフレージングによって浮かび上がってきたのは、作品のもつ強度やエネルギー、多様な性格や雰囲気といったものであった。また、「無数の微妙なニュアンス」を大切にしつつ、同時に大きな流れを明確にし、また響きの多様性も引き出した。ベートーヴェンのハ短調ソナタ作品13「悲愴」の序奏部は、4分の4という拍子が記されている。クララは、弟子の楽譜のこの部分に8分の8と書き込んだが、それは理由のないことではない。この指示のポイントは、付点のリズムをより鋭く奏すべしという点にある。それによって、しばしば陥りがちな過度な荘重さを回避し、代わりにドラマ性、すなわち、不安に満ちた感情の高ぶりから発せられる問いを、より明確に表現することが求められたのである。


 しかしまた、音楽的な表現を犠牲にして細部に拘泥することほど、クララに無縁なものもない。クララがビューローの演奏を聴いて眉をしかめた理由は、まさにこの点にあった。「彼はすべてを細かくちぎって、ばらばらにしてしまう。そこには心というものがみじんも感じられない」。


 テンポ設定に際しても他とのバランスを考慮したが、これもふさわしい性格を生み出す重要な構成要素と考えていたからだった。たとえば、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品27ー2「月光」の第2楽章には、アレグレットという指示が付されている。これを実際に演奏する際には、他の2つの楽章とのバランスを考えて、妥当なテンポを探し出すべきとされた。また、作品53「熱情」の冒頭楽章の2つの主題は、ほとんど気づかれない程度にわずかにテンポを変えることによって、それぞれの性格をはっきりと示すべきであるという。


 クララはベートーヴェンの作品を注意深く選び出し、ローベルトの作品とともにプログラムの柱とした。ハ短調協奏曲をクララが公開の場で演奏したのはようやく1868年のことである。というのも、この曲は「かつてあまりに弾かれすぎて、擦り切れて」いたから。「私にはいたるところカオスのように思える」ピアノ・ソナタ作品110とは、「はっきりとみえてくる」まで時間をかけて取り組んだ。そもそも「自分自身まだ理解していないと思わざるをえない」曲は、決して演奏会で弾かなかった。こうした立場をとるクララからすると、たとえばルビンシテインが19世紀末に行ったようなベートーヴェンのソナタ5曲を一挙に演奏する「大量演奏」は、「非芸術的」と言わざるをえない。「このようなソナタは全身全霊を込めて演奏しなければならないのです。そうだとしたらいったい5曲も弾けるものでしょうか?」クララは自分が「投げやりに」演奏するたびに、「あたかも芸術と自分自身を傷つけてしまったかのように」感じた。

 クララは、ローベルトのピアノが含まれるオーケストラ作品および室内楽をすべて演奏している。また、ローベルトのほとんどの歌曲と、作品1,4,76,126および133を除く、すべてのピアノ曲も手掛けた。クララはローベルトのピアノ曲を徐々に自分の血肉としていく。1859年「幻想曲」と「ダヴィッド同盟舞曲集」をあらためて勉強したとき、「ダヴィッド同盟舞曲集」について「もはや自分の指の存在を忘れ、思いのままに、ただ楽曲全体に優しく密やかに流れているポエジーの息吹のみを感じながら弾いて、いかに素晴らしい曲であるかを今はじめて実感しました」。これらの音楽の本質を、クララは弟子たちに繰り返し説いた。曰く「リズムと性格付け」が重要である、曰く「感情を込めて、しかし決してセンチメンタルにならないように」。クララは感傷を心底不快に感じていた。


 何かをことさら強調したり、たとえばピアノ協奏曲の冒頭の入りを引きずるようにもたれ気味に弾いたり、土台となるリズムを歪めるようなルバートは慎むべしという教えも、上記のような音楽的志向から理解される。「子供の情景」のなかの有名な「トロイメライ」のテンポについて、クララは「批判校訂版全集」では4分音符=100としていたが、「教育普及版」ではそれよりも遅い4分音符=80というテンポを指定している。だがそれでもこの速さだと、今日スタンダードなテンポよりもいくらか動きのある演奏となる。これも、演奏がセンチメンタルになることを避けようとするクララの考えを反映したものだろう。そもそも彼女はきびきびしたテンポを好んだ。彼女自身、とりわけ「私が本当に愛し」、「霊感に導かれて演奏する」ような曲に於いて、自分がしばしば「興奮して」テンポが走り気味になってしまうことをよく意識していた。しかし速すぎるといってもクララの場合、そのために正確さを失うようなものでなかったことは、批評が証明しているとおりである。「高揚と情熱ゆえに正確さを犠牲にすることがあってはならない」というのは、クララの若い時分からの確信であった。


 クララは流れるようなテンポを好んでいたので、打鍵が軽めの楽器を求めた。ピアノは「鍵盤が重すぎずに弾きやすく、しかも楽器全体が良く響く」べきであった。後年好んだ楽器はドイツのシュタインヴェークのもので、これをクララは、「ブロードウッドの楽器に悩まされないですむように」、できることならロンドンに持って行きたがった。クララが愛用したことで、シュタインヴェークは恩恵を被ったようである。1877年8月20日、ビューローはカール・ベヒシュタインに宛てて、ベヒシュタインのグランドピアノにとって「野蛮な」ハルツ地方産のシュタインヴェークがもっとも手強い競争相手となっているのは、クララに端を発していると書いている。クララの影響力はそれほど大きかったのである。


 ピアノ協奏曲を演奏することは、クララにとって必ずしもいつも純粋な「喜び」というわけにはいかなかった。しばしばオーケストラのメンバーが揃っていなかったり、リハーサルが十分でなかったり、といったことのために、「伴奏が悲惨」になってしまうことがあったからである。オーケストラ・パートも1音残さず知っているクララはー「私は総譜を使って練習するほうが好きです」ー、経験の乏しい指揮者にとって、決してやりやすい共演者でなかったに違いない。指揮のやり方からして、「動き続ける自動運搬装置のように、指揮しているあいだじゅう身体をくねらせ続けていた」とからかったり、指揮者たちを「ひとかけらの憐れみ」も持ち合わせていない「まぎれもない専制君主」と呼んだりしている。


 ローベルトの死後35年間続いたコンサートピアニストとしてのキャリアの中で、クララが演奏したピアノとオーケストラのための作品は13曲にのぼる。「20年来このかた、モーツァルトのピアノ協奏曲をいまだに弾いているのはほとんど私一人」と自負していたクララは、モーツァルトのハ短調(第24番、K491)とニ短調(第20番、K466 )をしばしば演奏し、カデンツァも書いて、1891年に出版している。またイ長調K488とト長調K453も練習し、両者の緩徐楽章については「涙を抑えきれなかった」が、結局、演奏会で弾くことはなかった。というのも、「聴衆はこの音楽の素晴らしさを理解しないでしょう。私どもが歓喜のあまり世界を抱擁したいと思っているのに、彼らはといえば無関心のまま客席に座り込んでいるだけです」。クララには、これらの作品がどういう類の音楽かよくわかっていた。たとえばイ長調の終楽章について。「あたかも楽器から、混じり気のないキラキラ輝くものが溢れ出てくるかのようです。なんと全てが生き生きとしていて、互いに密接に織りあわされているのでしょう」。


 だが、1878年にハンブルク音楽愛好協会の記念演奏会という「格別の機会」にモーツァルトを演奏するよう依頼されたとき、クララは拒否した。「モーツァルトのピアノの扱いは今の時代にあわず、残念ながら聴衆はもはやこのような協奏曲の価値を理解することができないのです」。これより20年以上前の1856年、クララはヘルテルに「一度モーツァルトの知られざる協奏曲(たとえばト長調)を演奏しましょう」と提案している。しかしこれは実現しなかった。


 実際ピアノ曲は、ベートーヴェン以降、響きや声部、リズムなど、オーケストラのような多彩さを追求する方向へ向かっていき、その結果モーツァルトのピアノ作品は、貧相というわけではないにしても、あまりに繊細すぎる金銀線細工のごとく受けとめられるようになってしまった。それでもクララはニ短調協奏曲を晩年に至るまで演奏している。クララの最後のピアノ協奏曲の演奏となった1890年の演奏会では、あたかももう一度若き日を思い起こしたいとでもいうかのように、ショパンのヘ短調協奏曲を演奏した。「指はまだちゃんとまわります。でも気持ちがついていきません。おそらくこれが最後になるでしょう!」




 

















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