女性を泣かせるテクニックはクラシック界で随一のチャイコフスキー

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
お気軽にご連絡下さい!
TEL.0154-64-7018
営業時間:土曜日、日曜日、祝祭日の9:00〜18:00
FAX.0154-64-7018
お問い合わせメール:mi3tu2hi1ro6@gmail.com
釧路市浦見8丁目2−16
URL https://www.cherry-piano.com

 ドイツにブラームスが生まれた約7年後、ロシアのヴォトキンクス町に偉大な作曲家が誕生する。後に「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」の3大バレエ音楽をはじめ、交響曲第6番「悲愴」、ピアノ協奏曲第1番、ヴァイオリン協奏曲など、現代でも演奏機会の多い人気の名曲を次々と作曲した、チャイコフスキーである。ドイツを中心に進化してきた西洋音楽に、ロシア民族音楽の香りを取り入れ、ロシア人作曲家としてははじめて、広くヨーロッパで受け入れられた人物でもある。


 チャイコフスキーといえば、クラシック音楽の中では、女性ファンが多い作曲家の一人。バレエの影響も大きいだろうけれど、耳になじみやすい作風が理由の1つだろう。もしも曲を選ばずにクラシックコンサートに行くと、バッハやベートーヴェン、ブラームスなどの場合、なんだか難しい感じ、ゆえに眠くなるというパターンもある。しかしチャイコフスキーの場合は、曲をぜんぜん知らなくても、みんなで盛り上がって最後には涙が出てしまうことが多い。感動のツボを押さえていて、女性を泣かせるテクニックはクラシック界随一。


 チャイコフスキーの父親は鉱山技師を務める役人で、母親はフランス貴族の特権を与えられた家柄の娘。だから家庭はなかなか裕福だった。チャイコフスキーは幼い頃からピアノに親しみ、音楽に非凡な才能を見せたが、両親はチャイコフスキーを音楽家にする気がなかったようで、10歳から法律を学ぶためにサンクトペテルブルクの寄宿学校に入学した。


 1859年、成人したチャイコフスキーはそのまま法務省の役人として働き始めるが、音楽の道を諦めきれず、1861年、アントン・ルービンシュタインが設立したサンクトペテルブルク音楽院に入学する。それでもなかなか自分の進路を決められなかったチャイコフスキーは仕事と音楽院の両方に籍を置いていたが、1863年に仕事を辞めて音楽の勉強に専念するようになった。


 このあたりまでの生い立ちは、最初は母親の希望に添って大学で法律を学んでいたシューマンとちょっと似ている。音楽家になろうと決断する年齢が遅いところも、早熟な天才肌ではなく晩成型だった点も一緒である。やはり二人ともそれなりに裕福な家庭で育っているから、お坊ちゃん特有の呑気なところが共通していたのかもしれない。ただし、シューマンが生まれたドイツは言ってみれば音楽の先進国だったけれど、当時のロシアは音楽の後進国だったから、その意味では、チャイコフスキーの決断は遅きに失した感じではなかったかもしれない。

 さて、サンクトペテルブルク音楽院で学んだチャイコフスキーは、1866年に設立されたモスクワ音楽院に講師として招かれ、その頃から本格的に作曲活動も始めている。その後のチャイコフスキーの音楽家としての人生は、遅咲きの割には、なかなか順調なものであった。とても大きな幸運に恵まれたのである。36歳の頃からナジェジダ・フォン・メック夫人という富豪の未亡人が、芸術活動を支えるという名目で、毎年多額の経済援助をしてくれることになるのである。


 当時のロシアは、まだまだ作曲家が音楽だけで生活できるような状況ではなかった。そのような中で、夫人がチャイコフスキーに与えた年金は6000ルーブルだったという。モスクワ音楽院の初任給が月に50ルーブルだったというから、その金額の大きさがわかるだろう。しかもその年金は13年間にもわたって続けられた。これは当時のロシアの音楽家にしてみれば夢のような話で、チャイコフスキーが作曲家として大成できたのはメック夫人の力が大きかったのである。


 チャイコフスキーはなかなかイイ男だった。写真を見る限り、面長で整った顔立ちをしている。スラリとした長身で、身なりにも気をつけていて、いつもセンスの良い服を着こなしている。少なくとも、見た目は女性にモテてもおかしくないタイプだ。


 ただし、性格の方はちょっと問題があった。極端に繊細で情緒不安定なタイプだったのだ。子供の頃から家庭教師に「ガラスのように繊細な子」と表現されていたそうで、生まれつき内気でメランコリックな性質だった。成人し、音楽家として有名になってからも、いつまでも自分に自信が持てず、常に不安感と憂鬱な気持ちにさいなまれていたという。また、そんな気持ちから逃れるために、アルコールをはけ口にしていた。


 ところで、チャイコフスキーといえば、本当はゲイだったんじゃないかと言われている。10歳で入った名家のエリートが集まる寄宿学校で自分の性的指向に気づいたそうだ。これはクラシック界では有名な話だけれど、確証があるわけではなく、チャイコフスキー=ゲイ説を否定する人もいる。


 ただ、20代の頃は何人かの女性と付き合っている。特に28歳の頃、デジレ・アルトーという女性歌手とは婚約までした。でも、この結婚は翌年破談になっていて、チャイコフスキーの心に少なからず傷を残してしまう。


 というのも、なぜかアルトーが突然婚約を破棄して、身近にいた男性歌手と結婚してしまったからだ。原因ははっきりしていないけれど、アルトーも本当はチャイコフスキーを愛していて、周囲の反対が二人の仲を引き裂いた、とも言われている。ただ、チャイコフスキーはそんなことはまったく知らなかったので、婚約していたアルトーが突然自分を裏切ったと思ったらしい。この体験以降、チャイコフスキーは女性を本気で信じることが出来なくなってしまったようだ。


 それでもチャイコフスキーは、実は一度、結婚している。相手はアントニーナ・ミリュコーヴァという28歳の音楽院の生徒。ことの発端は、1877年5月、モスクワ音楽院で教師をしていたチャイコフスキーがアントニーナから熱烈なラブレターをもらったことから始まった。その頃チャイコフスキーは、オペラ「エフゲニー・オネーギン」の作曲に没頭している最中だった。チャイコフスキーは、そこに登場するタチャーナという17歳の純真な少女とアントニーナの存在がダブってしまい、恋愛へと発展させてしまったのだという。


 その後の顛末は、まるでミステリー小説のように不可解。チャイコフスキーは6月1日に彼女のもとを訪れると「君を愛してはいないが、生涯大切にする」と言って、アントニーナに結婚を申し込んでいるのだ! そしてなぜかアントニーナはこれを受け入れて、二人は7月18日に結婚式を挙げてしまう。こんな申し出、断るのが普通じゃないだろうか。彼女はどうしてもチャイコフスキーと一緒になりたかったのだろうか。


 そんな結婚がうまくいくわけもなく、チャイコフスキーはすぐに精神不安定に陥った。やがてアントニーナのもとを逃げ出し、しばらくあちこちを転々としたあと、モスクワ川で自殺を図る。胸まで水に浸かってみたものの死にきれず、弟のもとを訪ねて助けを求めた。結局チャイコフスキーは、すぐにアントニーナと別れる決意を固める。結婚期間は3ヶ月にも満たなかった。

 そもそも、チャイコフスキーはなんだってこんな結婚をしたのだろうか。実はそれは、自分が同性愛者であることを世間に隠すためのカムフラージュだったと言われている。結婚以前にチャイコフスキーは弟に宛てた手紙の中で、「自分は同性愛者である」と明言はしていないものの、どう読んでもそう取れる文章をしたためている。チャイコフスキーは自分の性的指向を「深刻で、おそらく乗り越えられない障害」と表現し、それが社会的に許されないことにとても苦しんでいると告白。そして「私は結婚することで、あらゆる人達の口を閉ざしてしまいたいのだ」と続けている。当時、同性愛は重罪とみなされ、バレたら死をも覚悟しなければならないほどだった。


 一方のアントニーナはどうしたかというと、一度は離婚の話を受け入れたものの、突然チャイコフスキーの家に押しかけたり、離婚の同意を撤回したりして、チャイコフスキーを苦しめたそうである。アントニーナもかなり神経が不安定な女性だったらしく、チャイコフスキーとの結婚・離婚のストレスで我を失ってしまったのだろう。


 確かにアントニーナの方にも問題はあったのかもしれないけれど、それにしても、チャイコフスキーが彼女にしたことは、ちょっとひどすぎるのではないだろうか。一昔前のチャイコフスキーの伝記などでは、アントニーナは情緒不安定のひどい女で、それに引っかかったチャイコフスキーはすっかり神経をすり減らした、みたいに書かれていることがある。しかし、チャイコフスキーが本当にこの通りのことを彼女にしたのなら、アントニーナの精神がおかしくなってしまっても仕方がないだろう。


 同性愛は罪ではないが、一人の女性を自分の保身のために利用して傷つけてしまったとしたら、それはやはり人間として大きな罪である。もっとも、チャイコフスキーも彼女には悪いことをしてしまったと思っていたようで、生涯経済的援助をしたようである。


 作曲家としてチャイコフスキーが少しずつ世に出始めた1876年12月、それはチャイコフスキーがアントニーナと出会う数ヶ月前のこと。とある裕福な夫人から、チャイコフスキーの曲を数曲、ヴァイオリンとピアノ用に編曲してほしいという連絡が届く。チャイコフスキーがこれに応じると、破格の報酬が支払われ、その時からチャイコフスキーと、この夫人の文通は始まった。


 夫人の名前は、ナジェジダ・フォン・メック。モスクワの鉄道技師と結婚し彼を支え、莫大な財産を築き上げた女性で、数年前に夫を亡くした45歳の未亡人だった。最初、二人の文通は音楽に関することが中心だったけれど、何度かやりとりをするうちに、個人的なことを語り合う内容に変わっていく。


 未亡人だった彼女は世間体を考えてか、麗しい関係に保っておきたかったのか、とにかく、決してチャイコフスキーに直接会わないと決めていた。それでもこの二人の文通は14年にわたって続き、わかっているだけでも往復書簡の数は1300通を超える。単純計算しても、3,4日に1通は書かれていた事になる。時には1日に2,3通書かれた日もあったというから驚きだ。


 文通が始まって間もない頃、夫人と親しくなったと感じたチャイコフスキーは、生活の煩わしさから解放されれば作曲に専念できるからと、3000ルーブルにまで膨れ上がっていた借金を肩代わりしてもらえないかメック夫人に申し入れている。いくら相手が富豪とはいえ、チャイコフスキーもなかなか図太い。チャイコフスキーは特別何かに浪費するというタイプではなかったけれど、もともとお坊ちゃん育ちだったからか、日頃の生活の質を落とすことができず、住まいや調度品、衣服、食事などにいつも金をかけていた。


 そんなチャイコフスキーの申し出を夫人は快諾したばかりか、1877年からは毎年6000ルーブルの年金をチャイコフスキーに支払うことに決める。こうしてチャイコフスキーは作曲に集中できるようになり、交響曲第4番、オペラ「エフゲニー・オネーギン」といった傑作を完成させた。公共第4番は、当然のように夫人に献呈されている。

 実は、チャイコフスキーがアントニーナとの結婚問題で身も心もぼろぼろになって時も、チャイコフスキーは夫人に手紙を書き、助けを求めていた。夫人は優しい言葉でチャイコフスキーを慰め、チャイコフスキーの逃亡劇に必要な費用を与えている。こうして二人は決して会うことのない、奇妙な恋人同士になっていった。


 夫人は1879年にチャイコフスキーに宛てた手紙の中で、チャイコフスキーの結婚について振り返っている。彼女は、自分のことを嫉妬深い女だといい、チャイコフスキーが結婚した時にとても辛かった。あなたがあの女と一緒にいると思うと耐えられなかったと、心情を激白している。そこにははっきりと「私は誰よりもあなたを愛しています」とも書いてあった。


 しかも、時に二人は申し合わせて同じ町に滞在する事があった。ただし宿は別々にとり、二人が町で出会うことがないように、散歩の時間やその他のスケジュールを書いた予定表が用意され、チャイコフスキーのもとに届けられたという。それでも狭い町では二人が道で出くわしてしまうことがあって、そんな時チャイコフスキーは戸惑いながらもただ黙ってじっと立ち尽くし、夫人の馬車が行き過ぎるのを待っていたという。そんな時、夫人は微笑みながら、恍惚としていた。なんと精神的にエロチックな瞬間でしょう!


 確かに、手紙だけの関係なら、お互いの嫌なところも醜いところも見なくてすむし、美しく愛に満ちた自分を演出できる。また、決して会わない、いや、会えない、というルールが、いっそう恋心を燃え上がらせもしただろう。まして、チャイコフスキーはアントニーナとの一件以降、女性と親しくすることはなかった。それは嫉妬深い夫人にとっては、まさに理想的な状況だったはず。こうしてこの二人の手紙だけの関係は、現代人には信じられない環境を保ったまま、奥深いものになっていった。


 そしてさらに、夫人は自分が決して果たせない夢を、自分の子供によって成し遂げることを思いついてしまう。彼女は自分の息子とチャイコフスキーの姪を結婚させることを提案、なんとこれが受け入れられて、1884年に実際に結婚式が行われてしまうのだ。それでも本人同士は会っていない。決して会わない手紙だけの関係がそれなりに魅力的なのはわかるが、さすがにここまでくると、ちょっと不気味である。


 そんな二人の関係は、1890年、突然終わる。夫人が経済状況の悪化を理由に送金の打ち切りを連絡してきたのだ。チャイコフスキーははじめ、それまでの援助に対する感謝の気持ちを伝え、援助が終わっても二人の関係は変わらないといった趣旨の手紙を書いて、夫人と文通を続けようとした。でも、夫人は一切返事を書かず、手紙の受け取りすら拒否するようになった。


 この話にはまだ続きがある。実は、夫人の経済状況は少しも悪くなっていなかったのである。夫人がそんな嘘までついて、なぜ急にチャイコフスキーを拒否するようになったのか、理由はよくわかっていない。二人のことがモスクワ中の噂になっていたので、夫人の子供たちが止めさせたという説や、夫人が精神不安定に陥ってしまったからという説などがある。


 1890年頃には、チャイコフスキーはもう随分と稼げる音楽家になっていたから、年金が打ち切られたことで生活が成り立たなくなるようなことはなかった。それでもチャイコフスキーは事実を知ると、嘘をつかれたことに対して怒り狂い、その後は死ぬまで彼女を許さなかったという。

 
 チャイコフスキーも夫人に対して何らかの愛情を抱き、心を開いて信頼していたのは確かだろう。でもそれは、恋人に対するものというよりは、母親に対するものに近かったのではないだろうか。第1、結局この二人の関係を繋いでいた最も大きなものはお金だった。夫人はもちろんのこと、もともと裕福な家庭に育ち、音楽家としてロシアのエリートとして生きてきたチャイコフスキーも、二人の関係においてお金はたいした問題ではないと思い込みたかったはずだ。でも実際には、お金を与え続けた夫人はチャイコフスキーを自分だけのものと言わんばかりに支配し続け、チャイコフスキーもそんな彼女に従属し続けた。もちろん二人とも、そんなことは決して認める気はなかっただろうけど。


 ちなみに、夫人が突然チャイコフスキーとの関係を断ち切ろうとした原因は、チャイコフスキーの性的指向を誰かに聞かされたからではないか、という説もあった。でも、実際にはその話はけっこう有名だったそうで、14年間も夫人が一度も耳にしなかったというのは考えにくい。夫人が知っていたかどうかはもはやわからないけれど、チャイコフスキーがゲイだと知っていたら夫人はチャイコフスキーのことを好きにならなかっただろうか? それとも、ゲイだとしっていたからこそあんな特殊な関係が築けたのだろうか?


 ところで、チャイコフスキーの死は謎に包まれている。1893年、53歳の年、交響曲第6番「悲愴」を自らの指揮で初演してから数日後のことだった。突然発熱、下痢、嘔吐に見舞われ、看護のかいもなく1週間ほどで亡くなってしまう。当時、ペテルブルグではコレラが流行していて、長い間、チャイコフスキーも生水を飲んだことによるコレラが原因で亡くなったと考えられてきた。


 ところが1980年頃、ソ連の学者がチャイコフスキーの死は同性愛問題に端を発する服毒自殺という説を発表して、一大センセーションを巻き起こした。それによると、チャイコフスキーがさる貴族の男性と関係をもったことが国の上層部にばれ、秘密裏に裁判が行われた結果、チャイコフスキーにヒ素による服毒自殺の刑が言い渡されたというものだった。いわば、病死を装わせた自殺、いや、処刑である。このとんでもない説は一時広く信じられていたけれど、1988年頃からこれを覆すさまざまな論文が発表され、いまでは服毒自殺説は否定されつつある。


 チャイコフスキーは死に際に、「呪われた・・・」と呻いたそうだ。そんなところからも、毒殺説が出たりしたのだろう。この言葉は、はたからどう見えようとも、本人的には決して幸せとは言えなかったチャイコフスキーの人生を象徴しているかのようだ。しかも、「呪われた・・・」ではなく「呪われた女・・・」と言ったという説もある。だとしたら、死ぬまで許せなかったという、メック夫人のことを指していたのだろうか。


 いくらなんでも、長年にわたって莫大な資金援助をしてくれた恩人に対してそこまで言わなくてもいいだろう、という気はする。チャイコフスキーが夫人のことを単なる金づるだと思っていたら、チャイコフスキーが彼女のことをそんなに恨むこともなかったはずで、やっぱりそこに愛があったからこそ、憎しみも深くなったということかもしれない。








 


 











ショパン・マリアージュ(北海道釧路市の結婚相談所)/ 全国結婚相談事業者連盟 正規加盟店 / cherry-piano.com

恋の戦は白馬に乗って素敵な出会いを探しに行こう♡ ショパン・マリアージュは一人ひとりの希望や要望に基づいて最適なパートナーを見つけるサポートをします。貴方が求める条件や相手に対する期待を明確化し、その条件に基づいたマッチングを行います。また信頼出来る情報や適切なアドバイスを得ることができ、健全なパートナーシップの形成に向けてのサポートを受けることができます。