はじめに――やさしさが、相手の自由を奪うとき
人の心を傷つけるものは、いつも冷たい言葉や露骨な暴力とは限らない。
「あなたのためを思って言っているのよ」
「心配だから、私がやっておいた」
「あなたには難しいと思ったから、こちらで決めておいた」
「放っておけないの。あなたは一人では何もできないでしょう」
こうした言葉は、表面だけを見れば、思いやりに満ちている。そこには温かい食事があり、整えられた衣服があり、先回りして用意された予定があり、失敗しないように敷かれた柔らかな絨毯がある。
けれども、その絨毯の下に、相手の意思、失敗する権利、自分で選ぶ自由が埋められていることがある。
世話好きな人は、一般に「よい人」と見られやすい。気が利き、責任感が強く、困っている人を見過ごせない。家庭では献身的な親や配偶者となり、職場では面倒見のよい上司や先輩となり、友人関係ではいつも相談に乗る人となる。
そのため、本人も周囲も、なかなか問題に気づかない。
怒鳴りつける支配なら、支配だと分かる。命令する支配なら、抵抗することもできる。しかし、やさしさの姿をした支配は、「拒絶すれば恩知らずになる」という罪悪感を相手に抱かせる。
「こんなにしてもらっているのだから、逆らってはいけない」
「心配してくれているのだから、自分の希望を言うのはわがままだ」
「この人を悲しませるくらいなら、自分が我慢すればよい」
こうして世話を受ける側は、感謝と息苦しさの間で立ち止まる。世話をする側もまた、献身と不満の間で揺れ続ける。
「私はこんなにしているのに、なぜ分かってくれないのか」
「私がいなければ何もできないくせに、なぜ私を邪魔者のように扱うのか」
「あなたのために人生を使ってきたのに、どうして私から離れていくのか」
そこには、愛だけでは説明できない何かがある。
アドラー心理学の視点から見るならば、重要なのは、その人が「何をしたか」だけではない。その行為が、人間関係の中でどのような目的を果たしているかである。
料理を作ることも、助言をすることも、送り迎えをすることも、それ自体は支配ではない。問題は、その行為によって相手との間に、どのような関係をつくろうとしているかにある。
相手の力を信じ、必要なときに手を差し伸べ、選択を尊重する世話は、協力である。
一方、自分の不安を鎮めるため、見捨てられないため、必要とされ続けるため、相手を自分より弱い位置にとどめようとする世話は、支配へと変わる。
それは悪意から生まれるとは限らない。
むしろ多くの場合、支配的な世話の奥には、深い寂しさがある。
「役に立たなければ、私は愛されない」
「必要とされなくなれば、私は捨てられる」
「相手が自分で生きられるようになったら、私の居場所がなくなる」
そうした不安を抱える人は、相手を助けながら、無意識のうちに相手の自立を恐れる。
相手を救おうとする手が、相手をつなぎ止める鎖になる。
本稿では、この「依存と支配のやさしさ」を、アドラー心理学の立場から考えていく。
世話好きな人を責めるためではない。
世話をする人もまた、その役割の中に囚われているからである。
誰かを支配せずには安心できない人は、自由なのではない。相手を管理し続けなければ自分の価値を感じられないという意味で、相手以上に依存している。
支配する者と支配される者は、強者と弱者として単純に分けられるのではない。互いの不安がかみ合い、一つの関係を維持している。
その結び目を、静かにほどいていこう。
やさしさを捨てるためではない。
やさしさから支配だけを取り除き、相手の自由を照らす、本当の思いやりへと育て直すためである。
第1部 アドラー心理学から見る「世話」の目的
1 人間は過去に押されるだけでなく、目的に向かって動く
アドラー心理学の大きな特徴の一つは、人間の行動を、過去の原因だけでなく、現在その行動が果たしている目的から理解しようとする点にある。
私たちは、ある人が過剰に世話を焼く理由を尋ねられると、しばしば過去に答えを求める。
「厳しい家庭で育ったから」
「幼い頃から弟や妹の面倒を見てきたから」
「親に十分に愛されなかったから」
もちろん、過去の経験は重要である。しかし、同じ経験をした人が、全員同じ生き方を選ぶわけではない。
アドラー心理学では、人間を分割できない全体として捉え、行動・感情・思考を、その人が目指している方向との関連から理解する。現代のアドラー心理学の紹介でも、人間を社会的文脈の中にある全体として捉え、劣等感の補償、所属感、目的志向性を重視することが説明されている。
たとえば、ある女性が、夫の出張の荷造りを毎回すべて引き受けていたとする。
原因論的には、彼女は「世話好きな母親を見て育ったから」と説明できるかもしれない。
しかし目的論的に見るなら、別の問いが生まれる。
「夫の荷造りをすべてすることで、彼女は何を得ているのか」
「夫が自分で準備できるようになると、彼女は何を失うのか」
「世話をしないという選択には、どのような不安が伴うのか」
すると、彼女の行動の背後に、次のような目的が見えてくることがある。
「私は必要な存在でありたい」
「夫に、自分なしでは困ると思わせたい」
「よい妻であることを証明したい」
「夫が失敗したとき、妻として責められたくない」
「夫の行動を把握しておきたい」
同じ荷造りでも、目的は一つではない。
愛情から行うこともあれば、不安から行うこともある。相手への贈り物であることもあれば、自分の価値を確認する儀式であることもある。
したがって、世話好きの心理を理解する際には、「親切か、不親切か」という道徳的な二分法を超えなければならない。
問うべきなのは、次のことである。
その世話は、相手の力を増しているか、それとも相手を無力な位置に固定しているか。
その世話は、互いの自由を広げているか、それとも一方がもう一方を必要とし続ける仕組みをつくっているか。
その世話を断られたとき、世話をする人は相手の意思を尊重できるか。
「ありがとう。でも今日は自分でやるよ」
そう言われたとき、穏やかに手を引けるなら、その世話は愛に近い。
しかし、
「せっかくしてあげようと思ったのに」
「あなたは私の気持ちを踏みにじるのね」
「失敗しても、もう知らないから」
と相手を責めるなら、その世話には取引が含まれている。
表向きは無償でも、心の奥では、服従、感謝、忠誠、依存、役割の固定を求めているのである。
2 劣等感は、世話という衣装をまとう
アドラー心理学において、劣等感は必ずしも病的なものではない。
人は誰もが、自分に足りないものを感じる。幼い子どもは、大人に比べて小さく、経験も力も乏しい。その「できなさ」の感覚が、成長への動機になる。
問題は、劣等感そのものではなく、それをどのように補おうとするかである。
自分の不足を認め、学び、他者と協力しながら成長しようとするなら、劣等感は建設的に働く。
しかし、劣等感に耐えられず、他者より上に立つことで自分の価値を証明しようとすると、優越への追求が歪んだ形を取る。
露骨な支配者は、命令や威圧によって上に立とうとする。
一方、世話好きな支配者は、「あなたを助ける人」という位置に立つことで優位を確保する。
世話をする人は強い。
世話をされる人は弱い。
教える人は知っている。
教えられる人は知らない。
救う人は正しい。
救われる人は未熟である。
こうした上下関係が、親切の中にひそかに組み込まれる。
「私がいなければ、この人は困る」
この感覚は、世話好きな人に、強い自己価値を与える。
自分に自信がない人ほど、「誰かに必要とされること」によって自分の存在を確かめようとすることがある。
仕事で評価されなくても、夫が自分を必要としてくれればよい。
自分自身の人生に手応えがなくても、子どもの人生を支えることで意味を感じられる。
友人関係に不安があっても、相談役として必要とされれば、関係は切れない。
このとき世話は、「相手を助ける行為」であると同時に、「自分が無価値ではないと確認する行為」になる。
自分の価値を自分で支えられない人は、相手の無力さを必要とする。
相手が元気になると、喜ぶより先に寂しくなる。
相手が自分で決め始めると、成長を祝うより、不安になる。
相手が別の人に相談すると、安心するより、裏切られたように感じる。
そこにあるのは、単純な愛の不足ではない。
愛と劣等感が絡み合った、複雑な心である。
「あなたを助けたい」という気持ちの隣に、「あなたより価値のある人でいたい」という願いが座っている。
この構造を認めることは苦しい。
世話好きな人は、自分を善良な人間だと思っていることが多いからである。
しかし、善良でありたいという自己像が強すぎると、自分の中の嫉妬、怒り、支配欲、承認欲求を見ることができなくなる。
見ないままの支配欲は、なくならない。
むしろ「あなたのため」という美しい言葉を得て、より巧妙になる。
3 「必要とされること」と「愛されること」の混同
世話好きな人の深層には、しばしば一つの混同がある。
必要とされることを、愛されることだと思っているのである。
しかし、必要とされることと愛されることは、同じではない。
優れた技術者は会社から必要とされる。
介護者は、介護を受ける人から必要とされる。
幼い子どもは親を必要とする。
けれども、必要がなくなったときにも関係が続くかどうかは、別の問題である。
世話によって築かれた関係は、相手の自立によって揺らぐ。
一方、愛によって築かれた関係は、相手が自立するほど、より自由で豊かになる。
必要とされることに自己価値を預けた人は、相手が成長することを、無意識に妨げてしまう。
たとえば、何でも母親に相談する娘がいたとする。母親は娘の服装、就職、交際相手、結婚後の住居まで助言する。娘が迷うたびに、母親は的確な答えを出す。
周囲から見れば、仲のよい母娘である。
しかし、娘がある日、自分で転職を決めたとする。
母親は言う。
「どうして相談してくれなかったの」
娘が「今回は自分で決めてみたかった」と答えると、母親は涙ぐむ。
「もう、お母さんは必要ないのね」
この一言には、母親の寂しさが凝縮されている。
母親は、娘の自立を拒絶したいわけではない。娘が幸せになることを願っている。
それでも、娘の自立は、「母親としての自分の価値が終わること」のように感じられる。
自分自身の人生に、娘以外の柱が少ないほど、この不安は強くなる。
配偶者との関係が希薄である。
自分の友人や趣味がない。
仕事を辞めた後、新しい役割を持てていない。
自分の願いを長年後回しにしてきた。
そのような場合、子どもの世話は、単なる愛情ではなく、自己同一性の中心になる。
「世話をする私」がいなくなれば、「私は誰なのか」が分からなくなる。
だから、子どもを手放せない。
子どものためというより、自分が崩れないために、子どもを必要とする。
ここに、依存と支配の相互性が生まれる。
母親は娘に依存されているように見える。
しかし同時に、母親もまた、娘から依存されることに依存している。
4 共同体感覚と、自己犠牲は違う
アドラー心理学の中心概念の一つに、共同体感覚、あるいは社会的関心と訳される概念がある。
それは、単に人に親切にすることではない。
自分が人間共同体の一部であると感じ、他者との相互依存を受け入れ、共通の利益に向けて協力する態度である。現代のアドラー派諸機関も、所属感、相互尊重、平等、協力、社会への貢献を中核的価値として掲げている。
ここで重要なのは、「協力」であって「自己消滅」ではない。
共同体感覚を持つ人は、相手のために動くことができる。同時に、自分の必要や限界も共同体の一部として尊重する。
自分だけが犠牲になればよいとは考えない。
相手を甘やかし、責任を肩代わりすることもしない。
なぜなら、相手が自分の人生を引き受けることも、その人が共同体に参加するための大切な経験だからである。
世話好きな人は、自己犠牲を共同体感覚と取り違えやすい。
「家族のために、私さえ我慢すればよい」
「部下のために、私がすべて背負えばよい」
「恋人が不安にならないように、私は友人との付き合いをやめよう」
一見すると、献身的である。
しかし、自己犠牲は長く続けば、必ず請求書に変わる。
その請求書には、金額ではなく、感情が記されている。
「私はこれほど我慢した」
「あなたのために夢を諦めた」
「あなたの失敗を全部引き受けた」
「だから、あなたは私の期待に応えるべきだ」
自己犠牲が支配へ変わるのは、犠牲に対する見返りが、暗黙のうちに要求されるからである。
本当に共同体的な関係では、誰か一人が永続的に犠牲になることはない。
負担は話し合われる。
助ける側にも、断る権利がある。
助けられる側にも、断る権利がある。
与えることと受け取ることが、固定された役割にならない。
今日は私が助ける。
明日はあなたが助けるかもしれない。
あるいは、助けてもらった人が、別の誰かに力を渡すかもしれない。
関係の中を、力が循環している。
支配的な世話では、力が循環しない。
一人が永遠に「与える人」であり、もう一人が永遠に「与えられる人」である。
それは協力ではなく、身分制度である。
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