最初期の女性作曲家 クララ・シューマン

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 クララ・シューマンは音楽史に於ける歌手以外の女性演奏家、女性作曲家として最初期の一人である。それ以前の音楽史に出てくる女性は、歌手を除くと、「バッハの妻」とか「モーツァルトの姉」とか「モーツァルトの悪妻」のように、誰かの家族として登場し、演奏家だったり作曲家だったりしたわけではない。人格をもって女性として音楽シーンで活躍し、歴史に名を残した最初の人である。


 クララ・シューマンは1819年にライプツィヒで生まれた。後に夫となるロベルト・シューマンの9歳下である。父フリードリヒ・ヴィークはピアノ教師、音楽書店の経営者だった。母はピアニストだったが、クララが6歳の年に離婚した。


 クララは天才少女として音楽シーンに登場した。それまでも貴族や富豪の娘や妻はピアノを演奏していたが、あくまでも家庭で楽しむためであり、彼女たちは興行していたわけではない。クララはプロの女性ピアニストとして大成功した最初の人である。といっても、クララはコンテストで優勝してデビューしたわけではない。この時代、まだコンテストなるものは存在しない。彼女は高名なピアノ教師の娘だったので、その才能が幼い頃に見出され、父によって鍛えられて、デビューしたのである。作曲の勉強もさせられていた。


 父のもとにシューマンが弟子入りしたのは、1828年、クララが9歳になる年だった。その時はまだ恋愛関係にはならなかったが、シューマンが他の女性に失恋した後、急接近し、恋に落ちた。その恋が深まるのと並行して、女性ピアニストとしてクララの名声は高まった。パリやウィーンへも演奏旅行に行き成功した。一方のシューマンはまだ才能が世間に認められていない。9歳下のクララのほうが音楽家としてはるかに格上になっていた。


 だからヴィークは二人の結婚に反対する。シューマンは彼の弟子ではあったが、指を痛めたためピアニストにはなれず、作曲家になったとはいえ、先行きに不安があった。とても音楽史上に残る大作曲家になるとは思えなかったのである。そんな奴に、一流ピアニストにまで育て上げた大事な娘をやるわけにはいかん、というわけだ。しかし、二人は結婚を諦めない。訴訟まで起こして、ようやく1840年に結婚した。


 二人の結婚生活は順調であるかのようだった。クララはピアニストとしての仕事も続けながら、シューマンを支えた。だがシューマンは、もともと繊細で感受性が強かったことから、やがて精神の均衡が取れなくなっていく。自分よりも妻のほうが有名で収入が多い。プライドの高い男性が陥る、よくある話でもある。


 そんな1853年のある日、音楽会でそれなりの大物だったシューマンのもとを、ひとりの青年が訪れた。1833年生まれのブラームスである。この年の誕生日でシューマンは43歳、クララは34歳、そしてブラームスは20歳。3人がこのような年齢差であることを確認する必要がある。


 シューマンは若きブラームスの才能を高く評価し、ブラームスはシューマンを尊敬して慕い、頻繁にシューマン家を訪れるようになった。やがてシューマンはクララとブラームスの仲を疑うようになり、そういう自分がいやになり、精神的に追い詰められていく。


 1854年、ついにシューマンは投身自殺をはかってしまう。そのときは助かるが、精神病院に入ることになり、結局、1856年に亡くなる。
 未亡人となったクララをブラームスはその後も献身的に支えた。他の女性との恋愛もしたが、結局、ブラームスは生涯を独身で通した。そして、1896年にクララが亡くなると、その翌年、後を追うようにしてブラームスも亡くなるのである。

 














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