序章 音楽が語らなかった、ひとつの結婚
彼女は、歴史にほとんど名を残していない。 肖像画はない。 書簡もほとんど残っていない。 恋文も、劇的な逸話も、華やかなスキャンダルもない。 ただ、「ヨハン・ゼバスティアン・バッハの最初の妻だった」という事実だけが、静かに記録に刻まれている。 マリア・バルバラ・バッハ。 旧姓ミヒャエル。 バッハ家の遠縁にあたり、同じ音楽一族の血を引く女性。 彼女がどのように笑ったのか。 どのような声で夫を呼んだのか。 どのような眼差しで、机に向かう背中を見つめていたのか。 歴史は、それを語らない。 しかし―― 語られなかったという事実こそが、逆にこの結婚の本質を暗示しているのではないだろうか。
激情ではない。 悲劇でもない。 破綻でも、スキャンダルでもない。 そこにあったのは、おそらく、 日常に溶け込んだ愛、 音楽と生活が同じ呼吸で流れていた結婚だった。 この物語は、 記録に残らなかった「感情」を、 音楽に刻まれた「気配」を手掛かりにしながら、 ひとりの女性と、ひとりの作曲家のあいだにあった静かな愛を、小説として描き出す試みである。 これは、 天才の伝記ではない。 偉人の業績でもない。 ひとりの男が、 ひとりの女と共に生きた、 ごく普通で、しかし奇跡のように美しい年月の物語である。
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