序章 平安時代における恋愛と性の文化的背景
平安時代の日本人は、恋愛とセックスを今日の私たちが想像するよりも、はるかにおおらかに受け入れていた。その「おおらかさ」とは単なる放縦ではなく、社会制度、文化、宗教観、そして文芸の豊穣な表現の中で、男女の関係が人間存在そのものの核心として肯定されていたことを意味する。
現代社会では「貞操観念」「婚前交渉」「不倫」などが道徳的・法的に語られるが、平安期においてはそうした規範意識は異なるかたちをとっていた。むしろ、貴族社会においては恋愛と性が社交の一環であり、文化の洗練を示す場でもあった。
たとえば、女性の日記文学には、恋人との夜をあけすけに綴った記録が多く残されている。和泉式部は『和泉式部日記』の中で、幾人もの貴公子との情事を詠み込み、その心情を隠さず表現している。また、『枕草子』の清少納言は、夜ごとの訪問や贈り物に対する女性の心理を軽妙に描き、性愛のやりとりがごく自然に生活に根づいていたことを示している。
こうした文献群は、「性を隠す」ことよりも「性を詠む」「性を語る」ことのほうが、むしろ人間らしい教養と感受性の証であるとみなされた文化を物語るのである。
第Ⅰ部 宮廷社会と恋愛の遊戯性
平安時代の恋愛は「政治的婚姻」と「自由恋愛」の二重構造をもっていた。摂関家や天皇家における結婚は権力闘争の道具として機能したが、一方で貴族たちは歌合、管絃の宴、行幸などの場で、互いに自由に恋を育んだ。
特筆すべきは**「通い婚」制度**である。結婚しても夫が妻の家に通うのが一般的であり、夫婦が必ずしも同居するわけではなかった。この制度は、男女双方に複数の恋愛関係を持つ余地を与え、また「夜の訪問」が文化的な儀礼として定着した。
実際、『源氏物語』の光源氏は数多の女性のもとを訪れ、その都度、和歌のやりとりを行う。そこでは性愛は隠すべき罪ではなく、むしろ美学として昇華された愛の遊戯だった。
さらに、恋愛は「贈答文化」と深く結びついていた。恋人に贈る和歌、衣服、香り袋などは単なる物質的な交換ではなく、心情と肉体をつなぐ媒介だった。そこにこそ、平安時代人の恋愛が持つおおらかさと繊細さが共存している。
第Ⅱ部 女性文学に見る恋と性の告白
1. 女性文学の誕生と恋愛表現の解放
平安時代の文学史を振り返るとき、特筆すべきは女性による仮名文学の開花である。男性が漢文による公的記録や政治的詩文を担っていたのに対し、女性は和語(仮名)によって心情を自由に表現した。その結果、女性文学には、日常の心の揺らぎ、恋の喜びや苦悩、そして肉体的な関係に至る過程までもが赤裸々に描かれることとなった。
この流れは『枕草子』や『和泉式部日記』『紫式部日記』に典型的である。恋愛はもはや公的な歴史には記されないが、女性の筆により人間的で官能的な証言として後世に残されたのである。そこに、平安時代人の「恋と性へのおおらかさ」が最も鮮やかに反映している。
2. 『和泉式部日記』に見る情熱と肉欲
和泉式部(978頃〜?)は「恋多き女」として名高い。彼女の日記は、宮廷の貴公子・為尊親王や敦道親王との愛の往還を率直に記す。
(1)複数の恋とその並存
和泉式部は同時期に複数の男性と関係を持っていたことが知られる。そのこと自体が現代的なモラルから見れば「不貞」とみなされるかもしれない。しかし当時は、彼女のように自由に恋を謳歌する女性はむしろ才媛として称賛もされた。
(2)夜の訪問と性的含意
『和泉式部日記』には「夜を共にした」ことが暗示的に書き込まれる箇所が多い。例えば敦道親王との関係を綴る場面では、
「かの御方の御いらへなくて、夜もすがらあはれなる御けしきにて…」
とあり、和歌の贈答とともに肉体的な交わりを想像させる描写がある。
つまり彼女にとって恋とは、精神と肉体を不可分に結ぶものであり、それを恥じることなく文学として残した点に、平安女性の大胆さがうかがえる。
3. 『枕草子』に見る軽妙な恋の記録
清少納言(966頃〜1017頃)の『枕草子』は随筆でありながら、宮廷生活における男女の関わりを豊かに描き出す。
(1)恋の訪問儀礼
清少納言は夜の訪問についても軽やかに語る。
「男の来たりけるに、すぐに帰りぬるこそいとあはれなれ」
と書くように、男性が訪れてはすぐに去っていく、そんな短い逢瀬すらも彼女は愛おしく受け止める。そこには性を楽しむことへの無邪気さが表れている。
(2)贈り物と性愛の象徴性
贈答の品々(扇、衣、香袋など)は単なる物ではなく、性愛のメタファーとして機能した。清少納言はそれを巧みに観察し、男女の駆け引きを遊戯として描いた。
4. 『紫式部日記』と「女の視線」
紫式部の日記は、彼女自身の恋愛を露骨には記さないが、女房として宮廷の恋愛模様を鋭く観察している。
(1)宮中に渦巻く恋の噂
紫式部は中宮彰子に仕える中で、周囲の女房や貴公子の恋愛関係を赤裸々に書き残した。そこでは「誰と誰が通じている」という話題がごく自然に交わされ、性的関係を持つこと自体が宮廷文化の一部であることが浮き彫りになる。
(2)「恥」と「誇り」のあいだ
紫式部はまた、和泉式部の奔放さを「軽々しい」と批判してもいる。だが裏返せば、そうした奔放さが広く知られ、評価や批判の対象になるほど性の語りが公然化していた証拠である。
5. その他の日記文学に見る率直さ
**『更級日記』**では、少女から大人の女性へと成長する過程での恋への憧れが繊細に記される。実際の恋愛体験は乏しいが、物語世界を通じて性的幻想を抱き続ける姿に「文学と性欲の交錯」が見られる。
**『蜻蛉日記』**では藤原道綱母が夫・兼家の浮気に苦悩する様子を吐露している。ここには「おおらかさ」とは異なる嫉妬と痛みも描かれ、性愛の裏側を知ることができる。
6. 女性文学に共通する「性の肯定」
これらの作品に共通するのは、恋と性を人間存在の核心として語る姿勢である。
現代のように「性的表現は恥ずべきもの」とする発想は希薄で、むしろ「性愛を語らずして人の心を語れない」とする感覚が強かった。
平安女性たちは、自らの筆をもって性愛を記録し、時に肉体的交わりを暗示的に、時に露骨に描き出した。それは単なる私的告白ではなく、文化的承認を得た表現行為であった。
小結
平安女性文学は、当時の恋と性を赤裸々かつ文学的に告白した貴重な証言である。和泉式部の情熱的な日記、清少納言の軽妙な随筆、紫式部の冷静な観察など、いずれも性愛を恐れず、むしろ表現の糧として昇華している。
その背後には、性愛を自然で肯定的なものとみなす平安社会の価値観があった。これこそが「おおらかさ」の核心であり、現代人にとっては驚くべき率直さと自由さを示すものである。
第Ⅲ部 『源氏物語』に描かれた愛と性愛の多層性
1. 『源氏物語』の位置づけと性愛表現の独自性
『源氏物語』は紫式部によって11世紀初頭に成立した全54帖からなる長編物語である。王朝文学の最高峰とされるが、その根幹に流れるテーマは愛と性愛の織りなす人間模様である。
光源氏という一人の男性を軸に、数多の女性との出会いと別れが描かれる。その物語空間は、単なる恋愛小説にとどまらず、性愛を精神的・肉体的・社会的・宗教的な多層性の中に位置づけた点に特徴がある。現代人から見れば不道徳に映る関係すらも、平安貴族の文化の中では**「美学」として肯定**されていた。
2. 光源氏の恋愛遍歴と「おおらかさ」
(1)幼少期の初恋—藤壺との禁忌
光源氏は実母に似た藤壺中宮に恋い焦がれる。この近親的な恋は、現代なら倫理的に禁じられるが、物語の中では**「叶わぬ恋の哀しみ」として描かれる。やがて二人は関係を持ち、後に冷泉帝が生まれる。ここに既に、性愛は禁忌と美のはざま**に位置している。
(2)正妻・葵の上と六条御息所
葵の上との結婚生活では、源氏は満たされぬ思いを抱え、六条御息所との関係に傾く。御息所の激しい嫉妬心は生霊となって葵の上を死に追いやるが、この描写は性愛が持つ喜びと破壊性の二面性を象徴する。
(3)紫の上との理想的関係
幼い紫の上を引き取り、育て上げて妻とする関係は、今日的視点では問題を孕む。しかし物語内では、精神的な理想の伴侶として描かれる。ここでは性愛は**「教育」「美学」「理想化」**といった次元で語られる。
(4)その他の女性たちとの逢瀬
空蝉、夕顔、明石の君など、多様な女性たちとの短期的あるいは長期的関係は、性愛の流動性を物語る。光源氏の行動は奔放だが、当時の読者にとっては非難よりも「艶やかさ」として受け取られた。
3. 性愛表現の文学的技法
(1)和歌による暗示
性愛は直接的な描写を避け、和歌によって婉曲に表現される。
例:「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」
このように、夜の逢瀬や別れを和歌に託すことで、性愛は言語美と感受性の遊戯となった。
(2)自然描写のメタファー
「花散る里」「朧月夜」など、自然の情景が性愛の隠喩として機能する。自然の移ろいは男女の心と身体の交わりを象徴し、性愛が宇宙的秩序の一部として理解されていたことを示す。
(3)夢や幻の挿入
生霊や夢の中の逢瀬は、性愛が人間の意識と無意識をまたぐ力を持つことを物語る。性愛は単に肉体的な行為ではなく、魂の次元まで浸透する現象と捉えられている。
4. 性愛と女性の多層的描写
(1)受け身ではなく主体的な女性像
空蝉は源氏を拒み、夕顔は自ら逢瀬を選び、明石の君は子をなす戦略的判断を行う。ここには、女性たちが性愛においても能動性を発揮していたことが示される。
(2)嫉妬と独占欲
六条御息所の生霊譚は、性愛が精神に及ぼす暴力性を示す。ここには性愛の暗黒面が描かれ、愛の「おおらかさ」の裏に潜む痛みが表現される。
(3)性愛と母性
明石の君が産んだ娘はのちに東宮妃となり、源氏の政治的立場を支える。性愛は単なる情事を超え、血縁と権力のネットワークを形成する要素ともなった。
5. 『源氏物語』における性愛の社会的次元
『源氏物語』は、個人的な恋愛の喜びを描くと同時に、性愛が社会構造にどう関わるかを描き出す。
愛の奔放さ → 宮廷の噂・権力関係に直結
子の誕生 → 家系の存続・政治的安定の基盤
女性の立場 → 恋愛の成否が人生の方向を決定
つまり性愛は、個人の感情・肉体・政治・文化をつなぐハブであった。
6. 「おおらかさ」と「陰影」の共存
『源氏物語』は性愛を美として描く一方、そこに必然的に伴う嫉妬、孤独、死も正面から扱った。恋愛は常に「光」と「影」を孕み、性愛の多層性を浮かび上がらせる。
この二面性こそ、平安時代人の性愛観の核心である。つまり彼らは性を罪悪視するのではなく、人間存在の避けがたい宿命として、肯定と畏怖を同時に抱いていたのである。
小結
『源氏物語』は、性愛を単なる男女の交わりとしてではなく、
禁忌と美学のせめぎ合い
精神と肉体の不可分性
個人と社会を結ぶ血縁の力
愛と嫉妬の相克
といった多層性の中で描いた。
この複雑な性愛観こそが、平安時代の人々の「おおらかさ」の真の姿を示している。性愛は恥じ隠すものではなく、文学的表現を通じて人間存在そのものを映し出す鏡であった。
第Ⅳ部 日記文学と実録に見る具体的エピソード
1. 平安日記文学の特質
平安時代の「日記文学」は、現代的な日常記録としての日記とは異なり、自己の内面告白と文学的表現が融合した作品であった。女性を中心に発展したこのジャンルは、政治的記録としての漢文日記(男性貴族の公的記録)とは一線を画し、むしろ恋愛や家庭生活における感情、そして性愛の実体験を率直に綴ることを特徴とする。
とりわけ注目すべきは、性愛体験が赤裸々に描かれている点である。そこには、現代人の目から見れば驚くほどに直接的、あるいは婉曲ながら露骨な性愛の描写が残されており、当時の人々がいかに恋と性におおらかであったかを裏づけている。
2. 『蜻蛉日記』に見る夫婦関係と愛憎
『蜻蛉日記』(藤原道綱母著)は、夫・兼家との結婚生活を綴った告白文学である。そこでは、夫の浮気に対する怒りや嫉妬、孤独感が率直に吐露される。
(1)夫の浮気に苦悩する妻
兼家が他の女性のもとへ通い、夜を過ごすたびに、作者は耐えがたい孤独を記す。
「いかでこの世をば過ぐさむと思ふに、かく頼もしげなき御ありさまにて…」
とあり、結婚制度が「通い婚」であったため、夫が来なければ妻は孤独な夜を送ることになる。
(2)性愛の裏側にある嫉妬
『蜻蛉日記』は性愛そのものを喜びとして描くのではなく、その裏にある嫉妬と不安を赤裸々に表現した稀有な記録である。これにより、平安時代の「おおらかさ」は決して無痛の自由ではなく、女性たちは心の葛藤を抱えていたことがわかる。
3. 『和泉式部日記』に見る情熱的な恋愛
和泉式部の『和泉式部日記』は、敦道親王との関係を中心に描かれる。
(1)夜の逢瀬と性愛の告白
和泉式部は敦道親王が夜に訪れる様子を率直に書き留める。逢瀬の後、互いに交わす和歌の中には肉体的な関係が暗示される。
たとえば、親王が夜明けに帰る際の歌:
「夢かとぞ思ふ寝覚めの袖の露」
これは単なる比喩ではなく、性的交わりの余韻を濃厚に漂わせる表現である。
(2)複数の恋愛の並存
和泉式部は一人の恋人にとどまらず、同時期に複数の男性と関係を持っていた。これを日記に隠さず書き記したこと自体が、性愛への「おおらかさ」を示している。
4. 『紫式部日記』に見る宮廷の恋愛実録
紫式部の日記は、自身の恋愛をあまり語らないが、女房として宮廷の恋愛模様を観察した記録が豊富である。
(1)宮中の恋の噂
「誰それが誰に通っている」という噂話は頻繁に登場する。これらは宮廷社会において性愛が公然の話題であったことを物語る。
(2)和泉式部への辛辣な批評
紫式部は奔放な和泉式部を「軽々しい」と評している。しかし逆に言えば、それほど奔放な性愛のふるまいが一般的に知られていたのであり、むしろそれを批評の対象とできる社会的余地があったことを示す。
5. 『更級日記』に見る少女の性愛幻想
『更級日記』(菅原孝標女著)は、物語文学に憧れる少女が、大人になる過程で実際の恋愛に触れてゆく記録である。
(1)恋愛物語への憧れ
少女時代、作者は『源氏物語』などの物語に憧れ、そこに描かれる艶やかな恋愛世界を夢見ていた。性愛への欲望が文学を媒介に培養されたことを物語る。
(2)現実の結婚と失望
やがて現実の結婚生活に直面するが、そこには物語で描かれたような華やかな性愛は存在しない。理想と現実の落差を記録することによって、当時の女性たちが持った性愛幻想と現実の乖離を知ることができる。
6. 『和漢朗詠集』『小右記』など男性の日記に見るエピソード
日記文学は女性が主体だったが、男性の記録にも性愛の断片が残る。たとえば藤原実資の『小右記』には、宮廷の宴での男女の交歓や、密通事件の記録がある。こうした実録は、性愛が単に文学上の幻想ではなく、社会的事件としても存在感を持っていたことを示している。
7. 総合的考察
日記文学と実録は、平安人の性愛観を「理想」と「現実」の双方から伝えている。
『蜻蛉日記』 → 妻の嫉妬と苦悩
『和泉式部日記』 → 自由で情熱的な性愛
『紫式部日記』 → 宮廷社会の恋愛模様
『更級日記』 → 少女の性愛幻想と現実の落差
これらを総合すると、平安時代の性愛は、おおらかで奔放でありつつも、嫉妬や孤独といった負の感情と常に隣り合わせであったことが浮かび上がる。
小結
日記文学と実録は、当時の人々の性愛をもっとも生々しく伝える史料である。和泉式部の情熱、道綱母の苦悩、孝標女の幻想、紫式部の観察眼。これらが織りなす証言の数々は、平安時代の日本人が恋と性にどれほど率直であったかを如実に示している。
性愛は恥じるものではなく、人生を記録する上で欠かすことのできない要素だったのである。
第Ⅴ部 和歌と贈答文化が育む性愛の表現
1. 和歌と性愛の不可分性
平安時代の恋愛を語るうえで欠かせないのが和歌である。和歌は単なる芸術表現にとどまらず、男女の交際において不可欠なコミュニケーション手段であった。とりわけ恋愛と性愛に関しては、和歌が「口説き」「応答」「別れ」の儀式そのものであり、肉体的交わりの代替あるいは伏線として機能していた。
当時の人々にとって和歌を詠み贈ることは、現代のメッセージや電話以上に重大な意味をもち、返歌の有無や質によって恋の行方が左右された。つまり和歌は、性愛を育む社会的インフラだったのである。
2. 夜の訪問と和歌の儀礼
「通い婚」制度において、男性は夜に女性のもとを訪れ、明け方には帰っていく。このとき必ず交わされたのが和歌であった。
(1)逢瀬の後の贈答
夜明けに別れる際、男は袖を濡らした涙や露を題材に歌を贈る。女はそれに応じ、夜の余韻や別れの切なさを詠む。
例:
男「夢かとぞ思ふ寝覚めの袖の露」
女「見し夢を覚むればつらき朝ぼらけ」
ここでは肉体的交わりが直接記されてはいないが、和歌の行間に性愛の気配が漂う。
(2)返歌の重み
もし女性が返歌を拒めば、それは恋の拒絶を意味した。逆に、情熱的な返歌を送れば、関係はさらに深まり、次なる逢瀬へとつながる。つまり和歌は性愛の合意形成の場であった。
3. 贈答品と性愛の象徴
和歌に加えて、贈答品も恋愛の重要な要素だった。
(1)衣服と香り
男性は女性に衣服や香を贈った。衣の色や香りは、贈り主の個性や情熱を伝える手段であり、性愛の暗示を孕んでいた。香は特に性的な含意を持ち、肌に移り香として残ることが、逢瀬の証拠ともなった。
(2)扇や文
扇や文(手紙)も贈られたが、そこに添えられた和歌が本質だった。紙の質や筆跡も含めて、受け取った女性は男性の誠意や技巧を測った。贈答文化は、感性のやりとりを通じて性愛を育む場であった。
4. 和歌と性愛の具体的事例
(1)『伊勢物語』の在原業平
在原業平は和歌と恋の達人として描かれる。彼の歌はしばしば性愛を暗示する。
例:「ついでおほき須磨の浦わに住む人の 恋しき時に逢ひし夜ぞなき」
ここには、恋人と交わった夜の記憶が直接的に刻まれている。
(2)『和泉式部日記』
敦道親王との恋では、夜明けに交わす和歌が性愛の余韻を物語る。彼女はその赤裸々さゆえに「奔放」と評されたが、同時に和歌の才により恋を正当化し、性愛を文学に昇華している。
(3)『源氏物語』
光源氏が女性と関係を持つたび、必ず和歌がやりとりされる。和歌がなければ逢瀬は成立せず、性愛は社会的承認を得られなかった。
5. 和歌における性愛表現の技法
(1)自然の比喩
花、月、露、霞など、自然のイメージを通じて性愛を表現した。
花 → 女性の肉体・官能の象徴
月 → 夜の逢瀬・密やかな欲望
露 → 涙や性的交わりの余韻
(2)余情と婉曲
性愛を露骨に語ることは避けられたが、その婉曲表現こそが和歌の美学だった。読む者は行間から欲望を読み取り、そこに感性の洗練を見出した。
6. 和歌と贈答がもたらす社会的効用
和歌と贈答文化は、性愛を個人の秘密に閉じ込めず、社会的に形式化された交流へと変換した。これにより、性愛は道徳的に咎められるよりも、むしろ「文化的行為」として承認された。
和歌の才は恋愛成功の鍵 → 教養ある者ほど恋を得やすい
贈答品のやりとりは、愛情の深さを客観的に示す証拠
社交空間における恋愛の正統性が確立
7. 総合的考察
和歌と贈答文化は、平安時代の性愛を美化し、形式化し、社会的に承認する仕組みとして機能した。
和歌 → 情念を婉曲に、しかし濃密に表現
贈答 → 物質的証拠として愛を可視化
二者の結合 → 性愛を文化的営みへと昇華
これにより、平安時代人は性愛を「恥じるべきもの」ではなく、「表現し、享受すべき美」として育んだのである。
小結
平安時代において、和歌と贈答文化は恋と性を結ぶ架け橋であり、性愛を芸術と社交の両面から正当化する力を持っていた。夜の訪問の余韻を詠み、香や衣を贈り合うことによって、性愛は人間の感情を洗練させ、文化そのものを高めていった。
これこそが、平安時代の日本人が恋愛やセックスにおおらかであったことの最も象徴的な証拠である。
第Ⅵ部 結婚制度と「通い婚」のおおらかさ
1. 平安時代の結婚制度の基本構造
現代日本の結婚は、夫婦が同居し、家制度や戸籍によって一体化することを前提とする。しかし平安時代の結婚は根本的に異なり、**「通い婚」**と呼ばれる形態が一般的であった。
通い婚とは、結婚後も夫が妻の実家に通い、同居は必須ではないという制度である。夫婦は必ずしも生活共同体を形成せず、女性は実家に留まり続ける。この仕組みは、当時の貴族社会の権力構造と密接に結びついていた。
(1)母系的な家族制度
平安時代の上流貴族は母系的な性格を強く持っており、子どもは母方の実家に引き取られることが多かった。したがって、女性側の家が結婚において大きな力を持ち、男性は妻の実家の庇護を得ることによって社会的地位を固めることもあった。
(2)結婚と政治
天皇や摂関家においては、娘を天皇家に入内させることで外戚関係を築き、政治権力を掌握する。したがって結婚は必ずしも一夫一婦の愛情関係ではなく、政治的な同盟手段でもあった。
2. 通い婚が生み出した「おおらかさ」
通い婚制度は、性愛に関する独特のおおらかさを社会にもたらした。
(1)同居しないことによる自由度
夫婦が同居しないため、男女双方にとって恋愛や性愛の自由度が高かった。夫は他の女性のもとに通うことも容易であり、妻もまた複数の恋愛を持つ余地が残されていた。
(2)嫉妬と許容のバランス
もちろん浮気や複数の恋愛は嫉妬や争いを生んだが、それでも制度的には黙認される部分が多かった。『蜻蛉日記』に描かれる藤原兼家の奔放さや、それに苦しむ道綱母の姿はその典型例である。
しかし同時に、こうした状況は「完全な独占は不可能」という前提を社会に共有させ、性愛を一つの流動的関係として受け止める文化的柔軟性を生み出した。
(3)婚姻と恋愛の分離
結婚は必ずしも恋愛の成就を意味せず、恋愛は婚姻の外に存在することが多かった。したがって「結婚相手=唯一の恋人」という図式は必ずしも支配的でなく、性愛はより広範で多層的な営みとして捉えられていた。
3. 文学に見る通い婚のエピソード
(1)『源氏物語』における訪問儀礼
光源氏が夜ごとに女性のもとへ通う場面は数多い。空蝉や夕顔との逢瀬は、まさに通い婚制度が前提となった文化であり、女性の家に足を運び、和歌を交わし、一夜を共にすることで関係が成立する。
(2)『和泉式部日記』に見る夜の訪れ
敦道親王が和泉式部のもとへ夜に訪れる様子も、典型的な通い婚のスタイルである。逢瀬のたびに和歌や贈答が交わされ、それが恋愛の進展の指標となった。
(3)『蜻蛉日記』に見る苦悩
一方で道綱母は、夫・兼家が他の女性のもとに通い、自分のもとに来ないことに苦悩した。ここには通い婚制度が孕む女性側の不安定さも露呈している。
4. 通い婚が可能にした性愛の文化
通い婚は、単なる制度ではなく、性愛文化そのものを形づくった。
和歌の発達:夜の訪問と別れが和歌交換を促進した。
贈答文化:通うたびに贈答が行われ、性愛が文化的に表現された。
文学の誕生:女性は自宅に留まるため、待つ時間に感情を日記や物語に書き記し、性愛の文学的昇華が進んだ。
このように、通い婚は性愛の自由を拡張する一方で、文学と文化の豊穣な基盤をも形成した。
5. 「おおらかさ」とその限界
通い婚は性愛をおおらかに受容する基盤を提供したが、その「おおらかさ」には限界もあった。
女性にとっては夫が来るかどうかが生活の安定を左右し、孤独や不安を生んだ。
嫉妬や独占欲は激しい感情を伴い、六条御息所の生霊のように文学的に表現された。
政治的婚姻では、恋愛感情が二次的に扱われる場合も多く、女性の心情との齟齬を生んだ。
つまり、「おおらかさ」は一方で人間的葛藤や苦悩を不可避に孕んだ柔軟性でもあった。
小結
平安時代の結婚制度である通い婚は、現代の夫婦同居制度とは大きく異なり、男女の恋愛や性愛に独特の自由とおおらかさを与えていた。
男性は複数の女性に通い、女性もまた複数の恋を経験できた。
和歌や贈答を通じて性愛が文化化され、文学に昇華された。
一方で嫉妬や孤独という負の感情も日記文学に赤裸々に記録された。
この二面性こそが、平安時代人の性愛観を特徴づけるものである。彼らは性を恥じず、むしろ人間存在の核心として受け止め、それを文化的に洗練させることによって「おおらかさ」を実現していたのである。
第Ⅵ部 結婚制度と「通い婚」のおおらかさ
1. 平安時代の結婚制度の基本構造
現代日本の結婚は、夫婦が同居し、家制度や戸籍によって一体化することを前提とする。しかし平安時代の結婚は根本的に異なり、**「通い婚」**と呼ばれる形態が一般的であった。
通い婚とは、結婚後も夫が妻の実家に通い、同居は必須ではないという制度である。夫婦は必ずしも生活共同体を形成せず、女性は実家に留まり続ける。この仕組みは、当時の貴族社会の権力構造と密接に結びついていた。
(1)母系的な家族制度
平安時代の上流貴族は母系的な性格を強く持っており、子どもは母方の実家に引き取られることが多かった。したがって、女性側の家が結婚において大きな力を持ち、男性は妻の実家の庇護を得ることによって社会的地位を固めることもあった。
(2)結婚と政治
天皇や摂関家においては、娘を天皇家に入内させることで外戚関係を築き、政治権力を掌握する。したがって結婚は必ずしも一夫一婦の愛情関係ではなく、政治的な同盟手段でもあった。
2. 通い婚が生み出した「おおらかさ」
通い婚制度は、性愛に関する独特のおおらかさを社会にもたらした。
(1)同居しないことによる自由度
夫婦が同居しないため、男女双方にとって恋愛や性愛の自由度が高かった。夫は他の女性のもとに通うことも容易であり、妻もまた複数の恋愛を持つ余地が残されていた。
(2)嫉妬と許容のバランス
もちろん浮気や複数の恋愛は嫉妬や争いを生んだが、それでも制度的には黙認される部分が多かった。『蜻蛉日記』に描かれる藤原兼家の奔放さや、それに苦しむ道綱母の姿はその典型例である。
しかし同時に、こうした状況は「完全な独占は不可能」という前提を社会に共有させ、性愛を一つの流動的関係として受け止める文化的柔軟性を生み出した。
(3)婚姻と恋愛の分離
結婚は必ずしも恋愛の成就を意味せず、恋愛は婚姻の外に存在することが多かった。したがって「結婚相手=唯一の恋人」という図式は必ずしも支配的でなく、性愛はより広範で多層的な営みとして捉えられていた。
3. 文学に見る通い婚のエピソード
(1)『源氏物語』における訪問儀礼
光源氏が夜ごとに女性のもとへ通う場面は数多い。空蝉や夕顔との逢瀬は、まさに通い婚制度が前提となった文化であり、女性の家に足を運び、和歌を交わし、一夜を共にすることで関係が成立する。
(2)『和泉式部日記』に見る夜の訪れ
敦道親王が和泉式部のもとへ夜に訪れる様子も、典型的な通い婚のスタイルである。逢瀬のたびに和歌や贈答が交わされ、それが恋愛の進展の指標となった。
(3)『蜻蛉日記』に見る苦悩
一方で道綱母は、夫・兼家が他の女性のもとに通い、自分のもとに来ないことに苦悩した。ここには通い婚制度が孕む女性側の不安定さも露呈している。
4. 通い婚が可能にした性愛の文化
通い婚は、単なる制度ではなく、性愛文化そのものを形づくった。
和歌の発達:夜の訪問と別れが和歌交換を促進した。
贈答文化:通うたびに贈答が行われ、性愛が文化的に表現された。
文学の誕生:女性は自宅に留まるため、待つ時間に感情を日記や物語に書き記し、性愛の文学的昇華が進んだ。
このように、通い婚は性愛の自由を拡張する一方で、文学と文化の豊穣な基盤をも形成した。
5. 「おおらかさ」とその限界
通い婚は性愛をおおらかに受容する基盤を提供したが、その「おおらかさ」には限界もあった。
女性にとっては夫が来るかどうかが生活の安定を左右し、孤独や不安を生んだ。
嫉妬や独占欲は激しい感情を伴い、六条御息所の生霊のように文学的に表現された。
政治的婚姻では、恋愛感情が二次的に扱われる場合も多く、女性の心情との齟齬を生んだ。
つまり、「おおらかさ」は一方で人間的葛藤や苦悩を不可避に孕んだ柔軟性でもあった。
小結
平安時代の結婚制度である通い婚は、現代の夫婦同居制度とは大きく異なり、男女の恋愛や性愛に独特の自由とおおらかさを与えていた。
男性は複数の女性に通い、女性もまた複数の恋を経験できた。
和歌や贈答を通じて性愛が文化化され、文学に昇華された。
一方で嫉妬や孤独という負の感情も日記文学に赤裸々に記録された。
この二面性こそが、平安時代人の性愛観を特徴づけるものである。彼らは性を恥じず、むしろ人間存在の核心として受け止め、それを文化的に洗練させることによって「おおらかさ」を実現していたのである。
第Ⅶ部 宗教と性—禁欲と享楽のあいだ
1. 宗教が規定した性愛の二面性
平安時代における性愛は、文学や宮廷文化の中ではおおらかに享受されていたが、同時に宗教的規範の下では禁欲の対象ともされていた。
仏教は平安期に深く浸透し、性的欲望を煩悩のひとつとみなして厳しく戒めた。しかし現実の宮廷社会では、恋愛や性愛が生き生きと展開していた。この矛盾こそが、当時の人々の性愛を形づくる大きな背景であり、禁欲と享楽が常に共存する緊張関係を生み出していた。
2. 仏教における性の位置づけ
(1)戒律と禁欲
出家者にとって、性は最も大きな禁忌であった。淫欲は六欲のひとつであり、解脱を妨げる煩悩として忌避された。特に女人は「五障三従」の教えのもと、しばしば「穢れ」の存在として位置づけられた。
(2)しかし一方での救済観
他方、阿弥陀信仰や観音信仰の広まりにより、性愛に苦しむ人々は「救い」を求めることができた。愛欲による苦悩は罪であると同時に、仏への帰依のきっかけともなった。
この二重性が、平安時代人の心情をより複雑なものにしている。
3. 神道における性の肯定
仏教が禁欲を説いたのに対し、日本古来の神道は性に対して比較的おおらかであった。
(1)神話における性
『古事記』『日本書紀』には、伊邪那岐・伊邪那美の性行為を通じた国生み神話が描かれている。性は生命創造の源であり、神聖な行為であった。
この観念は平安時代にも継承され、性は汚れであると同時に、豊穣と繁栄を生む聖なる力として受け止められた。
(2)年中行事に見る性の象徴
田植え祭や豊穣祈願の祭礼では、性器を象った御神体が登場することもあった。宮廷社会の洗練された恋愛文化の背後には、こうした民間レベルでの性の肯定的儀礼が存在していた。
4. 陰陽道と性の呪術性
平安時代の宮廷では陰陽師が活躍し、陰陽道が日常生活に深く浸透していた。
(1)性と方位・時刻
男女の逢瀬においても「方違え」「日選び」が重要視され、性愛は運勢や呪術と結びついていた。適切な時刻や方角での関係は吉とされ、逆は凶を招くと考えられた。
(2)怨霊と性
六条御息所の生霊譚に見られるように、性愛は怨霊を生み出す危険を孕んでいた。強烈な愛欲や嫉妬が霊的な力に転化し、相手を害する存在になると信じられていたのである。ここには、性愛が呪術的恐怖と不可分であった側面が見える。
5. 文学に表れる禁欲と享楽の交錯
(1)『源氏物語』の宗教的響き
光源氏は多くの恋を楽しむが、物語後半には出家者が相次ぎ登場し、愛欲の虚しさが強調される。特に末摘花や女三の宮の物語には、性愛の果てに待つ出家と解脱の道が描かれ、享楽と禁欲の両義性が物語に深みを与えている。
(2)『蜻蛉日記』における仏教的救済
夫の浮気に苦しむ道綱母は、しばしば仏に救いを求める。性愛の苦悩は煩悩であるが、それを経て仏へ縋る心情が記録されている。
(3)『往生要集』と性愛
源信の『往生要集』(985年)は、性欲を「地獄に堕ちる因」として厳しく描く。だが同時に、阿弥陀仏の救済を説き、愛欲に悩む人々が往生を願う拠り所を与えた。
6. 宮廷社会における二重意識
平安貴族たちは、日常生活では和歌や贈答を通じて性愛を享受しながらも、死や病に直面すると宗教的懺悔へと傾いた。
宴や恋 → 官能的・享楽的
病や老い → 出家や仏道への傾斜
この「享楽と禁欲の往還」が、平安人の生のリアリティを形づくった。
7. 総合的考察
平安時代の日本人は、性愛を
仏教 → 煩悩・禁欲の対象
神道 → 豊穣・生命の源としての肯定
陰陽道 → 吉凶を左右する呪術的営み
という三つの枠組みで捉えていた。
つまり彼らにとって性愛は、単なる私的行為ではなく、宗教的・社会的・呪術的な重層性を持つ現象であった。その結果、性愛は罪と快楽のはざまに位置し、禁欲と享楽を行き来する「おおらかな揺らぎ」として体験されたのである。
小結
平安時代における宗教と性の関係は、単純な抑圧ではなく、禁欲と享楽を同時に抱え込む複雑な構造であった。性愛は仏教的には罪とされつつも、神道的には祝福され、陰陽道的には運命を左右するものとされた。この重層的な宗教意識こそ、平安人の性愛観に奥行きを与え、「おおらかさ」と「畏怖」とを併せ持つ文化を育んだのである。
第Ⅷ部 平安後期の変化と恋愛観の成熟
1. 平安後期という時代的転換点
平安後期(11世紀後半〜12世紀)は、摂関政治から院政へと権力構造が変化し、貴族社会のあり方も大きく揺らいだ時代である。武士の台頭、荘園制の展開、仏教的救済思想の深化など、社会全体に動揺と再編が進んだ。この流れは、恋愛や性愛のあり方にも影響を与えた。
前期:華やかな宮廷文化の中で、恋愛・性愛は遊戯性を持つ「おおらかさ」として享受された。
後期:宗教的な死生観の強化、武士階級の登場に伴う倫理の変化により、恋愛は次第に**「成熟」や「内面的深化」**を伴うものへと変化した。
2. 宮廷恋愛の変質
(1)政治的婚姻の色合いの強化
院政期には天皇や上皇の后妃となる女性が増え、政治的婚姻が一層制度化した。恋愛の自由度は減少し、女性にとって婚姻は家の存続と権力の結合という側面を強く帯びるようになった。
(2)私的恋愛の余地
しかし一方で、『讃岐典侍日記』や『建礼門院右京大夫集』のように、個人的な恋の感情を繊細に記す女性文学が現れた。これらには、愛の喜びだけでなく、失恋や別離、死別に伴う深い情念の成熟が表れている。
3. 文学に見る「成熟した愛」
(1)『讃岐典侍日記』
堀河天皇に仕えた作者は、帝との親密な関係を日記に綴った。だがそこには単なる艶やかな関係ではなく、帝の死を悼む深い愛情が描かれている。性愛の享楽よりも、死によって裏打ちされる永遠性への希求が強調される。
(2)『建礼門院右京大夫集』
平清盛の甥・平資盛との恋愛を詠んだ歌群では、戦乱の中での恋の儚さが浮かび上がる。
「世の中を憂しとやさしと思へども 飛び立ちがたき心なりけり」
ここには、性愛が単なる享楽ではなく、生と死を見つめる契機となる成熟が見られる。
(3)和泉式部から後期女性歌人への変化
和泉式部のような奔放で情熱的な性愛表現に対し、後期の女性歌人は「哀しみ」や「別れ」を強く意識する。性愛は自己表現の手段であると同時に、人生の無常を体感する場として深まっていった。
4. 宗教的深化と性愛
(1)無常観の広がり
平安後期は「末法思想」が広がり、人々は現世の無常を強く意識するようになった。性愛もまた無常の一部として捉えられ、刹那的な快楽の裏に虚しさが強調された。
(2)出家と恋の終焉
『源氏物語』後半(宇治十帖)や、後期日記文学では、愛の終わりはしばしば出家や宗教的救済へと接続される。性愛は現世的な喜びであると同時に、仏教的救済を求めるきっかけとなった。
5. 武士の台頭と恋愛観の変化
平安後期には武士階級が政治の表舞台に登場する。武士社会では、貴族のような「通い婚」や歌による恋愛儀礼は次第に影を潜め、婚姻はより家制度的・実利的な性格を帯びるようになった。
しかしその一方で、『平家物語』に見られるように、恋愛は戦乱の中での哀惜や無常を象徴するモチーフとして描かれ、性愛は生と死を強く意識する叙情性を帯びた。
6. 総合的考察
平安後期の恋愛観は、前期の奔放でおおらかな性愛から、次第に無常を意識した成熟した愛へと深化した。
政治的婚姻 → 家と権力を結ぶ制度化
個人的恋愛 → 哀しみや死別の経験を通じた精神的成熟
宗教的深化 → 愛欲の無常性を自覚し、出家や救済へと向かう
こうして、性愛は単なる享楽から、人生を省察し、死生観を深める契機へと変容していったのである。
小結
平安後期の恋愛観は、「おおらかさ」を基調としながらも、時代的変化の中でより成熟した形をとった。性愛は遊戯でありながら、無常を映す鏡となり、人間の内面を深く掘り下げるものとなった。
その結果、文学は単なる艶やかな恋愛譚から、人間存在の意味を問う精神的記録へと進化したのである。
終章 愛と結婚の未来像
1. 平安時代から現代への橋渡し
平安時代の恋愛や結婚のあり方は、現代人の感覚からすれば驚くほど「おおらか」であった。
通い婚という制度は、男女の関係に柔軟性と自由を与え、性愛は文学や芸術の中で肯定的に表現された。日記や物語には、愛の歓びと苦悩が赤裸々に記され、和歌や贈答を通じて性愛は「文化」として昇華された。
しかし、平安人もまた嫉妬や孤独に苦しみ、宗教的救済を求めた。性愛は快楽であると同時に無常の象徴であり、禁欲と享楽のあいだで揺れ動く存在であった。つまり、人間にとって愛と性は、時代を超えて普遍的な喜びであり苦悩でもあることが浮かび上がる。
2. 平安の「おおらかさ」が示すもの
平安時代の恋愛観の特徴は、「一人に縛られない関係性の柔軟さ」にある。複数の恋を経験することが社会的に許容され、和歌や文学によってその経験が記録・共有された。
この「おおらかさ」は、今日の「恋愛=一対一で完結すべき」という固定観念を相対化させる。むしろ人は、多様な愛の形を経験し、その中で自らにとっての最適な関係を見出していく存在なのだと、平安文化は語りかけている。
3. 現代における愛と結婚の課題
現代日本では、少子高齢化や未婚化・晩婚化が進み、「結婚は人生の必須条件ではない」という価値観も広がっている。一方で婚活市場は活発化し、アプリや相談所を通じた出会いが一般化した。
ここには平安時代とは異なる「制度的圧力」と「個人の自由」のせめぎ合いがある。
結婚 → 依然として家族制度や経済基盤と結びつく
恋愛 → 個人の幸福追求や自己実現と直結する
平安時代の「おおらかさ」と比較すると、現代はむしろ「自由でありながら制約に縛られる」という逆説を抱えている。
4. 平安文化から学ぶ未来像
平安時代の愛と結婚から、私たちが未来へ向けて学べる点は少なくない。
多様性の尊重
一夫一婦に限定されない恋愛のあり方が存在したことは、現代の多様なパートナーシップの正統性を裏づける。同性婚や事実婚といった新たな結婚形態を肯定する視点を与える。
文化としての愛の表現
和歌や日記に見られるように、恋愛を「記録し表現する」ことが愛を深める行為となった。現代でもSNSや文学、芸術を通じて愛を言語化し、共有することが求められる。
無常観の受容
愛が永遠に続くとは限らないことを平安人は知っていた。その上で刹那を美しく生きた。現代人もまた、関係の終わりや変化を恐れるのではなく、愛の流動性を前提として成熟した関わり方を築く必要がある。
5. 愛と結婚の未来像
未来における愛と結婚は、以下のように展望される。
制度としての結婚は、法的保障や社会的安定を提供するものとして残り続けるだろう。
恋愛や性愛の実践は、AI・テクノロジーを媒介にしつつも、多様性と柔軟性を増していく。
文化的次元では、愛を表現する新しい言語や形式(デジタル表現、バーチャル空間での関係性)が登場するだろう。
平安時代の「通い婚」や「おおらかさ」は、現代にとっての未来像を示す示唆的な先例である。つまり、結婚は必ずしも同居や独占を前提とせず、個人のライフスタイルに合わせて形を変えていく可能性がある。
結語
平安時代の日本人が示した恋愛や性の「おおらかさ」は、決して過去の異文化的逸話にとどまらない。それは、人間がいかに多様に愛し、苦しみ、楽しみ、生きてきたかを示す普遍的な記録である。
そして未来の愛と結婚もまた、この歴史の延長線上にある。私たちは平安の人々のように、愛を畏れず、性を恥じず、文学や文化を通じてその多層性を表現することで、より豊かな人間関係を築いていけるだろう。
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