第1章:序論 — 「やる気がない」という幻想
「やる気が出ない」「どうしても変われない」と語る人は多い。しかし、アドラー心理学ではそのような主張に対して異なる視点を提供する。それは、「やる気が出ない」のではなく、「やる気を出さないという目的をもっている」ということであり、「変われない」のではなく「変わらないという決断をしている」にすぎないというものだ。
アドラー心理学では、すべての行動には目的があると考える。この目的論的視点は、Watts (2013) によっても明確に述べられており、人間の行動は原因ではなく「意味づけられた目的」から説明されるという。
第2章:アドラー心理学の理論的基盤
アドラー心理学にはいくつかの中核的な原理がある。ここでは、「目的論」「自己決定性」「全体論」「社会的関係性」という四本柱に注目する。
2.1 目的論(Teleology)
アドラーによれば、人間の行動は「何かを達成するために起きる」。Allen (1972) は、カウンセリング場面におけるアドラー的インタビューにおいて、クライアントの「動機なき行動」に潜む意図や目的を掘り下げる重要性を論じている。
2.2 自己決定性(Self-determination)
アドラー心理学では、人間は「環境の被害者ではなく、自らの選択に責任を持つ存在」として扱われる。自ら「やらない」という選択をしている場合、それを「外的要因のせい」と捉えること自体が回避戦略である。
この視点は、Evans & John (2013) においても示され、変化の可能性を拒否する行動は、実際には主体的に選ばれたものだと論じている。
第3章:ケース1 ― 高校生と「やる気」の幻想
A君(17歳)は大学受験を控え、「やる気が出ない」と語る。親は焦り、塾を増やしたりカウンセラーを紹介したりするが、本人は部屋にこもりスマートフォンに夢中だ。「勉強したい気持ちはあるが、やる気が湧かない」と繰り返す。
3.2 行動の目的分析
この「やる気がない」という状態は本当に本人の意思とは無関係なのか。アドラー心理学的に考えれば、A君は以下のような「目的」に基づいて行動している可能性がある:
失敗するリスクを避けたい(自己保護)
親の期待から逃れたい(対人関係の調整)
自分のペースで進みたい(支配の拒否)
実際、Dinkmeyer (2014) は「劣等感を避ける目的で非生産的な行動を選ぶ若者の例」を数多く挙げており、A君のような状況は典型的な「目的を持った回避」として分類できる。
3.3 カウンセリング的介入
A君に対しては、「やる気があるかどうか」ではなく、「なぜやらないことを選んでいるのか」に焦点を当てた問いかけが有効である。これはアドラーの「勇気づけ(encouragement)」の実践に基づき、Sweeney (1998) によってもその有効性が強調されている。
第4章:変われない自分を演出する心理的利得
アドラー心理学の核心にあるのは、「人は自らの生き方を選択している」という前提である。その選択には、時に本人ですら気づかない「隠れた目的」が存在する。特に「変わりたいのに変われない」と訴える人々の多くが、実は“変わらないことで得られる何らかの利益”を享受しているのである。
この「利益」は、アドラー心理学において**心理的利得(secondary gain)**と呼ばれる。これは直接的に意識されることは少ないが、回避・自己正当化・注目獲得といった多様な機能を果たす。Milliren & Clemmer (2007) によれば、「我々の選択は瞬間的であっても、目的に従って選ばれている」。したがって、「変わらない」こともまた“選ばれた態度”である。
4.2 ケーススタディ:転職を繰り返す女性の語る「自己不信」
Mさん(30代・女性)は、ここ5年で4回転職している。「また人間関係がつらくなって辞めた。私はコミュニケーションが苦手なんです」と語るが、実際には上司からの業務改善提案を一貫して拒否する傾向があった。
アドラー心理学の視点からすれば、Mさんは“人間関係を改善する努力”ではなく“退職する”という選択を繰り返している。なぜならその方が、
自分が傷つくリスクを回避できる
周囲からの「かわいそう」という共感を得られる
「私は努力したけれど無理だった」という自己正当化が成立する
といった心理的利得が得られるからである。
これはWatts (2013)の述べる「非生産的ライフスタイル」の典型である。本人にとっては“自己保護”であっても、行動の選択肢を狭め、長期的な苦しみを深めてしまう。
4.3 「変わらない」ことによる他者コントロール
アドラー心理学では、対人関係をすべての心理的課題の根幹に置く。多くの「変われない」人は、無意識的に“周囲の人を動かす”ためにその姿勢を保持している。
例:大学生のK君
K君(20歳)は、「自分はうつ傾向があり、バイトも勉強もできない」と語る。家では母親がすべてを支え、「仕方ない」と言いながら食事・洗濯・買い物を行う。K君が変わらないことで得ている利得は:
母親の愛情を保持できる(“必要とされる”関係性)
社会的責任から逃れられる
自分の人生に対する説明責任を果たさなくて済む
このように「変わらないこと」は、他者への操作的機能を持ち得る。これはRyan & Lynch (2011)が述べる、「自己概念と現実行動の不一致によって他者からの支持を得ようとする行動パターン」と合致する。
4.4 アドラーの提唱する「勇気づけ」と利得の解除
心理的利得を認識し、それに依存しない新しい生き方を選ぶには「勇気」が必要である。アドラーはこのプロセスを**勇気づけ(encouragement)**と呼んだ。
Allen (1972)は、変化を引き出すには、まず「変わらないことで何を得ているか?」という問いを本人が自覚する必要があると説いている。この問いはカウンセリングにおいても極めて有効である。
4.5 「変わらない」選択に潜む逆説
アドラーは、「変わらないことは、人生の目的に向かう一つの“戦略”である」と述べている。それが自己保護であるにせよ、他者操作であるにせよ、選ばれているということは「変われる」ことの裏返しでもある。だからこそ、「変わらない」という自己像は、実は最も変化の余地がある状態なのだ。
4.6 小結:変化しないことで得ている“報酬”に光を当てる
「変われない」と嘆く人にこそ、問いかける必要がある。
「あなたは“変わらないことで何を守っているのか?”」
「もし変わったとしたら、何を失うと感じているのか?」
これらの問いは、自己責任という重荷を突きつけるものではない。むしろ、本当の自由を選び取るための入り口である。心理的利得という“見えざる報酬”を手放したとき、初めて本当の選択が可能になる。
第5章:変化の責任を回避する戦略
アドラー心理学では、「自由」と「責任」は表裏一体である。人は自己決定を通して自由に生きることができるが、その決定に伴う結果もまた引き受けねばならない。そのため、変化するということは、同時にその結果に責任を負うことを意味する。
Watts (2013) は、アドラー心理学の核心にある「責任の原則」について、行動の選択は常に“自己の意志”に基づいており、それゆえ「私は変われない」という表現も実際には“変わらないことを選んでいる”責任があると述べている。
5.2 ケーススタディ:独立を先延ばしにする青年の葛藤
T君(28歳)は、実家に暮らしながら「そろそろ一人暮らししたい、でも今はタイミングじゃない」と語る。安定した職もあり、貯金も十分にあるが、彼は何年もその状態を続けている。
彼の“変わらなさ”には、以下の責任回避の戦略が見られる:
独立後に生活が破綻した場合、「親元を離れたのが間違いだった」と責められるリスク
家事や金銭管理という自己管理能力を問われる現実
「ちゃんとした大人」としての自立した社会的役割の受容
つまり、変化すれば“自己が問われる場面”が増えるため、その責任を避けるために現状維持を選んでいる。これはAllen (1972)が論じる、「行動変化の回避には、対人責任の回避が常に含まれる」という命題に一致する。
5.3 責任を“他者”に預ける言説
アドラー心理学では、問題を他者の責任に転嫁することを**「課題の混同」**と呼び、回避すべきものとする。「親がうるさくて自立できない」「上司がわかってくれないから努力しても無駄だ」などの言い訳は、変化の責任から自分を切り離すための戦略である。
このメカニズムはMilliren & Clemmer (2007)によっても、「我々が自分の選択を正当化するために、どれほど周囲の人間や状況を利用するか」という事例を通して解説されている。
エピソード:キャリアを諦めたSさん
Sさん(40代女性)は、若い頃からデザイナーになりたかったが、親の反対で別の進路を選んだ。現在は「親が許してくれなかったから…」と語るが、真に問題なのは「反対を押し切った責任を負いたくなかった」ことだった。
彼女は、変化によって生じる“失敗の可能性”や“家族との対立”を避けるために、親を言い訳として使ったのである。これは典型的な責任回避型ライフスタイルである。
5.4 責任と向き合うための「目的分析」
アドラーは、あらゆる行動の目的を明らかにすることで、責任の所在を自覚させようとした。カウンセラーは「あなたのこの行動には、どんな目的があるのか?」という問いを通して、クライアントの自己理解を促す。
このアプローチは、Sweeney (1998) の提唱する“勇気づけカウンセリング”でも中心的な手法である。目的を問うことで、変わらないことがどれだけ「自己保身」や「他者依存」によって支えられているかが可視化される。
5.5 自己決定への恐れとその克服
人は本質的に「選ぶことができる存在」である。しかしその選択は、結果に責任を負うことを伴うため、“決断する自由”は同時に“恐怖”をもたらす。だからこそ、変化を避けるという選択には、強い心理的合理性がある。
しかし、Ryan & Lynch (2011)によれば、クライアントが「自律的動機づけ」に目覚めた瞬間、変化に対する恐れは“自分の人生を生きるという責任”に置き換わる。
5.6 小結:責任とは、自分の人生の舵を取ること
変わるということは、リスクを受け入れ、自らの人生の責任者になることを意味する。それは時に苦しく、孤独な作業かもしれない。しかし、アドラーはこう説いた:
「人は過去の被害者ではなく、現在の創造者である。」
この章で明らかにしたように、「変われない」人々は、責任を他者に預けることで一時的に安心を得ているが、それは同時に自由を放棄することでもある。アドラー心理学は、その責任を引き受ける“勇気”こそが、人間成長の鍵だと教えてくれる。
第6章:課題の分離と他者期待の幻想
アドラー心理学における「課題の分離」とは、「それは誰の責任か?」という視点で、自己と他者の境界を明確にする概念である。この原則を知らずに生きていると、人は常に“他者の期待に応えなければならない”“他人がどう思うかが気になる”という不自由な状態に縛られることになる。
Watts (2013) はこの点について、「自分がすべき課題と他者がすべき課題を混同することは、心理的苦痛の大きな源である」と述べている。
アドラーが言うように、「他者がどう思うか」は他者の課題であり、「自分がどう生きるか」は自分の課題である。この原則に基づけば、他者の期待に振り回されること自体が“幻想”であるとわかる。
6.2 ケーススタディ:他者の評価に依存する教師
Hさん(40代)は高校の英語教師であり、生徒や保護者の評価を極端に気にする。「あの先生はわかりやすい」と言われれば元気になるが、「つまらない」とSNSで書かれたと知ると、授業自体を避けたくなるほど落ち込む。
このようなHさんの苦悩の本質は、「自分の授業をどう評価するか」という**“他者の課題”を、自分の課題と混同している**ことにある。Hさんにとっての本来の課題は「生徒に誠実に教えること」であり、「生徒がどう感じるか」「どう評価するか」は、コントロールできない領域である。
Milliren & Clemmer (2007) は、「私たちは他者のフィードバックを尊重しながらも、それに左右されることなく、自分の軸を持つ必要がある」とし、課題の分離が自己確立の核心であると説いている。
6.3 「他者期待」の正体は幻想である
私たちは日常的に「他人にどう思われるか」を気にしすぎる。しかし、アドラーはそれを明確に否定する。
「他人の期待に応えるために生きることは、自己の人生を放棄することに等しい。」
期待されていると感じるものの多くは、実際には「自分が勝手に想像した他者の願望」であり、客観的な事実ではない。アドラー心理学では、これを**「投影された幻想」**と呼ぶ。
例えば、親から「公務員になってほしい」と言われた若者が、「それ以外の人生は親を裏切ることになる」と思い込むことがある。しかし、親自身がそこまで強く望んでいるとは限らず、むしろ本人が「親を喜ばせる」ことを生きる目的にしてしまっているのだ。
6.4 「良い子であること」は誰の課題か
アドラー心理学では、「他者に認められたい」「失敗を責められたくない」「期待に応えたい」という気持ちは、すべて“目的を持った行動”であると考える。これはAllen (1972)が示すように、「対人関係上の優位性を維持するための戦略」であることが多い。
エピソード:家庭内で「いい子」を演じる小学生
Kちゃん(10歳)は、いつも大人の前で「いい子」を演じる。妹の面倒をよく見て、文句も言わず、先生の言うことにも忠実に従う。しかし、夜になるとベッドの中で泣いているという。
Kちゃんにとって「いい子でいること」は、「親の愛情を失わないための戦略」であり、本来の自分の感情を押し殺す犠牲の上に成り立っている。これは「自分の課題を捨てて、親の期待という他者の課題を生きている」状態である。
6.5 「期待を裏切る勇気」が人生を拓く
アドラー心理学では、「他者の期待を裏切る勇気」こそが真の自由をもたらすと説く。変化を妨げているのは“他者の声”ではなく、“他者の声に縛られていたいという自己の姿勢”である。
Dinkmeyer (2014) によれば、親・教師・社会からの期待は常に存在するが、それらを“参考”にとどめ、“人生の責任は自分にある”という意識がなければ、永遠に他人の人生を生きることになる。
6.6 小結:「私は誰の課題を生きているのか?」
本章で取り上げたように、「変われない」背景にはしばしば、“他人の課題を自分のものとして抱え込んでいる”構図がある。課題の分離は、自分を他者から切り離すための冷淡な考え方ではなく、むしろ「他者を尊重するための知恵」でもある。
「自分の人生を生きる」という決断には、「他人の課題を手放す」という選択が必須である。
第7章:自己決定と勇気づけの技法
アドラー心理学の根幹にあるのは、人は自分の人生を自らの意思で決定できるという信念である。これは、「自由意志に基づく選択」と言い換えることもできるが、アドラーはそこに責任と目的の概念を同時に付与している。
自己決定は、「自分の人生をどう意味づけ、どのような目標を持って生きるか」を選ぶということであり、同時に「過去にどのような経験があろうとも、自分の今と未来は自分で創ることができる」という力強い宣言でもある。
Evans & John (2013) はこれを「過去の被害者ではなく、現在の創造者として生きる」態度と表現し、アドラー的介入のすべてがこの一点に収束すると指摘している。
7.2 「自己決定は可能だ」という前提から始めよ
「私は変われない」「どうせ無理だ」「環境のせいだ」といった言葉の背景には、「自分には決定権がない」という前提が隠れている。しかし、アドラーは「環境は影響を与えるが、決定するのは常に“自分”である」と述べる。
この態度は、Ryan & Lynch (2011)による自律性(autonomy)と動機づけ理論にも共通しており、自己決定感が高いほど、人は内発的動機に基づいて行動し、持続可能な変化を実現できるとされている。
7.3 勇気とは「不完全な自分で挑戦する力」
アドラー心理学において最も重要な実践概念が**勇気(courage)**である。アドラーによれば、人生において必要なのは「完全であること」ではなく、「不完全なまま挑む勇気」である。
勇気とは、
間違いを犯すことを恐れない
他人と比較して劣っていても行動する
結果が保証されなくても挑戦する
といった態度を意味する。
Dinkmeyer (2014) は、「勇気とは、自らの不完全さを認めたうえで、行動し続ける姿勢である」と定義し、家庭や教育、職場における対人支援においても最も有効な“エネルギー供給源”であると述べている。
7.4 勇気づけの技法①:存在の価値を伝える
アドラー心理学では、褒める(Praise)よりも**勇気づけ(Encouragement)**が重視される。褒めるとは「他者の評価に基づいて価値を与える行為」であるのに対し、勇気づけとは「存在そのものに価値を見出す行為」である。
技法:
「あなたがそこにいるだけで、意味がある」
「失敗しても、あなたの価値は変わらない」
「やってみようとしているその姿勢が素晴らしい」
Watts (2013) は、これを「無条件の存在承認(unconditional respect)」と呼び、クライアントに対して“変化する勇気”を内面から引き出す唯一の方法だとしている。
7.5 勇気づけの技法②:小さな成功体験を設計する
人は「できた」という経験を積み重ねることで、自己決定の力を育てていく。アドラー心理学では、成功とは大きな成果ではなく、“主体的に一歩を踏み出した事実”にある。
技法:
「今日は5分だけでも行動してみよう」
「昨日より1つでも進んでいれば十分」
「決めたことをやりきったことを一緒に喜ぶ」
これらの積み重ねが、失敗の恐怖を小さくし、自己効力感を回復させる。これはAllen (1972)の提唱する“行動変容のためのアドラー的面接技法”にも通じ、特にうつ状態や回避傾向の強いクライアントに有効である。
7.6 勇気づけの技法③:「意味の再定義」
アドラー心理学の特徴のひとつは、「過去の出来事に新しい意味を与える」ことによって、未来への行動を変える点である。つまり、「私は〇〇されたからダメなんだ」ではなく、「私は〇〇を経験したからこそ△△ができる」という意味づけへの転換を促す。
技法:
「その経験が、あなたをどう成長させたか?」
「その挫折がなかったら、今の気づきはなかったのでは?」
「あなたが苦労した分、人の気持ちに寄り添えるのでは?」
この意味転換によって、「自分の人生には価値がある」と再認識することができる。Sweeney (1998) はこれを“人生の再構成”と表現し、カウンセリングの終盤において重要なプロセスであると説いている。
7.7 小結:「勇気づけ」は人間関係そのもの
勇気づけは、単なる技法ではない。それは、「私はあなたを信じている」「あなたには力がある」という対人関係における態度そのものである。
自己決定の力を取り戻すには、まず「選べる自分」を思い出すこと。そして、その選択に責任を持つ自分を支えるには、他者からの勇気づけが必要である。
変化とは、孤独な戦いではない。「不完全なままでも、挑戦していい」と信じてくれる誰かの存在によって、人は初めて一歩を踏み出せるのだ。
第8章:変化を選んだ人々のエピソード
アドラー心理学が他の心理学と異なるのは、人を「可能性の存在」として信じ、変化を“本人の意志と責任に委ねる”立場をとっていることにある。そして、変化の過程には「目的の再構築」「勇気づけ」「課題の分離」といった一連の心理的プロセスがある。
本章では、以下の3名のエピソードを通して、実際に“変わらない戦略”から“変化する選択”へとシフトした実例を追う。
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