恋愛や結婚に於ける「課題の分離」

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序章:アドラー心理学の背景と「課題の分離」の基本概念

 人間は社会的な存在である。これは誰もが一度は耳にしたことのある言葉であり、その真意について深く考えたことのある人も多いだろう。私たちは他者との関係のなかで生き、喜びや痛みを分かち合い、あるいは対立しながら人生を歩んでいる。その関係性のなかで最も親密かつ複雑なものが、恋愛や結婚というかたちをとるパートナーシップである。 この親密な関係が、しばしば私たちの人生を豊かにし、同時に混乱させる原因にもなるという事実は、多くの人の実感に根ざしているだろう。そしてその混乱の根底にあるのが、「自分の課題」と「他者の課題」とを混同してしまうことである――これが、アルフレッド・アドラーが唱えた「課題の分離(Separation of Tasks)」という概念が、現代にも重要な意義を持つ理由のひとつである。


アドラー心理学の誕生背景
 アルフレッド・アドラー(Alfred Adler, 1870–1937)は、オーストリア出身の精神科医であり、フロイトとの理論的対立を経て独自の「個人心理学(Individual Psychology)」を創設した人物である。彼の思想の中心にあるのは、「人間は目的論的に生きる存在である」という視点である。つまり、人は過去に縛られるのではなく、未来の目的に向かって行動するという見方だ。 アドラー心理学では、人生の課題を大きく三つに分類している。すなわち、「仕事の課題」「交友の課題」「愛の課題」である。このうち、もっとも密接で、最も困難とされるのが「愛の課題」であり、これはすなわち恋愛や結婚、パートナーとの深い関係性にまつわるものである。


「課題の分離」とは何か
 アドラーは、他者との関係性におけるトラブルの多くは、「自分の課題」と「他者の課題」とを混同することによって生まれると説いた。たとえば、子どもが勉強をしないことに対して、親が「どうすればやる気になるか」と悩むこと。これは典型的な「他者の課題」に介入している例である。勉強するか否かは子ども自身の課題であり、親がそれに責任を感じすぎると、関係は歪み、しばしば衝突を招く。 この「課題の分離」の核心は、次のようにまとめることができる。その選択によって最終的な結果を引き受けるのは誰か。この問いに対して「自分でない」のであれば、それは他者の課題であり、尊重すべき境界である。


愛の関係における「課題の混同」
 ところが恋愛や結婚といった関係性においては、感情の濃度が高いため、この課題の分離が極めて困難になる。パートナーが怒っていれば、自分に原因があると思いこみ、なんとかして機嫌を取ろうとする。あるいは、相手の生活習慣や交友関係、将来の進路について口を出しすぎてしまう。 こうした行動は一見「愛情」に基づくものに見えるが、その実、「相手の人生をコントロールしたい」という欲望が隠れていることが少なくない。そしてこの欲望が「課題の混同」というかたちで表出し、やがて共依存や摩擦を生むのである。


「分離」は無関心を意味しない
 ここで誤解してはならないのは、「課題の分離」が冷淡さや無関心を意味するわけではないということである。むしろその逆である。相手の課題に対して尊重の姿勢を持ちつつ、自分の課題を明確にすることは、「健全な心理的距離を保ちつつ支え合う関係」を築くための前提となる。 たとえば、パートナーが落ち込んでいるとき、「自分が元気づけなければならない」と思うのではなく、「相手が落ち込む自由を尊重する」というスタンスに立ち、必要なときに手を差し伸べる。これはアドラー的には「共感」と「尊重」の両立であり、課題の分離が成熟した愛を育てる方法であるといえる。
序章のまとめと展望
 「課題の分離」という概念は、現代においてますます重要性を増している。個人主義が広がる一方で、人間関係における「境界」の混乱が多くの心理的疲弊を生んでいるからである。とりわけ恋愛や結婚といった関係では、「愛すること」と「干渉すること」の違いが曖昧になりやすく、そこにこそアドラー心理学の知見が活かされるべきなのである。 次章からは、恋愛初期における「期待」と「不安」、そして課題の混同がどのように始まるのかを、実際のエピソードや心理学的分析を通じて具体的に描いていく。


第1章:恋愛初期における期待と課題の錯綜
 恋が始まる瞬間ほど、心が軽く、世界が色鮮やかに見えることはない。まるで自分の存在が肯定されたかのような感覚に包まれ、相手の些細な言葉や仕草に胸が高鳴る。だが、その甘美な感情の裏側には、すでに「課題の錯綜」が静かに始まっていることを、私たちはなかなか自覚できない。


恋愛初期の「期待」は誰の課題か?
 たとえば、ある女性が交際初期に「毎日LINEで連絡が欲しい」と感じるとしよう。彼女はそれを当然の期待として抱くが、パートナーが毎日連絡をしないと、不安や怒りが湧いてくる。彼に「なんで連絡くれないの?」と責めると、彼は「忙しかった」と言い訳する。それでも彼女は納得できず、「私のことを大切にしていないのではないか」と疑念が生まれる。 ここで起きているのは、まさに課題の混同である。「連絡をするかどうか」は相手の課題であり、それに対する「不安や寂しさ」という感情は、自分自身の課題である。だが、多くの恋愛において、この境界は曖昧にされ、いつしか「連絡してくれないあなたが悪い」「安心させてくれないあなたに問題がある」といった歪んだ構図が形成されていく。


共感という名のコントロール
 恋愛の初期段階では、相手の行動ひとつひとつが「自分へのメッセージ」として解釈されやすい。食事の誘いが減れば「もう冷めたのかもしれない」、SNSの反応が鈍ければ「他に気になる人がいるのでは」といった疑念が募る。 しかしアドラー心理学では、「相手が何を感じ、どう行動するかは、その人自身の人生の目的に基づく選択である」とされる(Britzman & Sauerheber, 2014)。つまり、相手の反応に自分の価値や存在理由を結びつけてしまうと、過剰な期待や支配が始まる。これが「共感という名のコントロール」である。


実例:LINEの「既読」に翻弄される日々
 ある大学生の例を挙げよう。彼女は新しく出会った男性と連絡を取り合い、週末にデートを重ねていた。だが、彼からの返信はまばらで、既読になっても半日以上返ってこないことも珍しくなかった。 彼女は「自分に興味がないのでは」「何か悪いことをしたのか」と考え、次第に不安になっていく。眠れぬ夜を過ごし、最終的には「あなたの返信が遅いと不安になる。もっとこまめに連絡して」と訴えた。 彼は「忙しいだけで、気持ちは変わっていない」と答えたが、彼女の心には届かなかった。ここにおける混同は明白である。「不安になるかどうか」は彼女自身の課題であり、「いつ返信するか」は彼の課題である。それを混ぜてしまったとき、二人の関係性は「相手を変える」ことに重きが置かれ、結果として緊張感と失望が積み重なっていった。


愛とは「他者を変えようとしないこと」
 アドラーが述べたように、「愛とは、他者を変えようとせず、その人のままでいることを受け入れること」である。恋愛初期における課題の錯綜は、相手を好きになればなるほど強まる傾向がある。だが、だからこそ「この感情は自分の課題だ」と一度立ち止まり、感情と行動の境界線を見極めることが重要になる。 Kern(1989)は、アドラー派のカップル療法において、恋愛初期の段階でいかに「自他の心理的課題を整理するか」が、関係の長期的安定に影響を与えると指摘している(Kern, 1989)。


課題の分離がもたらす自由と信頼
 恋愛初期における最大の誤解は、「相手を理解しきれば関係はうまくいく」という幻想である。だが、完全な理解も、完全な安心も存在しない。あるのは、「不確実性を抱えることを受け入れる自由」と、「相手の人生に介入しない信頼」である。 連絡が遅れても、「彼は彼の時間を生きている」と認識すること。返事がそっけなくても、「私の価値とは無関係だ」と受け止めること。それが課題の分離であり、その積み重ねが健全な関係性の礎となる。


第1章の結論と次章への導入
 恋愛初期は、期待と理想に満ちた時期である。しかしその裏には、「私を愛してほしい」「もっと理解してほしい」という欲望が複雑に絡み合い、容易に課題の境界を曖昧にしてしまう。だが、それを「愛情」や「誠意」と混同せず、互いの人生の課題を尊重し合う視点を持つことができれば、恋愛はより成熟したかたちへと進化していく。 次章では、「共依存関係の形成と課題の混同」をテーマに、課題の境界線が崩れたとき、どのように依存と支配の構造が生まれるのかを掘り下げていく。


第2章:共依存関係の形成と課題の混同
 「あなたが幸せでないと、私も幸せになれない。」 一見すると愛情深く聞こえるこの言葉の裏には、深刻な心理的混乱が潜んでいることがある。それは、相手の感情や選択を自分のものとして抱え込むことで、知らず知らずのうちに「他者の課題」に侵入してしまう構造である。アドラー心理学が提唱する「課題の分離」の視点から見れば、これはまさに共依存の原点である。


共依存とは何か
 共依存とは、本来はアルコール依存症者のパートナーが、その行動に過剰に反応・適応することから提唱された概念であるが、現在ではより広く、他者の課題に過度に巻き込まれ、自分の人生の選択を見失っている状態を指す。恋愛や結婚においては、「相手の幸福や安定を自分の責任と捉える」「相手を助けなければ関係が壊れると思い込む」といった心理構造がこれに該当する。 アドラー心理学では、こうした状態を「課題の混同」と位置づけ、それが自他の境界の喪失を招き、やがて関係の中毒的依存や支配構造に発展することを警告している(Carlson & Johnson-Migalski, 2017)。


実例:心配という名の支配
 ある主婦の事例がある。夫は職場でのストレスをきっかけに無口になり、帰宅後も会話が減っていった。彼女は「夫が何を考えているのか分からない」と悩み、毎晩のように「大丈夫?」「何かあったの?」と尋ねた。最初は「心配してくれてありがとう」と言っていた夫も、やがてその問いかけにイライラし始め、「放っておいてくれ」と言い出すようになる。 このとき妻は、「夫の心を理解し、元気にさせること」が自分の役割であり、責任だと信じていた。だが、それは本来夫の内面という**“彼の課題”**に踏み込んだ行動であり、彼の自己調整能力や自立性を奪う結果となっていた。 彼女は、「自分が支えなければ夫は壊れる」と信じることで、自分の存在意義を確認していた。これは、支援という名の支配であり、共依存の典型である。


互いの不安を餌にした依存の連鎖
 Leggett(2006)の研究では、夫婦関係における幸福度と社会的関心の相関性が示され、共依存傾向のある関係では、社会的関心(他者への利他的共感)が低くなる傾向があるとされている(Leggett, 2006)。これは、相手を思いやるようでいて、実際には「相手を通じて自己の不安を解消しようとする」内向きの動機にすぎない場合があるということである。 つまり、「相手を大切にしたい」という動機が、実は「自分が安心したい」から来ていることに気づかない限り、共依存は終わらない。


自己犠牲と自己喪失のあいだ
 共依存に陥った人々は、しばしば「私はこんなに尽くしているのに、なぜ報われないのか」と感じる。だが、その「尽くす」という行為が、実は他者の課題に過剰に介入し、自分の課題から逃避している可能性もある。 例えば、相手が仕事で失敗したときに、「私の支え方が足りなかったせいだ」と感じたり、相手が浮気をしたときに「私に魅力がなかったから」と自分を責めるのは、相手の行動の責任までを自分が引き受けようとしている状態であり、それが自己犠牲的であればあるほど、自己喪失に近づいていく。


境界線の再構築:課題の分離による回復
 共依存から脱却する第一歩は、「それは私の課題なのか?」と自問する習慣である。相手が悲しむこと、怒ること、失敗すること、それに対して自分がどこまで関与するべきかを見極めるには、「その結果を最終的に引き受けるのは誰か?」というアドラーの問いを常に持つことである。 Alkhazalehら(2024)は、大学生の恋愛関係における親密さへの恐れと共依存傾向に注目し、課題の混同を避ける教育的介入の重要性を論じている(Alkhazaleh & Alkhawaldeh, 2024)。このような心理教育が、関係性の質を高める上で極めて重要であることが示されている。


共依存から「共同の課題」へ
 アドラー心理学において、「愛の課題」は個人の課題ではなく、二人で協力し合う“共同の課題”であるとされる。だが、そのためにはまず、個人が自立した存在であることが前提となる。自分自身の人生に責任を持ち、相手にもその責任を尊重すること。これができたとき、ようやく真の意味での“共にある関係”が成立する。


第2章の結論と次章への橋渡し
 共依存は、一見すると強い愛情の表れのように見える。しかしその実体は、「課題の混同」による支配と従属の構造であり、それは相互の成長や成熟を妨げる関係である。課題を切り分け、相手の自由と責任を尊重することは、自分自身の自由と責任を取り戻すことでもある。 次章では、結婚生活における「役割分担と心理的境界」について掘り下げ、課題の分離が日常的な夫婦生活にどう活かされるかを実例と共に考察していく。


第3章:結婚生活における役割分担と心理的境界
 結婚とは、愛情の延長線上にある制度であり、同時に「共同生活」という現実の共有でもある。家事、育児、収入管理、親族との付き合い――そこには多くの「役割」が存在し、それをどう分担するかによって、夫婦の心理的な距離と関係の質が大きく変わってくる。 このような分担が「暗黙の期待」や「慣習」によってなされる場合、しばしば課題の混同や境界の侵犯が起こりやすい。アドラー心理学の「課題の分離」は、まさにこの混乱を解きほぐすための指針となる。


結婚=“一心同体”という幻想
 「夫婦は一つにならなければならない」――この価値観は文化的・宗教的背景に強く支えられてきた。だが、アドラーの視点からすれば、それは非常に危うい幻想である。アドラーは結婚を「二人で成し遂げる人生の課題」と定義し、それぞれが自立した人格として存在することを前提としていた(Britzman & Sauerheber, 2014)。 つまり、結婚とは「融合」ではなく「協働」である。そこではお互いの課題を尊重し合い、自立した個人同士が“交差”することで、健全な夫婦関係が成り立つ。


実例:家事分担をめぐる心理的境界の崩壊
 結婚5年目のA夫妻。夫は外資系企業に勤め、妻はパート勤務と家事を両立している。日常生活の中で、妻は次第に「どうして私ばかりが家事をしているのか」と不満を抱くようになった。ある日、「あなたももっと家事をして」と訴えると、夫は「俺のほうが稼いでいるだろ」と反論した。 このやり取りの背景には、夫婦それぞれが自分の役割を「当然のこと」と思い込んでいる構図がある。妻にとっては、「家庭内の快適さを保つ」ことが自分の課題であり、それを支えてくれない夫に対して不満が蓄積する。一方で、夫は「経済的に支える」ことが自分の課題だと思っており、家庭内のことは「自分の領域外」と感じている。 このように役割の境界が曖昧なまま「相手も当然こうすべきだ」と期待することが、課題の混同であり、夫婦間の摩擦の原因となる。課題の分離が行われていれば、「どこまでが自分の責任で、どこからが相手の裁量か」が明確になり、交渉の余地が生まれる。


相互依存ではなく「相互尊重」へ
 J. Carlsonらによるアドラー的カップルセラピーでは、「心理的境界を保ったまま協力関係を築くこと」が強調されている(Carlson & Johnson-Migalski, 2017)。共に住み、子どもを育て、人生を共にするという極めて親密な関係であっても、そこには明確な「あなたの課題」「私の課題」が存在し、その線引きがあいまいなままでは、不満と摩擦が生まれる。 たとえば、「夫が子どもの教育に無関心である」と妻が感じたとき、それを「なんとかさせよう」として夫に干渉すると、かえって反発を招く。ここでのポイントは、「子どもにどんな関わり方をするかは夫の課題」であるということ。そして「自分はどう子どもに関わるか」が自分の課題である。相手を変えることはできないが、自分の姿勢を整えることはできる。これが課題の分離の本質である。


実例:義理の親との関係は誰の課題か?
 結婚生活において多くの夫婦が直面するのが、親族との関係である。特に妻と姑、夫と舅のあいだで板挟みになるケースは頻繁に見られる。 ある夫婦では、妻が義母の過干渉に悩み、「あなたがもっとはっきり言ってくれればいいのに」と夫に責任を押し付けていた。一方の夫は、「そんなに気にするなよ」と言って逃げる。ここでも、「親との関係の調整」は夫の課題であり、妻がそれを引き受けてしまうと、心理的な重荷が過度にかかる。逆に、夫が「妻と母の関係を良好に保つこと」を自分の役割だと過剰に思い込めば、それもまた他者の課題への介入となる。 課題の分離の観点では、「妻と姑の関係は、それぞれが築くもの」であり、夫はその間に立って一方の感情を代理してはいけない。


境界線が守られた夫婦関係の美徳
 結婚生活における摩擦の多くは、「自分の正しさを相手に押し付けること」から生まれる。役割分担の不均衡も、義務感や文化的期待の押し付けによって悪化する。これを防ぐには、まず**「それは誰の課題か?」を繰り返し問い直すこと**が必要である。 相手が何を選択し、どんな行動を取るかは、その人の人生の責任である。そして自分がどう反応し、どう意思決定するかは自分の課題である。この線引きができていれば、過干渉にも無関心にもならず、「距離のある親密さ」という成熟した夫婦関係が築かれていく。


第3章のまとめと次章への橋渡し
 結婚は「共同生活」であると同時に、「個の独立性を維持する努力」でもある。役割を分担しながらも、心理的には自立した個人として存在し合うこと――それがアドラー心理学の目指す夫婦関係の理想である。課題の分離は、相手を操作せず、自分を犠牲にせず、尊重と協働を実現する鍵となる。 次章では、「子育てと夫婦関係における課題の再定義」をテーマに、育児という非常に感情の濃い課題が、どのように夫婦間の課題の境界を揺るがし、再構築させるのかを論じていく。


第4章:子育てと夫婦関係における課題の再定義
 子どもが生まれる瞬間、それまで二人だった世界に「第三の存在」が加わる。この出来事は、結婚生活において最も大きな転機であると同時に、夫婦それぞれの「人生の課題」を根本から見直す契機となる。 アドラー心理学では、子育てもまた「人生の三大課題(仕事・交友・愛)」の延長として捉えられる。とりわけ「愛」の課題に属しながら、社会的責任や育成という要素も含まれる子育ては、夫婦それぞれの課題が交差しやすい領域でもある。そのため、課題の境界が曖昧になると、相互不満や育児ストレス、夫婦間の対立が激化する傾向がある。


子どもは“夫婦の鏡”である
 子育ては、「親としてのあり方」を問うと同時に、「夫婦としてのあり方」を浮き彫りにするプロセスである。CarlsonとDinkmeyer(1987)は、アドラー派の家族療法において「親の育児スタイルと夫婦間の相互尊重のあり方」が密接に連動していると述べている(Carlson & Dinkmeyer, 1987)。 たとえば、子どもが片方の親に甘えすぎると、もう一方が疎外感を覚える。夜泣き対応やおむつ替えの頻度が偏れば、「私ばかりが育児をしている」といった不満が募る。こうして育児は、親としての課題であると同時に、夫婦間における“公平感”の課題として現れる。 このときに求められるのが、「子育てにおける課題の分離と再定義」である。


実例:子どもの夜泣きをめぐる心理的課題の錯綜
 0歳児を育てるB夫妻のケース。妻は産後の身体的負担と睡眠不足で極度に疲労していたが、夫は仕事で帰宅が遅く、夜泣き対応はほぼ妻の役割となっていた。ある日、妻は「私は母親として当たり前のことをしているのに、あなたは父親として無責任だ」と爆発した。 ここで混同されているのは、「夜泣きにどう対応するか」という具体的な育児課題と、「相手がどんな親であるべきか」という期待の課題である。 アドラー心理学では、「誰の選択が、誰に最終的な影響を与えるのか?」という問いが、課題の分離の基準となる。夜泣きにどう対応するかは、物理的には夫婦どちらかが引き受ける必要があるが、「どちらが対応すべきか」という価値判断の押し付け合いは、相手の課題に干渉していることになる。 B夫妻に必要だったのは、「夜泣きにどう対応するか」というタスクを夫婦の“共同の課題”として再定義し、役割を協議することだった。


「良い親」幻想と自己課題の迷走
 育児においてしばしば見られるのが、「良い母親」「理想の父親」といった社会的期待に縛られ、自分の本来の課題を見失ってしまうケースである。これは、自分自身の育児スタイルや価値観を外部基準で測ろうとすることで、自律性が失われていく過程でもある。 Kern(1989)は、アドラー的子育てのなかで「親の自己受容」が子どもの健全な自立を促す鍵であると述べている(Kern, 1989)。自分自身の課題をしっかり担うことで、子どもにとっても「課題を自分で引き受ける」モデルとなる。


子どもの課題 vs 親の課題
 たとえば、子どもが宿題をしない、登校を渋るといった場面において、親が「やらせなければ」と思うと、そこにはすでに課題の混同がある。宿題をやるかどうかは子どもの課題であり、親の課題は「それを見守る姿勢を保つ」ことである。 Rosenfeld(2021)は、離婚後のコペアレンティングにおいても、「子どもの意思を尊重する親の態度」が、子ども自身の課題意識を育てることにつながると述べている(Rosenfeld, 2021)。育児の本質は「制御」ではなく「支援」であり、子どもが課題に向き合うプロセスを奪わないことが親の責任となる。


育児が夫婦関係を再定義する
 子どもという“第三者の課題”が加わることで、夫婦はそれまで見えなかった自分たちの未分化な課題と向き合うことを余儀なくされる。これは葛藤でもあり、成長の機会でもある。 Leggett(2006)の研究では、育児ストレスの高い夫婦ほど、互いの課題を共有せず、相互不満が蓄積している傾向が強いとされている(Leggett, 2006)。課題を共同で担うというのは、「すべてを半分ずつやる」という意味ではなく、「どこが誰の領域で、どこを共にするか」を話し合い、合意することを意味する。課題の再定義がもたらす関係の進化 育児は親の成長のためにある――この考え方は、アドラー心理学の根幹にも流れている。子どもが成長するように、親もまた自分の課題に向き合い、過去の価値観を脱ぎ捨て、新たな自分を獲得していくプロセスである。 そしてその過程で、夫婦は「相手の親としての姿」に新たな一面を見いだし、再び“パートナーとしての信頼”を構築していくことになる。課題の再定義は、家族というシステム全体をより柔軟で成熟したものへと導く。


第4章のまとめと次章への導入
 子育ては、夫婦関係を映し出す鏡であり、再構築の触媒である。課題の境界が曖昧なままでは、親子関係も夫婦関係も混乱する。だが、それぞれの課題を明確にし、共同の課題として再定義することで、家族の中に健全な相互尊重の文化が育まれていく。 次章では、こうした夫婦関係や親子関係が破綻した後――すなわち離婚や別居の場面において、どのように「課題の分離」が再び鍵となるのかを、「離婚と再構築に見る課題の分離の応用」として論じていく。


第5章:離婚と再構築に見る課題の分離の応用
 結婚が始まりであるならば、離婚は終わりなのか――多くの人がそう考えがちだ。しかし実際には、離婚は終焉ではなく、「別のかたちでの関係の再編成」である場合が多い。とりわけ子どもがいる夫婦にとって、離婚は「親としての関係性を継続しながら、夫婦としての関係性を終了させる」という、きわめて複雑な課題である。 このような転換点において、アドラー心理学の「課題の分離」は、その混乱を整理し、再構築の基盤を与える重要な思想的ツールとなる。


離婚とは、共同の課題の「再分割」である
 結婚生活では、数多くのタスクが「共同の課題」として扱われてきた。家計、子育て、親戚付き合い、家庭の維持――それらは、夫婦が協力して担ってきた領域である。 離婚は、それらの課題を再び「誰が引き受けるか」によって仕分けし直す作業でもある。ここで「すべてを公平に分ける」ことに固執すると、かえって対立が深まりやすい。必要なのは、「最終的にその結果を引き受けるのは誰か?」という問いに基づいて課題を再配分する視点である。アドラー心理学が教える「課題の最終責任原則」は、ここでも有効に機能する。


実例:子どもをめぐる共感と干渉のジレンマ
 C夫妻は、離婚後に小学3年生の娘を共同で育てる「コペアレンティング」の形を取ることになった。しかし、父親が娘にスマホを持たせたことに対し、母親が「そんなの早すぎる」と強く反発。面会のたびに口論が絶えず、娘の前で言い争うことも多くなった。 このケースにおいて、**スマホをいつ持たせるかというのは教育方針という“親としての課題”**であり、それぞれの親が異なる見解を持つのは当然とも言える。しかし、「相手の方針を変えさせようとする行為」は、相手の課題への干渉であり、アドラーの立場から見れば「課題の混同」である。 IP Rosenfeld(2021)は、離婚後のコペアレンティングにおける最も大きな障害は「愛の課題の延長で相手を操作しようとする態度」だと述べている(Rosenfeld, 2021)。ここで必要なのは、「自分ができる範囲で最善を尽くすが、相手のやり方を尊重する」という心理的距離感である。


感情の責任は誰が持つか

 離婚に至るまでには、裏切りや失望、怒り、後悔など多くの感情が交錯する。別れたあとも、その感情が尾を引き、「あの人のせいで自分は不幸になった」といった被害者意識に苦しむ人も少なくない。 しかしアドラー心理学において、**「どんな感情を抱くかは、本人の課題」**である。相手がどうしたかではなく、「それに対して自分がどう解釈し、どう反応するか」が、自分自身の責任として位置づけられる。 この姿勢は、感情のコントロールにおいて自立を促す。自分の感情を相手に「分からせよう」「謝らせよう」とする行為は、すでに「他者の課題」に侵入している状態であり、そこに解決は生まれない。


「復讐」ではなく「再定義」へ
 離婚の過程では、しばしば「相手に後悔させたい」「苦しませたい」といった衝動が湧く。これは、「課題の分離」ができていない状態の象徴である。 アドラー派のカウンセラーたちは、こうした状態にあるクライアントに対し、「あなたが自分の人生にどう向き合うか、それこそがあなたの課題である」と繰り返し語りかける(Carlson & Johnson-Migalski, 2017)。他者を責めることで人生を再構成しようとしても、それは「自分の課題から逃げること」にほかならない。


新しい関係性を築くために
 離婚後の人生には、新たな恋愛や再婚、再び一人で生きるという選択肢がある。そのどれを選ぶにしても、「過去の関係の中で自分が担っていた課題は何か」「どの課題を他者に押し付けていたのか」を見つめ直すことが、新たな関係性において同じパターンを繰り返さないための鍵となる。 Alkhazalehら(2024)は、若年層における親密性への恐れと共依存傾向が将来の関係形成に与える影響を指摘し、その克服には「自己の課題の明確化」が不可欠であると述べている(Alkhazaleh & Alkhawaldeh, 2024)。


離婚は敗北ではなく、成長の一形態
 離婚を「失敗」と捉えるのは、社会的なステレオタイプに過ぎない。むしろそれは、「ある関係性を完結させることで、より適切な課題のあり方を選択する行為」とも言える。 アドラーは、人生の目的は「貢献すること」であり、そのためには自分自身の役割と課題を正しく担うことが必要だと説いた。離婚という出来事もまた、それを見直す絶好の機会である。


第5章のまとめと次章への導入
 離婚は、破壊ではなく再構築の始まりである。課題の分離を実践することにより、感情的な混乱から抜け出し、新たな関係性において健全な境界線を引くことができる。そしてそれは、単なる「別れ」ではなく、「自己と他者の責任の再配置」という意味を持つ。 次章では、「セラピーにおける実践例と臨床応用」を取り上げ、実際のアドラー派心理療法が恋愛・結婚・離婚といった課題の分離にどう貢献するのか、臨床現場からの視点を掘り下げていく。


第6章:セラピーにおける実践例と臨床応用
 理論は、現実を変えるためにある。とりわけ心理学においては、知識や概念が「行動の変容」や「関係性の改善」にどのように応用されているかが、その価値を決定づける。アドラー心理学における「課題の分離」も、単なる思索的原理ではなく、実際のセラピーにおいて関係性の回復と自己の再構築を促すための中核的技法として広く使われている。


アドラー派セラピーの基本構造
 アドラー派心理療法(Individual Psychology Therapy)は、次の5段階の枠組みで展開されることが多い(Carlson & Johnson-Migalski, 2017):ラポール形成(信頼関係の構築)ライフスタイル(生活様式)の調査洞察の提供再方向づけ(reorientation)と課題の明確化実践的行動の提案と強化 このなかで「課題の分離」は、主に第3〜第4段階で重要な役割を果たす。つまり、クライアントが混同している「自分の課題」と「他者の課題」を区別できるようにし、そのうえで人生の目標に向けた選択を行うように導くのである(Carlson & Johnson-Migalski, 2017)。


実例1:結婚危機にあるカップルの介入
 セラピストK氏の臨床報告では、結婚10年目にして会話がほぼ途絶えた夫婦のセッションが紹介されている。妻は「夫がもっと気遣ってくれればうまくいく」と訴え、夫は「妻の小言が多すぎて疲れる」と応じた。 セッションの中で行われたのは、「相手の反応は誰の課題か?」という問いかけだった。セラピストは、「妻が何を感じ、どう伝えるかは妻の課題」であり、「夫がどう受け取り、どう返すかは夫の課題」であると整理した。 この整理により、それまで「相手を変える」ことに執着していた二人は、「自分がどう変わるか」に注意を向け始め、少しずつ「責任の所在」と「期待の境界」が明確化された。これは、課題の分離が“相互責任の明確化”を通じて関係修復を導いた典型例である。


実例2:恋愛依存症の女性クライアント
 別の事例では、恋愛依存傾向のある20代女性が、いつも相手に「振り回される」「都合よく扱われる」と感じていた。彼女は、相手が連絡をくれない、優しくしてくれないという点にばかり焦点を当てていたが、セラピーでは「なぜ自分がそのような相手に惹かれるのか」「その行動が何を補おうとしているのか」を掘り下げた。 カウンセラーは、「相手の行動は彼の課題」であると明言し、「あなたが不安を感じたとき、どのような行動を選択するかがあなたの課題です」と伝えた。この再認識により、クライアントは「自分の安心を相手に委ねていた」ことに気づき、感情の責任を取り戻し始めた。 このようなケースでは、感情と行動の責任を切り離すことで依存的構造からの脱却を促すという点で、課題の分離が有効に機能する。


実例3:離婚後の共同養育における介入
 IP Rosenfeld(2021)の研究によれば、離婚後に共同で育児を行う場合、「愛情関係としての終結」と「親としての連携」の切り替えがうまくいかないことが多い(Rosenfeld, 2021)。これは「未解決の感情課題(失望・怒り)」が、「育児という共同課題」に干渉してしまうことによる。 アドラー派セラピーではこのような場合、「親としての役割」と「元配偶者への個人的感情」を明確に分けるワークを行う。つまり、**個人の未解決感情は“自分の課題”であり、共同育児の質は“子どものための共同課題”**であることを再定義する。 この介入は、「自分の傷を癒すこと」と「子どもの安定を守ること」という別軸の課題認識を生み出し、親としての協力関係の維持に大きく寄与する。


セラピーの限界と課題
 とはいえ、課題の分離の実践は決して容易ではない。特に、長年の関係性で形成された「課題の混同」は、無自覚的であるがゆえに強固である。クライアント自身が「それはあなたの課題です」と言われたときに、怒りや拒絶反応を示すことも少なくない。 したがって、アドラー派セラピストには、ラポール形成と“共感のなかでの指摘”というバランス感覚が求められる。単に理屈として課題を切り分けるのではなく、「なぜその課題を背負ってしまったのか」というライフスタイル的背景に寄り添うことが重要なのである。


臨床応用の可能性
 Adlerian Family Play Therapy(AFPT)やカップルセラピーの応用では、特に子どもを持つ夫婦に対して、課題の分離を図るワークが効果的であることが報告されている(Chen et al., 2021)。 たとえば、子どもの問題行動に対して、「それを誰の課題と捉えるか」「親はどのような反応をすることが“援助”となるか」を整理することで、親子関係と夫婦関係の両方に明確な“境界線”が引かれるようになる。


第6章のまとめと次章への導入
 「課題の分離」は、理論としての洗練と同時に、臨床的な実効性を兼ね備えた強力な技法である。関係性のなかで混乱していた責任の所在を明確にし、自分の人生を自分で引き受けるというアドラー的主体性を回復するプロセスは、多くのセラピー現場で成果を上げている。 次章では、本書の集大成として「課題の分離がもたらす自由と愛の成熟」というテーマをもとに、この理論が個人の生き方や人間関係にどのような変容をもたらすかを総括的に論じる。


終章:課題の分離がもたらす自由と愛の成熟
 私たちは、他者と共に生きる存在である。親子、恋人、夫婦、友人、職場の同僚……人間関係のなかにこそ、人は育まれ、苦しみ、成長する。特に、恋愛や結婚、そして家庭という親密圏において、感情は濃密になり、距離が近づくほどに課題の境界は見えにくくなる。 アドラー心理学の「課題の分離」は、この親密さに呑み込まれそうになる私たちに、冷静さと尊重、そして自立の指針を与えてくれる。それは、愛することをやめるための手段ではない。むしろ、より成熟したかたちで、他者と向き合うための方法である。


自分の人生を引き受けるということ
 「課題の分離」の本質は、「自分の人生の責任を、自分で引き受ける」というところにある。他者がどう感じるか、どう選択するか、それに自分がどう関与するかという問題は、決して単純ではない。 だが、アドラーが繰り返し説いたように、「他者の人生を生きることはできないし、他者に自分の人生を生きさせることもできない」。私たちは、誰かの選択を支配することも、誰かの感情を変えることもできないのだ。できるのは、自分の感情を引き受け、自分の選択に責任を持つことだけである。


真の自由とは“境界を守れる力”である
 自由とは、好き勝手に振る舞うことではない。アドラー心理学における自由とは、他者に干渉されず、また他者を支配しようとしないという成熟した姿勢である。 恋愛関係において、相手が返信をしないことに不安を感じるとき、その不安に対して「どう行動するか」は自分の課題である。結婚生活で相手が思うように家事を分担しないとき、それをどう捉え、どう伝えるかもまた、自分の課題である。 こうした態度を保つことは、他者と心地よい距離感を築き、“依存”ではなく“信頼”によって支えられる関係性を創出する。そしてそれこそが、アドラーが提唱した「真の共同体感覚(social interest)」の表現でもある。


愛とは「尊重」と「手放し」のバランス
 アドラーが「愛の課題」と呼んだように、恋愛や結婚は人生でもっとも困難な課題の一つである。それは、他者と深く関わりながらも、自分を見失わずにいられるかどうかという、人間の本質的な挑戦でもある。 「愛する」という行為は、単に相手を想うことでも、すべてを与えることでもない。愛とは、相手の課題を尊重し、その自由を手放すことを許容する姿勢である。自分の正しさや価値観を押し付けず、相手が自分の道を歩むことを認める――それは決して冷淡さではない。むしろ、成熟した愛のかたちである。


「課題の分離」は関係を断つ技法ではなく、育てる技法
 誤解してはならないのは、「課題の分離」は関係を切り離す技法ではないということである。それは、関係の中で“自立”と“共感”を両立させるための枠組みであり、むしろ“関係を壊さずに保つ”ための最善の方法論である。 他者の領域を尊重し、自分の領域に責任を持つ。そうした心理的境界があってこそ、信頼も、安心も、そして対話も可能になる。そしてその関係性のなかで、人はより自由に、より誠実に、互いに向き合うことができる。


「課題の分離」が導く愛の成熟
 本書を通じて繰り返し述べてきたように、「課題の分離」は単なる認知技法ではない。それは生き方の哲学であり、人と関わる姿勢そのものである。恋愛のときめきも、結婚生活の協働も、離婚後の葛藤も、子育ての困難も――すべては、他者との境界線をどう引き、自分の課題をどう担うかによって形を変える。 愛は「見捨てないこと」でも「尽くしきること」でもない。愛とは、相手が自分の人生を自分で生きることを許し、応援することであり、そのために自分もまた、自分の課題をきちんと担うことなのだ。 成熟とは、「他者と混ざらないまま、つながっていられること」である。「課題の分離」は、その成熟へと至るための、静かで力強い道筋である。


最後に

 誰かと共に生きるということは、たやすいことではない。だが、自分と他者の課題を峻別し、それぞれを尊重し合えるとき、関係性は不安定な依存から解放され、より信頼に満ちたものへと昇華されていく。 私たちは、互いの課題を尊重できたとき、本当の意味で「自由に愛すること」ができるようになる。アドラーの哲学は、それを可能にするための「心の構造」を、今も私たちに与え続けている。

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婚活の一覧。「決める」という暗示の強さ - はじめに 「決める」という行動は、人間の心理や行動に大きな影響を与える要因の一つです。恋愛心理学においても、この「決める」というプロセスが関与する場面は多岐にわたります。本稿では、「決める」という暗示が恋愛心理に及ぼす影響を詳細に考察し、具体的な事例を交えながらその重要性を検証します。1. 「決める」という行動と暗示の心理的基盤1.1. 暗示効果の基本理論 暗示効果とは、言葉や行動が人の思考や行動に無意識的に影響を及ぼす現象を指します。「決める」という行為は、自己効力感を高める一方で、選択を固定化する心理的フレームを形成します。例: デートの場所を「ここに決める」と宣言することで、その場の雰囲気や相手の印象が肯定的に変化する。1.2. 恋愛における暗示の特性 恋愛心理学では、相手への影響力は言語的・非言語的要素の相互作用によって増幅されます。「決める」という言葉が持つ明確さは、安心感を与えると同時に、魅力的なリーダーシップを演出します。2. 「決める」行動の恋愛への影響2.1. 自信とリーダーシップの表現 「決める」という行動は、自信とリーダーシップの象徴として働きます。恋愛においては、決断力のある人は魅力的に映ることが多いです。事例1: レストランを選ぶ場面で、男性が「この店にしよう」と即断するケースでは、相手の女性が安心感を持ちやすい。2.2. 相手の心理的安定を促進 迷いがちな行動は不安を生む可能性があります。一方で、決定された選択肢は心理的安定を提供します。事例2: 結婚プロポーズにおいて、「君と一緒に生きることに決めた」という明確な言葉が相手に安心感と信頼感を与える。2.3. 選択の共有感と関係構築 恋愛関係においては、重要な選択肢を共有することが絆を強化します。「決める」という行為は、相手との関係性を明確化するための重要なステップです。事例3: カップルが旅行先を話し合い、「ここに行こう」と決断することで、共同作業の満足感が高まる。3. 「決める」暗示の応用とその効果3.1. 恋愛関係の進展 「決める」という行動がもたらす心理的効果は、恋愛関係の進展において重要な役割を果たします。事例4: 初デート後に「次はこの日空いてる?」ではなく、「次は土曜にディナーに行こう」と提案することで、関係が一歩進む。3.2. 関

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