序章:運命の支配者とは誰か?
1900年代初頭のウィーン。アルフレッド・アドラーの診療所には、ある若き女性が訪れていた。彼女は、喘息に苦しみ、過保護な母のもとで育てられ、「自分は何をしても失敗する運命なのだ」と信じていた。医師たちは彼女の病歴や家庭環境を丹念に調べ、「この子は運命的に脆弱だ」と判断していた。だが、アドラーは違った。
彼はこう告げた。「あなたの過去が、あなたをこの場所へ連れてきたのではない。あなたの“目的”が、あなたをここに連れてきたのです」。彼女は驚き、こう返した。「私は弱いから、ここに来るしかなかったんです」。アドラーは首を振り、穏やかに言った。「あなたは、弱いことを“理由”に、助けを求めるという“目的”を選んだ。だからこそ、ここに来たのです」。
この短いやりとりに、アドラー心理学の核心がある。人は「結果」によってではなく、「目的」によって生きている。環境や過去ではなく、「どう生きたいか」という意思が、今の行動を選ばせているのだ。この考えは、現代心理学における自己決定理論(Self-Determination Theory)やポジティブ心理学の発展にも大きな影響を与えている (Oh & Puukari, 2015)。
2. アメリカの貧困家庭に生まれた少年の話
もう一つの例を挙げよう。アメリカのスラム街に生まれ育った少年、ジェローム。父親は不在、母はアルコール依存症。家庭には暴力が日常的にあり、教師たちも「彼の未来は犯罪者か、無職のままだ」と見なしていた。しかしジェロームは14歳のとき、地元の図書館で偶然読んだアドラーの言葉に出会う。
「人間は自らの運命の建築家である」
この一文に衝撃を受けたジェロームは、以後毎日図書館に通い、心理学や哲学の本を独学で読み続けた。周囲が「どうせ無駄だ」と笑うなか、彼は大学奨学金を勝ち取り、後に心理学者となる。彼はのちにこう語っている。
「自分がどこから来たかは重要ではなかった。自分が“どこへ行くか”を決める力が、僕にはあるんだと知ったとき、世界が変わった」。
アドラーはかつて、「運命に逆らう力は、他でもない“勇気”である」と述べている。ジェロームのような人間は、その“勇気”を選び取ることで、自らの物語の主導権を取り戻したのだ。
3. 「運命」の意味を再定義する
アドラー心理学において「運命」は、外的条件や過去の出来事を意味しない。むしろ「人が自らの目的に向かって構築してきた人生脚本」こそが“運命”である。つまり、人は運命の「被害者」ではなく、「脚本家」である。この思想は、決して人を責めるものではない。むしろ、「あなたには力がある」という希望を内包している。
Zoltán Ambrús は、アドラー心理学を「21世紀における教育の統合的基盤」として捉え、「人生の課題に直面したときにこそ、人は自己決定を通じて変わることができる」と強調する (Ambrús, 2011)。
4. 私たちはどう生きるかを「選べる」
最後に、読者自身への問いを投げかけたい。あなたは自分の人生に対して、「これは自分のせいじゃない」「こうなるしかなかった」と感じているだろうか? それとも、「これは自分が望んでいない。だからこそ、違う道を選びたい」と思えるだろうか?
アドラーはこう言っている。
「重要なのは“何が与えられたか”ではない。“与えられたものをどう使うか”なのだ」。
この一節は、教育・福祉・ビジネスなどあらゆる文脈に適用可能な、人生の原則である。
このように、「運命の支配者とは誰か?」という問いに対し、アドラーは明快に答える。「あなた自身である」と。そしてその答えは、私たちに責任と希望、そして勇気を与えてくれる。
第一章:アドラー心理学の基礎 ― 自己決定とライフタスク
アドラー心理学の最大の特異点は、「目的論(teleology)」にある。人は、過去の出来事に因果的に動かされているのではなく、“未来に向かう目的”に沿って自ら行動を選択しているという前提である。フロイトは「無意識の欲望が人を動かす」と語ったが、アドラーは「人は意識的・無意識的に『どう在りたいか』を選び、その目的に合わせて現在の態度を選んでいる」と言った。
この考えは、のちに自己決定理論(Self-Determination Theory)やコーチング心理学にも影響を与え、主体的選択を肯定する現代心理学の礎となった (Oh & Puukari, 2015)。
2. ライフスタイル:人生様式という選択の軌道
アドラーは、人間が10歳までに築き上げる「ライフスタイル(Life Style)」が、その後の生き方や対人関係のパターンを形成すると述べている。これは遺伝や環境の単なる影響ではなく、「その子がどのように世界を解釈し、どんな行動戦略を選んだか」という認知と行動の選択の連鎖である。
例えば、幼いころに親から「お前はダメだ」と言われ続けた子どもがいたとしても、それを「自分は無力だ」と受け止めるか、「自分が証明してやる」と反発するかは、選択可能な“スタイル”の問題である。実際にアドラーは、ライフスタイルとは「選ばれた現実の中の航海図」であると説明している (Ambrús, 2013)。
3. 人生の三大課題:仕事・交友・愛
アドラーは人間の成熟に欠かせない課題として、次の3つを挙げている:
仕事(Work):社会に貢献する能力と姿勢
交友(Friendship):対等な関係を築く能力
愛(Love):深い相互依存関係を築く能力
これらは生きるうえで避けては通れない「人生のライフタスク」であり、どれも「自己決定と社会的責任」を伴う行為である。たとえば、仕事において「やらされ感」に満ちている人と、「この仕事に意義がある」と信じている人とでは、幸福度もストレス耐性も異なる。アドラーは、これらの課題に積極的に向き合うことが「健全なライフスタイル」につながると考えた。
Zoltán Ambrús の研究では、これらのライフタスクに取り組む姿勢が教育や公的機関のパフォーマンスにも影響を与えることが示されている。つまり、個人の選択は社会全体の質にも寄与する (Ambrús, 2011)。
4. 自己決定の力を示す事例:エディットの選択
エディットは40代の看護師で、20年間続けてきた病院勤務に倦怠を感じていた。上司との人間関係も悪く、家庭では夫からの評価も低かった。彼女は当初、「私はこういう人間だから仕方ない」と語っていた。
だが、アドラー派のカウンセラーの介入によって、「何を変えたいか」ではなく、「どんな人生を生きたいか」という問いが投げかけられたとき、彼女は言った。「人の力になりたい。だけど私は自分を犠牲にしてるだけかもしれない」。
そこから彼女は、自分が「犠牲になることで価値を得ようとしていた」ことに気づいた。そして、新たにコミュニティ看護の道に進み、自分で働き方を選ぶフリーランスの医療支援者となった。環境は変わらなくても、「選ぶ視点」が変わることで、運命は変えられるのだ。
5. 自己決定を可能にする「勇気」と「共同体感覚」
アドラー心理学では、「勇気(courage)」とは、困難を選択する心の姿勢であり、「共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)」とは、他者とのつながりの中で自分の役割を見出す感覚である。この二つがなければ、自己決定は利己的な自己満足に終わりかねない。
たとえば、被災地支援に関わった大学生たちは、最初は「何もできない」と語っていたが、現場で「誰かの役に立てる」実感を持つことで、次第に「自分にできることを選び取る」姿勢を持ち始めた。このような変容が、アドラーの言う“運命の主人公としての生き方”である。
結論:選ぶ力が、人生の質を決める
アドラーが示した通り、「人は変われる」のではない。「人はすでに“変わる力”を持っている」。ただ、それを“選ぶ”かどうかが、分かれ道になるのである。
そしてその選択は、孤独な決断ではなく、社会との関係性の中でこそ意味を持つ。アドラー心理学の基礎とは、自己決定と社会的責任を統合する思想なのである。
第二章:事例研究 ―「劣等感」の克服と人生の再設計
アルフレッド・アドラーが提唱した「劣等感(Inferiority Feeling)」は、心理学史において画期的な概念である。フロイトが無意識の葛藤に重点を置いたのに対し、アドラーは「人間は誰しも劣等感を抱えて生まれてくる」としたうえで、それをいかに補償(compensation)し、昇華(sublimation)していくかに人生の鍵があると考えた。
この劣等感は、障害、貧困、教育の機会の欠如、家庭環境といった外的要因に起因するだけでなく、兄弟間の比較、教師や親からの評価、内的自己評価といった社会的・心理的要因によって形成される。だが重要なのは、「劣等感をどう扱うか」こそが人生の質を決定するという視点だ。
アドラーは「劣等感そのものは悪ではない。それを過大に見積もるとき、『劣等コンプレックス』になる」と述べている (Ambrús, 2011)。
2. 片腕のピアニスト:劣等感を創造性に変えた例
あるドイツ人青年、パウルは幼少期に事故で右腕を失った。彼はもともと音楽が大好きだったが、障害を負ったことによって「演奏家にはなれない」と自分を閉ざしていた。周囲も「現実を見ろ」と彼を諭した。
だが彼は、片腕でも演奏できる楽譜を自ら編曲し、左手だけでショパンの『幻想即興曲』を弾き切るまでになった。その努力の過程で、彼は「自分に与えられた制限の中で最大限を尽くす」ことの喜びに目覚めた。
彼はのちに言う。「右手を失ったことは、僕の最大の強みになった。誰もやらない音楽に取り組むチャンスを得たのだから」。
アドラーがいうように、劣等感は人を卑屈にするのではなく、「優越性追求」の起爆剤になり得る。パウルは自己決定を通じて、障害という制約を“運命”ではなく“素材”に変えたのである (Oh & Puukari, 2015)。
3. 教室の隅にいた少女:他者評価の呪縛を超えて
もう一つの事例は、日本の地方都市に暮らす女子高生・美咲である。彼女は小学校時代から「空気が読めない」「遅れてる」と言われ続け、自分のことを「他人より劣っている存在」だと信じていた。
学校ではいつも静かに座っていたが、家庭でも褒められることはなかった。担任教師の心理教育の一環でアドラー心理学のワークショップが行われたとき、彼女は初めて「劣等感は“劣っている事実”ではなく、“そう思い込んでいる感情”にすぎない」と学ぶ。
その日から彼女は、自分の考えをノートに書き出し始めた。小さな自己表現が積み重なるうちに、文化祭で脚本を書いてクラス劇の演出を担当するまでに至った。彼女はこう記している。
「私は“できない子”ではなく、“やったことがない子”だったんだと思う」。
このように、自己認知の再構成は、人生脚本を根本から書き換える力を持つ。アドラーはこれを「人生の再設計」と呼んだ。
4. 劣等感は関係性のなかで克服される
アドラー心理学では、「人は人のなかでしか癒やされない」とされる。自己改善や内省も重要だが、それは対人関係のなかで意味を持つ。
先述の美咲も、担任教師という“共同体感覚”を体現する存在と出会うことで、自分の価値を確認できたのである。
V. Mosiichuk の研究によれば、劣等感の克服には「目的の再設定」と「意味の再構築」が不可欠であり、これはカウンセリングや教育の文脈においても有効である (Mosiichuk, 2024)。
5. 成長とは「勇気の選択」である
アドラーは「人が変わるのに必要なのは知識ではなく、勇気である」と明言している。劣等感を克服し、自分なりの価値を創造するには、「今までと違う行動を選ぶ」という決意が必要なのだ。
それは、新しい職場に飛び込むことかもしれない。自分の気持ちを誰かに伝えることかもしれない。あるいは、誰かを許すことかもしれない。だが、どんな一歩であれ、それは自らの運命を書き換える最初の選択である。
結論:劣等感は「足かせ」ではなく「はしご」になりうる
劣等感とは、人間の不完全性を映し出す鏡である。だがその鏡に映った「小さな自分」を、どう見るかは、本人次第である。アドラーはその力を信じた。そして、私たちにもその力はある。
人生は「与えられたもの」ではなく、「選び取るもの」である。どんなに過去が重くても、そこから“意味”を見出すことで、人は必ず再設計できる――そう、アドラーは教えてくれている。
第三章:社会的文脈と共同体感覚
アルフレッド・アドラーは、人間を根本的に「社会的存在」として捉えていた。つまり、人は他者との関係の中で自己を理解し、目的を見いだし、行動の意味を構築する生き物だということである。
アドラーにとって、心の健康や人生の成功は、個人的な自己実現のみによって達成されるのではなく、むしろ**「他者と共にある」感覚=共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)**の成熟によって完成される。共同体感覚とは、他者への関心、社会への貢献感、自己と世界とのつながりへの意識であり、アドラー心理学の中核をなす概念である (Ambrús, 2011)。
2. 共同体感覚が人生の選択を導く
例えば、ある青年が大企業への就職を辞退し、地方の介護施設に就職する選択をした。周囲は「もったいない」と非難したが、彼はこう語った。
「人に喜ばれたとき、自分の価値を実感できる。だからここで働くことが自分にとって自然なんです」。
この青年の選択は、単なる「自己犠牲」ではない。彼の中には明確な共同体感覚があり、「社会とどう関わりたいか」という指針が人生の舵を取っていた。アドラーが述べた「自分の人生を選び取るとは、社会のなかでの役割を引き受けること」であるという定義に合致している。
Zoltán Ambrús の研究では、教育においてこの共同体感覚を育むことが、生徒の自己効力感や倫理的判断力に直結するとされている (Ambrús, 2013)。
3. 教室で育まれる共同体感覚:対等性の原則
アドラーが重視したのは、対人関係における「対等性(egalitarianism)」である。親と子、教師と生徒、上司と部下というヒエラルキーを超えた「人と人」としての尊重が、共同体感覚の基盤となる。
ある中学校の事例を挙げよう。問題行動を繰り返していた男子生徒が、教師から繰り返し「お前は何がしたい?」と問いかけられる中で、自分が「自分の存在を示したかった」ことに気づき、学級会で自らの意見を言えるようになった。
教師は「罰する」のではなく、「理解する」を選んだ。これにより生徒は「自分もこの教室の一員なのだ」と感じ、関係性の中で自己価値を取り戻していった。
これはまさに、アドラーが「愛と勇気の教育」と呼んだ方法であり、叱責ではなく信頼によって共同体感覚を育てた例である。
4. 「所属感」が運命を変える:ストリートチルドレンの逆転劇
共同体感覚の欠如が悲劇を生む事例として、ストリートチルドレンの心理がある。家庭、学校、地域社会から排除され、「居場所」がない子どもたちは、犯罪や薬物の誘惑に流れやすい。
だが、あるNPOでは、彼らに「責任ある役割」を与えることで変化を生んでいる。たとえば、炊き出しを手伝わせる。初めは受け取る側だった子どもが、他人に配る立場になったとき、彼の目に涙が浮かんだ。
「自分にも人を助けられる価値があるんだって、初めて思えた」
このような「役割の移行」は、アドラーが唱えた「優越性の追求」と「共同体への貢献欲求」の融合であり、劣等感の克服とライフスタイルの変容に直結する。
5. SNS時代の共同体感覚:見せかけのつながりではなく
むしろ、「相手の幸せを願う関係性」「孤独や困難に共に立ち向かう関係性」においてのみ、共同体感覚は深化する。これは個人の課題を「社会的貢献」という文脈で再定義するというアドラー的視点である。
MP McClain は、アドラー心理学に基づく教育実践によって、孤独や疎外感を抱える生徒に対し「仲間として受け入れられる体験」を提供することが、メンタルヘルスにおいて決定的な影響を与えると報告している (McClain, 2005)。
結論:運命の主人公は「他者との関係性」の中で目覚める
「運命の主人公」として生きるには、自分だけに閉じこもっていては不十分である。他者と関わり、社会に貢献し、自分の価値を実感する中で初めて、「選べる人生」が目の前に開けてくる。
共同体感覚とは、「自分はこの世界の一部であり、同時にこの世界を形づくる一員である」という実感だ。この感覚を持てたとき、人はもはや環境の被害者ではなく、人生の構築者として立ち上がることができる。
第四章:現代社会におけるアドラーの再評価(職場・SNS・AI時代の文脈)
21世紀の現代社会は、かつてないほどの「自己選択社会」となっている。職業、ライフスタイル、アイデンティティ、住む場所――私たちは多くの自由を手に入れたように見えるが、その反面、選択肢の多さと孤独、比較の中で「自分を見失う」人が急増している。
このような時代において、「運命の主人公として生きる」ことの困難さはむしろ増していると言える。だからこそ、アドラーの「自己決定」「目的論」「共同体感覚」といった概念は、個人の生き方と社会のつながり方を再定義するための重要な鍵として再注目されている。
2. 職場の中の“劣等感”と評価主義
現代の職場は、KPI・OKR・成果主義など、数値化された「結果」で人が評価されやすい構造を持っている。その中で、「自分は役に立っていない」「替えが効く存在だ」といった劣等感に悩む若手社員が増えている。
しかしアドラーは、「人の価値は“貢献”にある」と言った。つまり「何ができたか」ではなく、「どれだけ他者や社会のために心を向けたか」が人間の尊厳の基準である。この視点は、自己肯定感が揺らぎやすい現代の職場において、精神的な軸として機能する。
たとえば、職場で新卒社員に「あなたがここにいる意味は何か?」と問いかけるマネージャーがいる。数値目標ではなく「貢献感」を意識させるこの問いは、社員の中に「共同体感覚」を育て、持続可能なモチベーションへとつながる。
3. SNS時代の“見せかけの自己”と自己受容
SNSは私たちに、無数の「他者」との接続を与えてくれる一方で、絶え間ない比較や承認欲求の消耗戦をもたらしている。他人の「幸せな瞬間」だけを切り取った投稿を見て、「自分は劣っている」と感じる――これは現代の“情報型劣等感”とも呼べる現象だ。
アドラー心理学はここでも強力な指針を与えてくれる。**「他者との比較ではなく、自分の課題に集中する」**という姿勢だ。これは彼の有名な言葉「課題の分離(Separation of Tasks)」にも現れており、「他人がどう思うかはその人の課題であって、自分の課題ではない」と教えてくれる。
現代におけるこの視点は、SNS疲れ・承認欲求疲弊・自己否定の悪循環から抜け出す鍵となる。実際に、SNS断ちによって自己肯定感が回復した若者の報告や、アドラー式カウンセリングで他者評価からの脱却に成功した例は少なくない (T. Iwai, 2023)。
4. AI時代における「人間らしさ」と貢献意識
ChatGPTをはじめとする生成AIの登場により、人間が持つ「能力」は加速度的に代替されつつある。文章作成、設計、情報分析など、かつて人間にしかできなかったことがAIに取って代わられる中で、若者たちは「自分の存在価値とは何か?」という問いに直面している。
アドラー心理学は、このようなAI時代にも「人間の本質」は失われないと考える。なぜなら、人間の価値は“競争”ではなく“貢献”にあるからだ。AIにできない「共感」「関係構築」「意味づけ」といった領域こそが、人間の真価であり、共同体感覚の核心である。
むしろ、AIの進化によって「効率」や「情報処理」はAIに任せ、人間は「意味と関係性」に集中できる時代が到来している。これは、アドラーが100年前に予見した「人間の社会的使命」が、ますます重要になる未来である。
5. 教育とメンタルヘルス:再評価される“勇気づけ”
学校現場では、自己肯定感の低い子どもたちが急増し、不登校やSNS依存、学力低下が深刻な問題となっている。そんななかで、アドラーが提唱した**“勇気づけ(Encouragement)”**が再注目されている。
勇気づけとは、「できるよ」と結果を求めることではなく、「たとえ失敗しても、あなたには価値がある」と伝える姿勢である。これは、競争や比較に晒される子どもたちにとって、「自分が存在していていい」という深い安定感を与える。
MP McClain の研究によれば、勇気づけと共同体感覚を基盤とした教育プログラムは、学習意欲の向上と社会的行動の改善に顕著な効果があるとされている (McClain, 2005)。
結論:アドラーは「未来」を語っていた
アドラーは過去の人物ではない。むしろ彼の思想は、現代の混迷を照らす“哲学的コンパス”である。
AIによって「知能」が拡張される時代に、人間が守るべきは「つながり」「意味」「目的」であり、まさにアドラー心理学が説いた“共同体感覚”と“自己決定”そのものだ。
職場で、SNSで、教育現場で――あらゆる場面で私たちはいま、「自分の課題に集中し、他者と共に生きる」という原点に立ち返る必要がある。
そしてそのとき、私たちは「運命の主人公」として、再び立ち上がることができるのだ。
第五章:ケーススタディ ― 日本の若者とアドラー流支援の実践例
現代の日本社会において、多くの若者が自己肯定感の欠如、過度な比較、選択のプレッシャー、そして「正解のない時代」を生きる不安の中にある。文部科学省の調査によれば、10代後半〜20代前半の若年層における「自分に自信がない」と感じている割合は7割を超え、OECD加盟国の中でも群を抜いて高い。
このような心理的背景に対して、アドラー心理学は、「選ぶ勇気」と「共同体感覚」の視点から、多くの若者に再出発の機会を与えている。
2. ケース1:不登校の高校生が「社会の一員」へ変わった瞬間
埼玉県のある通信制高校に通う17歳の男子生徒・K君は、中学2年生から不登校を経験し、「どうせ俺なんて」という劣等感を拗らせていた。親との関係も希薄で、学校への通学も月に1度あるかないか。そんなK君に、アドラー心理学を基にした支援プログラム「リフレクティブ・グループ」が導入された。
このプログラムは、自己理解・感情認知・課題分離を中心とするグループセッションで、「他者の人生ストーリーを聴く」ことに重点を置いていた。最初は無言だったK君も、他の仲間の苦しみや乗り越えを聴くうちに、自分の思いをポツリと語り出した。
「俺、ただ誰かに『いてくれていい』って言ってほしかっただけかも」
その後、彼は他の不登校生のメンターとして活動し、「自分にも役割がある」と実感。学校復帰には至らなかったが、地域の高齢者施設でボランティアを始め、「社会の一員」としての手応えを得るまでに至った。これはアドラーの言う「共同体感覚」が芽生えた瞬間であり、支援者にとっても象徴的な成果であった。
3. ケース2:進路を見失った大学生の再起動
都内の私立大学に通うMさん(21)は、就活の時期に「自分には誇れる実績もないし、社会人になれる気がしない」と深刻な無力感を抱いていた。自己PRすら書けない。模擬面接で何度も泣き出す彼女に、大学のキャリアカウンセラーは、アドラー派の心理士を紹介した。
セッションでは、「過去の失敗や環境のせいで動けない」という認知を丁寧に確認し、「あなたは何を望むか」「社会にどう貢献したいか」という目的論的視点に転換していった。数週間後、彼女はこう語った。
「私、今までは“評価される人間になろう”としてた。でも今は、“人の役に立てる人間になりたい”って思うようになったんです」
彼女は地域の子ども食堂の運営スタッフとしてボランティアを始め、最終的には福祉系企業に内定を得た。結果としてキャリア形成にもつながったが、真の意味で彼女が取り戻したのは「運命を選び取る勇気」だった。
4. ケース3:ゲーム依存から社会復帰へ ― 課題の分離の効力
北海道に暮らすTさん(20)は、高校中退後に実家に引きこもり、1日15時間以上ゲームを続ける生活を3年以上送っていた。精神科通院歴があったが、薬物療法では根本的な回復は見られなかった。
結果としてTさんは初めて「自分の選択が自分の生活を作っている」と認識し、少しずつだが、自らアルバイト探しを始めた。現在はコンビニで週3回働いており、「自分の時間をどう使うかは、自分で決めたい」と語っている。
この事例は、依存行動の背景にも“選ばされた感”や“過干渉”があり、それを外すことで自己決定が回復することを示している。
5. 教育現場での制度化の動き
こうした個別事例の積み重ねを受けて、いくつかの自治体ではアドラー心理学に基づく教育カリキュラムが導入されつつある。東京都のある中学校では、「ライフスキル」授業の中に、課題の分離・勇気づけ・共同体感覚といったトピックを取り入れ、子どもたちの社会性と心理的レジリエンスを育てている。
授業後のアンケートでは、「前より友達の話を聞くようになった」「失敗してもいいと思えるようになった」という声が多数あり、実践の有効性が実感されている。
結論:アドラー心理学は“生き直し”の技術である
ここまで見てきたように、アドラー心理学は決して「理論」にとどまらず、「生き方の技術」として若者たちの人生を再起動させている。
劣等感の克服、目的の再設定、役割の発見、社会との再接続――それらを通して、若者たちは「運命の被害者」から「物語の主人公」へと変容していく。
そしてそれは、特別な才能や奇跡を必要としない。「どう生きたいか」を見つめ、そこに向けて一歩を踏み出す勇気があれば、誰にでも可能なのだ。
第六章:まとめ ― 自己決定を支える倫理と共同体的価値観
本稿を通して一貫して論じてきたのは、「人間は自分の運命の主人公である」というアドラー心理学の核心である。だがここで誤解してはならないのは、アドラーの言う「自己決定」とは、孤立した自己完結型の自由ではないということである。
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