第一章:結婚とは「癒し」か「契約」か?
人はなぜ結婚するのだろうか。恋に落ちたから。孤独が怖いから。家族が欲しいから。老後が不安だから。社会的に“ふつう”でいたいから。理由は様々であるが、加藤諦三教授はその著作群で、こうした理由の多くを「幻想」と断じてきた。
「愛されることで自分が癒されると思っている人は、結婚しても癒されることはない」
加藤のこの言葉に象徴されるように、彼は結婚を「癒しの場」として求める態度に対して警鐘を鳴らしている。むしろ結婚とは、自立した二人の人間が“共に在る”ことを選ぶという、「契約」であるべきだと説く。
本章では、「癒し」としての結婚と「契約」としての結婚の違い、そしてそれぞれが人間心理に与える影響について、具体的な事例を交えて論じていく。
癒しを求めた結婚の崩壊――Aさんの例
Aさん(女性・30代)は、子どもの頃から両親の喧嘩が絶えない家庭で育った。特に父親は無口で威圧的、母親は感情の起伏が激しく、「安心して甘える」経験をほとんど持たなかったという。大学時代に初めて交際した男性にのめり込み、彼が見せる優しさに「これが本当の家族なんだ」と思った。
しかし結婚して3年後、夫の態度が冷たくなったと感じ始める。彼は仕事が忙しく、Aさんの不安や孤独に対して無関心だった。Aさんは、頻繁に「どうして私を愛してくれないの?」と詰め寄るようになり、やがて関係は破綻した。
加藤諦三はこう述べている。
「愛されることを求める人は、自分の欠けを相手で埋めようとする。だが、その埋め方はいつも不安と苛立ちを伴う」
Aさんのように、愛されることに依存し、相手からの癒しを期待しすぎると、相手との健全な関係性は築けない。なぜなら、それはもはや“共に生きる”という契約ではなく、“私を癒してくれる存在”という役割を相手に押しつけているに過ぎないからだ。
「契約としての結婚」への視点
それでは、加藤が語る「契約としての結婚」とはどのようなものか。彼は、結婚において最も重要なのは「成熟した人格と対等な関係性」だと繰り返し述べている。
「結婚とは、愛することではなく、愛し続ける決意である」
契約とは一時の感情ではなく、理性的な選択であり、互いの人生観・価値観をすり合わせたうえで成り立つものだ。たとえば、Bさん(男性・40代)は10年以上交際したパートナーと結婚した。二人とも互いの独立性を尊重し、別居婚の形を選んだ。
この夫婦は、経済的にも精神的にも自立しており、相手に過度な期待をせず、生活スタイルや意思決定も話し合いで進めるという「契約的な」関係を築いていた。Bさんは「愛しているが、依存していない」と語る。この姿勢こそ、加藤の理想とする「対等な結婚」である。
幼少期の愛情経験が結婚観に与える影響
加藤諦三は、その著作や講演で幾度となく「結婚とは、過去の感情体験の延長である」と述べている。とりわけ幼少期に形成される愛着スタイルや親子関係が、成人後の結婚観やパートナー選びに直接的な影響を与えるという点を、心理学的な視点から重視している。
愛されなかった記憶が「結婚」に救いを求めさせる
例えば、加藤がたびたび引用する「無条件の愛を経験できなかった子ども」の例がある。幼少期に母親から愛されているという実感が乏しいまま育った子どもは、「いつか誰かが自分を本当に愛してくれる」と期待し、その“誰か”の代表として「結婚相手」に強い意味付けをするようになる。
彼らにとって、結婚とは単なる人生の通過儀礼ではない。それは「心の空白を埋める儀式」であり、「人生をやり直すチャンス」としての意味を持つ。だが、加藤はそうした期待にこそ結婚の落とし穴があると警告する。
「幼少期に得られなかった愛を、結婚で回収しようとする人は、常に不満を抱える。なぜなら、結婚相手は“親の代わり”ではないからだ」
事例:親に愛されなかったC子の“執着の恋”
C子(仮名・20代後半)は、小学生のころから母親に「お姉ちゃんなんだから」と感情を抑えるよう強いられ続けた。自分の寂しさや不安を表現することは「わがまま」とされ、やがて「甘える=悪」と無意識に学ぶようになった。
大学時代、初めて付き合った男性Dに、C子は強烈に依存した。Dは、最初こそ彼女にやさしく接していたが、交際が進むうちに束縛やヒステリックな言動が増すC子に疲弊し、別れを告げた。
C子は納得できなかった。「あんなに尽くしたのに、どうして捨てられたの?」と彼女は泣いたが、その“尽くし”とは、「自分が無償で愛される価値があるかどうかを確かめる行為」だった。加藤が言うように、愛された記憶がない人ほど、愛されたいがために自らの存在を犠牲にする。
「愛された体験のない者は、“試す”ことでしか愛を確かめることができない。そして、試された側は疲れて去っていく」
C子のような人にとって、結婚は「安心の保証」であり、「捨てられない権利」だった。だが、加藤は明確に指摘している。結婚とは救済ではない。結婚しても孤独感は癒されない。むしろ、過去の空虚を埋められなかった現実に直面し、さらに傷つくことになる。
愛着スタイルと結婚選択の関係
心理学においては、幼少期に養育者と築く「愛着スタイル」が、成人後の恋愛や結婚のスタイルに大きく関与するとされている。加藤もこれに類似する理論的背景を著書で展開している。
安全型:適切に愛され、感情表現の自由を許された子どもは、結婚相手との信頼関係を築きやすくなる。
不安型:不安定な愛情や条件付きの愛を受けて育った人は、過度な依存や嫉妬に悩まされやすくなる。
回避型:過干渉あるいは冷淡な養育を受けた人は、親密さそのものを恐れ、距離を保とうとする。
加藤は、特に「不安型」が結婚生活において衝突を招きやすいと指摘する。相手の言動の裏を常に探り、「捨てられる不安」に苛まれ、やがてその不安が現実を引き寄せてしまう。
結婚に対する“救済幻想”の危うさ
「この人と結婚すれば、きっと私の人生は変わる」「誰かと結婚すれば、孤独から解放されるはずだ」──こうした幻想を私たちはどこかで抱いてしまう。映画やドラマ、小説の中では、結婚が“人生のゴール”として描かれ、そこに辿り着けばすべてが報われるような錯覚が広がっている。
しかし、加藤諦三教授は、こうした「結婚によって過去の心の傷を癒し、人生を救ってもらえる」という期待を“救済幻想”と呼び、その危うさを繰り返し説いてきた。
結婚は“人生を変える魔法”ではない
加藤はこう述べている。
「結婚は心の穴を埋めてくれる薬ではない。むしろその穴を直視させられる鏡である」
結婚は、外から与えられる幸福ではなく、内なる成熟によって初めて意味を持つ関係である。自己肯定感の欠如や孤独感、過去のトラウマといった心の未解決課題を抱えたまま結婚したとしても、それは相手に“癒し役”や“人生の代弁者”の役割を強制することになり、結果として関係を歪めてしまう。
事例:Fさんの「結婚すれば救われる」信仰
Fさん(女性・30代前半)は、キャリアウーマンとして活躍しながらも、常に「誰かに認められたい」という欲求を抱えていた。幼少期から両親の期待に応えようと努力してきたが、満たされた実感はなかった。
そんな中で交際を始めた男性Gは、Fさんを「すごい」と賞賛し、「君となら家庭を築きたい」と話してくれた。Fさんは「やっと私を理解してくれる人が現れた」と思い、半年で結婚を決意した。
だが、結婚生活が始まって数ヶ月、GはFさんに対して「もっと家庭的でいてほしい」「仕事ばかりで冷たい」と不満を口にするようになった。Fさんは次第に自己否定に陥り、「この人でさえ、私を愛してくれないのか」と絶望し始めた。
このような展開は、まさに加藤が指摘する「救済幻想の破綻」である。Fさんは「誰かに満たしてもらう」ことで自己価値を取り戻そうとしていたが、その期待は相手にとって過剰な負担となり、関係そのものが破綻していった。
「結婚に過剰な期待をする人は、常に裏切られる運命にある。なぜなら、その期待は自分自身の空虚さから来ているからだ」
結婚の現実:癒されるのではなく、晒される
加藤は、「結婚とは人間の欠点が露呈される舞台である」とも述べている。恋愛中は見えなかった価値観の違いや感情的な反応、そして“本当の自分”が、共同生活の中で容赦なく現れてくる。
この現実に直面したとき、過去の痛みを隠すために築いてきた“仮面”が崩れ、「救ってもらえるはずだった相手」が、実は自分を一番深く傷つける存在になることもある。これは加藤が一貫して指摘している、「結婚相手は自分の内面を投影する鏡」という視点に他ならない。
幻想を超えて、成熟へ
では、私たちはどのようにしてこの“救済幻想”を超えることができるのだろうか。
加藤は、「まず自分自身を救うこと」が先だと言う。
自分の孤独を見つめる
他者に依存せず、自分で自分の価値を認める
完璧な相手や、無条件に自分を愛してくれる理想像を手放す
そうした内面の成熟がなされて初めて、結婚は“癒しの場”ではなく、“共に在ることを選ぶ関係”として成立する。
結婚に救済を求めてはいけない。結婚は、過去を塗り替えてくれる物語ではない。むしろ、過去を受け入れ、現在を生きる覚悟を持つ者だけが、その関係の中に「真の安心」と「共感」を見いだせるのだと、加藤諦三は私たちに語りかけている。
結婚における「不安」と「支配欲」の心理メカニズム
加藤諦三教授は結婚を「精神の成熟が試される場」と表現することがある。結婚は単なる制度的な契約ではなく、人間の深層心理に潜む感情──とりわけ「不安」と「支配欲」との対峙の場であるという考え方だ。愛し合うことを誓ったはずの二人が、なぜ時に互いをコントロールし合い、傷つけ合うのか。その根底にあるのは、「不安」の感情が引き起こす「支配」への衝動である。
愛と不安の共存
恋愛や結婚において、人は「愛されているかどうか」という確証を求める。それ自体は自然な欲求だが、自己肯定感が低い場合、この欲求はやがて「不安」に転化し、その不安が「支配」という形で現れてくる。
加藤は次のように述べている。
「不安な人は、相手を信じるのではなく、相手をコントロールすることで安心しようとする」
たとえば、「何をしているの?」「誰と会っていたの?」というような過剰な確認や、予定や行動のすべてを把握しようとする態度は、支配の表れである。そしてこれは、しばしば「愛の証」と錯覚される。
事例:Eさんの「不安ゆえの監視」
Eさん(男性・30代)は、恋人であり妻となったHさんに対し、付き合い始めの頃から一貫して「愛情深い人」だった。だが、交際が深まりHさんが仕事で忙しくなると、Eさんの態度が変わり始めた。
Hさんが残業で帰宅が遅れると、「本当に会社だったのか」と疑い、SNSの投稿内容まで逐一チェックするようになった。やがて、携帯の履歴確認や友人関係の制限にまで及ぶようになり、Hさんは精神的に疲弊し始めた。
Eさんは「君を心配してるだけだ」と言い続けた。しかし実際には、「愛されていないのでは」「見捨てられるのでは」という根底の“不安”が、自らの関係を破壊していた。
加藤はこのような現象について、次のように指摘している。
「相手の自由を奪うことでしか安心できない人は、真の愛を知らない。彼らは安心ではなく、服従を愛と混同している」
支配欲は“愛の仮面”を被る
支配欲はあからさまに表れるとは限らない。むしろ多くの場合、それは「愛するがゆえに」という“美しい動機”に偽装される。加藤はこれを「愛の仮面をかぶったエゴ」と喝破している。
「あなたのためを思って言っている」
「私だけを見ていてほしい」
「愛しているなら、それくらいできるよね?」
これらは一見、関係を良好に保とうとする姿勢にも見えるが、実際には相手の主体性を奪い、自分の不安を埋めるための道具にしている行動である。
支配は、愛とは正反対の動機に根ざしている。なぜなら、愛とは「相手をそのまま受け入れること」であり、支配とは「相手を自分の都合のいいように変えようとすること」だからである。
支配から自由への転換には何が必要か
では、不安に駆られた支配的な愛情関係から、どうすれば解放されるのだろうか。
加藤は、「自己受容」と「信頼の再構築」が鍵だとする。
まず自分の不安と向き合う勇気を持つこと
「相手が悪い」のではなく、自分の心にある“見捨てられ不安”を直視する。
信頼は「証明されるもの」ではなく「与えるもの」
愛するとは、「相手を自由にすること」であり、不安を抱えながらも信頼を投げかけるという決断である。
精神的に自立する
「この人がいなくなったら私はダメになる」という発想から、「私は私で大丈夫。だから一緒にいたい」という成熟した依存関係へ。
結語:不安と支配を超えて
結婚とは、二人の人間の「人生の交差点」である。しかしその交差点において、過去の傷や心の癖がぶつかり合うと、愛の名のもとに支配が始まる。加藤諦三は、それを「愛の歪み」と呼んだ。
不安を消すために他者を縛るのではなく、不安と共にある自分を受け入れ、他者を信じること。そこからしか、成熟した結婚は始まらない。
結婚生活における最大の敵は“相手”ではない。それは、私たちの中にある「愛されないかもしれない」という原初の不安なのだ。
締めくくり:成熟した結婚への道
人は誰しも、安心を求めて生きている。愛されたい、理解されたい、孤独から救われたい――これらの願いは、誰にとっても普遍的なものである。しかし、加藤諦三教授が一貫して語ってきたのは、「その安心を他者にゆだねる限り、人は本当の意味で救われることはない」という、厳しくも深い心理的真実である。
結婚とは、自己の未熟さを誰かに癒してもらう関係ではない。結婚とは、自立した二人の人間が、それぞれの人生に責任を持ち、なおかつ「共に在る」ことを選び続ける意志の契約である。加藤の思想は、そこにこそ本物の成熟が宿ると説く。
成熟とは、「愛されること」よりも「愛すること」
加藤はこう語る。
「愛することでしか、人は癒されない。誰かに愛されることを待ち続ける人生では、いつまでも心の飢えは満たされない」
この言葉は、結婚における「受け身の幻想」から「能動の責任」へと視点を転換させる鍵である。成熟した結婚とは、相手を変えようとするのではなく、自分が愛する力を育て続ける関係性である。
「なぜ彼はわかってくれないのか」「なぜ彼女は私を満たしてくれないのか」という問いから、「私はどうしたら、この人を幸せにできるか」「私はどう在れば、関係が健全になるか」という問いへの移行。それが、結婚を愛の消耗戦ではなく、愛の創造へと変えていく。
「私たち」ではなく「私が」「あなたが」
成熟した結婚においては、「二人でひとつ」という幻想もまた、卒業すべきである。加藤は、人間関係の健全さとは「心理的距離の適切さ」にあると説いている。自分を失ってまで相手に合わせることは、愛ではない。それは、同一化という名の自己喪失に過ぎない。
たとえば、家事も子育ても仕事も“なんとなく”分担されるのではなく、それぞれが「私はこう考える」「あなたはどうしたいか」と、対話を積み重ねる。その積み重ねこそが、成熟の証である。
「私がいる」「あなたがいる」――その上で初めて、「私たち」が存在できるのだ。
愛は結果ではなく、態度である
加藤はまた、「愛は感情ではなく、態度である」と言う。これは一過性のロマンティックな感情ではなく、日常の中に現れる「態度」、すなわち“言葉の選び方”“感情の扱い方”“相手への反応のしかた”にこそ、愛の成熟度は反映されるという考え方だ。
成熟した愛とは、相手の過ちを責めず、受け入れる態度。忙しい一日の終わりに、沈黙を共有できる安心感。言葉にしなくても伝わる信頼。それらはすべて「態度」の中に育まれる。
「結婚とは修行である」という真意
加藤諦三は、ある著書の中で「結婚とは自己成長のための修行である」とも述べている。これは、結婚が苦しみであるという意味ではない。むしろ、結婚という関係性が、人間の未熟さを照らし出し、成長をうながす“鏡”のような存在であるという意味である。
自分の未熟さを見せられたとき、人はそれを相手のせいにすることもできるし、自分の成長の糧とすることもできる。その選択こそが、結婚を「癒し」から「契約」、さらには「成長」へと昇華させる道である。
結婚とは、共に成熟していく道
最後に、加藤諦三の結婚観を要約するならば、それは「共に成熟していく道を選び取ること」だろう。愛し合うとは、相手の成長を願い、自分もまた成長していく覚悟を持つことだ。そこには、過去を癒す幻想も、未来を保証する契約もない。ただ、今この瞬間の相手と、自分に誠実であり続けることだけがある。
愛は、努力である。信頼は、訓練である。そして結婚は、そのふたつを積み重ねていく人生の旅路である。
第二章:自己肯定と結婚の質
「あなたがいないと私は生きていけない」
「あなたが愛してくれなければ、私は私でいられない」
このような言葉を、情熱的な愛の表現として美しく描く物語がある。だが、加藤諦三はこうした言葉に潜む危険性を見逃さない。彼はこう言う。
「自己肯定できない人間は、結婚に癒しを求めすぎて、相手を責める」
つまり、自分の存在価値を確かめる手段として結婚を利用する人は、やがてその関係性において深い苦しみを味わうことになる。なぜなら、結婚は“心の穴埋め”ではなく、“心を持ち寄る場”だからである。
本章では、自己肯定感が結婚生活にどのような影響を及ぼすのか、そしてその質をどう左右するのかを、具体的な事例を交えて考察していく。
自己肯定とは、「自分を許せる力」
加藤は、自己肯定感を「あるがままの自分を受け入れる力」と定義している。それは、「完璧でなければ愛されない」という思い込みから解放されることであり、自分の弱さや欠点を否定せずに、そのまま受け入れる姿勢である。
この自己肯定感が低い人は、結婚相手に「無償の愛」を過度に求めるようになる。自分の欠点を自分で受け止められないために、代わりに相手にそれを引き受けさせようとするのである。結果として、「私のすべてを受け入れてくれないあなたが悪い」という感情が生まれる。
加藤はここで警鐘を鳴らす。
「自分を受け入れられない人は、愛されていると実感できない。どれだけ相手が尽くしても、不安は消えない」
事例:自己否定感から生まれた「試す愛」
Mさん(女性・30代)は、仕事では周囲から「優秀」と言われる存在だったが、プライベートではいつも恋人に「私のこと、本当に好き?」と問い続ける癖があった。
彼女の内面には、「私は価値がない」「こんな私を誰も本気では愛さない」という根深い思い込みがあった。そのため、恋人の愛情を“試す”ために、あえて冷たい態度を取ったり、別れ話を持ち出すことさえあった。
こうした不安に駆られた行動は、やがて恋人との信頼関係を損ない、関係は破綻した。
加藤は、「愛されたい欲求が強い人ほど、愛される価値がないと思っている」と述べている。これは逆説的だが、人は「自分を愛してもいい」と思えたときにはじめて、他者の愛を受け取る準備ができるということだ。
自己肯定感が高い人は、愛に「余白」がある
自己肯定感が高い人は、「相手が自分をどう思うか」ばかりを気にするのではなく、「自分がどう相手に関わるか」を重視する。そこには、相手を尊重する余裕がある。
たとえば、Yさん夫妻(40代)はお互いの違いを認め合いながらも、言いたいことは率直に伝え合う関係を築いている。Yさんは「夫がどうしても理解してくれないことがある。でも、それが夫の限界なのだと受け入れている」と言う。
これはまさに、自己肯定感の高い人が持つ“心の余白”の象徴だ。相手が自分の期待通りに動かなくても、それを即座に「拒絶」と受け取らない。それどころか、「自分もまた完全ではない」と認めることができる。
加藤はこう述べる。
「成熟した愛とは、相手を自分の理想に合わせようとすることではなく、相手の“不完全”と共に生きること」
自己肯定と結婚の質の相関関係
結婚の質とは、日常におけるコミュニケーションの質であり、衝突への対処の仕方であり、何より「二人の間にある安心感の総量」である。
自己肯定感が高い人たちの結婚生活は、安定しているだけではなく、対等である。言い換えれば、「相手に愛されることで自己価値を感じる」のではなく、「自分が自分を愛しているから、相手と共に生きられる」という構造がある。
逆に、自己肯定感が低い人の結婚では、常に「確認」と「証明」を相手に要求し続ける関係となる。その要求が重くなるほど、相手は愛する余力を失い、関係はぎくしゃくしていく。
結語:自分を肯定する者だけが、他者と共に歩める
結婚において本当に必要なのは、「愛されること」よりも、「愛されなくても崩れない自分」である。なぜなら、誰かと共に生きるということは、必ずしも常に理解され、常に受け入れられるわけではない現実と向き合うことでもあるからだ。
加藤諦三が何度も語ってきた通り、「結婚はあなたを癒さない」。だが、自分自身と和解できた者にとっては、結婚は人生をより深く知る“舞台”となり得る。
自己肯定、それは愛の土台である。
その土台なしに築かれた関係は、いずれ揺らぎ、崩れる。
だが、土台がしっかりしていれば、その上にはどんな“違い”も“困難”も、二人で越えていける家を築くことができるのだ。
第三章:なぜ人は“結婚に逃げる”のか
かつて一人の青年がこう呟いた。「結婚すれば、きっと人生は楽になる」。彼は社会的な不安、自尊心の低さ、孤独感といった多くの“生きづらさ”を抱えていた。そしてそれらすべてが、「結婚」というイベントによって帳消しになるような錯覚を持っていた。
だが、結婚は現実だった。彼の理想とは裏腹に、日々は煩雑で、すれ違いと葛藤の連続だった。やがて彼は悟る。「自分は、結婚から何かを“得よう”としていただけだった」と──。
加藤諦三教授が長年にわたって繰り返し問いかけてきたのは、このような「逃避としての結婚」がもたらす心理的問題である。人はなぜ、結婚という形の中に“自分の人生の解決”を託してしまうのだろうか? 本章では、逃避動機としての結婚に潜む危うさについて掘り下げていく。
結婚が「逃げ場所」になるとき
加藤は明言する。
「孤独に耐えられない人は、結婚を“居場所”として求める。だが、そうした結婚は必ず破綻する」
多くの人にとって、結婚は“次のステージ”として描かれている。しかしその動機が、「現実の人生からの逃避」である場合、結婚は成長を促す場ではなく、“自己回避の牢獄”となる。
たとえば、親との確執、職場のプレッシャー、自己実現の不全感などを“帳消し”にする手段として、結婚が選ばれることがある。だが、加藤はそれを“逃げの結婚”と呼び、それは「自分自身から逃げた結婚」であり、いずれ相手を責めるようになると述べている。
事例:Sさんの「責任転嫁としての結婚」
Sさん(女性・20代後半)は、学生時代から“いい子”として生きてきた。親の期待に応え、就職し、社会的に成功したように見えたが、実際には「自分の人生を生きている」実感が乏しかった。
そんな彼女は、27歳で安定した公務員の男性と結婚する。「この人となら、安定した幸せが得られる」と確信していた。しかし数年後、Sさんは毎日の生活に強い虚無感を抱くようになる。「何のために結婚したのか」「私は誰の人生を生きているのか」と。
加藤はこのような心情を「人生の責任を他者に委ねた代償」と解釈する。
「自分の人生に責任を持てない人間は、結婚相手に人生の意味を委ねる。しかし、やがてその人が“満たしてくれない存在”になると、恨みを抱き始める」
Sさんにとっての結婚は、「自己選択を避けるための装置」だった。しかしそれは同時に、「選ばなかった責任」を伴う。そのことに気づいたとき、彼女の心には怒りと罪悪感が同居するようになった。
結婚=幸せという社会的幻想
現代日本において、「結婚=幸福」という図式はいまだに強く根付いている。特に女性にとっては、「結婚すれば人生が安定する」という社会的圧力が存在する。
加藤はこのような社会構造を「幻想によって人間の不安を麻痺させる装置」と喝破する。
「結婚していないと不安になる人は、結婚しても不安なままである」
これは極めて本質的な警告だ。実際、結婚によって一時的に不安が薄れることはあるが、それは“問題が解決した”のではなく、“別の問題に置き換えられただけ”である。自己不全感、孤独、劣等感といった根本的課題は、結婚によって自動的に消えるわけではない。
結婚ではなく、自分と向き合うことから始める
では、結婚を“逃避”にしないためには、何が必要なのか。加藤は、こう述べている。
「結婚を選ぶ前に、まず『自分の人生の責任は自分にある』と認めよ」
これは極めて厳しい命題である。なぜなら、自分の不幸を外部のせいにすることは簡単だが、自分の内面の空虚と向き合うことは苦痛を伴うからだ。だが、それこそが本当の意味での「準備された結婚」なのである。
自分の孤独を恐れず、自分の弱さを受け入れたとき、人は初めて“誰かと共に生きる”ことができる。加藤は、それが「愛すること」の出発点だと説く。
結語:逃げ込むのではなく、共に生きる選択を
結婚は“逃げ場所”ではない。むしろ、自分自身と向き合った者だけが選べる「共生の場」である。結婚によって変わるのではなく、自分が変わるからこそ、結婚の意味が生まれる。
加藤諦三が提唱する「心の成熟を土台とした結婚」とは、自分という存在に責任を持ち、そのうえで「他者と関わる力」を育てる道でもある。
人生に迷ったとき、結婚は道標にはならない。
だが、自分という人生を歩む覚悟ができたとき、結婚はその人生に“深み”を与えてくれる。
逃げるためではなく、生きるために――結婚は、そう選ぶべきものなのだ。
第四章:パートナー選びの心理的動機
なぜ人は、ある特定の人物に惹かれるのか?
なぜ、冷静に考えれば「不釣り合い」とさえ感じる相手を、無意識に選んでしまうのか?
そしてなぜ、多くの人は「いつも同じようなタイプと付き合って、同じような苦しみを繰り返す」のか?
加藤諦三教授は、こうした“パートナー選び”の奥底にある心理的動機を、表面的な恋愛感情や理想像ではなく、「深層心理」「未解決の親子関係」「自己評価」といった土壌から読み解こうとする。恋は偶然ではない。むしろ「心の記憶」に導かれて始まるのだ、と彼は語る。
本章では、なぜ人は特定のパートナーに惹かれるのか、その背後にある無意識の動機と心理的パターンを、具体的な事例を交えて論じていく。
「好きになる相手」は、実は自分の心が選んでいる
加藤はこう語る。
「恋に落ちるとは、心の中にある未完の記憶に手を伸ばすことだ」
つまり、私たちは無意識のうちに、「過去に果たされなかった感情体験を回収できそうな相手」を選んで恋に落ちるのである。たとえば、父親に愛された実感のない女性が、年上で威厳のある男性に惹かれる。あるいは、母親にコントロールされて育った男性が、過干渉な女性に無意識に親近感を持つ。
このように、パートナー選びは「過去の感情再演」の舞台になりやすい。そして、相手を愛していると思っていても、その実態は「心の記憶に基づく執着」である場合が少なくない。
事例:母性を求めたTさんの結婚
Tさん(男性・30代)は、幼少期に母親から十分な愛情を受け取れなかったという体験を持っていた。母は教育熱心で厳格で、Tさんが泣いたり甘えたりすると「男の子がそんなことでどうするの」と突き放した。
大人になったTさんは、非常に面倒見の良い年上の女性と結婚した。彼女はいつも気配りができ、Tさんの生活全般を取り仕切ってくれた。彼は「ようやく自分を受け入れてくれる母親のような存在」を得たように感じた。
しかし数年後、Tさんは次第に息苦しさを感じ始めた。「自分が子ども扱いされている」「妻に支配されている」と。やがてTさんは家を出る決断をした。
加藤はこのようなケースを、「満たされなかった幼児的欲求の再演」だと分析する。結婚相手に“母親役”を担わせようとする限り、対等な関係は築けず、やがて「感謝」は「反発」に転じてしまう。
自己否定と“ふさわしい相手”の選択
もう一つ注目すべきなのが、自己評価の低さとパートナー選びの関係である。
加藤はこう述べる。
「自分には価値がないと思っている人は、無意識に『自分を大切にしない相手』を選んでしまう」
たとえば、自分を粗末に扱う恋人、暴力的・冷淡なパートナーとばかり関係を持ってしまう人がいる。周囲は「なぜそんな人と?」と首を傾げるが、本人にとっては“なぜか落ち着く相手”だったりする。
この“落ち着き”の正体は、実は「過去に体験した関係性の再現」なのである。苦しくても、それが“慣れ親しんだ感情”であるため、人はそこに引き寄せられてしまう。加藤はこれを「心の慣性」と呼ぶ。
本当に“健全な関係”を築くには
加藤は、健全なパートナー選びのためにはまず、「自分自身を深く知ること」が必要だと説く。
自分が過去にどんな傷を負ってきたのか
なぜその相手に惹かれたのか
その関係は、“愛”か“補償行為”か
相手といることで、自分は自由になれているか
こうした問いに向き合わない限り、人は何度でも同じパターンを繰り返す。そして「自分には恋愛運がない」「男運/女運が悪い」と他者や運命に責任転嫁するようになる。
加藤は強調する。
「恋愛とは、自己理解の投影である。だからこそ、愛を育てるには、自分を知ることが必要なのだ」
結語:無意識を見つめたとき、愛は始まる
パートナー選びは、偶然のようでいて必然である。人は、自分の心の傷跡にふれる誰かに惹かれる。だが、その傷を癒すのは相手ではない。
その傷と向き合い、自らが癒す覚悟を持ったときに初めて、「共に歩む」という健全な関係が生まれるのだ。
加藤諦三の心理学は、愛の始まりを「自己との対話」に見出している。
恋に落ちることではなく、恋に目覚めること。
他者に救いを求めるのではなく、自分の心の真実に気づくこと。
そこにこそ、本当の意味での「パートナー選びの自由」がある。
第五章:結婚生活の持続に必要な心の成熟
「なぜあの夫婦はうまくいっているのだろう?」
「なぜ私たちはこんなにぶつかるのだろう?」
結婚とは、始めるよりも“続けること”のほうが遥かに難しい。その違いは、愛情の量や経済力、趣味の一致ではない。加藤諦三は、こう言い切っている。
「結婚生活が続くかどうかは、心の成熟度にかかっている」
つまり、幸せな結婚生活とは“性格が合う”ことでも“情熱が冷めない”ことでもなく、「相手をどう扱えるか」「自分をどう律せるか」といった“人間の深層的な成熟”に根ざしているのだ。
本章では、結婚生活を長期的に持続可能なものとするための心理的条件として、「心の成熟」とは何かを掘り下げていく。
幻滅からが“本当の結婚”の始まり
恋愛と結婚の違いは何か。それは「相手の幻影」から「相手の現実」へと移行する過程にある。恋愛中は、互いに理想を投影し合っている。しかし、結婚生活が始まれば、生活のズレ、価値観の違い、些細な癖や欠点が次第に露呈してくる。
加藤は言う。
「結婚は、相手の“ありのまま”を受け入れる決意である」
これは簡単なようでいて、実際には非常に難しい。なぜなら、多くの人は「相手を変えようとする」ことから関係性を始めてしまうからだ。
もっと気遣ってほしい
もっと話を聞いてほしい
なぜ私の期待通りに動いてくれないの?
こうした欲求が積み重なると、やがて「不満」と「責め合い」に発展する。加藤は、ここで最も重要なポイントを提示する。
「相手を変える努力より、自分を理解する努力のほうが関係を変える」
事例:Iさん夫婦の“沈黙の時間”
Iさん夫婦は結婚15年目。子育ても一段落し、会話が減り、何となく“倦怠感”のようなものが漂っていた。ある日、Iさん(夫)は「このままで本当にいいのか」と感じ、妻に「最近どう?」と尋ねてみた。妻は涙ぐみながら、「何年もずっと、あなたが何を考えているかわからなかった」と答えた。
Iさんは気づいた。「会話が減った」のではなく、「心を閉じていた」のは自分だったのだと。以来、夫婦は互いの“沈黙”に耳を傾けるようになった。
加藤はこうした関係の再構築において、「成熟した態度」が何より重要だと語る。
相手に“正しさ”を証明するのではなく、“感情”を受け止めること
すぐに解決しようとせず、相手の痛みと“共に在る”こと
理屈よりも“安心”を与えること
これらは、未熟な心には難しい。だが、成熟とは“我慢”ではなく“受容”である。
結婚生活における「自由」と「境界」
成熟した関係とは、「距離感が絶妙である関係」でもある。加藤は、共依存的な関係性の危険性を強調している。
「相手の人生を自分の人生で埋めようとすると、関係は必ず窒息する」
健全な夫婦関係とは、依存でも放任でもなく、「心理的に自立した二人が、互いに責任を持ちながら関わること」だ。相手に期待しすぎず、しかし期待を放棄もしない。境界を保ちつつ、心はつながっている。
これは仕事や趣味、人間関係など、自分自身の人生を“きちんと生きているかどうか”にも直結する。結婚とは、自分を犠牲にして相手に尽くすことではなく、「自分が自分であることを許し、相手にもそうあってもらうこと」なのである。
心の成熟とは何か
加藤諦三が説く「成熟」とは、以下のような心理的態度に集約される。
自分の感情を言葉にできる
相手の否定を、自己否定と受け取らない
怒りの裏にある“悲しみ”を理解している
相手が変わらなくても、自分が変わる努力を惜しまない
問題があっても、「この人と共に生きていこう」と思える
これらはいずれも、「自分自身と向き合う力」を求められる要素である。未熟な心は、常に外に原因を求める。成熟した心は、「内側で何が起こっているのか」に目を向けることができる。
結語:成熟は、日々の“態度”から始まる
結婚生活は、長い旅路である。愛している日もあれば、嫌いになりそうな日もある。理解し合えるときもあれば、すれ違うときもある。それでも続けていくには、感情の波に流されない“心の舵”が必要だ。
加藤諦三の語る「成熟」とは、決して完璧な人間になることではない。むしろ、不完全であることを認め、怒りも弱さも抱えたまま、“それでも相手と生きようとする意思”を持ち続けることだ。
成熟は感情の安定ではない。態度の選択である。
その選択を重ねる日々こそが、結婚生活という“関係の作品”を創り続けていくのだ。
終章:結婚という“道”を歩むために
それは“愛の証”でも、“人生のゴール”でもない。むしろ、加藤諦三が繰り返し説くように、結婚とは「自分自身を知る旅」の延長線上にある人生の一工程である。
私たちはしばしば、愛することと愛されることを混同し、癒されたいがために誰かと共に生きようとする。しかし加藤は、愛されることを期待しすぎるほど、人は他者を責めやすくなり、結婚という関係は崩れていくと警鐘を鳴らす。
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