クララ・シューマンとローベルト・シューマンの3つのロマンス

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 ローベルト・シューマンは、アウグスト・シューマンとヨハンネ・クリスティアーネ・シューマン(旧姓シュナーベル)の息子として、1810年6月8日にツヴィカウで誕生した。父は書籍販売および出版業を営み、また、自らも作家として筆をとっていた。


 ローベルトは当初、母親の願いを受け入れてライプツィヒで法律を学び始めたが、1828年、思い切って学業のかたわら、ヴィークにピアノレッスンを受ける決心をした。ローベルトはこれより2年ほど前に父親を亡くし、音楽および文学に寄せる強い思いを応援してくれる人を失っていた。しかし、結局ローベルトはライプツィヒには長くとどまらず、ハイデルベルクへ移って法律の勉強を続けた。


 その後イタリア旅行を経て、1830年にふたたびライプツィヒに戻ってくる。このときローベルトが胸に抱いていたのは、音楽に生きるという固い決意だった。息子の心変わりに絶望した母親は、「3年間をふいにして、再び徒弟として1から始める」ことが果たしてローベルトのためになるのか、という切実な問いをヴィークに投げかける。ヴィークは義務と責任をともに強く意識しながら、こう答えた。ローベルトを「そのもって生まれた才能と想像力を伸ばして、3年以内に、現在活躍中の偉大なピアニストに肩を並べる存在としてみせましょう」。ただし、そのためには自らを厳しく律して勉強することが条件であり、ハイデルベルク時代には飲酒喫煙三昧の放恣な生活を送っていた「愛すべき」ローベルトが、「心を入れ替えて、思慮深く、安定した、努力を惜しまない人間になる」ことが出来ればの話である。と釘を刺すことを忘れなかった。

 1830年の秋、20歳のローベルト・シューマンはヴィーク家に2部屋を間借りし、1832年末までそこに住むことになる。ヴィークとクララが演奏旅行で不在でない限り、午前中が勉強の時間で、午後は散歩と決まっていた。「でも最高に素晴らしいのは夕べのひとときだった。ローベルトは、クララと、クララの弟のアルヴィンとグスタフを自分の部屋に迎え入れ、自らも童心にかえって遊んだ。ローベルトは子供たちに素敵な手作りの童話を語って聞かせたり、、パントマイムや言葉遊びのゲームなどを行い」、「怖がりのクララに自分の分身を見た人や拳銃の作り話をした。…クララはローベルトの言う事なら何でも信じてしまうようなタイプの女の子だった。…どんなにローベルトを好きだったか、想像がつくというものである。


 この頃のローベルトのヴィークに対する感情は、矛盾に満ちている。ローベルトはヴィークを尊敬し、賛美し、作品5をヴィークに献呈した。それどころか、クララを連れて旅に出るヴィークを見送りながら、憧れさえ抱いた。他方、ローベルトはヴィークを「金亡者の親方」とも呼び、「さえない、臆病で尊大な」人物とも感じていた。とはいうものの、ローベルトもクララが倦むことを知らず進歩し続けていることを認めざるをえない。おそらくそのせいもあって、極端な練習法に走り、中指が動かなくなってしまうような事態に立ち至ったのではないだろうか。さらに突然癇癪を起こすヴィークの性分は、ローベルトにショックを与えただろう。ローベルトといえば、穏やかでおとなしく、人々の輪の中ではほとんどしゃべらずに内に籠もってしまうタイプである。対してヴィークの方は、ローベルトの才能をとことん認めていた。ヴィークはローベルトの作品を高く評価し、クララをローベルトから遠ざけた時期でさえも、ローベルトの曲をプログラムに入れることを許した。


 1834年4月エルネスティーネ・フォン・フリッケンが新しい弟子としてヴィーク家にやって来た。きおの3歳年上の愛らしい少女とクララは、これより少し前にプラウエンで知り合っている。ところが5月になると、クララは父によって音楽の勉強のためにドレスデンへ送られた。もしかしたら、ヴィークはこの時期すでに、クララのローベルトに対する感情を予感し、娘をローベルトから引き離しにかかったのかもしれない。9月に帰郷したクララは、エルネスティーネとローベルトが婚約したように感じた。同様の噂はエルネスティーネの父親の耳にも届いており、すぐさま娘をアッシュに連れ戻した。


 クララはのちにローベルトとの手紙のやりとりの中で、この時代のことを痛ましい思いをもって回想しているが、渦中にあった当時、深く傷ついて、激しい言葉を日記に書き記した。エルネスティーネなんかいなくても、悲しくともなんともない。エルネスティーネは水やりによってのみ生き続けることの出来る植物のようなものだ、でも今回ばかりは「太陽があまりに強過ぎて、エルネスティーネを枯らしてしまった、すなわちシューマン氏である」。ローベルトは別れに際してエルネスティーネに指輪を贈ったが、正式な婚約には至らなかった。その後アッシュを訪問すると、フォン・フリッケン氏はエルネスティーネの養父にすぎず、エルネスティーネは相続請求権を持っていないことを知らされた。それ以来ローベルトの熱は冷め始める。そして1835年4月に北ドイツ演奏旅行から戻ってきたクララが強い印象を与えたことで、エルネスティーネへの思いは完全に過去のものとなった。「君はこれまでの君とは違うようだ、より高いところにいるように見える。君はもう子供じゃない。…エルネスティーネは僕から離れていったが、そうなるべきだったんだ」。クララがこの演奏旅行のあいだ、何を思っていたかは、ヴィークの言葉を通して推し量るしかない。「クララはいやいや演奏した。そもそも何もやりたくないのだ」。


 クララはローベルトに恋していた。相手が自分のことを大人の女性と認めてくれるずっと前から。若く眉目秀麗、褐色の髪を長く伸ばし、深く窪んだ表情豊かな青い目のローベルトは、エレガントで高貴な雰囲気を醸し出し、温厚さが滲み出て、人を引きつけるすべを心得ていた。クララは後年しばしば、ローベルトの柔らかな眼差しについて語っている。1835年、「11月初めてのキス」は、エルネスティーネとの熱に浮かされたような関係の終わりを意味するとともに、クララとローベルトの波乱万丈の愛の物語の始まりだった。


 1836年2月、ヴィークは数日間留守にした。この機会をとらえてローベルトはドレスデンのクララのもとを訪れる。これを知ったヴィークは激怒し、今後ローベルトが再び娘に会いに来ようものなら撃ち殺すと脅した。1837年8月までの1年半に渡って、クララとローベルトは直接会うことはおろか、手紙でさえ一言も言葉を交わしていないだろう。手紙のやりとりをようやく再開出来たのは、8月13日にクララがライプツィヒの証券取引所会館で演奏会を行った際に、二人の共通の友人であるエルンスト・アードルフ・ベッカーが仲介してくれたおかげである。このコンサートでクララは聴衆に混じったローベルトの前で、ローベルトの「交響的練習曲」から3曲弾いた。演奏会後、ローベルトはヴィークに向かって「堪能させていただきました、と御礼を言った」。翌8月14日は、婚約記念日となった。


 9月13日、クララの誕生日に、ローベルトはヴィークに手紙でクララとの結婚を申し込む。しかしヴィークからは何の返事もない。意気消沈したローベルトはクララに向かってこういった。「あなたは心を強く持っていなければなりませんよ。…彼は策略が功を奏さないとなったら、力づくでもあなたを自分の思い通りにしようとするでしょう」。クララは、父親に立ち向かわなければならなかったのみならず、自分がその試練に耐えることができるかどうかと不安を抱くローベルトの疑念も払拭しなければならなかったようだ。当のローベルトこそ、あとあとまでクララを不安にさせ続けたのであったが。


 ヴィークはヴィーンへの旅行準備に余念がなかった。1837年10月15日、ヴィークはクララと共にまずはドレスデン経由でプラハへ向かう。プラハに於ける2回の演奏会は「聴衆を大変満足」させるものだった。11月27日、父娘は旅の目的地であるヴィーンに到着。クララは18歳になっており、もはや年齢だけで聴衆をあっと言わせる神童ではない。いまや、10歳ほども年長のタールベルクやリスト、ショパンといった大ピアニストたちと並び称される芸術家である。だが音楽都市ヴィーンは、これまでとは比較にならないほど高い演奏技術や芸術性を求めてくるだろう。このこともクララは良くわかっていた。


 最初の演奏会を前に、新聞・雑誌はこぞってピアニストたちの腕くらべを呼びかけた。「ヴィーンは、クララが本当にタールベルクと肩を並べる存在なのか、判定を下すべきである」。クララは事前に私的な場で演奏して「居合わせた人々を熱狂の渦に巻き込んだ」にもかかわらず、最初の公開演奏会を「胸を少しドキドキさせながら」待ち受ける。こうして12月14日のデビューの日、「私に判定が下される日」を迎えた。演奏会後、クララは日記に誇らしげに書きつける。「楽友協会ホールに於ける私の最初の演奏会ー私は勝利した。…私は…合わせて12回も舞台に呼び戻された」。その後、皇后の前での御前演奏をはさんで、12月27日に2回目の演奏会を迎える。このときは「18回呼び戻され、その間、万雷の拍手を浴び続けた」。いまや「時の人となりクララを聴くことが流行となった」。1月7日の3回目の演奏会のあと、この町を制したのがどちらか、もはや疑いようがなかった。クララが初めて足を踏み入れた時点ではまだ、「二言目にはタールベルク」の名を口にする人々で溢れていたこの町で、「クララがタールベルクに完勝した」のである。4回目となる1月21日の演奏会のあとのヴィークの物言いは、さらに挑戦的だ。「大勝利!…敵を圧倒」。


 クララは自分のことをどちらかといえば地味で目立たぬ存在だと思っていた。しかしヴィーン時代のクララを描いたアンドレアスシュタウプのリトグラフから判断すると、理想化されていることを差し引いても、当時から舞台映えのする、魅力的な女性だったにちがいない。そのうえ根っからの舞台人だった。というのもどんなに疲れ、「演奏することに飽き飽きしていても、誓ってお客様の前では常に心をこめて演奏します」。かくしてクララは成功を勝ち得た。「お客様がみな満足して下さる以上に嬉しいことはありません」。競争は確かにストレスだった。しかしクララはそれを克服したのみならず、また励みともしたのである。反対勢力が結託して妨害をはかったときも、クララは闘う姿勢で臨んだ。「ライバル陣営は、明日、野次を飛ばして私を失敗させようと目論んでいます。でも私は甲冑を身にまとった乙女なのです」。クララがこのような仕打ちに発奮して一段と成長し、とてつもないことをやり遂げたことは、要求の高い父親でさえ認めざるをえなかった。


 クララはヴィーンの人々の好みを正確に見極め、そこからある戦略を引き出していた。「ショパンはよく知られ、理解されています。…メンデルスゾーンを知る人はほとんどなく、<無言歌集>は楽器店でむなしく店晒しになっています。ここの人たちは歌わないのです。…最初の演奏会でメンデルスゾーンの曲を弾きたいと思っていました。でも、聴衆を味方につけるまでは、そうしてはならないのです」。聴衆に馴染みのない曲を披露するにはどういうタイミングが最適か、クララはよく心得ていた。「ここでは最初の印象がよければ、芸術家は望むことを何でも出来るのです」。


 こうして、熟考を重ねた戦略的なプログラムが出来上がった。すなわち、最初の演奏会では、ピクシス、ヘンゼルトおよびショパンの楽曲をほどよい加減に組み合わせる。2回目にはもう冒険の一歩を踏み出す。ヘンゼルトとショパンに並べて自作のピアノ協奏曲を弾いた上に、ヴィーンの聴衆が耳にしたことのないバッハのフーガもプログラムに入れたのである。これは大成功で、クララは聴衆の要望に応えてフーガを繰り返さなければならなかった。聴衆の熱狂がさらに高まったところで、3回目の演奏会では一段と大胆な戦略に出る。自作の変奏曲作品8とともにベートーヴェンのソナタ「熱情」ヘ短調作品57をヴィーンの聴衆の前で披露したのである。この時、クララはベートーヴェンが弾けないという批判的論評がでた。だがこれは、リストとタールベルクの作品で華麗な技巧を競う腕くらべに再び参入した4回目の演奏会に於いて、クララの熱狂的信奉者の結束をより強固なものにしただけであった。「私がタールベルクを演奏できないといまだに信じている」人々も相変わらずいたのであったが。5回目の演奏会では、ヴィーンの聴衆にメンデルスゾーンの「カプリッチオ」ハ短調作品22を「素晴らしく伴奏してくれたオーケストラつきで」紹介する。その結果、メンデルスゾーンが「すでにみんなの話題」となり、「彼の敵方は口をつぐんだ」。


 最後となった2月18日の6回目の演奏会で、クララは再び「熱情」を取り上げた。というのも、そうこうするうちに、「このソナタのせいで」「各種新聞間で戦争」、即ち「クララ戦争」が勃発していたのである。クララの解釈について、人々の見解は分かれたようだ。クララは「熱情」を英雄的、あるいは巨人的な曲としてではなく、むしろ表現力に富み、強く訴えかける意欲に溢れた作品と解釈した。クララの演奏に強い印象を受けて一編の詩をものしたフランツ・グリルパルツァーにとっては、クララは「熱情」を理解する鍵を見つけた人だった。またクララを「きわめて興味深い女性ピアニスト」とみなし、その「高度なテクニックや感情の深さと真実さ、そして高貴な立居振舞い」に驚いたリストは、クララの「熱情」ソナタの演奏を「並外れて素晴らしく、注目に値する」と感じた。しかしまた、一時的とはいえ、クララから勇気を奪ったのもまたリストその人である。リストがクララの「音楽の夜会」を初見で弾くのを聴いた時、クララはその演奏に深い印象を受けたあまり、自分の演奏が退屈で、まるで「生徒」のようだと思ってしまったのである。

 クララは聴衆の好みも押えながら、プログラム全体を巧みに作り上げた。ヴィーンの聴衆がクララに魅了されたのは、耳に心地よい、技巧や華やかさだけのサロン風の音楽によってではない。そのような演奏効果抜群の難曲も、確かにプログラムのところどころに差し挟まれていた。しかしプログラムの中心は、ショパンやリスト、メンデルスゾーンといったロマン派の作曲家たちの作品だった。そればかりかクララはバッハやベートーヴェンも聴衆に披露した。これは当時としては極めて大胆な行為である。クララがローベルトの作品を公開の場で演奏しなかったのは、聴衆に拒否されたり理解されないことを恐れてのことである。その代わり、私的な集まりの場でーちなみにこうした場では、クララの初見演奏が「途方もないセンセーション」を引き起こすのだがーローベルトの作品を紹介する機会を逃さなかった。リストもまたこのような場で、ローベルトの「謝肉祭」を知ったのである。


 公開演奏会や私的な場に於ける演奏会に数多く出演したにもかかわらず、クララは作曲もしていた。「ヴィーンの思い出ーピアノのための即興曲」作品9である。この曲は作品8と同様、初版はヴィーンで出版された。そもそもこの町ではクララの作品全般がよく売れていた。ヴィークは、「クララは今時間さえあれば、数多くの美しい曲を作曲するだろう」と確信している。この技術的にも難易度の高い即興曲を、クララは1838年4月30日にグラーツで初演し、「大成功を収めた」この作品では、ヨーゼフ・ハイドンの「皇帝賛歌」の旋律がさまざまに変奏され、繊細な情感と幸福感に溢れた感情の高揚が交互に現れる。


 1838年5月15日、父娘は再びライプツィヒに戻って来る。この7ヶ月にわたる旅は、二人にとって途方もなく難儀なものであった。クララは腕の痛みを訴え、ヴィークは顔の痛みに苦しんでいた。クララのコンサート出演は、ヴィークにとっていつでも精神的拷問であったに違いない。最初の演奏会で、ヴィークは「拍手の嵐に涙を流した」。それほど緊張感が強かったのである。3回目の演奏会の前には、「夜通し眠れなかった」。というのも、どうしたらクララが「2回目と同様の成功」が得られるか、あれこれ頭を悩ませていたからである。最後の演奏会が終わった時、ヴィークはこれを最後に自分はもう旅行しないという決断をくだす。クララの反抗と強情、演奏会を開く負担、不安や落ち着かない気持ち、こうしたことにもはや耐えられなかった。のちにヴィークがクララのパリ演奏旅行に付き添いたくないと思った気持ちの中には、おそらくローベルトを巡る争い以外の感情も含まれていたのではないだろうか。


 クララは社交も含む数多くの義務のほかに、もう一つ別の生活を持っていた。ローベルトとの秘密の文通である。ローベルトらのラブレターは繊細で優しく、憧れに満ちている。しかし同時にまた、未来の困難をも予感させる。ローベルトは当時「音楽新報」の主宰者兼編集者となっていたが、まだ無名の作曲家だった。いったいローベルトはクララの成功の報をどのように受けとめたのだろうか。クララについての記事はローベルトを「すっかり憂鬱」にした。というのも、「ときに君の心を動かすものが何であるか、誰も知らない。誰も僕のことなど知らないし」。クララがハプスブルク家の帝室宮廷音楽家に叙せられるだろうという噂を耳にしたときには、自分だってたくさんの「若き芸術家(なかには女性だっている)からラブレター」をもらって賞賛を浴びているんだ、と返している。クララが、プロテスタントで外国人であるにもかかわらず、本当にこの称号を得た時、クララは気を遣ってローベルトにはこのことを黙っていた。ただ、自作のピアノ協奏曲を今でも積極的に弾いているかどうか、自分はこの曲から「強い印象をまったく」受けないのだが、とローベルトが尋ねてきたとき、クララの返答には強い自意識が感じられる。「もちろん!この曲はどこでもとても気に入ってもらえるわ。だから弾いてます。…でも、自分自身が本当に満足できるものかどうか、それはまた別の話よ。あなたは、私がこの協奏曲の欠点がどこにあるか分かっていないなんて、本気で思っていらっしゃるの?」


 この時期ローベルトはまた、自分がトラウマ体験を持っていて、不安や鬱状態、喪失感などを抱いていることを、クララに打ち明けている。クララは、自分たちの結びつきがどのような負債を背負い込むことになるのか、当時すでにわかっていたに違いない。この18歳の若き女性は、クララがローベルトを「完全に癒し、幸せにする」ことが出来るというローベルトの確信、またクララが「心配や苦悩を背負い込む」覚悟を決めるべきであるというローベルトの要求に対して、愛する者の自信と自らの強さに対する自負をもって立ち向かうのである。それでも二人はすでに未来に対する不安でいっぱいだった。ローベルトの収入は十分だろうか?目下これまでになく賞賛を博しているクララは、将来芸術活動を「封印しなければならない」のではないだろうか?未来の計画を練ったり、27歳の男にヴィーンへの移住を強く勧めたりしたのはクララの方であった。というのも、二人がライプツィヒに住むことはもとより、ライプツィヒに居ながらクララが自らの腕で「1銭たりとも稼ぐことが出来ない」ような事態を、ヴィークが許すはずもないからである。もちろんクララがローベルトに、エルネスティーネのことで自分が傷ついたと嘆いたり、逆にローベルトがクララに崇拝者たちのことを根掘り葉掘り尋ねたりすれば、争いが始まった。そのたびにローベルトは疑いを抑えることが出来なかった。クララの「素晴らしい自己犠牲的な愛は、永遠に続くのだろうか?」彼女はほんとうに父親から離れることが出来るのだろうか?
 

 クララは父親の意向に逆らって秘密の婚約を交わすことで、ローベルトを選択するという決断を下した。それでも本当に親離れして結婚に至るまで、一方では親に対する子としての愛情や感謝の気持ちを抱きながら、他方では憤慨させられたり自尊心を傷つけられたりして、相矛盾する感情に引き裂かれ、葛藤と闘い続けざるを得なかった。「昨日、父は優しさのかけらも示してくれませんでしたーもはやきっぱりと縁を切りました」。あるいは「父が私のためにこれほど多くのことをしてくださらなかったら、とうの昔にローベルトに耐えられなくなっていたでしょう」。しかしまた、「父との別れは私にとって難しいものとなるでしょう」。これらのさまざまな思いが、その時々の状態に応じてクララに襲いかかり、心は千千に乱れた。


 ヴィーンでの成功は、ヴィークのこれまでのやり方に太鼓判を押してくれた。ヴィークが行った総合的な音楽教育、教育メソード、キャリア戦略は正しかったのである。クララはのちに多大な忍耐強さやエネルギーを発揮することになるが、これは何といっても、クララの才能を伸ばし、クララをどこまでも信頼していた、頼りになる父親のおかげである。ヴィークはたとえばクララになり変わってクララの日記をつけた。このような父による娘への干渉は、逆に見れば、ヴィーククララと一体化し、ヴィークの生活の中心をクララが占めていたことを意味する。また、父の家父長的で権威主義的な行動様式は、娘にとってコルセットのような役割を果たした。つまり、一方ではクララを締め付けたが、他方ではまた、クララを支え、拠り所を与えもしたのである。ヴィークは14歳のクララに対して、まるで友人に向かうかのごとく、クララの日記にこう書き記している。君は自立しなければならない。それは最も重要なことである。そして誤解されたり、妬まれたりした時には、私心を捨て、まっとうな人間の心をもって惑いを振り払いなさい。


 ヴィークはクララを実務能力とたくましい生活力を併せ持つ、自立した女性に育てた。ヴィークは、音楽家や演奏会の主催者に宛てた手紙を数多くクララに筆写させたが、それは単に書き方を学ばせるためだけではない。これによってまた、娘に演奏会の運営方法も伝授したのである。ヴィークからすれば、ローベルトとクララが一緒になるという考えは、耐え難かったに違いない。いかんせんローベルトは、自分の娘に家計の心配をする必要のない生活を保障できず、規律正しい生活を理想とするヴィークの人生観とは根本的に相容れない生活ぶりである。ヴィークはまた、将来を約束されたクララの輝かしいキャリアが終わることも恐れた。それは自らのライフワークの破壊を意味する。それゆえ、ヴィーンから戻ったまさにこの時期、ヴィークは二人の恋愛に強硬に反対し、おいそれと譲歩することは出来なかったのである。


 クララとローベルトは密かに会うほかなく、そのためにしばしば知恵を絞った。例えば、そばを通り過ぎるローベルトにクララが白いハンカチを振ったら「アルテ・ノイマルクト広場」で会えるという具合。人目につかない逢瀬の場を探し求める恋人たちが見逃した「玄関ホール」や「町はずれに向かう道」はほとんどなかっただろう。クララは家ではヴィークの前で自分の感情を隠さなければならなかったが、この隠し事にすっかり消耗してしまったのはむしろローベルトのほうだった。「ものすごく悲しく、疲れ切って病気になってしまいそうだ」。


 ヴィーンから戻ってまもなく、クララはライプツィヒで2歳ほど年下の歌手ポリーヌ・ガルシアと知り合った。ポリーヌのことをクララは「今、活躍している歌い手の中で最も音楽の才能に恵まれた注目すべき歌手」で、「真の芸術家魂」をもっていると日記に書き記している。二人の友情に満ちた交流は生涯続いた。ポリーヌは1892年に自分たちのことを、「今世紀で最も長く続いた親友同士」とクララに書き送っている。


 1838年のこの夏、クララは再び作曲の筆をとった。「ピアノフォルテのためのスケルツォ」作品10で、ドレスデン近郊在住のグート・マクセンに献呈されている。しかしこの時期、クララは父親の手紙によって「大きな苦痛を受け」、勘当されるかもしれないという考えに、不眠や全身の震えを引き起こすほど、身体に変調をきたしていた。


 この華麗な曲は、何かを探し求めるように繊細なトリルで始まる。これを繰り返しながら次第に下降していくと、息をつかせぬ激しいテーマが登場する。嘆きに満ちた、ゆったりとした中間部の上行する旋律は、おそらく冒頭の下降する音空間から生み出されたエネルギーが上行に転じたものだろう。冒頭の音型とテーマは、曲全体の中で、和声的にも次々と変化しながらさまざまな形で混じり合い、曲調や表現の変化を作り出す。終結部ではトリル音型によっていったん謎めいた緊張感に満ちた雰囲気が醸し出されたかと思うや一転、落下するアルペジオの音型の中でこの緊迫感は解き放たれる。


 この曲は、同年中にブライトコプフ・ウント・ヘンテル社から出版され、ことにパリの人々に熱狂的に迎えられた。「おもしろいことに、私のスケルツォはここではすごく気に入られて、いつももう一度、繰り返して弾かなければなりません」


 1838年の冬、ローベルトは雑誌出版の希望を抱いてヴィーンへ向かった。結婚後にクララとヴィーンに移住し、家計の心配をしないですむだけの収入を得るというヴィークの条件をみたすべく、下準備をしようというのである。しかし1839年4月までヴィーンに滞在したものの、安定した生活基盤を築く見込みはたたなかった。


 クララは秋にドレスデンとライプツィヒでいくつかの演奏会を行った後、1839年1月8日、だいぶ前から計画を練ってきた旅行の第一歩を踏み出す。目的地はパリで、7年の時を経て2度目のパリ在住である。ローベルトの留守中に資金を稼いでおきたかったし、ヴィーンで得た成功をさらに確かなものにしたいという気持ちもあった。しかし今度の旅は庇護者なしに行わなければならない。「父はパリに行かないという。何故? 彼は、私が目標に達する手助けを何もしないことこそ、自分の義務だという。でも父が一緒に来てくれたら、もっと稼げるのに」。すでにニュルンベルクで演奏会開催の苦労を味わった。それでもクララは成功したし、父親と同じくらいきっちりと収支を合わせることができた。「41グルデンの出費を差し引いて、191グルデン21クロイツァー」の収入。


 クララはアンスバッハを経由してシュツットガルトでさらに演奏会を行った。そこでグスタフ・シリングと知り合う。グスタフがクララとローベルトを是非とも支援したいと、尊大な態度で申し出たとき、クララはお人好しにもそれを信じた。ローベルトはシリングについて悪い噂を知っていたため、二人はその後、何ヶ月もの間、言い争いの手紙を交わすことになる。ローベルトはシリングの行いの背後に、クララに取り入ろうとする不純な動機しかないことを見抜いていた。それを知ってか知らぬか、クララはローベルトが「オテロのような」激しい嫉妬を引き起こす行動をとった。誇りを深く傷つけられたローベルトは、どうしたらクララにショックを与え、「恨みを晴らす」ことができるかよくわかっていた。


 自分の「心が必要としている」人、すなわち父親を失ってしまったと感じているクララは、少し前に「これまでいつも私を守ってくれていた人が、私を置き去りにするはずがないわ!」とローベルトに激しい調子で訴えかけ、他方でまた「私のすべて、私の父親にもなって下さい、ローベルト、そうじゃなくて?」と哀願していた。だがいまや、よりにもよってこのローベルトがクララを脅してきた。「でも君はシリング宛に断りの手紙を書くに決まっているよ。さもなければ君が正気にもどるまで、僕は君としばらく離れていなければならないだろう」。これに対するクララの最初の反応は、まるでローベルトが極度の不安に陥ったときのようだ。「あなたは私の勇気をくじいたわ。…私は昨日から自分はもうおしまいと感じているわ!あなたがしばらくの間、私と離れていることができるという言葉ーこの言葉が私に与えたショックを決して忘れません!」


 父親との訣別に続いて、ローベルトとの信頼関係も崩れ去るかもしれない、ローベルトへの愛を断念しなければならないかもしれないという考えは、この19歳の女性に強い動揺を与え、信頼する人を失うことに対する不安を呼び覚ました。ローベルトはこうしたことを予期していたのかもしれない。というのも、まさにこのような瞬間にローベルトは自分の優越性を感じたからである。「僕は君を思い通りにするつもりだ。もし君が僕に従う気がないなら、僕は君を愛するのをやめるよ。そうしたら君は息ができなくなるのさ。これが僕のやり方だー僕は君に対して絶大な力を持っていると、もうすでに思っている。この力は今後ますます大きくなるんだ」。こう書いてはみたものの、ローベルトは自分のほうが強いという感覚よりも、嫉妬心のほうが大きかった。同じ手紙の中でクララに、パリからの帰途、シュツットガルトでは演奏会を行わないよう頼んでいる。クララは実際には、ヘンリエッテのために同地に立ち寄ったのだが。


 このうら若き女性ヘンリエッテ・ライヒマンとは、シュツットガルトで知り合い、すぐに「大好きなお友達」になった。ヘンリエッテは後年クララの旅の付き添い人となるが、この時はクララの生徒として一緒にパリへ向かった。


 1839年2月6日、パリ到着。その日のうちに、クララは早速エミーリエ・リストを訪問した。久方ぶりの再会である。またパリでは最初ポリーヌ・ガルシアと同じホテルに滞在したこともあり、ヴィークなしのパリ滞在といえども、良き友人たちに囲まれていた。翌日には、「いち早く楽器の提供を申し出てくれた」ピエール・エラールを早々に訪ねる。


 最初のパリ訪問の際に知己を得たジャコモ・マイヤーベーアは、彼女にオペラのチケットを贈ってくれた。そのため、ジルベール=ルイ・ヂュプレ、ジュリア・グリージ、ルイージ・ラブラーシュ、アントニオ・タンブリーニ、ジョヴァンニ=バッティスタ・ルビーニといった著名な歌手たちを聴くことができた。クララが最も評価したのはラブラーシュである。というのも「ラブラーシュを聴くと豊かな音の響きに包まれるように感じるし、ラブラーシュは情熱を持っている」からである。これはタンブリーニやルビーニには期待できないことだった。「いつまでたっても程々にしか響かない声は耐え難い。人間はいったい何のために健康な美しい声をもっているの?ー響かせるためではないの?ー残念ながら彼らはそうしない」。


 夜会への招待も受けた。そこではアレクサンドル・デュマ、ハインリヒ・ハイネ、ダニエル・オーベール、ジャック・アレヴィ、カルクブレンナー、シャルル・アルカン、ヨハン・バプティスト・クラマー、ルイージケルビーニらと面識を得た。しかし個人的な関係を築くことができたのはオンスローのみであった。オンスローは、クララがエラールのサロンで4月16日に行った演奏会のあとで、「数々のはかりごとに負けずに作曲を続けるよう」励ましてくれた。エクトル・ベルリオーズは、批評のなかでクララのスケルツォについてはついでに触れただけである。これに先立ち、クララは3月21日にシュレジンガーのマチネーコンサートに登場し、再度のパリ・デビューを果たしていたが、自主開催の演奏会は、エラールのサロンに於けるものが最初で最後である。ちなみにこの演奏会による収入は千フラン。クララを「第2のリスト」と呼ぶ人がいたとはいえ、パリで音楽家として圧倒的な成功を収めたとは言いがたい。しかし彼女は、一方で個人的な問題を抱え、他方で職業音楽家としての基盤を確立すべく日々努力するという、二重の緊張から多大なストレスを抱えていたにも関わらず、これを乗り越え、将来につながる重要な体験を積み、また人間関係を築くことができたのである。


 ヴィークは、クララのパリでの成功を、ライプツィヒで発行されていた「一般音楽新聞」で読むと、クララの人生を再び自分の敷いたレールに引き戻すべく、今一度手を打った。エミーリエ宛に、「心を引き裂くような手紙」を書いたのである。エミーリエはクララの親友として、ローベルトにこう問いたださずにはいられなかった。クララは「芸術を犠牲にして、主婦として諸事万端に心を煩わさなければ」ならないのか、それともいくらかはまだ活動の余地があるのか。同様の問いかけは、ローベルトに向けたクララの言葉のなかにも読みとれる。クララは夏が過ぎたら父とともに「ベルギー、オランダ、イギリス方面に行く」かもしれない、次の復活祭には自分たちは「まだ結ばれない」可能性があると、ローベルトに書いている。


 同じ頃、ローベルトはクララに財産目録を送ってきた。それは、書類上は確かに新生活を支えるに足るだけの収入を保障していたが、兄の遺産に加えて、クララがこれまでの演奏会で得た収入ー実際には、ヴィークはこれをクララに渡さなかったーを資産として相当額見込んで、ようやく成り立つものである。この財産目録によって安心したクララは、父に結婚の許可を願い出た。しかしヴィークは不愉快な条件をさらにあれこれ並べ立てた。クララはもはや受け入れるつもりはなかった。いまや決裂は決定的となる。ローベルトは裁判所に法的措置を訴えた。8月、クララは控訴審裁判所に出頭するため、フランスからの帰国の途につかなければならなかった。


 「ほとんど1年にわたる別離ののち」、クララとローベルトはアルテンブルクで再会した。そこで二人は「幸福な3日間」を過ごす。数日後、クララは日記に希望と疑念を記した。彼女は「父との次なる闘いを克服しなければならない」。この3年間というもの、家にいる時、「心を傷つけるような侮辱に堪えずに済む日は一日たりともなかった」。結婚に際してクララは持参金すらないのだ。というのも「4年にわたる演奏旅行によって稼いだお金までも」、父親は取り上げるつもりだからである。それでもクララはまだ、「父性愛が…ヴィークの強情さに打ち勝つ」可能性に望みをかけていた。


 他方、ローベルトに対する気持ちは、実際のところどうだったのだろうか? 「女の人は多くのことに気を配らなければ。それから、一歩下がって控え目にしていることも大事。でも愛する気持ちが強ければ強いほど、とても難しい」。クララは自分の「愛情が単なる情熱的な感情にとどまって」いてはならず、「これからはもっと理性に」耳を傾け、「情熱や激情」は以前よりも抑制しなければならないと考えていた。自分があまりに感情的過ぎて、ローベルトを少々困惑させていることに気づいていたのである。ローベルトはこう呼びかけている。「冷静になれよ、火の玉のような僕の花嫁さん。…幸福も強すぎては何の役にも立たないよ。結婚生活はまた別物だからね。料理やら何やら、いろいろあるだろう」。


 さらにもう1つの考えがクララを不安にさせた。「私はローベルトを魅了し続けることが出来るだろうか!ローベルトの精神はとてつもなく大きく、私なんか到底、足元にも及ばないのだ」。ローベルトは、芸術家であると同時に自分の妻ともなるこの女性に対して、みずからの期待をはっきりと伝えていた。「君は僕に多くのインスピレーションを与えてくれるだろう。そもそも僕は自分の作品をもっと頻繁に聴くことができるようになる。それだけでも僕は、もう十分意欲をかきたてられるよ」。でも、「君が外で演奏することをきっぱりとやめてくれたら、僕が密かに抱いている最大の願いが叶うことになるのだが」。「頭をボンネット(中世の既婚女性が被った帽子)で包み、ベルトに鍵束をぶら下げた」芸術家とは、いったいいかがなものだろうか。いずれにせよローベルトは「男はとにかく女の上に立っているものなんだ」という考えの持ち主だった。


 クララは「芸術家と主婦を両立させよう」と決心したものの、「音楽を打ち棄てておくことはできない。そんなことをしたら私は永遠に自分を非難し続けることになるだろう!」と感じていた。むしろ自らの演奏活動で家計を支えることによって、「ローベルトが自分の歓びとしている音楽に全てを捧げ、ローベルトの芸術家としての素晴らしい人生がいかなる憂いによっても煩わされることがないよう」にしたいと願っていたのである。なぜ「ローベルトの作品が相応の評価を得ることができないか」、クララはわかっていた。ローベルトの作品は「いずれもオーケストラの響きを根底に秘めていて」、「旋律や音型が縦横無尽に絡み合っているため、多くの場合その中から美しさを探し出さなければならず、聴衆にとって理解しがたいのだ」。クララはモーツァルトやベートーヴェンと並べてローベルトの作品を演奏した。またローベルトがオーケストラ作品を作曲することを望んだ。「世間が第3の男を認める日がやがて来るだろう。でもそれはまだ先のことだ」。目下「最大の心配事はローベルトの健康だ」。この頃クララはすでに、奈落の底をさまよい、神経を病んでいるこの男を救うことは出来ないと認識していただろう。ようやく20歳に手が届こうというこの女性は、稀に見る鋭い洞察力で、自分の将来に待ち受けるさまざまな葛藤や問題を予感していた。
 アルテンブルクで幾日か過ごしてからライプツィヒに戻ったクララは、ヴィークからの手紙で父の家へ戻ることを拒まれていることを知る。ヴィークは、芸術的には確かに見どころがあるかもしれないが、人間的にはバランスを欠き、資産も持たない男のせいで娘を失うと信じ込んで以来、娘に対して悪意に満ちた行動をエスカレートさせていき、醜悪な誹謗中傷や演奏旅行の妨害等、もはや歯止めを失っていた。


 クララはほんの数日ライプツィヒに滞在しただけで、ベルリンに住む母マリアンネ・バルギールのもとへ向かい、そこを拠点に1840年6月まで演奏旅行を続けた。11月にはヴィーンのメケッティ社からローベルトに捧げた「ピアノのための3つのロマンス」作品11が出版された。冒頭におかれた作品は、パリ旅行後に作曲されたもので、憂いに満ちている。曲全体を16分音符の動きが貫いているが、この伴奏音型は、和声的にも音域的にも変化に富み、色彩豊かでニュアンス溢れるメロディーと織り合わされている。3曲目はまだパリにいる頃に作曲され、最初は「牧歌」と名付けられた。この曲では、穏やかに上行する冒頭のテーマから、次々と新しい音楽的アイディアや性格が生み出されていく。そのため形式的には統一性を欠くが、代わりに変化に富んだ楽曲に仕上がっている。
 これに先立ちクララはローベルトのことを思いながら、2曲目の「小さな、憂愁をたたえたロマンス」を書いている。「あなたはこの曲を、気まぐれに、情熱的かと思えばまたメランコリックに戻る、といった具合に弾かなければいけません…」。この小品は3部構成で、両端の部分では憧れに向かって突進していくような緊迫感のなか、工夫のこらされたメロディーが各所に散りばめられている。その上、特定の音型を凝縮したり切り詰めたりして、熟考のあとが認められる。速いテンポの情熱的な中間部は、最初の部分に戻ってからも、その断片がときおり現われ、名残を響かせている。


 ローベルトは「ロマンスはどこも変えるところがない」と返信し、自分でも「3つのロマンス」作品28を作曲した。「僕は君がいてこそ、作曲家として完全だと思っている。ちょうど君にとっての僕のようにね。君のアイディアはいつだって僕の心の中から生まれるものだし、僕の音楽だってすべて君のおかげさ」。実際ローベルトは1833年以来、クララの作品からインスピレーションを得てきたし、また多くのテーマをクララの音楽から借用している。


 クララがベルリンで再会した母親は、重く沈んだ状態にあった。みずからの病に加えて、夫の「ヒポコンデリー」、ふたりのどちらにとっても「不幸な結婚」、その日その日の生活の心配等、それはクララが自分の将来について最も恐れている状況を目の当たりにするようだった。その上、ちょうどこの頃、ローベルトは法廷闘争のストレスで、再び不安による鬱状態に陥ってしまう。こういう時こそ弱音をはいてはならないことを、クララは心得ていた。ローベルトは最近クララにこう書いてこなかっただろうか?「今、病気にならないでくれ。そんなことにでもなったら、僕まで負けてしまう」


 加えて、常軌を逸した行動をとる父親の存在があった。ヴィークは、かつてクララがライプツィヒにいた頃、「演奏会の開催をもっとも手際よく整えるためにはどうしたらいいか」事細かに指示したがっていた。しかしいまや、ベルリンで娘が聴衆の前に出られないようにするために、ヴィークは手段を選ばなかった。


 これで全てではない。これでもまだ足りぬとでもいうかのように、クララはさらに母親を経済的に援助するという重荷がのしかかってきたのである。このため、何度かローベルトの国債を使ったり、のちには自身の演奏会収入をあてることもあった。だからクララが憂慮しながら次のように書き記しているのは驚くにあたらない。「今、なんと多くの心配事が私に降りかかってくることだろう!将来さえも不安の種だ!」クララはさらに、自分でもどう表現したら良いのかよくわからない心情も吐露している。「どの点をとっても私は自分自身に満足できない。ピアノに向かっても自分が非力に思われるし、…精神がとても弱くなってしまったように感じる。ああ、絶望的な心境だ」


 それでもクララは1839年10月23日と31日の両日、演奏会に出演し、「熱狂的な拍手」を得た。さらにシュテッティンおよびシュターガルトでも演奏し、かなりの収益をあげることが出来た。ベルリンで自主公演を打つことが出来たのは、ようやく1840年になってからで、1月25日と2月1日の2回行われたが、条件は最悪だった。というのもクララは腕に怪我してしまい、初日の2時間前になってもまだ「ほとんど立てない」くらい弱気になっていたのである。「でも、全てうまくいった」。休憩時間には自らを「シャンパンで元気づけ」、皇太子も臨席する満員の聴衆の前で演奏した。2回目の自主演奏会ではローベルトのピアノ・ソナタト短調作品22を演奏したが、聴衆の反応は控え目なものにとどまった。この演奏会の前夜、むなしくローベルトの到着を待つあいだ、クララは顔面に我慢できないほどの痛みを感じた。しかし今回も「全てうまくいった」。この不屈の忍耐力とエネルギーこそ、ローベルトが一方で必要とし、クララに求めたものでありながら、他方でそれを目の当たりにすると尻込みし、また不安を抱いたものでもあった。


 不安定な健康状態、さまざまな心配事や数々の負担ーそれでもクララは、1840年2月5日、母親の付き添いを得て、北ドイツを巡る1ヶ月以上におよぶ演奏旅行に出発する。ハンブルクで行われた最初の演奏会の時にはまだ「強い不安」を抱えた状態で、メンデルスゾーンの「カプリッチオ」を「楽譜を見て弾かなければならなかった」。しかし2度目の演奏会では平静さを取り戻し、ショパンのピアノ協奏曲ヘ短調を上がらずに弾くことが出来た。それはなんといっても、ローベルトから激励の手紙が届き、再び自信を取り戻していたからである。聴衆の「熱狂的な拍手と歓声」を得ることが出来たのは、2月13日に3回目の演奏会出演を果たした時で、歓呼にこたえてリスト編曲のシューベルトの「魔王」をもう一度繰り返さなければならなかった。私的な集まりでは、ローベルトの「子どもの情景」、ピアノ・ソナタおよび「ノヴェレッテン」を演奏している。これらは居合わせた人々に大変気に入られ、「おおいなる感銘」を与えた。


 ブレーメンに於ける最初の演奏会では、拍手をしないという同地習慣を「芸術家にとってはひどい話」で、「応援する気がない」とみなしている。しかし2回目の演奏会で、ベートーヴェンの「熱情」やシューベルト=リスト編曲の「魔王」、およびタールベルクの「モーゼの主題による幻想曲」を弾くと、「聴衆は火の中に追い込まれるがごとく」熱くなって「拍手喝采し、歓声をあげた」。3月4日にはハンブルクで、ブレーメンで演奏した曲に加えてさらにローベルトの「ノヴェレッテン」を入れたプログラムで送別演奏会を開催し、490ターラーの純益を上げることが出来た。さらにハンブルクの音楽生活を牛耳っていたテオドール・アヴェ=ラルマン、およびパリシュ1家と知己を得、生涯にわたる友情を結ぶことになる。
 リストから心のこもった手紙を受け取ったことと、ローベルトの催促もあって、クララはライプツィヒへ戻ることにした。クララにとってリストはいつでも「親切で」、「才気と生命力に溢れ、余人の追随を許さない傑出した演奏家だった」。ただ、リストがローベルトの「謝肉祭」を弾いた時だけは、リストの解釈に必ずしも納得していない。


 このライプツィヒでの日々、おそらくリストから受けた印象も加わって、クララは「最も美しい青春の日々」が失われ、結婚後に多くの「困難が生じるだろう」という考えに心をかき乱された。たとえば演奏旅行に出ることが難しくなり、それによって収入も危うくなるだろう。なんといってもローベルトは、少なくとも結婚した最初の年はクララが家にとどまることを望んでいるのだから。さらにローベルトとの関係を複雑なものにする、もうひとつの要因があった。クララはローベルトによって、無教養であるがゆえに自分自身に「決して満足できないという感情」を呼び覚まされてしまったのである。


 それぞれ強烈な個性を持つこの二人が、結婚という形の芸術共同体を強く願えば願うほど、クララのこれまでの生活方式はその新しい共同体にそぐわないもののように思われた。二人は互いに寄り添いたいと願う一方、またそれを恐れた。ローベルトは、結婚することは自分が考えている以上に多くの困難があり、また結婚生活とは「散文的で無味乾燥」なものであると、クララに語って聞かせた。実際のところ、クララ以上にローベルトの方こそ、家庭の秩序や安定といったものをはるかに必要としていたのだが。


 6月、こうした状況の中でクララは矛盾した感情ー「喜びと不安」ーを抱えたまま、住居探しを始める。ヴィークのローベルトに対する異議申し立ては、ローベルトがアルコール中毒であるという非難を除いて、12月の法廷ですべて却下された。ローベルトが酒好きで大量飲酒の習慣を持つことはクララも知っていて、すでに幾度となくローベルトに注意していた。ローベルト自身でさえ、自分がときにクララに「ふさわしくない生き方をしてきた」のではないかと自問している。だがヴィークは、ローベルトの飲酒癖をめぐって書類の山を築くことをもはや放棄した。いまや、新生活の住居を整えて結婚することを妨げるものは何もない。二人はインゼル通りに「心地よい、快適な住まい」を見つけた。


 クララは結婚直前まで、父親から一言も言葉をかけられない中、ローベルトの不在のおりには芸術家として一人取り残されたように感じていた。「神様、私を勇気づけてくれるものは、なんとわずかしかないのでしょう」。自信が持てないために、自分が「演奏家として後退してしまった」と思い始める。「再び感情を燃え上がらせる」ためにクララが必要としたのは、「聴衆による励ましの言葉」ではなかっただろうか?


 何よりもそれを求めて、クララは1840年8月5日、チューリンゲン地方を巡る演奏旅行に出発した。再びライプツィヒに戻ってくるのは結婚を5日後に控えた9月7日になるだろう。ヴァイマールでは2日続けて大公のもとで演奏する機会を得たが、そこにはロシアの后妃も居合わせた。そこで賜った言葉は、クララを「本当に勇気づけた」。ゴータでは、千人もの聴衆が耐え難い暑さをものともせずに待ち構える中、クララは登場した。9月5日には締めくくりとして再度ヴァイマールで演奏会を行ったが、このときローベルトが現われてクララを驚かせる。演奏したのは、ベートーヴェンのピアノ3重奏曲作品70−1、ヘンゼルトの練習曲「もし私が小鳥ならば」、リスト編曲によるシューベルトの「アヴェ・マリア」と「魔王」、ショパンのマズルカ、それにタールベルクの「モーゼの主題による幻想曲」。「これはクララ・ヴィークとしての最後の演奏会だった。物悲しかった」。


 1840年9月12日の朝10時、結婚式が執り行われ、クララにとって生涯で「もっとも美しく重要な日」となった。









 
 














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