ベートーヴェンとショパンが愛したピアノ

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 ピアノという楽器が発明されたのは1700年頃。イタリアの楽器製作者バルトロメオ・クリストフォリ制作の鍵盤楽器が、現代のピアノのルーツと言われている。当時のメジャーな鍵盤楽器にはチェンバロやクラヴィコードなどがあるが、チェンバロはプレクトラムと呼ばれる爪で弦をはじいて音を出し、クラヴィコードはタンジェントという金属片で弦を突いて発音する。


 それに対してクリストフォリの新しい楽器は、ハンマーで弦を打って音を出すものであり、弱音(pピアノ)から強音(fフォルテ)まで出せるという特徴を表した「グラーヴェチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」という言葉が楽器名として広まった。やがては「フォルテピアノ」と呼ばれ、のちに「フォルテ」が抜け落ちて「ピアノ」と称されるようになる。


 その後J・S・バッハと同時代を生きたドイツのオルガン製作者ヨハン・ゴットフリート・ジルバーマンも、1730年代に同様の発音機構をもった楽器を試作し、それをバッハが演奏したことが知られている。


 フォルテピアノが鍵盤楽器としての存在感を増し始めるのは、誕生から70年以上も経った18世紀後半である。イタリア及びドイツで誕生したフォルテピアノ制作技術はその後、ロンドンやパリを中心とするイギリス式とドイツとウィーンを中心とするウィーン式とに分かれて発展してゆく。


 イギリス式アクションはハンマーを突き上げる構造で、ダイナミックで重厚な響きを可能にした。産業革命による技術革新が進む中、1782年代にはスコットランド出身のジョン・ブロードウッドが工房を立ち上げ、大量生産やダンパー・ペダル開発を実現する。イギリス式の技術は、フランスのエラール社やプレイエル社にも導入され、さらにはスタインウェイやベヒシュタインといった現代ピアノの製造技術へとつながってゆく。


 ウィーン式アクションはハンマーを跳ね上げる構造で、軽やかでクリアな発音が特徴。アウグスブルク生まれの製作者ヨハン・アンドレアス・シュタインがそのアクション機構を完成した人物と考えられており、娘ナネッテとその夫ヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーらがウィーンでその技術を発展させた。また、アントン・ヴァルターやコンラート・グラーフのピアノも名器を手掛け、多くの音楽家に愛された。19世紀にはベーゼンドルファー社もウィーン式の技術を継承した。やがてウィーン式アクションの跳ね上げ式の構造は、音量や音域の拡大に伴う重量増大に耐えることが出来ず、素早い連打を可能とし堅牢な響きを生み出すイギリス式アクションに淘汰されてゆく。


 18世紀も終わりになって、ようやく鍵盤楽器としてメジャーになっていくフォルテピアノ。その製造技術は日進月歩の成長を遂げるが、影の立役者とも言える音楽家がベートーヴェンである。ベートーヴェンはいわばモニターのように、ピアノ製作者たちに要望やアイディアを伝えた。

 ベートーヴェンがさまざまな製作者たちのピアノに出会い意見するようになるのは、1792年11月にウィーンへと移住してからである。ご当地ウィーンでもっとも人気のあったヴァルターのピアノとベートーヴェンが出会うまでに、そう長くはかからなかったはずだ。ウィーン式アクションによる軽快で歯切れ良いヴァルターの響きに触発され、ベートーヴェンは初期の代表的なピアノ・ソナタ第8番「悲愴」、第14番「月光」、第14番「テンペスト」を作曲した。


 一方で、弟子入りしたハイドンの家にあったイギリス式のエラールのピアノにも触れていたベートーヴェンは、その楽器に付いていたウナ・コルダのペダル(踏むと鍵盤全体が右へスライドし、ハンマーの打つ弦の数が1本に減り、柔らかな響きとなる)に惹かれ、ヴァルターにも同様のペダルを付けて欲しいと要求していたことがわかっている。しかしその要望は職人ヴァルターには聞き入れてもらえなかったようで、実現していない。


 ベートーヴェンがもっとも親しい関係を築き、ピアノ製造についてもアイディアを伝え続けたたのは、ピアノの改良に尽力し続けたシュトライヒャー夫妻である。ナネッテ・シュトライヒャーは、自身も優れたピアニストであった夫、そして弟のマテウス・アンドレ・シュタインと共に軽やかで繊細なタッチに応えるウィーン式ピアノを製作していた。


 シュトライヒャー夫妻はベートーヴェンの身の回りの世話を焼くほど親交が深く、日頃からピアノについて語り合っていたことだろう。ベートーヴェンは彼らの作る楽器を賞賛していたが、一方で「あなたのピアノは私には良すぎて、私から音色を作る自由を奪ってしまう」などともコメントしている。


 1803年にベートーヴェンはイギリス式アクションのエラールのピアノを手に入れて、そのダイナミックな音量や、ウナ・コルダやダンパー・ペダルに魅了され、ソナタ第21番「ワルトスタイン」や第23番「熱情」を作曲した。しかし、力強い打鍵に絶えられると思っていたエラールは、やがて使い物にならなくなったようである(ベートーヴェンの扱いが荒かった可能性はある)。


 ベートーヴェンはナネッテたちに、エラールの修理を依頼した。なんとも図々しい話にも思えるが、ひょっとするとウィーンの製作者たちにとっては、フランス製ピアノの仕組みを詳細に知るチャンスになっていたのかもしれない。実際、シュトライヒャーはベートーヴェンの要求に応えるかのように、音域の拡大、音量の増大、ペダルの設置、強いタッチに耐えられるアクション、革巻きを厚くしたハンマー、堅牢なフレーム作りなど、新しいピアノ製造に積極的に取り組んだ。


 ベートーヴェンが亡くなった直後に描かれた彼の部屋の絵には、散乱する楽譜や使いかけの蝋燭などと共に、1台のピアノが描かれている。それは晩年のベートーヴェンにロンドンから贈られたブロードウッドのピアノである。低音域が拡張された(F1→C1)その最新のピアノを用い、ベートーヴェンは、「ハンマークラヴィーア」など後期の代表的なソナタを作曲した。このブロードウッドのピアノも、ベートーヴェンはナネッテの弟アンドレ・シュタインのもとへと持ち込み、1820年にオリジナルの集音器をつけてもらったようだ。その効果により、一時的に聴覚がやや回復したとも言われており、それが最後の3つのソナタの創作に原動力を与えたと考えられる。


 ベートーヴェンが他界する2年前(1825年)に最後に手にしたウィーン式ピアノはコンラート・グラーフ製造の6オクターヴ半のピアノであった。これは難聴のかなり進んだベートーヴェンのために最低音域の1オクターヴより上は全て、1音につき4本の弦が張られた特別仕様である。だが、残念ながらこのピアノから新しいソナタが生み出されることはなかった。

 ベートーヴェンはピアノ製作者たちに積極的に意見した音楽家であったが、ショパンは取り立ててメーカーに希望を伝えたという逸話は知られていない。ベートーヴェンの時代には、音域や音量の拡大が求められ、ドラスティックに製造技術の開発がなされていたが、ショパンの時代にはその開発がある程度、落ち着いていたというのもある。しかしこれは本人の性格もあっただろう。ショパンより1つ年下のフランツ・リストはやはりピアノメーカーにあれこれと注文を出したからだ。


 とは言え、ショパンがピアノの性質に対して無頓着であったわけではもちろんない。むしろ繊細すぎるほど繊細なショパンの耳と指は、確実に楽器の違いを捉えていた。ショパンは次のような言葉を残している。


 「私の体が言うことを聞かず、指も固くて動きが鈍く思うように鍵盤の上で動かず、鍵やハンマーの動きを操るほどの力がないときは、エラールのピアノを選びます。音の響きが良くて、透明感がありますからね。でも気力が湧いてきて、いくら指を動かしても疲れないし、苛立つこともないようなら、プレイエルのほうがわたしの想念や感情をしんみり伝えられるし、個人的なものが直接に表現できます。指がハンマーに直結していて、ハンマーは私の表現したいと思っている感覚や出したい効果をそのまま正確に表現してくれるような気がするのです。


 これはドビュッシーの師であるアントワーヌ・マルモンテルが、1885年にまとめた「ピアノの歴史とその起源」の中でまとめたショパンの言葉である。


 ショパンは1831年11月から暮らしたパリで、エラールとプレイエルという19世紀フランスを代表する2社の楽器を愛奏したことはよく知られている。エラールもプレイエルもイギリス式アクションのピアノではあるがショパンのこの言葉には、ショパンが日頃より両者の個性や違いをはっきりと意識しながら弾き分けていたことが伝わる。


 ショパンが「力がないときでも良く響く」と捉えていたエラールは、1821年の段階でダブル・エスケープメントというアクション機構を完成させた。これは弾いた鍵がもとに戻り切る前にすぐ打鍵ができるという仕組みで、素早い連打を可能にした。ショパンが活躍した華やかなサロン文化でもてはやされたヴィルトゥオージックな演奏には、このアクション機構が大いに効力を発揮したことだろう。エラールの堅牢な響きのイメージもあって、ショパンは「英雄ポロネーズ」のような技巧的で華やかな作品を生み出し得たのかもしれない。


 しかし、ショパンの言葉からは、プレイエルをより好んでいたことが窺える。プレイエルはダブル・エスケープメントを搭載せず、鍵盤は浅めで、繊細なコントロールを要求するが、よりダイレクトに奏者のタッチが音に反映される作りとなっていた。ショパンはあまり大きな音で弾くことを好まず、体をしなやかに使いながら、自然な指遣いで、オペラ・アリアを歌うかのように美しい旋律線を奏でることを好んだ。その奏法にプレイエルのアクションはマッチしていたのである。

 ジョルジュ・サンドと滞在したマヨルカ島へもプレイエルの小さなアップライトピアノを運び込み、「24の前奏曲集」を作曲した。ショパンはこの曲集を、自身も優れた音楽家であるプレイエル2代目社長のカミーユ・プレイエルに献呈している。


 「ショパンは、少し柔らかくヴェールがかかったような、銀のような音色の、タッチの軽いこのプレイエルのピアノをとりわけ愛していた」とリストは語っているが、軽やかなピアノを好む傾向は、若き日のショパンはすでに見られていた。ショパンは19歳で初めてウィーンに旅行した折、シュタインやグラーフといったウィーンのピアノ工房を訪問し、軽やかなウィーン式アクションが自分の好みに合うことを知った。そしてグラーフのピアノを用いて、ウィーンのコンサート・デビューを大成功させているのである。


 なお、晩年のショパンはロンドンを訪れている。同地で演奏したブロードウッドを気に入り、「ロンドン製の本物のプレイエル」という言葉を書き残している。

 















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