ショパンの最期の年

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
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 パリに、そしてスクワール・ドルレアンのお気に入りの家に戻っても、ショパンの病状は期待されたようには好転しなかった。そしてまるひと冬をショパンは病床で過ごした。仮に痛みはなかったとしても体の衰弱に打ち勝てず、普通の生活は不可能だった。ピアノのレッスンは、ごく限られた回数だけ、それも半ば横になった状態で行った。この頃まだレッスンに通ってきたのはマリア・カレルギス、マルツエリーナ公妃、スーツオ公妃、アドルフ・グートマンである。いつも必ずショパンを回復させることが出来た唯一の医者、同種療法のモラン博士は残念ながら急死いし、今診ている医者たち、ルイ、ロット、シモンは、結核がかなり進行していると判断しただけで、あまり救いになるようなことも出来ずにいた。手探りでまごまごしているだけで、楽になるようなことは何ひとつしてくれない。ショパンはそうソランジュに愚痴っている。


 もちろん友人たちが見舞いに来た。ドラクロワ、グジマワ、デルフィナ・ポトツカ。たびたび助けてもらったことに恩義を感じているクレサンジェも、覗きに来ては、今また子供を身ごもって田舎で暮らしているソランジュの近況を知らせた。かつてはジョルジュ・サンドのきわめて近しい友人であり、ショパンについての非難や怒りや、あらゆる告白を聞き届けてきたマリー・ド・ロジェールは、ショパンとサンドが別れて以来、完全にショパン側につき、ショパンの介護に、家事の世話に、時間を惜しまず駆けつけた。


 49年の春、かなり体調がよくなり、再び外出さえ出来るようになったショパンは、もしかするとすっかりよくなるかもしれないという希望を抱いた。4月20日、ショパンはマリア・カレルギス夫人とドラクロワを伴い、マイヤベーア作「予言者」の初演に出かけた。18年前、パリに来たばかりの頃は、同じ作曲家の「鬼のロベール」に、そしてその演出にも大いに感心したショパンだったが、今回は音楽にも、舞台にも満足できなかった。


 調子が良くなったので少し曲作りも試み、「マズルカ ト短調」「マズルカ ヘ短調」が出来上がるが、これらがショパン最後のマズルカとなる。一種の教則本「メトード・デ・メトード」を書いて、教育者としての経験をまとめてみようとも思いもしたが、てをつけたかつけないかで終わり、残されたのはその断片、スケッチのようなものでしかない。


 暖かくなり始めると、ショパンの田舎に行きたいという思いも募った。父親といっしょにギュリーに住んでいたソランジュも招いてくれたが、医者たちはいかなる遠出もまかりならぬと警告した。代わりに彼らが勧めたのは、環境が田園に似たパリの町外れで、夏の間だけ過ごすというものだった。友人たちはシャイヨの小さな2階建ての家を探してきた。庭園や牧場に囲まれた緑の丘の上で、現在はトロカデロ広場になっているところである。家賃は高かったが、ショパンはそれを知らずにいた。その半額をショパンの弟子スーツオ公妃の母、ナタリア・オブリェスコフ公妃がショパンには言わずに肩代わりしていたのである。このロシア人女性オブリェスコフ夫人は、大の音楽愛好家で、晩年のショパンに対して並々ならぬ心遣いを見せ、庇護者の役割を果たしていた。彼女は、ショパンとワルシャワの家族との交流の仲介もし、双方に贈り物を届け、46年には自分の馬車でショパンの母ユスティナをパリまで送り届ける約束までしていたが、これはユスティナのリュウマチのために実現しなかった。


 公妃ナタリアの経済的援助は、大きな意味を持っていた。今やレッスンもやめ、新作の楽譜を出版することもなく、代わりに治療費だけがいよいよかさむショパンの所持金は、あっという間に消えていった。まるで国外に出た最初の頃に戻ったように、ショパンは実家からの送金をもあてにせざるを得なくなっていた。6月、ショパンはワルシャワの母からわずかばかりの仕送りを受け取った。ショパンが英国を離れて以降、執拗な接触を控えていたジェイン・スターリングは、恩師の苦しい台所事情を友人たちから聞き、ひそかに巨額の金をショパンに、誰から出たものかショパンにはわからぬように送ることにした。しかしこの心暖まる行為も、その処理の仕方が不器用だった。金はあまりにも遅く来たために、届いた頃にはフレデリックはすでに送金者の名前を知っていたのである。ショパンは当初この金を受け取ろうとしなかったが、やがてその一部だけを、しかも借りるということで承知した。


 シャイヨの家に移ったのは6月の初めであった。町中よりも気分はよくなったが、依然として衰弱状態には変わりがなかった。それでも馬車に乗って近くのブーローニュの森へ出かけたり、家に友人を招じ入れたりした。このいわば最晩年になって、ショパンの身辺に初めて現れたのが、この年の初めにようやくパリの亡命者集団に合流したばかりの、若い詩人ツイプリアン・カミル・ノルヴィットである。以前からショパンの音楽に傾倒し、この天才にまみえることを夢見ていたノルヴィットは、親しく迎え入れられ、本望を遂げた。ショパンが散歩に出かける時には付添い、たとえばパッシーのザレスキ家を訪ねたときも同行している。


 シャイヨでも多くの人々がショパンを訪ね、見舞った。その中には、パリへ越してきたソランジュや、かつてワルシャワで8歳のショパンに金時計をプレゼントした高名な歌手、今では69歳のアンジェリカ・カタラーニもいた。勿論チャルトリスキ一族もしばしば訪れ、公妃アンナは、夜間も常駐してショパンの世話をするようにと看護婦マトウシェフスカ夫人を遣わすということまでした。


 まずまずの状態が数週間続いていたショパンは、もしかすると、完全ではないにせよ、健康体に戻れるかもしれないと思っていたようであった。だが、6月22日の大量喀血は、もはや錯覚の余地すら残されなかった。回復と見えたものは一時的な停滞で、病気は再び暴れ始めた。看護婦からの知らせを受けたチャルトリスキ家からは、アンナ公妃の母、ルージャ・サピエハ公妃がシャイヨに急行した。彼女が帯同したのは、肺疾患の専門家で、フランスの主要政治家を治療するなど、一大権威として知られたクリュヴェイエ博士である。その診療によれば、結核も既に末期段階に達していて、もはやいかなる手立てもないということであった。高名な医者がたった1種類の薬しか処方せず、最大限の安静を命じるのを見て、ショパンもおおよその見当はついた。恐怖に駆られたショパンは、姉ルドヴィカにどうしても来てもらいたいと懇願する悲痛な手紙を書く。


 来られるなら、来て欲しい。僕は弱っている。どんな医者より、姉さんたちの方が、僕には救いになる。金が足りなければ、借りてでも。具合が良くなったら簡単に稼げるから、そしたら借りた相手に僕から返してあげる。でも今はあまりに素寒貧で何も送れない。このシャイヨの家はけっこう大きいから、姉さん夫婦と子供2人くらい充分泊まれる。ルトカ(姪)にとってもあらゆる点でためになると思う。カラサンティ兄さん(ワルシャワ大学農村経済研究所教授)は喜んで1日じゅう走り回るんじゃないかな。すぐ隣で農産物展示会もやっているし、とにかく、僕は前ほど元気はないし、姉さんと家でじっとしている時間が多いだろうから、兄さんもこの前よりは自分の時間がいっぱいとれるはずだ。


 姉さんもオブリェスコフ夫人の手紙でわかるように、僕の友達や僕に良くしてくれる人はみんな、僕にとって一番の薬は、姉さんがここに来てくれることだと思っている。だから旅券を手配して欲しい。一言、すぐに返事が欲しい。ツイプリス(糸杉)にだってカプリス(気まぐれな望み)はある。今日の僕のカプリスは、姉さんたちの顔をここで見たいということ。うまくいくよう、神様が認めてくれると思うけど、もし神様がそうしてくれないというのなら、すくなくとも、神様が認めてくれるように仕向けて欲しい。


 オブリェスコフ公妃が、その人脈を利用して旅券発給に力を貸してくれたおかげで、14歳の娘ルトカを連れたルドヴィカたちは無事ポーランドを発ち、8月9日にはフランスに着いた。ショパンは姉に会え、いっしょに生活できることで大喜びした。カラサンティは2,3週間後にはワルシャワに戻ったが、ルドヴィカは残って、弟の看病、家事一切の世話をすることになった。

 ルドヴィカが来たことを知ったサンドは、ショパンの様子を知らせて欲しいという手紙をルドヴィカに送ってきた。普段よりはるかに具合が悪いと書いてよこす者もあれば、私が知っていた当時と同じように弱々しくて病気がちなだけだという者もいるのです。一言、便りを下さい。自分の子供に認められず、見捨てられても、愛し続けるということもあるでしょう。私のたってのお願いです。ルドヴィカはしかし、もはやサンドと関わりを持つ気はなく、この手紙にも返事を出さなかった。


 8月30日、病人のベッドの脇では医師団が協議をしていた。その結果、近づきつつある秋冬の季節を、ショパンは町中で過ごすべきだという事になった。デルフィナ・ポトツカが提案するようにニースへ移動するなどはたとえ温和な気候ではあっても、論外であるとされた。むしろパリの中心で、暖かく日当たりのよい住宅を探さねばならなかった。適当な物件はまもなく見つかった。セーヌ河と大きなブールヴァールに囲まれた高級住宅街、ヴァンドーム広場12番地で、家賃は高いが南向きのそのアパルトマンは、ショパンの友人トーマス・アルブレヒトが事務所を構える建物の2階にあった。


 様々な思い出がまとわりつくスクワール・ドルレアンにはもう帰らずにすむ。ショパンはむしろそう思って喜んだ。そして5つの部屋にどう家具を配置するか、新しい絨毯とカーテンはどんなものにするか、そんなことを熱心に考えた。姉と姪と3人でこの新居に入ったのは9月の末であった。部屋から部屋へ歩いて自分の新しい屋敷を眺める、そんなことにすらたいへんな努力が要り、たまにしか出来ない程に、ショパンは衰弱していた。この家からは、ショパンはついに1度も外には出なかったのである。今や自分は自分の最後の日々を生きているのだということも、次第に意識されはじめていた。繰り返される咳の発作にひどく悩まされ、呼吸も困難を極めた。


 友人たちは、ショパンのためにも神父アレクサンデル・イエウオヴィツキを呼ばねばと考えた。学校時代からのショパンの友人で、フランスではカトリック系の政治活動とともに亡命者向けの出版、書店経営に携わっていたが、数年前司祭に叙任されていた。だいぶ以前から宗教的慣習を離れていたショパンは、もう一度カトリシズムに立ち返り、告解の秘跡を受けてはどうかというアレクサンデルの勧めを初めは強く拒否していた。アレクサンデルに対しては、神父というよりむしろ友人として話を聞いてもらいたいというのがショパンの気持ちであった。だが数日後、ショパンは同意した。ショパンは聖体を受け、終油の秘蹟にあずかった。


 10月15日、ショパン危篤の報に接したデルフィナ・ポトツカがニースから駆けつけた。その友情に感動し、彼女の歌をこの上なく愛したショパンは、自分のために今一度歌ってもらいたいと頼んだ。居間のピアノを病室の入口まで動かし、デルフィナはイタリアの古いアリアを数曲、弾き語りで歌った。ショパンは嬉しそうに耳を傾けた。さらにフランコムとマルツェリーナ・チャルトリスカがショパンの「チェロ・ソナタ」を弾き始めたが、やがて中断せざるを得なくなった。ショパンが咳に喉を詰まらせ、力尽きたからである。朦朧とした状態で夜を明かした翌日、意識を取り戻したショパンは最後の指示を出した。それは、死後、自分の心臓をワルシャワに運ぶこと、葬儀にはモーツアルトの「レクイエム」を演奏すること、未刊の手稿はすべて破棄することであった。


 この最後の日々、ヴァンドーム広場のアパルトマンには、パリじゅうから大勢の友人や弟子が詰めかけ、ショパンに最後の別れを告げた。しかし病室でショパンの傍らに終始付き添っていたのは、ヴォイチェフ・グジマワとショパンの最期を絵に描きとどめた画家テオフィル・クフィアトコフスキも含め、最も親しい人間だけであった。最後の夜を徹して見守ったのは、姉のルドヴィカ、マルツェリーナ・チャルトリスカ、ソランジュ、グートマンそしてアルブレヒトであった。1849年10月17日午前2時頃、ショパンは他界した。


 10月30日、マドレーヌ教会の正面をFCと大きな金文字を浮き上がらせた黒いビロードの幕が覆った。およそ3,000人が辛うじて聖堂の内部に入り、外には大群衆が立ち尽くしていた。そして壮大で悲痛なモーツアルトの「レクイエム」が響き渡った。ソリストの中にはポリーヌ・ヴィアルド、ルイ・ラブラシュの姿もあった。オルガンがショパンの「前奏曲 ホ短調」「前奏曲 ロ短調」を奏で、オーケストラは「ソナタ 変ロ短調 葬送行進曲」を演奏した。ミサに続き、葬列はペルー・ラシェーズ墓地に向かって出発した。先頭には、無冠のポーランド王アダム・チャルトリスキ公、並んで音楽界の代表ジャコモ・マイアベーア、棺の傍らには、帷子の端を持ちながらフランコム、ドラクロワ、プレイエル、アレクサンデル・チャルトリスキ(マルツェリーナの夫)が進んだ。娘を連れて棺の後に従うルドヴィカ母の脇にはジェイン・スターリングの姿があった。しかしジョルジュ・サンドを見かけた者はなかった。


 葬儀の後、ルドヴィカは弟のアパルトマンを片付け、故人の身の回りの品、手稿譜、その他形見の品などを携え、ワルシャワに帰った。遺言どおりショパンの心臓もルドヴィカが持ち帰り、壺に納められ、ワルシャワ、クラコフスキエ・プシェドミエシチェ通り3番地の聖十字架教会の柱の中に埋め込まれた。


 ショパンの死後、ポーランドの内外で現れたおびただしい数の追悼文や論評のなかでも、今日までよく知られた、格別美しい言葉を含む1つの弔辞がある。ツイプリアン・カミル・ノルヴィットは、日刊紙ジェンニク・ポルスキに次のように書いた。


 生まれはワルシャワ人、その心はポーランド人、その才能によって世界市民となったフレデリック・ショパンがこの世を去った。彼はその神妙なる技巧によって芸術の最も困難な課題を解きおおせた。すなわち野の花を、その露ひとつ、細微の和毛一本振り落とさずして集めおおせたのである。そしてそれら野の花に、理想の芸術によって光輝を与え、全ヨーロッパを照らす星、流星はたまた彗星に変じた。民衆の詩はコハノフスキの「夏至祭」によって初めて知者の世界にも見えるようになった。ショパンは音楽においてそれを成し遂げたのである。


 1850年10月17日の1周忌には、墓の上に立てられた、オーギュスト・クレサンジェの手になる記念碑の除幕式が行われた。


 フレデリック・ショパンの死後、多くの歳月が流れたにも関わらず、ペール・ラシェーズ墓地のショパンの墓には、音楽を愛する人々が絶え間なく訪れ、その場には常に新しい花が置かれている。

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