ショパンとマリアの幻の結婚

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
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 ジェチーンを発ったショパンは、ザクセンの国境を超え、ほど近いドレスデンに向かった。かつてこの町の建築や観光名所を好んで訪れたショパンではあったが、今回はそうした魅力に加えて、ヴォジンスキ一家に会うという別の目的もあった。3人の若きヴォジンスキは、みなミコワイ・ショパンの寄宿舎で暮らし、育ったのであるし、親同士も懇意にしていたので、ショパンにはなじみ深い一家であった。


 上の二人の青年が参加した11月蜂起が挫折した後、テレサ夫人は子供たちを連れてドレスデン(すでにナポレオン時代からポーランド人移住者が多かったが、今回の蜂起後もさらに増えていた)へ、次いでジュネーヴへ引き移り、夫ヴィンツエンティはクヤーヴィ地方にあった所領に戻っていた。社交に於いても教養に於いても高級志向のテレサ夫人は、貴族やすぐれた学者、芸術家の集まるサロンをジュネーヴで営んだ。そして1819年に生まれた娘マリアにも、最高の教育と上流社会に通用する洗練された作法を身に着けさせようとしていた。ヴォジンスカ嬢は大変な才媛で、15歳ですでに数カ国語を操り、かなり上手に、またセンス良くピアノを弾いたし(ジュネーヴではフィールドに教わっていた)、美術の才能も確かにあった。年齢の割には精神も発達し、大人びていたし、とりわけ美形ではなかったけれども、きわめてチャーミングな少女だった。イタリア人の祖母から、南欧的な顔立ちに加えて情熱的な性格を受け継いでいて、数年後そのことははっきりと行動に現れることになる。15歳にして、フランス領事のド・モンティニ伯爵から結婚を申し込まれたというのであるから、その魅力も並のものではなかったに違いない。黒い瞳の思いつめたような、深い眼差しに誘惑された一人に、ヴォジンスキ家の常連ユリウシュ・スウオヴァツキがいた。マリアは、慕情を募らせた詩人の美神となり、「スイスにて」という名作が誕生する契機を作っている(この長詩は、スウオヴァツキとヴォジンスキ一家のアルプス旅行の後に書かれた)。

 そして間もなくもう一人、娘の黒い瞳の秘密を探ろうとする有名人が現れるのである。ヴォジンスキ家にとっては旧知の間柄であった、フリデリック・ショパンのいよいよ高まる名声と成功を伝えるニュース、そしてショパンの作品は、もちろんジュネーヴにも届いていた。マリアは、子供時代に見知っていたショパンの曲を弾いてみるとともに、自分のことを思い出してもらおうと、自分が作った曲をパリに送った。そのお返しに彼女が受け取ったものは、出版されたばかりの「ワルツ 変ホ長調 作品18」であった。ショパンは34年の7月、マリアの兄フェリクスに宛てた手紙をこう結んでいる。マリアお嬢様には、僕に代わってうやうやしく、優雅な一礼をしてもらいたい。そして驚いた顔をして、呟いてもらいたい。いやいや、大きくなったもんだ!とね。


 35年の夏、ヴォジンスキ一家はジュネーヴからドレスデンに引っ越していた。このことが、ちょうど近くに来ていたショパンに、以前から熱心に招待をしてくれていた一家訪問のきっかけを与えたのである。彼らとの再会、そして2週間のドレスデン滞在は、両親と別れたばかりで意気消沈していたショパンの心に快い香油のような作用を及ぼした。ショパンをもう1人の息子のように扱ってくれるテレサ夫人の母性あふれる優しさ、フェリクスとカジミエシュに感じる兄弟のような親しみ、そして何より、まるで聖人画を仰ぎ見るように若き巨匠に見とれる、16歳の令嬢の尊敬の念の入り混じった好意が、ショパンには大きな慰めとなったのである。マリアにレッスンを頼まれたショパンは喜んで承知し、自分の曲の弾き方を教えた。彼女は作曲家の話を神妙な面持ちで聞きながら、ショパンの思念や感情を推し量ろうと努めたが、それはそのまま、自分の魅力を完全には意識しきっていない少女にしか出来ない、微妙で心地よい媚態となってショパンにはたらいた。その効果は小さくなかったと見え、ショパンもいち早く彼女の身近な存在や眼差しを意識しはじめた。家庭的な温もりと祖国の思い出に満ちた雰囲気の中での、繊細で非凡な少女との会話とレッスン。その牧歌のような時間のなか、醸成されていったもの、強い恋心を、ショパンはマリア・ヴォジンスカに抱いた。二人は翌年の再会を期して別れたが、このとき、ショパンは彼女のために思いのこもった一篇のワルツを書き、アルバムに書き込んだ。それが「ワルツ 変イ長調」である(死後、作品69の1として出版される)。


 ショパンはドレスデンからライプツィヒに向かい、この年ラインラントを離れてライプツィヒの名門管弦楽団ゲヴァントハウスの指揮者となったメンデルスゾーン、そして自分の作品を出版してくれている出版社を訪れた。ショパンはメンデルスゾーンを介して、(3年前、その独自の「ラ・チ・ダレム・ラ・マノ変奏曲」解釈でショパンを笑わせた)有名な音楽教育者フリードリヒ・ヴィークとロベルト・シューマンに会った。ヴィークの娘、のちのシューマンの妻、16歳のクララは、ショパンの前で彼の「練習曲」を弾いてみせたところ、その演奏のあまりの素晴らしさに、後にショパンは、ドイツではクララ・ヴィーク以上に自分の作品を上手に弾ける者はいないと人に語ったという。批評家としての仕事をショパン評(諸君、脱帽したまえ)で始めたシューマンだったが、実際に会った後には、ここへショパンが来たが、ほんの2,3時間を、ごく親しい少数の知人に囲まれ過ごしただけだった。ショパンの弾き方は、曲の作り方と同じだ。つまり唯一無二ということだと書いている。


 パリへの帰路、ショパンはハイデルベルクに寄り、お気に入りの弟子アドルフ・グートマンの家に泊まった。ここへ来て、パリからカルロヴィ・ヴァリへ急行した長旅が、それに伴う疲労、極度の緊張と感動、この2ヶ月間のさまざまな労苦が表に現れ、秋の不順な天候も手伝って、ショパンは体調を崩した。高熱を出し、衰弱し、そのまま旅を続けることは不可能になった。しばらく養生して旅を続け、帰宅したときには10月も18日になっていた。


 パリの家には既にドレスデンからの手紙が待っていた。マリア・ヴォジンスカ嬢は、自分がショパンに対して特別な感情を抱いていること、そして交際を続けたいということを示したかったのであろう、フランス語で書かれたその手紙は、貴婦人にふさわしく、感傷的なスタイルの、もってまわった、凝った言い回しの多いもので、熱烈な恋文とは言いにくい代物だったが、それでも意味深長なセンテンスをたくさん含んでいた。


 私たちの家から去ってゆかれた土曜日、ほんの数分前まで私たちとともにいらした場所、居間の中を、みな悲しい顔で、目に涙を浮かべて歩き回っておりました。11時に歌の先生が見えましたが、私たちは歌も歌えず、レッスンは散々でした。誰も昼食が喉を通らず、ただただ食卓の、いつも座ってらしたあの席を、それから「フリッツのコーナー」を見やるばかり。


 やがてマリアは突然「もしも私が空のお日様だったなら、きっと貴方のためだけ照るでしょう」という、ある歌の出だしを引用し、これはもしかするとショパンが作曲したものではないか、と何食わぬ顔で質問している。もちろんこれが「願い」というショパンの曲であることは承知の上である。そして手紙の最後では、きっとショパンに彼女の悪筆などを読ませて時間を奪うのは罪であろうし、たぶん最後まで読み通してはいただけないでしょう。小さなマリアのお手紙などは、2言3言読まれただけで捨て置かれるでしょうとコケティッシュに悲しんでみせた。


 ショパンにとって、この手紙は、ショパン自身が恋をしているという確かな証拠となった。マリアの家族もショパンを受け入れてくれているという感触も得られた。単に恋愛感情にひたるだけでなく、マリアとの結婚をさえ考えはじめた。ワルシャワに残してきた自分の家と同じような家庭を、この異国の地でもマリアといっしょに築きあげられるのではないか。そんな夢まで見はじめた。ポーランド人で、若く、才能があるマリアは、妻として打ってつけに思えた。亡命の地にありながらも、彼女がいれば、今ほどの疎外感はなくなるのではないかと。


 そうこうするうちに、パリ帰京後間もない35年11月、ショパンは再び倒れた。症状はハイデルベルクのときよりはるかに重かった。ショパンの姿を街で見かけなくなり、ワルシャワにはショパン死亡の噂も流れ着き、「クリエル・ヴァルシャフスキ」紙がそれを否定するというようなことまであった(1836年1月8日)。病気のことは当然ヴォジンスキ家の耳にも入った。当時、パリには一家の長男、極楽とんぼのアントニが滞在していて、母親からショパンの世話をするよう言いつけられていたにも関わらず、観劇に、音楽会に、高級レストランでの豪遊にと、しょっちゅうショパンを誘い出しては遊ぶのに余念がなかった。父ヴィンチェンティは、ショパンの病気に関する噂が広まりつつあった頃、ちょうどワルシャワにいた。そのヴィンチェンティがショパンの両親に合い、いかにも熱心に、そして根掘り葉掘りショパンの容態を聞き質しているところをみると、マリアの両親もまた娘の結婚話を真剣に考えており、ショパン病気の報は、その計画が適切なものかどうかということについての、疑念とまでゆかなければ、少なくとも不安を彼らに抱かせたようであった。幸いショパンは、マトウシンスキの親身の看病と処方のおかげで元気を取り戻し、春にはマリアと会う支度さえ始める程に回復していた。

 そして7月初め、テレサ・ヴォジンスカが娘とともにチェコのマリアンスケー・ラーズニェ(ドイツ名マリエンバード)に向かうと知ったショパンは、自分も駅馬車に乗り込み、3週間以上かかって7月28日に到着した。そしてヴォジンスカ夫人たちと白鳥という名の上等な宿に同宿し、8月のひと月をともに過ごした。長かった別離は二人の若者の気持ちをさらに掻き立てていた。二人は片時も離れたくないと言わんばかりに寄り添って時を過ごした。マリアは水彩でショパンの肖像を描き(きわめて実像に近く、数あるショパンの像の中でも傑作)、ショパンは新しい2曲の「練習曲」を教えた(作品25の1,2)。二人が相思相愛の仲であることは明らかだった。テレサ夫人も、この恋物語を完全に受け入れ、その行き着くところが結婚であろうということも充分に意識していたようである。この問題についての最終的な話は、マリアンスケー・ラーズニェからドレスデンに帰って交わされた。26歳のショパンは17歳のマリアに求婚し、いろいろと条件は付いていたが、受け入れられた。マリアの母の最大の懸念は、未来の婿のひ弱な体だった。一家の主治医パリス博士は、ショパンの体を注意深く診た上で、然るべき助言をした。


 テレサ夫人は、義理の母ともなるかもしれぬ立場を利用して、率直に注意し、半ば命じた。体を大切にすること、夜遊びをやめること、早めに床につくこと、冬は野暮は承知の上で暖かい靴と靴下を履くこと、そしてパリス博士の処方する薬を服用すること。今後数ヶ月は試験期間であり、当面ドレスデンにいない父親に対しては、結婚話は秘密にしておくということになった。1836年9月10日、ショパンは、来春には再び彼女らに会えるものと幸せな期待を胸にして非公式の婚約者とその母に別れを告げた。


 前年同様、ショパンはライプツィヒに立ち寄り、前回よりは少し長く逗留した。今度もシューマンに会い、ピアノを弾く傍ら、多くの時間をともに過ごした。シューマンは、既に刊行されていた「バラード第1番 ト短調」を絶賛し、これは君の最高傑作だと言った。それに対し、ショパンはシューマンに「バラード第2番 ヘ長調」を献呈、シューマンからはピアノ独奏の連作「クライスレリアーナ」を捧げられた。


 パリに帰ってみると、テレサ・ヴォジンスカからの手紙が、マリアの添え書きとともに着いていた。親しみのこもった文面でありながら、健康に留意するように、そして今は試験期間であることを忘れぬようにと注意を促す手紙でもあった。私は私が言ったことを挽回しようとしているなどとは思わないで。そうではありません。ただ健康的な生活をして下さい。全てはこのことにかかっています。そして最後には今の気持ちを試す必要があると言及した上で、事細かな指図があった。11時には寝ること。1月7日までオー・ド・ゴムを飲み続けること。元気で、愛するフリッツ、貴方を愛する母として心から貴方を祝福しつつ、さらに追伸、マリアが貴方にといって靴をゲルマニー夫人にことづけました。ちょっと大きすぎますが、毛の靴下を履けばいいと思いますので、そうして頂戴。それがパリスの御託宣であったし、貴方も約束した以上、素直にそうしてくれると思っています。ともかく今は試験期間だということを考えて。


 婚約者の書いた添え書きの方も、燃えるような愛の告白は見当たらず、どちらかといえば、未来の妻としての気遣いを実際的に述べた手紙になっている。もっともさすがに最後の挨拶はごきげんよう、わが最愛のマエストロ、今のうちはドレスデンのことを、暫くしたらポーランドのことを忘れないで(マリアが移動するので)。ごきげんよう、また会う日まで!ああ、もっと早ければいいのに!マリアと、率直な真情もうかがえる。


 しかし試験されるのが嫌いなショパンは、どうやらヴォジンスカ夫人に自分の行状を報告せずにすませようとしていたらしかった。そのため未来の義母からの以後の手紙では、楽観的な口調はすっかり影をひそめ、かわりに、ショパンが約束を守ってくれていないのでは、それどころか彼女を騙しているのではという不安が全面に押し出される。私の命令は神にかけて守るというのは口先だけの約束で、実は嘘をついているのでは、と貴方の手紙を読んで考えました。靴も、毛糸の靴下も、11時の就寝も、何ひとつこうした事柄については貴方は触れようとしないではありませんか。実のところヴォジンスカ夫人は、パリ在住の女友達を通じて、ショパンが彼女の指図に従っていないことをよく知っていた。さらに悪いことに、37年2月にはショパンは重い感冒にかかり、またもや数週間、寝込んでしまうのである。確かにショパンは自分の生活態度を、長年にわたってできあがった習慣や人との付き合いを変えることが出来なかった。あちこちのサロンで夜を過ごすのをやめ、お日様とともに寝て起き、暖かい靴と靴下のためにお洒落を諦めるなどということは出来なかった。やがてワルシャワの母までが心配して叱責してきた。あなたが夜早く寝るようにすると約束したと、ヴォジンスカ夫人から聞いたので、私もとても喜んでいました。あなたの健康には必要なことだからです。ところがあなたは彼女に対する約束を守らなかったのですね。


 この年の春には、はたしてショパンが娘の夫にふさわしいかどうかということについて、ヴォジンスカ夫人が抱く不安はますます膨らんだ。2,3ヶ月おきに倒れる、それでいて一向に節制しようとしない病気がちな娘婿の候補者に、彼女は興味を持てなくなっていた。正式な婚約破棄こそなかったものの、明らかに彼女も夫ヴィンチェンティも、この話はなかったこととすることに決めたようであった。ショパンの方は、かねて取り決めてあったドレスデンでの会合の日取りについて、いつ知らせがくるかと待ちかねていたが、結局そういう手紙は来なかった。この夏は、母ヴォジンスカも娘マリアもポーランドから動こうとせず(ショパンがポーランドに来られないのは周知の事)、ついこの間まで最愛の息子であり、愛するマエストロであったショパンとの文通もあたりさわりのない儀礼的なものとなり、将来の再会についても全く言及のないまま経過した。幻の花嫁候補がヴォジンスキ家の領地スウジェヴォから差し出した最後の手紙には、もはや次のような言葉しかなかった。家族全員の、とりわけ幼馴染みの、最悪のお弟子であった者の愛着の気持ちを。ごきげんよう、私たちのことをどうぞお忘れなく。マリア(1837年夏)。マリアは4年後ユゼフ・スカルべク伯爵に嫁ぐことになる。ユゼフは、ショパンの名付け親フレデリック・スカルベクの息子であった。

 この予想外の結末は、ショパンにとってさぞ大きな心の傷となったに違いなかった。しかし今となっては詳しい事の顛末を知る手がかりはほとんど何もない。ショパン自身、誰にも何も告白していない。ショパンはヴォジンスキ家からの書簡をまとめて小包にし、水色のリボンで括り、かつてマリアからもらった薔薇の花と、わが悲しみという、いたって意味深長な言葉を添えた。

















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