社交界を愛する一流の教師 ショパン

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
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  ショパンはパリでのデビューを果たすにあたって、最初の一連のコンサート、そしてそれについて音楽新聞などが掲載した批評によって、それなりの地位と評判を確立してはいたが、それ以上に決定的な意味を持つのが、上流社会、社交界での支持であり、貴族の家々における名声であった。というのも、いわゆるいい趣味はそういう世界から下りてくる事になっているからだ。もし英国大使館、オーストリア大使館で演奏したとなれば、それだけ立派な才能の持ち主ということになるし、もしもヴォーデモン公爵夫人がパトロンにつけば、それだけ演奏がうまいということになるとドミニク・ジェバノフスキに宛ててショパンが書いている通りなのであった。


 そうした社交界を征服するにもさほど時間はかからなかった。パリへ来てすぐに、収入を確保するためにピアノの個人教授をしようと決めたショパンだったが、そのレッスンのおかげで、ポーランド人やフランス人貴族の家との交際範囲は次第に広がっていった。まず初めに家庭教師を始めたのは親しいポーランド人家庭、プラテル家とコマール家であった。ショパンの最初のお気に入りの弟子となったのは、音楽の素質のあるプラテル家の息女ポーリーヌであり、パリで出版された最初の「マズルカ集 作品6」はポーリーヌに献呈された。またコマール家の娘も3人教えており、そのうちの最年長が、稀に見る美貌、数々の才能、いささか自由奔放な生活態度で世に知られたデルフィナ・ポトツカである。彼女は横暴な夫ミエチスワフ・ポトツキ伯のもとを去り、誰でも自由に出入りのできる、いわば開かれたサロンをパリに構えていた。デルフィナがショパンに示した破格の好意のために、世上には二人の恋仲をめぐって噂が絶えなかった。二人の間にきわめて親密な、愛情に満ちた絆があって、それがショパンの最後の日々まで続いたことは疑いない。


 ここに、30年代デルフィナを崇拝していたド・フラオー伯爵がいて、ショパンはフラオー伯爵を通じ、教師として、フランスの貴族社会に入っていったのである。伯爵の2人の娘もまたショパンにピアノを教わった。フレデリック・ショパンは一流の教師であり、大芸術家である、そしてそのレッスン料はたいへん高額であるという評判はまたたく間に上流社会に広まっていった。その際、授業料の高さはむしろ素晴らしい宣伝材料となって働いた。といっても、1時間20フランという額は、ショパンになり代わってプラテル家、チャルトリスキ家が定め、方々の知り合いに告知したものなのである。レッスンの依頼は殺到した。パリ貴族社会でも最上級に位するお歴々、ヴォーデモン公爵夫人、ノワイユ公爵家、国王の側近ド・ペルチュイ伯爵、エステルハージ伯爵、ロートシルト男爵らが、この傑出した教師を自分のため、妻や娘のために抱える栄誉を得ようとした。外交官の中にも若干の弟子はいた。ハノファー王国大使のシュトックハウゼン男爵、オーストリア大使のアッポニ伯爵、英国領事。

 ショパンは1日5件レッスンをした。つまり毎日100フランの稼ぎになるが、これは決して小さな額ではない。したがってあまり細かい金勘定は気にせずともよく、むしろ金は惜しまず使うことをショパンは好んだ。しかも、今や自分の出入りする社会にふさわしいだけの生活をする義務もある。レッスンは1日5回だ。大儲けだと思うだろう? しかしカブリオレ(馬車の一種)で行けばそれだけ余計に金がかかるし、白手袋もしなければ作法に適わないんだとショパンは手紙でドミニクに説明している。パリのサロンはショパンを音楽の教師としてだけ見ていたのではなかった。ショパンは一躍社交界の寵児となった。それを可能にしたのは、単に芸術家としての非凡な才能の持ち主だということだけでなく、パリは大音楽家に事欠くことはなかったが、誰ひとりとしてショパンのようにサロンで愛された者はいなかった。人柄の魅力、軽やかさ、機知にあふれた会話、非の打ち所ない礼儀作法といった、社交界にふさわしい、優雅で洗練された態度や振る舞いであった。ショパン自身、幼い頃から貴族のサロンに出入りしていたことから、そうした場所でも物怖じすることなく自由に振る舞えたのである。


 一流の人々の仲間入りをしたということだ。各国大使館だの公爵やら大臣やらに挟まれて僕は座っているようなものだ。どうやって潜り込めたのか、自分でも不思議だ。自分でよじ登ってきたつもりはないし、そう弁解するショパンだったが、ショパンは貴族の社交界を好み、彼らの芸術上の趣味や芸術に関する概ねしっかりとした知識を評価し、知的な刺激に富む、洗練された会話をする機会があることはいいことだと考えていた。したがって、個人的な共感ということでいえば、ショパンはカルリストたちの側にいた。カルリストとは、保守的な主張を持ち、打倒されたシャルル10世体制を懐かしむ貴族たちの別称である。ショパンは、現在のフィリップ王を担ぎ出した新革命的な振興ブルジョワ階級よりも、貴族を好んだ。なるほど、ショパンの大切にする芸術は、無教養な拝金主義者にはあまり縁のないものだったというところだろうか。

 カルリストを愛する。フィリピストは我慢ならない。僕自身は革命主義者だとは、ドミニク宛の手紙で、ショパンが自分の立場を約めて宣言したものだが、この最後のセンテンスは、実はショパンの愛国的感情を指しているのである。ショパンの最良の友達が起こし、加わった11月蜂起は、世界では革命と呼ばれ、蜂起参加者たち自身も当時欧州各地に見られた革命運動に親近感を抱いていた。逆に、例えばフランスでは、富裕階層に対して牙をむく最も過激なグループが、7月革命によってもまだ満たされぬ思いの人々が依然として街頭に繰り出してデモ行進をしていたし、そして彼らこそポーランド人万歳!のシュプレヒコールを最も声高に呼ばわっていたのである。そうした絶望的な反逆者たちに対して、ショパンは心情的には同情を寄せていたと思われる。満たされざる民衆のあの凄まじい叫び声を聞いて、僕がどんな心持ちだったか、君には絶対わからないね! 翌日にも例の暴動の続きが始まると思われてたけれども、阿呆たれども、どういうわけだか今日にいたるまでじっとしている。ショパンは貴族を愛してはいたが、このことは、愛する貴族の命を狙う可能性のある満たされざる民衆を憐れむ妨げにはなっていなかった。ショパンの好悪に於ける、似たような矛盾は他にもまだあった。お抱え大臣連中の神輿の上に辛うじてまだ掴まっているだけの、フィリップの阿呆たれと国王を嘲る一方で、その副官ド・ペルチュイと親しく付き合い、後には国王一家のために御前演奏をして、彼らから恩寵の品を受け取ったりしているのである。

 また、ショパンは実業の人間は貴族より劣るとみなしてはいたものの、ごく普通の銀行家オーギュスト・レオ、ワイン商人トーマス・アルブレヒト(ザクセン大使館員でもあったが)の二人ほど、パリ時代のショパンに近しい存在もいなかった。一時的に経済状態が悪くなると、決まって援助の手を差しのべた善人レオ(ショパンは銀行家をそう呼んだ)はいつでも頼れる存在だった。非常に親しい付き合いだったアルブレヒトには、娘の洗礼式で教父の役を買って出た。そうしたレオには「ポロネーズ イ長調」を、アルブレヒトには「スケルツォ ロ短調」を献呈した。もっともこの二人、いずれもたいへんな音楽ファンであり、音楽に精通していたということも付け加えておかなければならないだろう。


 ショパンの人に対する好みは、最終的には身分階級などではなく、その人物の芸術への関わり方に左右されたのである。ショパンが、アストルフ・ド・キュスティーヌ侯爵の屋敷に足しげく通ったのも、同様の理由からである。繊細な審美眼を持ち、芸術に精通した、この孤独な生活者(後のプルーストの小説に登場するド・シャルリュス男爵のモデル)にとって、生活の主要な内容は芸術そのものだった。洗練された趣味によって飾られた彼のサロンは、ヴィクトル・ユゴーを始めとする文学者、画家、音楽家などの芸術家たちのために常に開放されていた。侯爵はショパンの音楽に傾倒し、そこに秘められた精緻な工夫を誰よりもよく理解し、また作曲家自身を愛した。ショパンは彼のパリの住まいだけでなく、パリ近郊、サン・グラティヤンに彼の城を訪ね、しばしばポーランド人の友人も連れて行った。そして選りすぐりの聴衆、音楽のこの上ない理解者たちのため、夜な夜なピアノを弾いては魅了した。まさにそういうところにこそショパンの本領があった。個人のサロンで、少数の親しい人々に囲まれて弾いてこそ、自分のピアノ芸術の可能性を余す所なく発揮できる、ショパンはそういうタイプの音楽家だったのである。


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