マヨルカ島でのショパンとサンド

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
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 1838年の冬、ショパンとサンドはフランスを離れて過ごすことにした。咳き込みがちなショパンにとってパリは暖房に使われる石炭の煤煙で空気が汚れるし、ノアンは暖房設備が十分でないため、サンドはリウマチの息子モーリスなど子供たちを温暖な地で過ごさせたかったのである。地中海のマヨルカ島を勧めたのは共通の友人であるマルリアーニ夫妻や有力なスペインの政治家メンディサバルであった。帰国して後、サンドはどうして出かけたのだろうかと自問している。帰国3年後に発表した「マヨルカの冬」によれば旅がしたかったからで、世間から遠いところで、部屋着のまま休息したかったということになる。


 1838年10月18日、サンドは15歳の長男モーリスと10歳の長女ソランジュ、それに召使い1人を連れて秘かにパリを発った。マルフィーユから身を隠す必要に迫られていたし、パリの連中の口やかましいゴシップからも逃れたかった。


 サンドは、最初の夫デュドウヴァンとの間にもうけた2人の子供を手元に引き取っていた。もっとも娘の方はデュドウヴァンの子供かどうか確かではない。サンドが17歳の時から恋愛関係にあったステファーヌ・ドウ・グランサーニュがソランジュの父親は私だと告白していることでもあるから。息子のモーリスは体が弱く、リュウマチを患っていた。それで日光と爽やかな空気に恵まれたスペインのマヨルカ島に、養生を兼ねてしばらく逃避することにしたのである。


 しかしこの秘密の計画もいつの間にか人々の噂にのぼっていたらしい。キュスティーヌ公爵が友人の女性ジャーナリスト、ソフィー・ゲイに宛てた手紙がある。


 ショパンはスペインのバレンシアに出かけようとしています。このひと夏、サンド夫人がショパンと何をしていたかご想像がつかないのですか!ショパンの顔はげっそりやつれ果て、見る影も無いほどです。


 ショパンはお別れに、私たちのためにピアノを弾きました。あなたもよくご存知のあのいつもの弾き方で。


 最初は書き上げたばかりのポロネーズで、力に溢れ気迫のこもった素晴らしい曲でした。それからポーランドの祈りの曲、最後に葬送行進曲を演奏したのですが、私としたことが思わず声を上げて泣いてしまいました。それこそショパンを最後の安息所に運んでゆくような行進曲でした。この世ではおそらく2度とショパンに会えないのではないかと思うと、胸がひどく痛みました。


 あの不幸な男には、あの女の愛が吸血鬼の愛だということがわかっていないのです。スペインまで追いかけて行こうとしているのですよ。サンドは先にもう出かけています。ショパンは私にサンドと同行すると告げる勇気がなく、ただ自分にはいい気候と休息が必要なんだと語っただけでした。休息、あの吸血鬼のような女と!


 ショパンは完成間近の「プレリュード集(作品28)」をプレイエルに2000フランで売るよう話を決めて、代金の4分の1の500フランを前金として受け取り、さらに友人の銀行家レオから1000フラン借りてサンドの後を追った。ピアノはプレイエルに頼んで、マヨルカ島に輸送するよう手配してもらった。そして、これは特に注目したいことであるが、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の写譜を携行することを決して忘れはしなかった。


 サンドの方は出版社ビューローズに前借りを頼み込んで、やっと6000フランを手に入れた。人目を憚る必要があったので別々に出発し、別の道を通ってペルピニャンで落ち合おうという算段である。ペルピニャンはスペイン国境近く、画家リゴーの生地としても知られるが、13世紀から14世紀にかけてマジョルク王国の首都として栄えた古都である。


 行く先はごく親しい友人だけにしか知らせなかった。サンドがヴァンドール港からマルリアーニ伯爵夫人カルロッタに宛てた手紙によれば、ショパンは駅馬車での4晩を英雄のように頑張り通した揚げ句、薔薇の花のように瑞々しく、頬をピンクに染めて10月30日の夕刻に到着、翌日サンドの一行と合流した。


 当時スペインはカルロス派の反政府闘争の最中で東北部は内乱により陸路が分断されていたので、国境の港町ポール・ヴァンドール港から船に乗り、11月1日にバルセロナに入港、数日間バルセロナ界隈を観光した後、7日の夕方5時、小さな蒸気船エル・マヨルキン号でマヨルカ島のパルマに向かった。

 航海は楽しかった。海は穏やかで、生暖かい夜の闇の中から舵手の歌うもの哀しげなスペインの歌が聞こえてくる。ショパンとサンドは肩を寄せ合って、陶然として時の流れを楽しみ、海面をすべる船の音と歌声の短調な響きに聞き入っていた。サンドの回想録にも出てくるが、その時の舵手の歌がバルカロールの情調をもつト長調のノクチュルヌ(作品37の2)に反映していると言われる。


 明けて8日午前11時半、フランスの6月のような暑さの中、パルマに到着した。真っ青な空と地中海の真夏の太陽は、病身のショパンの目に眩しかったことだろう。

 このマヨルカ島最大の町パルマに着くと、サンドはショパンと子供たちを港に待たせておいて宿を探しに出かけた。しかし町は内乱を逃れてきた避難民で溢れかえり、その混乱のただ中で住む所を見つけるなど容易ではなかった。やっとのことで粗末な下宿屋にともかく部屋を借りることが出来たが、水夫やジプシーや娼婦たちが集まる騒々しい界隈にあって、ベッドのノミや、すえた油の臭いと蚊の襲来でショパンは気も狂わんばかりになった。


 しかし数日後、フランス領事ピエール・フリュリの尽力もあって、パルマの北7キロほどの田園地帯エスタブリメンツの村に貸別荘を見つけることが出来た。借り受けた別荘は「風の家」と呼ばれ、家賃は月に100フラン、質素ではあったがショパンを有頂天にした。入居の当日、11月15日にパリのフォンタナに宛てた手紙がある。


 ユリアン・フォンタナは同郷の友人で、ワルシャワ高等音楽学校の同級生。パリではフレデリックの忠実な友人として私設秘書のような役割も果たしていた。楽譜の清書、写譜、出版社との折衝、日用雑貨の手配まで引き受けた。


 ぼくはパルマにいる。椰子の木、ヒマラヤ杉、サボテン、オリーヴ、オレンジ、レモン、アロエ、いちじく、拓留などに囲まれて。どれもこれも植物園の温室にあるようなものばかりだ。トルコ石のような空、紺碧の海、エメラルドのような山々、天国のような空気。1日じゅう太陽が輝き、みんな夏服で出歩いている。暑いんだ。夜になるとギターや歌声が何時間も続く。葡萄蔓におおわれた巨大なバルコニー、ムーア風の城壁。なにもかも町を含めて、アフリカ風の趣きなんだ。一言で言えば素晴らしい生活だよ。でもぼくを愛していてくれよ。


 プレイエルのところに行ってみてくれないか。ピアノがまだ届かないんだ。どんな経路で出したんだろう。


 まもなく君にプレリュードを送るよ。世界で最も魅惑的な場所にある、素晴らしい僧院に住むことになっている。海、山、椰子の木、共同墓地、十字軍の教会、廃墟になったモスクの寺院、千年を経たオリーブの樹。ああ親愛なる君、ぼくはほんとうに生き始めたような気がする。最も美しい全てのものがそばにある。ぼくは前よりましな人間になったよ。


 両親からの手紙、それから君が送りたいものはみんなグジマワに渡して下さい。彼がいちばん確実な宛先を知っているから。ヤシウにキスを。ここでなら彼もどんなにか早く元気になるだろうに!


 プレイエルに原稿はもうじき送ると伝えてくれ。ぼくの知人にもぼくのことはあまり喋らないでほしい。後日またゆっくり書くが、冬の終わりには戻るだろうといっておいてくれ。ここでは郵便の集配は週にたった1度きりなんだ!


 この手紙は当地のフランス領事を通して送ることにする。両親あての手紙を同封するので発送して下さい。君自身の手で投函を。
 ヤシウには後で書く。

 素晴らしい僧院というのは、フランス領事が紹介してくれた山の上の静かな修道院で、以前カルトウハ修道会が使っていたもので、パルマから馬車で3時間ほどかかるバルデモサという村にあり、独房が安く貸し出されていた。ショパンは3部屋予約した。ショパンたちは知らなかったけれど、土地の人々からは呪われた場所と信じられていて長いあいだ買い手がつかないものであった。


 パルマでの最初の1週間は晴天に恵まれたが、次の週に入ると天候は一変し、強風と豪雨が直撃した。寒暑の落差が激しく、もともと頑健な野生の人々が住むに適した土地柄で、近代的な設備が整えられた今日と違って病人が保養に来る所ではなかったのである。


 散歩の途中、集中豪雨に見舞われたショパンはずぶ濡れになり、悪寒と咳の発作に襲われた。最初は気管支炎に過ぎなかったが、やがて頑固なカタルとなり、発熱と肺結核に特有の症状が現れてショパンを苦しめた。フォンタナに宛てた12月3日付けの手紙がある。


 プレリュードの原稿は送れない。まだ仕上がっていないんだ。この2週間、犬みたいに病気をしていた。18度の暖かさで、薔薇とオレンジと椰子といちじくにも関わらず、風邪をひいてしまったんだ。


 この島の最も有名な3人の医者に診てもらった。1人は吐いた痰の臭いを嗅ぎ、2人目は痰の出てくるところを叩き、3人目は痰が出る時身体に耳をつけて聴診したんだが、1人目はぼくがくたばったと言い、2人目は死にかけていると言い、3人目はくたばるだろうと言った。けれども今日のぼくはいつもと同じだ。しかしこれはプレリュードには悪い影響をあたえたな。君がいつ受け取れるかは神のみぞ知るだ。


 数日のうちに世界で最も美しい所にすむことになるだろう。海、山、全てある。そこは大きな古くさびれたカルトウジオ会の修道院で、僧侶たちはまるでぼくのためにメンディサバル(サンドの友人だったスペインの政治家)に追放されたようなものだ。パルマにも近いし、これ以上素晴らしい所はない。あのアーケード、まさに詩的な共同墓地、あそこへ行けば、ぼくもきっとよくなるだろう。


 1つだけ問題がある。ピアノがないんだ。どうなっているか調べて下さい。病気のことは人に言わないで欲しい。でないとまたとんでもない話をでっちあげられるから。


「風の家」に医者たちがショパンを往診したあと、悪いことにあそこには結核病みがいるという風評が広まった。当時のスペインでは結核は一般におそろしい感染症と信じられていたのである。家主のゴメスは立ち退きを要求し、消毒や家具の焼却費まで請求した。ショパンたちにとっての救いはバルデモサの僧院に部屋をとっておいたことであった。修道院の部屋が住めるようになるまでの数日は、親切なフリュリ領事が自宅に泊めてくれた。

 12月15日、かねて手配してあったバルデモサの修道院僧坊に引っ越した。荷車に全財産を積み込んで。家具や厨房用品は幸いなことに、前の住人だったスペイン人夫婦から300フランで譲り受けることができた。


 プレイエルのピアノはなかなか届かなかった。やむを得ず土地のピアノを借りて作曲を始めた。サンドのグジマワへ宛てた報告はそのピアノは、あの子を救うどころかむしろ苛立たせてしまうのです。それでもショパンは仕事をしていますという切ないものであった。


 マヨルカ島は、現在では海岸沿いに白亜の近代的なホテルがずらりと立ち並び、美しいヨットハーバーで知られ、訪れる観光客は年間30万人を超えると言われるが、昔ショパンが住んでいた家もサンドとの愛のエピソードによって人気を集めている。しかし二人が暮らした当時は、カトリックの信仰に凝り固まっていたパルマの貴族たちにスキャンダラス反逆的な女闘士やその情人が受け容れられるわけもなかった。

 ショパンの肺結核が伝染するとか、若い愛人と暮らす不道徳な女とか、教会にも行かないとか、地元の人々の間での評判は散々で食料や日用品まで法外な値段で売りつけられたものだが、現在ではサンドの著書が売られ、土産品の店まであって、二人のお陰で住民たちの生活が潤っているのだから皮肉なものである。


 二人が住んだ家は、入場料225ペセタ、邦貨にして300円で内部も公開されている。長い歳月に耐え暗い表情をたたえたバルデモサの僧院には、ショパンが使っていたとされる2台のアップライトピアノが保存されているが、1つがパルマで先に調達したものらしくブランド名はヘルマノス、もう1つが1月半ばにパリから届いた待ちこがれたプレイエルである。


 ショパンの健康状態は依然として勝れなかったが、サンドは献身的に世話をやいた。ショパンは早くから病弱であったが、ショパンの人間関係には弱者が強者に対して持つ甘えによる横暴みたいなものがしばしば現れている。ところで、フランスから連れてきたはずのお手伝いさんのアメリーはいったいどうしたのだろう。サンドの言によれば、商人や宿の亭主とたくらんで財産を盗もうとした性悪女、しかし私の大好きだったアメリーは翌年の春、一行がマルセイユに戻った時に解雇されたのは確かなのだが。ともかく炊事、洗濯、家族の世話、家計の切り盛りの一切をサンドが受けもっていたようだ。新しく雇った召使いは悪質で、しきりに食料などをくすねた。よほど腹にすえかねたのであろう、サンドが書いた「マヨルカの冬」はこの島へのヒステリックなまでの敵意に満ちている。

 しかし、ショパンはこのマヨルカ島のバルデモサの僧院で、神経亢進症に悩みながらもサンドの愛に支えられて多くの充実した作品を書き上げている。「24のプレリュード」に最後の磨きをかけ、バラード第2番を仕上げ、ポロネーズハ短調作品40の2を完成し、嬰ハ短調のスケルツォやマズルカにも手をそめた。サンドには修道院を舞台にしたミステリアスな小説「スピリディオン」の執筆があった。

 有名な「雨だれのプレリュード」のエピソードもある。ただしここでサンドの語っている曲が一般に「雨だれ」として知られている変ニ長調のプレリュードであるかどうかには疑問もないわけではない。二人のロマンスを語る時、必ずといっていいほど出てくるこの名高い話は、ショパンの死後に出版されたサンドの「わが生涯の物語」がもとになっている。


 その日、身体の調子がよかったショパンを残して、モーリスと私は逗留生活に必要な買い物をするためにパルマに出かけたのです。


 豪雨になり、川が氾濫して豪雨のなか、3リュー(12キロ)の道を6時間かかって帰りました。途中で御者に置き去りにされ、いままで聞いたことがないような危険をやっとくぐり抜け、夜遅くになって裸足で帰宅したのです。


 私たちは病人が心配するのを思って、道を急ぎました。ショパンは一種の静かな絶望に陥っていた様子で、涙を流しながら素晴らしいプレリュードを弾いていました。


 私たちが入ってくるのを見ると大きな声を出して立ち上がり、取り乱した奇妙な調子で言いました。ああ、きっと死んでしまったと思ったよ!


 正気に戻って私たちの様子を知ると、私たちが出遭った危険を思い描いてすっかり気分を悪くしました。あとで打ち明けたところでは帰りを待っている間、私たちが危険に遭っている光景を夢想し、現実との区別がつかなくなって、ピアノを弾いてなんとか気を落ち着け、まどろみながら自分もまた死んでいるのだと言い聞かせていたと言うのです。ショパンは湖で溺れている自分の幻影を見たといいます。重い凍りついたような水滴が、規則正しいリズムを刻んで胸の上に落ちていたのです。


 実際に屋根の上に規則的な間隔で落ちている雨音に注意を促すと、自分が耳にしたのはこれではないと言いました。私が模範的和音と表現した時は気を悪くして、精一杯抗議しました。ショパンの天才は自然の神秘的な和音に満ちていますが、その和音は崇高さのうちに楽想に置きかえられたもので、外界の音の創意なき模倣ではないのです。


 その夜のショパンの作品は、僧院の屋根に音を立てて落ちた雨だれだったとしても、その雨のしずくはショパンのイメージと音楽のなかでは天から彼の胸に落ちる涙に変わっていたのです。


 

 


 

















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