フレデリック・ショパンを育てたパリ

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
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 フレデリック・ショパンは、1810年3月にポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれ、1831年9月末、21歳でパリに出てくる。深い関わりを持ったジョルジュ・サンドをはじめ、ドラクロワ、バルザック、ハイネ、リスト、ベルリオーズなど多くの芸術家と交流し、1849年10月、39歳で亡くなった。
 ショパンが作曲をはじめたのは7歳の頃だから、音楽人生だけに限っていえば、フランスで過ごした時間の方が長かったことになる。
 しかし、その作品解釈ということになると、圧倒的にポーランドが優勢になる。例えば、5年に1度しか開催されない、つまりオリンピックより希少なショパン国際ピアノ・コンクールはパリではなくポーランドのワルシャワで開催される。1955年にアダム・ハラシェヴィチに優勝を譲ったヴラディーミル・アシュケナージの例を見るまでもなく、ある時期まではポーランド優位の印象はぬぐい難かった。1980年に第2次予選で敗退したイーヴォ・ポゴレリチのように、マズルカやポロネーズなど民族系の作品解釈でポーランドの審査員に好まれなければ入賞もおぼつかないとささやかれる時代も長く続いた。
 ショパンの楽譜は、ポーランドのエキエル版やパデレフスキ版が主流で、フランスのコルトー版やドビュッシー版は参考程度に使われるに過ぎない。
 実際のところショパンは、半生をフランスで過ごしただけではなく、ショパン自身にも半分はフランスの血が流れているのである。ショパンの父ミコワイはロワール地方に生まれ、16歳でワルシャワに移住したフランス人である。ポーランド貴族にフランス語を教えることで生計を立て、屋敷に務めていた没落ポーランド貴族の娘と結婚している。長男フレデリックが誕生した年、ミコワイはワルシャワに新設された高校でフランス文学とフランス語教師の職を得た。
 フレデリックがポーランドの民族音楽に目覚めたきっかけは、母が歌う子守唄だったという。幼いころから才能を発揮したフレデリックは、ラジヴィウ公はじめ貴族のサロンに招かれて演奏し、即興や自作のピアノ曲を披露している。聞き手の趣味を即座に見抜く感性、リストが賛嘆した王侯のように上品なものごしはこのとき培われたのだろう。

 1824年の夏休み、ワルシャワ北西150キロのシャファルニャで過ごしたフレデリックは、何世代も歌い継がれてきた伝統的な民族音楽に出会い、熱心に採譜した。作曲の師エルスネルはドイツ人だったが、厳格な書法で少年の才能を縛る代わりに、ポーランドの民族音楽に基づく自由な即興を大いに奨励した。
 近年、ワルシャワ時代のショパンの書簡集がポーランド語から初めて邦訳された。従来の書簡は英語からの重訳だったため、書き手の生の言葉が伝わらないうらみがあったが、改訳を読むと、優雅で繊細なピアノの詩人というショパン像はかなり覆される。
 ワルシャワ時代のショパンはいたずら好きで好奇心旺盛活発な少年で、馬に乗って野山を駆け巡り、家族や友人たちに宛てて平気で卑猥な冗談も飛ばしている。
 ティーンエージャーのショパンは、アマチュアの劇団に所属する役者の卵でもあった。パントマイムにも秀で、洋裁師に扮して見えない裁ち鋏で布を切る仕草にはプロの俳優も舌を巻いたと伝えられる。モノマネやカリカチュアの名人で、いろいろな人物の身振りや口ぶりを形態模写するときは顔立ちまで変わって別人のように見えたという。
 パリ時代のショパン像は、もしかするとかなり計算された彼なりの見せ方だっただった可能性もある。退路を断たれたショパンは、とにかくこの花の都で生きていかなければならなかったのだから。
 どちらかといえばウイーンでキャリアを築くことを望んでいたショパンがパリに定住することになったのは、よく知られているようにワルシャワ動乱(ショパン側から見ればワルシャワ蜂起)がきっかけだった。
 1831年5月1日、ショパンがパリに出てくる4ヶ月ほど前、ドイツ叙情派の詩人、ハインリヒ・ハイネがライン川を渡っている。ユダヤ人のハイネは7月革命の余波で故国に居づらくなったため、亡命を決意した。サン・ドニから凱旋門をくぐったハイネは、早速めかしこんだ人々の群れに驚いている。

 彼らは皆、モード雑誌の絵のようにたいそう趣味のよい服装をしていた。次に感銘を覚えたのは、彼らがみなフランス語を話していることであった。これはドイツでは上流階級の印であったから、ここでは、国民全体がドイツの貴族と同じくらい高貴だということになる。
 フランス人なのだからフランス語を話すのは当たり前なのだが、人々の礼儀作法、フランス風の雅は祖国ドイツの武骨さへの恐れからすっかり縮み上がってしまっていたハイネの心を和らげた。
 シュツットガルト経由でパリ入りしたショパンは、ハイネのような気後れを感じることもなく、すんなりとパリの街に同化した。モンマルトルからパンテオンまでを見渡すポワソニエール大通りのおしゃれなアパルトマンに居を定めたショパンは、友人にこんな手紙を書く。いろんなことを発見できて、愉快になっている。世界第1の音楽家がおり、ロッシーニ、ケルビーニ、パエルなどに会った。それで、きっと思ったより長くいることになりそうだ。僕にとって好都合な環境だからというのではない。段々と好転するだろうと思うからだ。
 宮廷指揮者のパエルの紹介で、当代1のピアノ教師、カルクブレンナーに自作の「ピアノ協奏曲第1番」を聴いてもらう機会を得た。1聴して魅せられたカルクブレンナーだが、協奏曲の総譜を見て、オーケストラ書法の不備を指摘する。演奏家としても、出来栄えにムラがあり、技巧的に完全ではないショパンがパリのピアノ界で確固たる地位を占めるために3年間自分のところで修行するようにと提案する。

 ショパンが故郷の両親に相談すると、猛烈に反対される。ワルシャワでの師エルスネルは、それはカルクブレンナーの嫉妬だと切って捨てる。俺はフレデリックを知っている。彼は良い奴だ。すぐに他人の意見に影響される。
 しかし、カルクブレンナーの言うことにも一理ある。ショパンは述べる。丹念に僕の演奏を観察して言うには、僕には何流という流派がないこと、今は素晴らしくいっているが、悪く曲がらないとも限らないとのことだった。さらに、彼が死んでしまうか、隠退してしまった後には、ピアノ演奏の大きな流派の代表者というものはなくなってしまうだろうとも言いました。彼は例え僕がやろうとしても、古い流派を習得しなくては、新しい流派をおこすことは出来ないといいました。
 いちいち正論なのである。ショパンのピアニズムはワルシャワ時代に既に確立されていたが、あまりに革新的で従来の技法とは大きな断絶があった。ショパンが伝統を踏まえた上で新しい流派を作らなかったため、その真髄は長く専門の教育機関に伝わらなかった。そのことがフランスの、ひいては世界のピアノ界に歪みを与えていくこととなる。

 教師合戦はひとまずワルシャワ側の勝利に終わったが、カルクブレンナーがショパンの才能に嫉妬していたわけではなかったことは、弟子入りを断ったピアニスト・作曲家をパリ楽壇に紹介するために尽力し、大がかりな演奏会を企画したことからもわかる。
 ワルシャワから来たフレデリック・ショパン氏による大演奏会は、何度か延期された後、1832年2月20日にプレイエルの小ホールで開かれた。ショパンは自作の協奏曲や「ドン・ジョヴァンニの主題による変奏曲」を演奏し、カルクブレンナーは4台の伴奏ピアノと2台のソロによる自作の「序奏と行進曲付き大ポロネーズ」でショパンと共演した。亡命ポーランド貴族が喝采を送り、メンデルスゾーンやリストも来場し、音楽雑誌にも好評が載ったが、入は3分の1程度で収入は少なかった。
 同年4月、パリで演奏活動をしたいと情報を求めてきた故郷の友人に、相当の蓄えがなければやっていけない、パリで弟子をとることは大変むずかしいし、演奏会を開くのはなおさらだ、コレラが蔓延している上に政治情勢が悪い、と返事を書いている。
 5月には、パリ音楽院ホールの慈善演奏会に出演し、「協奏曲第1番」をオーケストラをバックに演奏したが、ピアノの音量が小さくてよく聞こえず、管弦楽書法も不十分だと批判された。ショパンがオーケストラをうまく扱えなかったのは衆目の一致するところで、現在でもショパンの協奏曲を伴奏するオーケストラは退屈そうにしている。ショパンは次第に、自分はロッシーニのようなオペラ作曲家としても、リストのようなコンサート・ピアニストとしてもやっていけないことを悟るようになる。
 そんな時、ショパンに救いの手を差し延べたのが大富豪のロスチャイルド家だった。ドイツ系ユダヤ人の銀行家一族で、5人の息子がそれぞれドイツ、オーストラリア、イギリス、イタリア、フランスで事業を展開し、1822年にはハプスブルク家より男爵の称号が授けられている。パリに亡命していたラジヴィウ公の誘いでロスチャイルド男爵のサロンで演奏したショパンは、男爵夫人から弟子入りを志願された。噂は瞬く間に社交界に広まり、多くの上流階級の貴婦人たちがショパンの個人レッスンを受けることになった。

 亡命ポーランド人たちがレッスン料をかなり高額に設定したこともあって、ショパンはカルクブレンナーより5フラン安いだけの20フランというレッスン料をロスチャイルド男爵夫人をはじめ、ノアユイ侯爵令嬢、ボーディン公爵夫人、国王の側近のド・ペルチュイ伯爵、エステルハージ伯爵など貴族階級の生徒達から得るようになった。
 1833年1月には、ベルリンの友人に宛ててこんな勝利宣言が書かれている。僕は最高の社交界に出入りしています。大使、公爵、大臣たちの間に座っている。僕は自分を特に売り込むようなことはしなかったのにどんな不思議なことがあったのか、自分ではわからない。今日は5人レッスンをした。君は僕は金持ちになると思うかも知れぬが、幌馬車と白手袋の費用は収入以上にかかるのだ。しかも、これがないと上流社会には入れないのだ。
 この年、ショパンは自分を支える新興ブルジョワが多く住むショセ・ダンタン街5番地の高級アパルトマンに引っ越し、二輪馬車を借り、御者と召使を置いた。
 ショパンがこのように成り上がることが出来た背景には、フランス社会の特殊事情がある。1789年の大革命以来、革命に次ぐ革命を経て7月革命では中産階級が勝利を占めたが、文化的な優位は未だに貴族階級が握っていた。富を得れば誰でもショパンのようにショセ・ダンタン街に住むことが出来たが、ブルーストの小説の舞台になるようなフォーブル・サンジェルマン界隈には近づくことができず、一種の憧れとなっていた。
 その憧れに近づく手段の1つは、貴族と同席できるオペラ座、またはコンセルヴァトワール音楽協会の会員になることでした。しかし、オペラ座の仕切られたボックス席ロージュは、代々貴族の世襲制が強固であり、容易に交われる場ではありません。それに比べてパリではそれほど伝統のないクラシックやポピュラーの音楽では同じ平土間に同席することで自由に行き来が出来ます。以前なら顔を見ることさえ出来なかった公爵や伯爵と同席することはことのほか大きな意味を持っていました。
 こうしたことが可能になったこと自体、まさにパリ的であった。ロンドンやウイーンでは音楽はまだ貴族の掌中にあったが、度重なる革命で貴族による音楽活動が停滞していたパリでは、中産階級が貴族のようなサロンを開く中で文化面の社会的進出を果たして行ったという。

 サロンには必ずグランド・ピアノが置かれ、巧みに楽器を操るヴィルトゥオーソが大いにもてはやされる。ショパンやリストのような卓越したピアニストはフォーブル・サンジェルマン界隈のサロンにも招かれたため、1840年代に入るとショパンらのコンサートに貴族たちも顔を出すようになり、かつてはあり得なかった2つの階級の顔合わせが実現した。
 こうした状況は、ショパンにとっても好都合だった。ショパンは公開演奏会のような場では大音響が出ないため、思った程の成果が上げられなかった。ショパンの演奏の美点である微細なニュアンスの変化、軽やかなタッチの妙は、洗練された趣味を持つ人々が社交の場でこそ効力を発揮した。ショパンはまた、自分のことを知らない人々の前で演奏すると、ひどい気後れに襲われて真価を発揮出来なかったらしい。その意味でも、サロンの親密な空間が最もショパンにふさわしい演奏の場だったと言えよう。
 パリに滞在していた18年の間、ショパンがホールと名の付く場で演奏したのは数える程しかない。一方、1日5人の生徒が置いていくレッスン代の合計は、最も盛んな時でオペラ・コミーク座の楽長職より7千フランも多く、教授職の4倍、一般的な労働者の20倍にも達したという。
 公開の場で演奏せず、専ら上流階級の子弟に稽古をつけるショパンのパリでのライフスタイルは、結果として彼の革新的なピアニズムの伝搬を著しく遅らせた。
 ショパンはチェルニーやリストらが各指を均等に動かすために厳しい訓練を課すことに疑問を呈し、5本の指は長さも付き方も違うのだから、それぞれに相応しい使い方をすべきだと主張した。ショパンが編み出したシステムは、人差し指、中指、薬指の3本を黒鍵に置き、短い指を白鍵に落とすという画期的なものだった。モスクワ音楽院でギレリスやリヒテルを育てたゲンリヒ・ネイガウスはこのシステムをコロンブスの卵と呼んだ。同じ考え方に従ってショパンは、全ての指が同一平面上に乗るハ長調の音階(一般的には最も平易とされる)は最も難しいから最後に練習するようにと弟子たちに指導した。ショパンのピアノ曲にシャープやフラットのたくさん付いた曲が多いのはこうした理由による。
 ショパンの手は同世代のヴィルトゥオーソに比べて小さく、指も細かったが、並外れた柔軟性に恵まれていた。ショパンのピアニズムは、そうした手の特性を踏まえ、指そのものの筋力に頼らず、重さを支える支点を無理なく移動させることによって少ない力で大きな効果を上げるように工夫していた。

 ショパンは自分の指導をまとめた教本の執筆を考えていたが果たせず、エッセンスを記した草稿が姉のルドヴィカに託され、次いでショパンに師事した元革命政府首相夫人に寄贈された。夫人の死後はポーランドのピアニストに寄贈され、そのピアニストの死後競売にかけられ、落札したのがフランスのピアニスト、アルフレッド・コルトーである。この時1936年。ショパンがパリに出てきてから1世紀が経過していた。
 ショパンのエディションはポーランドのものが主流だし、ショパンを研究したい学生はワルシャワ音楽院への留学を希望する。ショパンを演奏する上で、ポーランド人の精神構造や民族音楽への理解が必要なことはもちろんだが、フランス的洗練がショパン作品を読み解く上で重要なファクターであることもまた否定出来ない。
 ショパンの主要作品の多くはパリ時代に入ってから書かれている。ワルシャワ時代との大きな違いは、作品の規模であろう。ウイーンでの成功を夢見ていた頃は、協奏曲をはじめオーケストラを伴う大規模な作品を5曲も書いている。パリに到着してからも暫くは新しい協奏曲を構想していたようだが、やがて断念し、「演奏会用アレグロ」がその名残となるが、より規模の小さなキャラクターピースを作曲するようになった。
 それは、ショパンが公開演奏会で多くの聴衆を感動させるヴィルトゥオーソから、良い趣味を持つサロンの選良向けのピアニストへと方向転換した証である。とりわけノクターンは、ささやきかけるようなメロディーに沿って精緻な和声づけがされ、サロンで演奏する上での大きな武器になったに違いない。ワルツもまた、ウイーンで流行していたような踊るためのワルツではなく、優雅で洗練された芸術作品として昇華されている。

 7歳の時から書いているポロネーズをはじめ、ワルシャワ時代の秀作は総じて繰り返しが多く、饒舌な印象があるが、パリに移り住んでからは、より凝縮された簡素な表現を心がけるようになった。この変化はかなり劇的で、気品を重んじるパリの影響が見て取れる。
 フランス的洗練が理想的な形で表れているのが「24の前奏曲」であろう。個々の楽曲は演奏時間1分程度、長くても5分程だが、コンパクトな中に様々な意匠が施されている。たった1つの音、たった1つの転調で景色が変わってしまう程の密度の濃さである。
 例外はマズルカで、生涯に渡って書かれ、折々の心象風景を最も反映させていると言われる。唐突な転調、大胆な律動、極端な気分の変化、ときに荒ぶる表現あり、時に詠嘆調に、虚無的になり、亡命ポーランド人ショパンの本音を垣間見るようである。
 ある日本人ピアニストから、ポーランド人の先生に習うのと、フランスの先生に習うのとではマズルカのリズム感が全く違うという話を聞いた事がある。民衆舞踊の土属性か、フランス的洗練か、どちらに傾きすぎても、おそらく違ったことになるのだろう。
 ショパンの音楽に内在する激しいパトスとそれをオブラートのように包むエレガンス。求められるものを敏感に察知したショパンの擬態も含めて、ショパンに於けるパリは今なお、考察の余地を広く残している。

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