フレデリック・ショパンを育てたパリ
フレデリック・ショパンは、1810年3月にポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれ、1831年9月末、21歳でパリに出てくる。深い関わりを持ったジョルジュ・サンドをはじめ、ドラクロワ、バルザック、ハイネ、リスト、ベルリオーズなど多くの芸術家と交流し、1849年10月、39歳で亡くなった。
1824年の夏休み、ワルシャワ北西150キロのシャファルニャで過ごしたフレデリックは、何世代も歌い継がれてきた伝統的な民族音楽に出会い、熱心に採譜した。作曲の師エルスネルはドイツ人だったが、厳格な書法で少年の才能を縛る代わりに、ポーランドの民族音楽に基づく自由な即興を大いに奨励した。
彼らは皆、モード雑誌の絵のようにたいそう趣味のよい服装をしていた。次に感銘を覚えたのは、彼らがみなフランス語を話していることであった。これはドイツでは上流階級の印であったから、ここでは、国民全体がドイツの貴族と同じくらい高貴だということになる。
ショパンが故郷の両親に相談すると、猛烈に反対される。ワルシャワでの師エルスネルは、それはカルクブレンナーの嫉妬だと切って捨てる。俺はフレデリックを知っている。彼は良い奴だ。すぐに他人の意見に影響される。
教師合戦はひとまずワルシャワ側の勝利に終わったが、カルクブレンナーがショパンの才能に嫉妬していたわけではなかったことは、弟子入りを断ったピアニスト・作曲家をパリ楽壇に紹介するために尽力し、大がかりな演奏会を企画したことからもわかる。
亡命ポーランド人たちがレッスン料をかなり高額に設定したこともあって、ショパンはカルクブレンナーより5フラン安いだけの20フランというレッスン料をロスチャイルド男爵夫人をはじめ、ノアユイ侯爵令嬢、ボーディン公爵夫人、国王の側近のド・ペルチュイ伯爵、エステルハージ伯爵など貴族階級の生徒達から得るようになった。
サロンには必ずグランド・ピアノが置かれ、巧みに楽器を操るヴィルトゥオーソが大いにもてはやされる。ショパンやリストのような卓越したピアニストはフォーブル・サンジェルマン界隈のサロンにも招かれたため、1840年代に入るとショパンらのコンサートに貴族たちも顔を出すようになり、かつてはあり得なかった2つの階級の顔合わせが実現した。
ショパンは自分の指導をまとめた教本の執筆を考えていたが果たせず、エッセンスを記した草稿が姉のルドヴィカに託され、次いでショパンに師事した元革命政府首相夫人に寄贈された。夫人の死後はポーランドのピアニストに寄贈され、そのピアニストの死後競売にかけられ、落札したのがフランスのピアニスト、アルフレッド・コルトーである。この時1936年。ショパンがパリに出てきてから1世紀が経過していた。
7歳の時から書いているポロネーズをはじめ、ワルシャワ時代の秀作は総じて繰り返しが多く、饒舌な印象があるが、パリに移り住んでからは、より凝縮された簡素な表現を心がけるようになった。この変化はかなり劇的で、気品を重んじるパリの影響が見て取れる。
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