ベートーヴェンの不滅の恋人

＜死後に発見された謎の恋文＞
　ベートーヴェンの死後、弟ニコラウス・ヨハンと、自称無給の秘書アントン・シンドラーは、ベートーヴェンの隠し戸棚から、3通の手紙を発見した。
　手紙はいずれも封筒がなく、鉛筆書きで宛名もなく、日付と曜日は記されていたが年代は不明であった。
　その後、使われている紙の透かしなどから、手紙が書かれたのは、１８１２年７月６日と７日、場所は温泉地として有名なテプリツエと特定された。
　内容はいずれも熱烈な恋文で、３通目で「わが不滅の恋人よ」と呼びかけているところからベートーヴェンの不滅の恋人として知られるようになった。
　しかし、この相手が誰であったのか、いまだに特定はされていない。長年に渡り多くの研究者たちが、謎の恋人を探し出そうと努力を続けてきた。
　不滅の恋人の正体を考察する上で、避けて通れないのが、手紙そのものの謎である。
封筒がないことから、これら３通の手紙は、何らかの事情で出されなかったもの、もしくは相手から返されたと考えるのが妥当であろう。
　それではベートーヴェンはなぜ、この手紙をしまい込んでいたのか。引っ越し魔ベートーヴェンは、住まいを移っても、この手紙を処分することなく、死去するまでの１５年間、隠し持っていたことになる。成就しなかった恋の形見を終生持ち続けた、その思いの強さには、心を打たれるばかりであるが、なぜベートーヴェンは相手に手紙を渡さなかったのか、なぜ処分しなかったのか、不滅の恋人の正体を探る上で、この２点を無視することは出来ない。
＜二人の有力候補者、ヨゼフィーネとアントーニエ＞
　現在、不滅の恋人の候補者は、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックとアントーニエ・ブレンターノの二人に、ほぼ絞られてきている。その他には、ヨゼフィーネとは従姉妹にあたるジュリエッタ・グイチャルディー、ヨゼフィーネの姉テレーゼ、マリー・フォンエルディーティテレーゼ・マルファッティー、アントーニエの義妹にあたるベッティーナ・フォン・アルニムらが可能性ありと言われている。

　有力候補者の二人をそれぞれ見てみよう。
　ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックは、姉テレーゼとともに、ベートーヴェンのピアノの弟子で、ハンガリーの名門貴族の家に生まれた。優雅な美女ヨゼフィーネは、ベートーヴェンの熱烈な恋の相手であったが、27歳年長の伯爵と結婚し、ほどなく未亡人となる。未亡人となった頃の１８０４年から１８１０年頃、ベートーヴェンが彼女に宛てた１０数通の恋文が発見されている。
　しかしヨゼフィーネのその後の人生は、悲劇的であった。ベートーヴェンとの恋は身分の違い故に実らず、再婚相手の財政上の破綻や失踪に心身を擦り減らしていく。彼女が生んだ６人目の子はベートーヴェンとの子供であるという説もある。最後には、精神に変調をきたし、ベートーヴェンが世を去る６年前に４１歳で没した。
　アントーニエ・ブレンターノは、ハプスブルク家の顧問官を務めたビルケンシュトック家に生まれ、フランクフルトの裕福な商人フランツ・ブレンターノと結婚した。フランツは、異母兄弟で作家のクレメンスやベッティーナと同様、ベートーヴェンの親しい友人で、そこから交流があったと考えられている。
　ブレンターノ夫妻は６人の子宝に恵まれ、アントーニエは慈善家としてフランクフルトの貧民救済に努め、またサロンを開いて文化的発展にも貢献した。ヨゼフィーネとは対照的に、幸福な上流婦人としての生をまっとうしたのである。
　しかし、夫妻の結婚生活が順調ではなかったと推測される時期があり、それがベートーヴェンがこの手紙を書いた時期と重なることから、不滅の恋人はアントーニエであると断定する研究者もいる。
　激しい恋情をしたためた手紙を、結局は出さなかったものの、最後まで秘密裡に持ち続けていたことからベートーヴェンの傷心の深さが忍ばれる。それを考えると、長年の友人の妻であるアントーニエよりも、悲嘆のうちに身を空しくしたヨゼフィーネのほうが不滅の恋人にはふさわしいように思われる。

　とはいえ、確証はどこにもなく、現代の我々には、残された恋の形見に触れて、想像を巡らせるしかないのである。