【序章】「人を愛する」という課題
そう語る人は多い。しかし、その言葉の裏には、見落とされがちな問題が潜んでいる。加藤諦三教授は、人間関係における悩みの本質が“愛し方を知らない”ことにあると、幾度も著作の中で述べてきた。だが、彼はさらにこう付け加える。「多くの人は、人を愛したいのではなく、人にすがりたいのだ」と──。
この「愛」と「依存」のすり替えこそが、現代の愛情関係を歪めている大きな要因である。
愛したいのか、すがりたいのか
加藤教授は『愛を後悔している人の心理』の中で、次のように述べている。
「人間関係で最も苦しむ人とは、自分が相手を必要としていることに気づいていない人である。自分が“愛している”と思っていることが、実は“すがっている”だけの場合がある」(加藤諦三, 1995)
例えば、20代後半の女性E子は、常に恋人が絶えない。しかし、その恋愛はどれも長続きしない。彼女は「私って尽くしすぎるから、いつも損するのよ」と話すが、実際には自分の価値を他人の愛情で測っている状態だった。
彼女が“尽くす”理由は、相手から「必要だ」と言ってもらうためだった。そして、その裏には「私なんか誰にも本当は必要とされていないのでは」という無価値感が横たわっていた。
加藤教授は、こうした傾向を「幼少期の心の傷の再演」と呼ぶ。親に十分に愛されなかった子どもは、他者との関係にその埋め合わせを求めやすい。恋人、配偶者、友人──それが誰であれ、彼らに「自分の価値を証明してほしい」という欲求をぶつけてしまうのである。
愛することは、まず“孤独”と向き合うこと
本当の意味で人を愛するには、まず「自分が独りである」という現実を引き受けなければならない。
「自分の孤独に耐えられない人は、愛の関係ではなく、依存の関係しか築けない。孤独に耐えられる力が、愛する資格を生む」(加藤諦三『なぜか恋愛がうまくいかない人の心理学』, 2018)
これは容易なことではない。なぜなら、孤独に向き合うことは、過去に傷ついた自己と対峙することでもあるからだ。
事例:40代の男性S氏は、妻との関係がうまくいかないと語っていた。彼は「彼女が冷たくなった」「話を聞いてくれない」と訴えるが、実際には自分が話を聞いていなかった。彼は常に「妻が自分をわかってくれない」と不満を口にしながら、妻の話を“評価”と“反論”の姿勢でしか受け止めていなかった。
加藤教授はこうした行動の裏にも「自己否定の構造」があると指摘する。
すなわち、自分が無価値だと思っている人は、無意識に「自分を否定される前に相手を否定する」という防衛を取ってしまうのである。
「人を愛する資格」とは何か
では、「人を愛する資格」とは何だろうか? それは、加藤教授の言葉を借りれば、「自己理解の深さ」である。
「人間が人を愛せるようになるのは、自分を愛せるようになった時である。だが、自分を愛するとは、甘やかすことではない。理解し、許し、そして責任を持つことである」(加藤諦三『終わる愛 終わらない愛』, 1997)
愛とは、感情の爆発でも一時の熱情でもない。それは成熟であり、自己の深層と向き合った人だけが持ち得る「他者との真のつながり」なのだ。
第1章:「自己否定からの出発」
「人を愛せない人の多くは、自分を嫌っている。自分を嫌っている人が、他人を肯定的に受け入れられるわけがない」
──加藤諦三『愛されなかった時どう生きるか』
1.1 劣等感の仮面としての“優しさ”
加藤教授の視点では、「優しさ」や「献身的な態度」といった一見ポジティブな性格特性も、実は深層心理に潜む自己否定の産物であることが少なくない。
A子(28歳)は、「私は誰かのために尽くすことに幸せを感じる」と言っていたが、その行動の根底には「自分には価値がないから、相手に役立つことで存在意義を得たい」という無意識の戦略があった。
実際、A子は恋人に尽くしすぎた結果、「重い」と言われて振られる経験を何度も繰り返していた。彼女は他者の期待に応えることに夢中で、自分の感情を一度も正面から見つめたことがなかったのだ。
加藤教授は、こうした自己犠牲的な行動を「愛とは似て非なる、自己否定の産物」と断言する。
「劣等感の強い人は、“人に尽くすことでしか自分の価値を確認できない”。だが、そのような人が求めるのは愛ではなく、救済である」
──『なぜか恋愛がうまくいかない人の心理学』
1.2 自己否定のルーツ──幼少期の愛情欠如
愛情の基盤は幼少期に形成される。加藤教授は、「自己肯定感の低さは、愛されなかった記憶から来る」と明言している。
Bさん(41歳・男性)は、家庭では常に「男なんだから強くいなさい」と言われて育った。泣くことも甘えることも許されず、「感情を見せる=弱さ」という信念が根づいた。
その結果、大人になった彼は「自分を出せない」まま、人間関係に苦しむようになった。妻との間でも本音を語ることができず、相手に不満をぶつけられるたびに「責められている」と感じ、逃げ出したくなる衝動に駆られる。
加藤教授は、このような背景を持つ人間関係の機能不全を「親からの否定的なメッセージの繰り返し」だと説く。
「子供時代に愛されなかった人間は、無意識に“私は愛されない存在だ”という思い込みを持つ。そして、愛を与えられてもそれを疑い、自ら関係を壊してしまう」
──『こだわりの心理』
1.3 真の自立は「自己理解」から始まる
愛するためには、自分を理解しなければならない。だが、それは「良いところを肯定する」ことではなく、「弱さや醜さを受け入れる」ことである。
C子(35歳・独身女性)は、自分の短気な性格を責め、恋愛関係で怒ってしまうたびに自己嫌悪に陥っていた。心理カウンセリングを経て、彼女は「怒り」は「理解されない」という痛みから生まれていたと気づいた。
過去、父親に話を遮られたり、母親に「あなたはいつも大げさ」と言われた記憶が、今も彼女の感情のトリガーになっていたのだ。
加藤教授は、このような気づきを「愛するための第一歩」と位置づけている。
「自己理解なくして、自己受容はなく、自己受容なくして、他者への信頼もない」
──『だれにでも「いい顔」をしてしまう人』
1.4 人を愛する資格とは「未熟さとの対話」
「人を愛する」という行為は、自己の未熟さを許しながら、その未熟さに責任を持つことに他ならない。
加藤教授は、「愛することは強さではなく、弱さを認め合う関係である」と説く。
人を愛する資格とは、完璧な自分になることではない。
それは、自分の中にある怒り、恐れ、寂しさを直視し、それでもなお「私はここにいる」と言える勇気に基づいている。
第2章:「依存」を超えるための成熟
「それは愛だ」と思っていた感情が、実は“依存”だったと気づいたとき、多くの人は自分の未熟さに直面する。
加藤諦三教授はこう語る。
「依存とは、他人を自分の“心の補助具”として利用している状態である」
──『終わる愛 終わらない愛』
依存とは、心理的に“自立していない心”が発するサインであり、真の意味で「人を愛する」ことの対極にある関係である。
2.1 愛の仮面を被った「支配」
依存関係においては、しばしば「コントロール」が「愛」として表れる。
事例:30代前半の女性N子は、交際相手がどこで何をしているか常に把握しないと気が済まなかった。LINEの返信が数分遅れると「浮気してるの?」と責め立て、相手を疲弊させた。
彼女は「愛しているから心配になる」と言うが、加藤教授の言葉を借りれば、これはまさに“愛ではなく支配”である。
「自分に自信がない人ほど、相手をコントロールすることで“愛されている実感”を得ようとする。しかし、それは相手を一人の人間として尊重する姿勢からはほど遠い」
──『やさしさと冷たさの心理』
依存は「相手に支配されたい」「相手を支配したい」という両義的な欲求を生む。つまり、対等な関係ではなく、心理的な優劣関係に陥りやすいのだ。
2.2 見捨てられ不安と「愛情テロ」
依存の根底には、しばしば「見捨てられ不安」がある。
40代男性K氏は、常に妻に「本当に俺のことを愛してるのか?」と問い続けた。仕事から帰る時間が少し遅れるだけで、「もう俺のことどうでもいいんだろう」と攻撃的になる。
妻は最初はなだめていたが、次第に疲弊し、夫婦関係は破綻した。
このような「確かめ行動」は、“愛されているか不安”という感情を、相手に「試し行動」でぶつけてしまう現象である。加藤教授はこれを「愛情テロ」と呼ぶことさえある。
「不安な人間は、安心したくて相手を試す。だが、試される側は疲弊し、やがて関係そのものから逃げたくなる」
──『なぜか恋愛がうまくいかない人の心理学』
2.3 自立とは「孤独に耐える力」
依存を超える第一歩は、「一人でも生きていける自信」を育てることだ。
ここでいう“自立”は、経済的自立や物理的距離ではなく、「心理的に他者に過剰に寄りかからない力」を指す。
教授は言う。
「孤独に耐えられない人は、他人に“自分の存在価値”を保証してもらおうとする。だが、他人はあなたの“心の穴”を埋める道具ではない」
──『こだわりの心理』
例:50代の女性Yさんは、長年夫に依存し、自分の考えを持たず、全てを「主人が決めるから」に委ねてきた。夫の死後、彼女は何も決断できない状態に陥った。
本来、愛とは“共に歩く”ことであり、誰かに“運んでもらう”ことではない。
依存を超えるとは、他者と「共にいても、離れていても自分を失わない」状態を育てることなのだ。
2.4 依存を乗り越える“成熟のプロセス”
加藤教授が提唱する「愛の成熟」は、以下の三段階を経て形成される。
気づき(Awareness)
自分が依存していることに気づく。
受容(Acceptance)
その背景にある「見捨てられ不安」や「愛されなかった記憶」を受け入れる。
行動の変化(Action)
不安を“言葉”で伝える訓練を積み、相手を信じるという“勇気”を選ぶ。
これらは、加藤教授が提唱する「心の成熟」の中心的モデルでもある。
「人間の成熟とは、“信じてもらえなかった経験”から、“信じてみる勇気”へと変わることである」
──『だれにでも「いい顔」をしてしまう人』
第3章:「傷ついた心」との対話
「愛されたいと思っている人の多くが、人からの愛を拒絶してしまう。それは、愛されることで心の傷が刺激されるからだ」
──加藤諦三『愛されなかった時どう生きるか』
3.1 「近づかないで」──愛への防衛本能
Yさん(34歳・女性)は、常に「恋愛が続かない」と悩んでいた。彼女は一見すると社交的で、男性にも人気があったが、誰かと深い関係になりそうになると、自ら関係を壊すような言動を繰り返していた。
例えば、交際が数ヶ月続いた男性が「一緒に旅行に行こう」と提案すると、Yさんは突然怒りを爆発させ「私は束縛されるのが嫌なの!」と叫び、音信不通になる。
彼女の行動の背景には、幼少期の「愛されなかった記憶」があった。両親は多忙で、彼女の感情に関心を示さなかった。誕生日も忘れられ、泣いても慰められない経験を重ねた結果、「私は愛されるに値しない」という信念が心の奥底に根づいていた。
「人間は、自分の“無価値感”を守るために、むしろ愛を拒否する。そうしないと、『やっぱり愛されなかった』という証拠を突きつけられることになるからだ」
──『なぜか恋愛がうまくいかない人の心理学』
愛されることに対する恐怖──それは、傷ついた心が再び痛みを感じることへの自然な防衛反応なのである。
3.2 怒りの奥にある悲しみ
「傷ついた心」は、しばしば“怒り”という形で表現される。
M氏(47歳・男性)は、些細なことで同僚に対して怒りを爆発させる癖があった。上司にも「短気すぎる」と注意され、家では妻から「あなたの顔色をうかがって生活するのが疲れた」と言われ、別居状態になっていた。
カウンセリングの過程で、M氏は幼少期に両親からの愛情が乏しく、特に父親からは暴言を浴びせられて育ったことを思い出した。「どうせ俺なんか」という自己否定感が心の底に常にあり、それが怒りという仮面をつけて爆発していたのだ。
加藤教授は、怒りの感情を否定するのではなく、「怒りの奥にある悲しみ」に目を向けるべきだと語っている。
「怒りは、悲しみを守る鎧である。人間は、心の深部にある“理解されなかった痛み”を怒りとして投影する」
──『終わる愛 終わらない愛』
3.3 自己理解による“再構築”の可能性
心の傷は、無理に克服しようとしなくてよい。加藤教授はむしろ、「その傷に気づき、それを“理解すること”こそが、人を愛する力になる」と述べる。
事例:Tさん(29歳・女性)は、過去の恋愛で何度も裏切られた経験から、「私は男運が悪い」と思い込んでいた。だが、ある心理書籍を読み、自分が「ダメな人を救うことで自分の価値を確かめようとする」傾向があることに気づいた。
それ以降、彼女は恋愛を「相手を変える場」ではなく「自分と向き合う鏡」として見直すようになった。少しずつ、自分に優しい相手を選ぶようになり、人間関係も安定し始めた。
加藤教授は言う。
「心の傷があることが悪いのではない。その傷を知らないまま人と関わろうとすることが、関係を歪めるのである」
──『だれにでも「いい顔」をしてしまう人』
第4章:愛されることへの誤解
「本音を言ったら嫌われそうで…」
こうした言葉は、加藤諦三教授が度々分析してきた「愛されることへの誤解」によく表れている。多くの人が「どうすれば人に好かれるか」「どうすれば嫌われないか」に過度に意識を向けてしまい、本来の“愛されること”の意味を見失ってしまう。
「人間は、自分を殺してまで好かれようとする時、すでに『愛される』ことを諦めている」
──加藤諦三『やさしさと冷たさの心理』
4.1 「尽くすことでしか価値を感じられない」
事例:R子(33歳)は、交際相手に対して「何でもしてあげたい」と語る女性だった。料理、洗濯、金銭的支援までする彼女に、周囲は「やりすぎじゃない?」と忠告するも、彼女は「愛されている証拠が欲しいだけ」と笑って答えた。
しかしその実、R子は「尽くさなければ捨てられる」という恐怖に突き動かされていた。彼女の“献身”は愛情ではなく、心の不安を埋めるための手段だったのだ。
加藤教授は、こうした行動の背景には「自己無価値感」があると指摘する。
「愛されたい人の中には、自分には『そのままでは価値がない』と信じている人がいる。だから過剰に与え、過剰に疲弊する」
──『なぜか恋愛がうまくいかない人の心理学』
4.2 「嫌われたくない」が生む“偽りの自己”
加藤諦三教授は、人間が他者との関係で「嫌われたくない」という気持ちを持つのは自然なことだとしつつも、それが自己を偽る原因となると警告する。
「誰かに好かれるために“いい人”を演じる人間は、相手にではなく“自分自身”に嘘をついている」
──『だれにでも「いい顔」をしてしまう人』
事例:S君(27歳・会社員)は、常に周囲の期待に応えようとし、自分の意見をほとんど主張しなかった。その結果、上司や同僚からは「扱いやすい」「何でも引き受けてくれる」と評価されるが、心の中では「誰も本当の自分を見てくれない」と孤独を抱えていた。
このような“偽りの自己”は、いつか破綻する。S君も、仕事で大きな負担を押し付けられたとき、心が限界を超え、体調を崩してしまった。
4.3 「犠牲」は愛ではない
愛されることへの大きな誤解の一つに、「犠牲こそが愛」という認識がある。
自分を捨て、我慢し、相手に合わせることが「関係を保つ秘訣」だと信じている人は多い。
しかし、加藤教授は明確に否定する。
「愛とは“お互いを活かす”ことであり、“一方が潰れる”ことではない」
──『終わる愛 終わらない愛』
事例:Tさん(40代・主婦)は、夫の夢を支えるために自分のキャリアを手放し、子育てと家事に専念してきた。しかし、夫婦関係は冷え切り、ある日夫から「お前とは話が合わない」と言われ、深い絶望に陥った。
彼女は「私がこれだけ尽くしたのに」と涙ながらに語るが、それは本来の意味での“愛”ではなく、“犠牲”による愛情の買収だった。加藤教授の言う「自分を犠牲にしてでも愛されようとする心」は、決して持続的な関係を生まない。
4.4 真の「愛される」とは
加藤教授が繰り返し説いてきたように、「真に愛される」というのは、「ありのままの自分が受け入れられる」経験に他ならない。そこには、演技も献身も、犠牲も不要だ。
「人間関係とは、自分を見せた時に『それでもいい』と言ってもらえることで育まれる」
──『こだわりの心理』
つまり、愛されるためには、まず「自分で自分を認める力」が必要である。
「私には価値がある」と思える人は、他者からの評価や関係に依存せずに、自然体でいられる。そして、その自然さこそが、人間関係に“信頼”を生む。
第5章:「人を愛すること」は訓練である
「愛は感情ではなく、能力である。人は“訓練”によって愛する力を育てる」
──加藤諦三『終わる愛 終わらない愛』
この章では、愛を行動として捉える視点と、その実践方法について探っていく。
5.1 愛とは“意志”である
加藤教授は、愛するということを「自分の心の快・不快とは別に、相手の存在を尊重しようとする“意志の行為”」と定義する。
感情の起伏に流されるままに相手に接するのではなく、安定した“態度”として愛を持ち続ける。それこそが愛の本質なのだ。
事例:Eさん(30代女性)は、恋人と口論になるとすぐに別れ話を持ち出していた。「好きなはずなのに、どうしてもイライラしてしまう」と語るが、実際には彼女の愛は“情緒”に支配されており、“関係を築く意志”にはなっていなかった。
愛は気まぐれな感情ではなく、「関係を継続する意志」によって支えられて初めて“信頼”へと発展する。加藤教授はこれを「自我の確立」の問題と結びつけている。
「人を愛するには、まず自己を確立すること。自我の不安定な人は、常に感情に流され、持続的な愛の行為ができない」
──『こだわりの心理』
5.2 愛する力は“鍛えること”ができる
愛が訓練可能な行動であるとすれば、その具体的方法は何か。それは、以下のような日々の積み重ねにある。
・感情に反応しない訓練
人間関係において、自分の感情(怒り、悲しみ、嫉妬)に即座に反応するのではなく、一度“立ち止まる”習慣を持つ。
これは加藤教授が「精神的呼吸」とも呼ぶ技術である。
例えば、相手の言葉に傷ついたときも、すぐに“仕返し”を考えるのではなく、自分の感情と対話し「今、なぜこれほど反応しているのか」と内省することが求められる。
・相手の立場に立って考える練習
共感は訓練によって育つ。加藤教授は、幼少期に共感を受けずに育った人ほど、他人の痛みを想像する力が乏しいことを指摘する。
「愛とは、相手の心の痛みを『想像できる』能力である」
──『なぜか恋愛がうまくいかない人の心理学』
相手の沈黙の背後にある感情を汲み取る練習、言葉ではなく“態度”に注目する習慣──これらは日々意識的に実践することで育まれる。
5.3 “与える愛”への変容
加藤教授は、成熟した愛の形として「与える愛」を強調する。
それは「見返りを求めない愛」と同義ではない。むしろ、「愛は相手を尊重し、相手の人生の成長を願う能動的行為」だという意味だ。
「本当の愛とは、相手を通して“自分自身の器”を広げる営みである。人を愛することで、自分の世界が深まっていく」
──『やさしさと冷たさの心理』
事例:A氏(40代・夫)は、家族を思うがあまり「子どものため、妻のため」と言って多くのことを犠牲にしていたが、家庭内では不機嫌で怒りっぽくなっていた。
ある日、息子に「お父さんがいつも機嫌が悪いのは、僕らのせい?」と聞かれ、彼は衝撃を受ける。
彼がしていたことは“自己犠牲”であって、“愛”ではなかった。
与える愛とは、自己の感情を整理し、自分の人生にも責任を持ちながら、相手の成長を応援する成熟した態度である。
5.4 訓練としての「愛」から「喜び」へ
加藤教授は、愛を訓練し、行動の習慣として実践し続けるうちに、それが“喜び”に変わる瞬間が訪れると語る。
それは、“してあげる”愛から、“共にある”愛への変容だ。
このとき、愛は義務でも苦痛でもなく、“存在を肯定しあう場”となる。
第6章:愛する資格としての“自己理解”
多くの人が、こうした問いを一度は抱く。しかし加藤諦三教授は、「他人を愛せる人とは、自分自身を理解し、許している人である」と語る。
「自分が自分を知らずして、他人を理解しようなどというのは傲慢である」
──加藤諦三『だれにでも「いい顔」をしてしまう人』
愛する資格とは、特別な倫理や能力ではない。それは、“自己との正直な対話”から始まる内面的な旅の果てにようやく得られる“静かな力”なのだ。
6.1 自分を知らない人は、他人に過剰に期待する
自己理解が乏しい人は、自分に足りないものを無意識に他人で埋めようとする。そのために生まれるのが、依存、過剰な期待、そして関係の破綻である。
事例:Uさん(35歳・女性)は、付き合う相手に対して「すべてを分かってくれること」を求めていた。彼女は「理解されていない」と感じると不安になり、泣いたり、怒ったり、黙り込んだりする。
しかし、彼女は自分自身でも「何が欲しいのか」「なぜ不安になるのか」が分かっていなかった。結果、相手がどれだけ努力しても、彼女は満たされることがなかった。
加藤教授はこのような関係性を「空虚な自己による感情の投影」と呼ぶ。
「自分がわからない人は、相手の行動を誤読し、感情的に反応し、関係を壊す」
──『なぜか恋愛がうまくいかない人の心理学』
6.2 「本当の自分」は痛みの中にある
自己理解は、表面的な性格や好みを知ることではない。それは、自分の弱さ、怒り、劣等感、そして「過去の痛み」と真摯に向き合う作業である。
加藤教授はこれを「心の地層を掘り下げる作業」と表現している。
事例:T氏(38歳・男性)は、他人からの批判に過剰に反応する性格だった。上司に軽く注意されただけで深く落ち込み、家庭に八つ当たりしてしまう自分を責めていた。
セラピーを通じて彼は、少年時代に厳格な父親から常に「否定」されてきた経験を思い出した。「お前はダメだ」「どうしてそんなこともできないんだ」──それらの言葉が、大人になった今もなお、自分の自己評価を縛っていた。
加藤教授は次のように述べている。
「自己理解とは、過去を否定することではない。それを“理解”し、“手放す”ことである」
──『こだわりの心理』
6.3 自己理解は“選び直す”力を与える
一度自分を理解すれば、自分の過去のパターンを“選び直す”ことができる。
これが、愛する力の本質である。“反応”ではなく“選択”できるようになること。それが成熟であり、自由である。
事例:R子(29歳)は、いつも「冷たくて頼りない男性」に惹かれ、恋愛に疲弊していた。彼女は「こういうタイプに惹かれてしまう」と言っていたが、自己理解を深めるうちに、自分が「いつも強い人に救われたがっていた」ことに気づいた。
それ以降、彼女は“助けてくれる誰か”ではなく、“共に歩める誰か”を探すようになった。
加藤教授は語る。
「本当に愛する力とは、他人を変える力ではない。自分の生き方を選び直す力である」
──『やさしさと冷たさの心理』
6.4 自己理解が育む「寛容さ」と「信頼」
自己理解を深めることで、人は他人にも“違い”を許容できるようになる。
自分の痛みを知っているからこそ、他人の痛みにも敏感になり、自分の弱さを受け入れているからこそ、他人の弱さも受け止められる。
「自分に対して厳しすぎる人は、他人にも厳しくなる。逆に、自分の弱さを受け入れた人だけが、他人の弱さを受け止められる」
──『愛されなかった時どう生きるか』
これは、「優しさ」ではない。「信頼」である。
愛することは、信じることだ。そして、信じるためには、自分の心が整っていなければならない。
第7章:愛は「生きる力」──成熟と自由
加藤諦三教授は、愛を「依存」や「感情的な所有欲」と区別しつつ、人が人生を力強く歩むための“精神的エネルギー”として捉えている。
「本当の愛は、人を自由にし、人を生かす。逆に、偽りの愛は、人を縛り、疲弊させ、傷つける」
──加藤諦三『終わる愛 終わらない愛』
成熟した愛とは、自己理解を土台に生まれる自由な関係性であり、心の根源にある「生きたい」という力を呼び覚ますものだ。
7.1 愛とは「支配」でも「献身」でもない
多くの人は、愛に名を借りて他者を支配しようとする。
逆に、自らを犠牲にしてまで相手に尽くし、それを「愛」と思い込む人もいる。
だが、加藤教授は一貫してこう説く。
「人を支配しようとする時点で、それはすでに“愛”ではない。人に従属しようとする時点でも、やはり“愛”ではない。成熟した愛は、対等で自由な関係である」
──『こだわりの心理』
真に愛する力を得た人は、相手を所有物のように扱う必要がない。
同時に、相手に合わせて自分を失うこともない。
それは「選んで一緒にいる」という、最も強く、自由な絆なのだ。
7.2 自由のなかで育まれる愛
成熟した愛は、「自由」の中でこそ深まる。
相手が自分を“選び続けてくれている”という事実が、信頼を生み、その信頼が安心を育てる。そこに支配も、依存も必要ない。
事例:N夫妻(共に50代)は、互いに自立した生活を送りつつ、日々のやりとりや食卓を大切にする「距離のある親密さ」を育んでいた。互いに束縛せず、それぞれの仕事や趣味を尊重し合う関係は、世間的には「冷たい夫婦」と見なされがちだったが、彼らにとってそれは「成熟の証」だった。
「他者を束縛しないことは、自分自身をも自由にする。自由の中でこそ、信頼と愛が育つ」
──『やさしさと冷たさの心理』
7.3 愛が「生きる力」になるとき
加藤教授は、「愛されて育った人」は、人生において困難や逆境に直面しても「自分には価値がある」と信じる力を持っていると述べる。
しかし、仮に過去に愛されなかったとしても、「今、自分を理解し、他者を理解し、愛する選択をする」ことによって、人は自らを“生きる力”へと再構成できる。
事例:Sさん(40歳・女性)は、10代で虐待を受け、20代で恋愛依存を繰り返していた。30代後半から心理学を学び始め、「愛とは、他人からもらうものではなく、育てるものだ」と気づいた。
今では子どもたちと地域の居場所をつくる活動を行い、「私はやっと、生きていて良かったと思えるようになった」と語る。
加藤教授の言葉が、この姿を体現している。
「人間は、他者と愛の関係を築けるとき、初めて“生きる意味”を実感する」
──『なぜか恋愛がうまくいかない人の心理学』
7.4 成熟とは、自分と他人を信じられる力
「愛」とは、最終的に「信じられる力」だ。
それは、「自分を信じる」ことであり、「他人を信じる」ことであり、「人間関係は育てうるものだと信じる」ことでもある。
信頼できる人間関係を持てることは、人間の根源的な安心感を生み、挑戦する勇気、変わる自由、自己実現のエネルギーを生み出す。
成熟した愛は、「心の拠り所」であると同時に、「社会とつながる根」であり、「人生を前に進める足場」である。
終章:「共に生きる」ということ──愛を生きる力に変えるために
私たちはこの問いに、答えを出そうとしてきた。
愛は感情か、態度か、行動か。愛する力とは、資質か、訓練か、成熟の果てか。
加藤諦三教授の思想を辿って見えてきたのは、愛とは「未熟な自己から、成熟した関係への歩み」であり、決して一瞬の感情でも、偶然与えられる幸福でもないということだった。
「愛されることよりも、愛せることのほうが、はるかに人を強くする」
──加藤諦三『やさしさと冷たさの心理』
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