白馬に乗って王子様を迎えに行こう♡

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 婚活ゼロ年代に於いて主流であり続けたのは、自らのニーズを明確化し、その条件に沿ってターゲットを探し、そのターゲットに自分を売り込むという「マーケティング婚活論」であった。各論者の議論には論旨徹底しないところもあるので、ここではマーケティング婚活論とはなんなのか、その理念型を示すこととする。


 マーケティング婚活論は、敢えて単純化すれば、ある巨大な妄想との徹底的な対決と表現出来る。その幻想とは「いつか王子様が白馬に乗って迎えに来てくれるはず」略して「いつか王子様が」幻想である。「いやいや、そんな幻想持っていないよ」という人は少なくないだろう。けれど、その全てではなくても、一部分でも幻惑にかかったままということはないだろうか? ここでは「いつか王子様が」幻想を、①唯一幻想、②好条件幻想、③来訪幻想という3つにほぐして、その幻想性を確認しておきたい。 


(1)唯一幻想
「唯一幻想」。別名、王子様幻想。一生に一度、世界に一人だけいる運命の相手に出会える、という幻想のことである。実際に相手が王子様や御曹司かどうかということはここでは問題ではない。自分の主観として相手を「運命の相手」、しかもただ一人の「運命の相手」と感じることを指す。


 さて、この幻想が幻想たる所以は二つある。一つは、「世界中にはものすごい人数がいるのに、その中で一人の王子様を見つけることなんか出来る訳がないからだ。よくある話ではあるが、とりあえず最近見つけた水城せとなの漫画「失恋ショコラティエ」の中のイケメンフランス人・オリヴィエのセリフを引いておこう。


 たとえどんなお金持ちでも 美男美女でも どんな憧れがあっても出会えた人としか恋はできないよ
 人生の中で巡り会える相手は案外、限られている
 ハムスターは同じカゴの中にいるハムスターとつがいになる それと同じでしょ?
 

 だが、本当に心配すべきは王子様が見つかるかどうかではなく、それが唯一でなかった時どうするか、なのかもしれない。これがもう一つの問題(あれ?王子様が他にもいた!)である。全世界を見渡すことなく、たまたま入っていたカゴの中で王子様を見つけてしまったなら、実はそのカゴの外にも王子様候補はたくさんいたかもしれない。独身脱出した後になって現在の相手よりもっと「王子様らしい」王子様が現れるかもしれない。


 自分と相手の感覚や好みが全く同じだから運命だ、強弁する人がいる。柴門ふみのマンガ「同・級・生」は、「東京ラブストーリー」や「あすなろ白書」などと並ぶ、柴門の名作恋愛群像劇だけれども、そこにもヒロイン・名取ちなみが大学時代の同級生で恋人だった鴨居透との関係について「驚くほど感覚が同じで、ほとんど同時に同じことを考えた」と回想するシーンが登場する。2014年に日本公開された人気ディズニー映画「アナと雪の女王」の中に登場する「とびら開けて」という楽曲の歌詞はその典型例で、恋人同士が精神的同期と妄想を爆発させている。もっとも、柴門ふみもディズニーもそんなに甘くはないので、これらのカップルの楽天に結婚は用意されていない。実際に同一性によって運命を固定している限り、そこで一つでも相違が発見されれば、それが運命の切れ目になってしまう。そんなわけで、これもまた同一幻想とでも呼ぶべき幻想であって、唯一幻想と同軌にある。


 唯一幻想を実現する道は二つしかない。一つは、これからの人生の中で出会える人々全てを想定した上で、現在見えるカゴの中に王子様がいるのかどうかを見極める、全知全能の力を手に入れること。それが無理なら、他の王子様が現れるたびに新たな王子様に乗り換え続けることだ。それが理想のカップル像と違うなら「王子様」を信じるべきではない。


(2)好条件幻想
 仮に「運命の人」の実在を認めるとしても、その王子様がどんな人かは全くわからない。実は貧乏かも知れないし、趣味が合わないかも知れないし、浮気性かも知れない。例えそうであっても、人は恋に落ちてしまうことがある。それなのに、多くの人は自分の王子様、運命の人は「白馬」に乗った素敵な人だと信じる。恋に落ちた相手はきっと自分の人生を豊かにしてくれるはずだと信じて、もしくは、信じ込もうとしてしまうのだ。これを「好条件幻想」、別名、白馬幻想と呼ぶ。
 これが幻想たる所以は、恋に落ちた相手は大抵、自分の人生計画を多少なりとも狂わせるからだ。考え抜いた条件を追求して相手を選んだ場合でさえ、全て思い通りという訳にはいかないのだから、偶然に恋に落ちた相手が予想もしていない欠点を持っているのは至極当たり前だろう。もっとリッチな生活をするはずだったのに、貧乏で好きなブランドを買えない、家族でバンドを組むのが夢だったのに、相手の音楽の趣味が違った。希望を持った瞬間に幻滅が用意されているのである。
 そんな訳で、王子様と思われる人と白馬はふつう両立しない。だからこそ、白馬に乗っていない王子様と白馬に乗っている凡人に見える人という対比が、古今東西、あらゆる物語の主題になる。もっとも、多くの人の実際の人生の選択に於いては「白馬に乗っていない王子様」も「白馬に乗っている凡人」も選択肢にはないのだ。


(3)来訪幻想
 王子様はいつか向こうからやって来てくれる、これを来訪幻想と呼ぶ。この幻想については古くから言及があり、例えば、漫画家の真島久美子は1991年に「今の王子様たちは忙しすぎて、眠っているお姫様のところまで、わざわざ来てはくれない。昔話とは違って、私たち女性は自分の力で目覚めなければならないのだ」と書いている。さらに「婚活」のファウンディング・ペアレンツの一人の白河桃子もこの点については「婚活」以前の2002年の著書「結婚したくてもできない男 結婚できてもしない女」の中で、「王子様 いつか迎えに いくからね」という川柳を引いて「今どきの王子様はただ待つだけのものじゃなく、女が迎えに行くものになった。そして今どきの女たちは、馬にまたがって王子様を追いかけるぐらいの気概は持っている」と論じている。


 そうして、今では女性側が待っていることは否定的な意味を持って捉えられ、マンガ「30婚」の作者の米沢りかは、男性からのアプローチを待って、自分から積極的に動かない女性を「待受女」と呼んで、運命を信じている「運命待受女」、傷つきたくない「過剰防衛待受女」、自分に自信がなくて行けない「自信喪失待受女」と分類までしているほどである。白河はさらに進んで、こうした積極性つまり「婚活」の「活」は結婚のみならず、青春全体に於いて要請されているという時代診断をしている。それゆえ白河は、「就活」、「婚活」、「妊活」という三大「活」は「何事も受け身では実現しない」という同じ構造を根底に持っていると論じる。


 こうした態度は必ずしも女性に限らない。世の中の「草食系男子」と呼ばれる恋にセックスに消極的な若い男性たちは、「待受男」に他ならない。相手が「いつか」必ずやってくるとは限らない。「向こうから」やってくるとも限らない。仮にやって来てくれようとしても、道中に他のお姫様や王子様に食われているかもしれない。


(4)冬眠幻想
  ここまで「いつか王子様が」幻想について見てきたけれど、この幻想は基本的に女性サイドから見た幻想だ。当然、そこには対応する男性側の「いつかお姫様と」幻想がある。かつて社会学者の多田道太郎は彼の16歳頃の恋愛への視線を復元している。


 いまだ恋愛の経験はない。しかし、恋愛とは何かを「知っている」。ペアトリーチェでもあき子(天の夕顔)でも誰でもいい、ともかくそういった絶対の恋人が自分を待っているはずである。この広い空の下ののどこかで、ただ一人の女性が、自分との出会いを待っているはずである。


 ベアトリーチェは父屈辱められ、父親殺しの裁判によって処刑された16世紀ローマの実在の女性。多田はスタンダールが「チェンチ一族」で描いたベアトリーチェ像を想定している。あき子は中河与一の小説「天の夕顔」に登場する人妻で、主人公の想い人である。どちらも、典型的な純愛の対象とは言えないが、とにかく美しく魅力的な女性として描かれている。


 16歳の多田の心性には「いつか王子様が」幻想と同じ構造がある。唯一幻想と好条件幻想、そして来訪幻想に代えて「冬眠幻想」つまりお姫様は自分と出会うまで、いつまでも待っていてくれるという幻想が3つセットになっているのだ。


 男性の「冬眠幻想」が女性の「来訪幻想」と対になっていることは言うまでもない。それもこれも「告白は男性がするもんでしょ」という、なんら正当性のない巨悪がはびこっているせいだ。現在でも若い頃に散々遊んでおいて、結婚相手は清純な女性が良いという男性がよくいるけれど、そういう人たちは冬眠幻想の真っ只中にいる。自分が遊んでいる間に相手も遊び始めているかもしれないのに。


 ここまで見てきた「いつか王子様が」幻想や「いつかお姫様と」幻想は、なにも現代になって生まれたものではない。けれど、現代社会の流動化は、その幻想の虚構性をますます強化しているように見える。とりわけインターネットの普及は各個人が見える世界を広げて、王子様が上書きされる可能性を高めたし、長い経済不況は「白馬」の数を激減させてしまった。男はかつてほど勇猛に「来訪」しなくなり、「冬眠」しない女性も増えたのである。


(5)マーケティング婚活論
 こうして「来訪幻想」が幻想であることが明らかになった時、自ら積極的に相手を探し、手に入れる活動、すなわち「婚活」が求められることになる。毒りんごを食べた訳でもないのに、来訪を信じてぬくぬくと百年の眠りを楽しんでいてはいけない。


 だが、「来訪幻想」を否定する婚活論の中にも、恋愛を重視して「唯一幻想」や「好条件幻想」に陥る者は少なくない。そこで処方箋として登場するのがマーケティング婚活論である。マーケティング婚活論では「唯一幻想」のように、出会った相手が唯一の存在だとは考えない。つまり、結婚相手を複数の候補の中で比較考量して決めるという態度が要請されることになる。それでは複数の候補の中からどのように決めればいいのだろうか。その中で運命を感じる相手がいればそれで万事解決だろうか。マーケティング婚活論はそう考えない。そこに「好条件幻想」の罠があると考えるからだ。そこで、マーケティング婚活論の核心たる「条件婚活」が登場する。


(6)条件婚活
 なぜそこまで敢えて条件にこだわる必要があるのか。普通の人なら条件を考慮に入れて相手を選ぶでしょう、そう言われるかもしれない。ところが、現実に「好条件幻想」から逃れるのはそこまで簡単ではない。実際に恋愛をしていると、恋は盲目、目の前はともすればモヤで覆われてしまい、冷静な判断力を失ってしまう。そして、気づけば「いつか王子様が」幻想に陥ってしまうことになりかねない。


 結婚して、いざフタを開けてみたら、実は子供が欲しかったのに彼は望んでいなかった、仕事を続けたかったのに彼は妻が専業主婦になることを希望していた、などなど。外から見れば事前に把握できたでしょう、と思う齟齬に結婚してから気付くカップルは少なくない。噴出する諸問題に対して「でも愛があるからやっていける」なら素晴らしい美談だ。けれども、現実はそう素晴らしいものではなく、その頃にはもう愛は冷めているかもしれない。


 マーケティング婚活論は、そんなことになるくらいなら徹底的に条件付けをしておく方が安全安心だと考える。恋愛の幻覚に囚われる前から条件を準備しておき、リストアップして、外部化しておくのだ。こうして条件を基に結婚相手を探す婚活を条件婚活と言う。経済的条件や身体的条件、住環境や家庭環境に至るまで、自分が許容出来る相手の条件を事前に設定して、それを揺るがすことなく相手を選ぶ。ここで重要なのは「外部化」だ。しっかりメモしておくなり、信頼できる友人に話しておくなりして、自分が恋愛の幻覚に落ちた時になお、冷静に「好条件」を判断出来るようにしておかなければ意味がない。


(7)条件婚活の真実
 これは最後まで条件を譲るなということではない。
 例えば、お笑い芸人・横澤夏子が婚活を始めた当初の条件。
 それまでの私の理想は185センチ以上で、区役所に勤めていて、昔からの飲み友達が3人以上いて、俳優の田中圭さんに似ていて、私を確実に幸せにしてくれて、お金をか けない趣味を持っていて、私よりよく食べて、ユニクロをユニクロっぽくなくおしゃれに着こなし、私の27センチの足より大きな足を持っていて・・・。やばい、まだまだ何ページでも書けそう。


 ここに書かれていること以外にも、逮捕歴などがなかったり、生殖能力があったり、自分の仕事を応援してくれたり、そういったことは暗黙の前提になっているのだろう。そんな理想の相手などいる訳ない。しかし、条件を書き出しているうちに、自分が目指す結婚生活、ひいては自分の人生計画が見えてくるはずだ。その過程で、この条件は実は我慢できる、ということが見えてくるかも知れない。横澤が座右の書としていた「スパルタ婚活塾」の著者の水野敬也は、先の横澤の本の中で彼女と対談して、次のように話す。


 「スパルタ婚活塾」の冒頭では絶対に妥協はするな!と言っています。そう考えた方が行動できる。すると、色々な経験が出来て理想の形が変化していくんですよね。そして目標に向かって頑張っているうちに、ここは譲れない、ここなら我慢できるっていうことが見分けられるようになるんです。一見これも妥協に見えるけど、高い目標を設定して自分から行動したあとの人間って、自分の選択を納得して進んでいけるんですよね。


 どこまで妥協して、どのような結婚生活を実現するのか、それを考えるには、自分自身が理想とする結婚生活とその条件をまず示さなければならない。


 そして自分のスペックに鑑みて希望の条件を下げていく。このように自分のスペックと希望の条件を釣り合わせることを婚活アドバイザーの山田由美子は「バランス婚活」と呼んでいる。この妥協の結果、最終的には最も重要な条件だけに絞り込むのが望ましいというマーケティング婚活本もある。例えば結婚相談所代表の大西加枝はその一人だが、彼女の本では婚活と恋愛との違いが強調され、両者が「恋に盲目」にならず条件をすり合わせることが主張される。


 「愛し合っているから分かり合える」という過信が家族建設的な話し合いを奪っているのではないでしょうか。


 婚活は結婚を前提に男女がお付き合いをするものです。自分の出来ることと出来ないこと、得意なことと不得意なこととを謙虚に持ち寄って、築きたい家庭のビジョンを積極的にすり合わせるべきだと思いますし、それが出来るのも婚活の良いところです。
 世間ではマーケティング婚活について、恋愛や結婚に対してゲーム感覚だと、眉をひそめる傾向もある。「結婚潮流」がテクニック重視だと批判されたように。だが、幻想に固執してみても幸福な未来は待ってはいない。なぜこれだけ世の中に婚活本が溢れるのか。その前提として、マーケティング婚活論が有益であり、それを求める人が多いという現実を見なくてはならない。大事なのは幻想を振りまくことではなく、現実と真正面から向き合っていくことだ。


(8)価格.comよりメルカリ
 マーケティング婚活の核心には、まず自分の人生を構築して多すぎるほどの条件を準備しておき、具体的な相手を探す過程で、自分の夢とともに、その条件を削ってゆく、条件婚活がある。


 社会改善+恋愛婚活論者である白川桃子は、以前、マーケティング婚活を2000年以降に特徴的な「価格.com婚」と呼んだ事がある。


 ITの普及により「商品を買うなら比較検討してより良いものにしたい」と言う意識が広がり、価格比較サイト「価格.com」などで、あらゆるものを一斉検索して比較することが可能となりました。


 そんなITの進化の後に婚活ブームが起き、結婚に関しても、偶然出会った人や会社で隣だった人が運命の人ではなく、「比較検討してよりよい人に出会いたい」という選良意識がより鮮明になってきました。


 白河はさらに、いいものを求めて比較検討を続けていても、結婚は家電を買うのと違って手間もかかるし、失敗もつきものだから、結果的には「多すぎる出会いが逆に結婚しにくくしている」とも言う。確かに婚活サイトの利用者の中にはそれを価格.comと同様の感覚で利用し、白河が指摘するような罠にハマっている人もいる。


 しかし、ここで注意したいのは価格.comの想定する市場と婚活市場との違いである。その差異を単純化すれば、ほとんど区別のつかない商品が並ぶ量産品市場と、個々別々の商品が並ぶオリジナル(1点もの)の市場と表現出来る。その意味で婚活サイトは、価格.comというよりむしろ、1点ものを扱うメルカリに近い。


 中古品を主として扱うメルカリでは、同種の商品のストックが多い訳ではないし、たとえ同種の商品であってもキズや使用感などによって各商品の価値はそれぞれだ。人気商品はフローで動くので、常に商品状況をモニタリングしなければならないし、もし希望する商品が見つかれば、それと全く同じものは補充されないので、即決しなければならない。安価な商品ならともかく、高価な商品の場合には事前にその状態を詳しく確認してみなければ、購入するかどうかの決断は出来ない。そして悩んでいる間に人気商品は売れていく。予算が決まっているなら希望する条件は諦めざるを得ないし、希望する商品を見つけたら金に糸目は付けないと決めていても、そんな商品は永遠に出品されないかもしれない。こうしたメルカリの特徴は婚活サイトの特徴にピッタリ当てはまる。


 こうして実際の婚活市場に於いてはメルカリ同様、商品が全て1点ものという点、決断に至るまでの時間の問題、そして表示と実物の差といったことが、選択を困難なものにする。その意味で「メルカリ婚」は白河の指摘する通り、多すぎる出会いを提供して結婚を難しいものにしている側面があるだろう。だが、メルカリがユーザー達の幸福を阻害しているとは考えられない。確かに、インターネット発達前のようにリサイクルショップをいくつか回るだけでエイヤと買っていた時代に比べると購入に時間が掛かるようになったかも知れない。「あー、あとき買っておけばよかった」という後悔も増えたかもしれない。けれど、目的の商品と出会うことが出来るようになったり、よりよい商品をより納得して買えるようになったことは間違いないのではないか。


 こうしてマーケティング婚活論は、とりわけシビアな経済状況の元で、自由にライフスタイルを選択するに当たって、現在でも有効な婚活論なのである。マーケティング婚活論が最も力強く生き残っているのには、それ相応の理由がある。


(9)幻想ではなく物語として、運命との付き合い方
 最後に、既存のマーケティング婚活論では議論されていない点について触れておきたい。それは、人によっては感じてしまう「運命」についてである。恋愛を重視しないマーケティング婚活論は、運命がなくても自分の希望に近い人生を送ることが出来るように設計された婚活論だ。それどころか、マーケティング婚活論は、運命を感じることは条件の比較考量を難しくするとすら考えている。


 けれど、このような立場に立ってもなお、一目惚れや運命が効用持つことはありうる。とれは独身脱出前ではなく、その後だ。かつて所ジョージはこんなことを言っていた。


 ウチのカミさん素敵ですよ。実際は素敵じゃないのかもしれないけどね。でも自分で選んで結婚したんだから、選んだ人を素敵に見ないと、どうしようもないワケ。自分を否定することになっちゃうよ。


 ひとたび選び、その関係を継続したいと考えるなら、相手が、相手との相性が、素敵だと信じることは結婚生活の維持に有益だ。そこで一目惚れや運命といった物語を利用することは無為とは言えない。とはいえ、それは独身脱出後に関係を円滑に継続させるために利用する「物語」であって、独身脱出前の「幻想」とならないように注意しなくてはならない。そしてまた、独身脱出後であったとしても、この「物語」がいつしか「幻想」へと変質して、例えばDVを受けながらも相手を運命の相手と信じて離婚に踏み切れないというような悲惨な状況に陥らぬように注意しなくてはならない。


 もちろん、人間の認識力や判断力には限界があるので、時には理解できないものを「運命」と名付けて、それに身を委ねようとすることは理解できる。しかし、そうして他人事として片付けていることのいくらかは自分でマネジメント出来ることなのだ。マーケティング婚活論、その背後にある自分自身の人生をマネジメントしようという発想は、「運命」だと思われていたものの手綱を握ろうとするものである。

 

 

 
















 

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