「人の痛み」を知らないから

　恋人から捨てられる苦しみに耐えて、それでも生き抜いていれば、今度は自分が恋人を捨てることが許されるのだろうか。人間は本当に一人の人間を不幸にすることが出来るのだろうか。人間は本当に他人の幸福を踏みにじって生きていくことが出来るのだろうか。
　各人が自分の運命にのみ責任を持てば良いということは、時に一人の人間を踏みにじって、二人だけの幸せを求めるということを許してしまうことになるのだ。
　人は「好きになってしまったものは仕方がない。その人と一緒になれ」とか「嫌いになってしまったものは仕方がない。別れるほうがよい」とか簡単にいう。
　だが、これは人間に対するあきらめの哲学だ。殺人者が時に死刑になるのに、恋人を捨てる人間が刑に処せられないということに疑問がある。他人をこんなにまで苦しめる人間が、どうして何の刑にも処せられないのだろう。捨てられる人間にとっては殺される苦しみより苦しいものなのにと思ったことがある。
　一度、人に捨てられたことのある人間は、人を捨てることは出来ないのではなかろうか。我が身をつねって人の痛みを知れというが、人間は人の痛みを知らないからこそ生きていかれるのだ。