後期バロック音楽の世界

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 1685年に3人の作曲家が誕生した。大バッハとヘンデル、そしてドメニコ・スカルラッティである。彼らが生きた後期バロックの音楽世界は大きな変動期を迎えていた。

 <後期バロックの時代>

 17世紀末から18世紀にかけてのバロック時代は後期を迎える。この頃は折しもヨーロッパ変動の時代の幕開けであった。18世紀初めのスペイン継承戦争に始まり、1750年までの間にバッハはポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争という大戦争を経験する。この国際戦争によって文化もまた大きな変化を被る。フランスから合理性を尊重する啓蒙哲学がドイツにも流入し、その影響を受けた音楽評論家のシャイベはバッハを鋭く批判する。

 この後期バロックで最も高い評価を得ていた作曲家はイタリアのヴィヴァルディである。ヴィヴァルディの軽妙な協奏曲は多くの作曲家の模範となり、バッハもヴァイマル時代にヴィヴァルディの協奏曲を編曲して、その表現や作曲手法を習得し、その成果はバッハの協奏曲だけではなく、そのほかのクラヴィーア作品などにも及んでいる。ヴィヴァルディを模倣としたのはバッハだけにとどまらない。フランスのミシェル・コレットなどの作曲家もヴィヴァルディを手本とし、イギリスに渡ったイタリア人作曲家のジェミニアーニもヴィヴァルディの様式をイギリスにもたらす。

 ヴィヴァルディの表現は単に作曲手法だけの問題にとどまらない。18世紀半ばにフランスに於いて、自然な感性を尊重する一派と、古典的な和声を尊重する一派に分かれて論争が巻き起こった。ブフォン論争と呼ばれるこの論争では、哲学者のルソーなど自然な感性を尊重する一派はヴィヴァルディを重んじ、後者の和声派はラモーを担ぎ出した。

 バッハを古臭くて自然ではないとして批判した時、批判者が支持したのは「奥様女中」や「スターバト・マーテル」で知られるペルゴレージであった。ペルゴレージの人気は絶大で、バッハもペルゴレージの音楽を良く知っており、「スターバト・マーテル」を詩篇51番「わが罪を拭い去り給え、いと高き神よ」の替え歌にしている。

 ドイツで不動の地位を保った作曲家はテレマンである。テレマンの地位の高さは傑出しており、多くの教会のカンタータをはじめとしてオペラなど音楽の全分野に及んだ。面白いことに、19世紀に入りバッハ再評価が生まれてくると、それとは反比例してテレマン評価は急激に落ちて、19世紀末にはほとんど忘れられた作曲家になってしまうのである。

<ヘンデルの活躍したイギリス>

 ヘンデルはハノーファー選帝侯の宮廷楽長に就任したものの、宮廷楽長としての職責を果たしたことはなく、ヘンデルはロンドンに渡り、最初はアン女王、その後ハノーファー選帝侯ゲオルクがジョージ1世として即位するとゲオルクに仕えた。ヘンデルはオペラ作曲家としてロンドンでボノンチーニらとの熾烈な競合を経験し、後半生は「メサイア」などのオラトリア作曲家としての不動の地位を築く。トーリー党とホイッグ党との激烈な政治対決の中に身を置き、ヘンデルはその政争を潜り抜けて、生前の1738年には既に大理石像が作られている。

 生前から華々しい栄誉に包まれたヘンデルと、死後、墓が所在不明となったバッハとは大きな違いがある。ヘンデルはトーリー党と近かったこともあり、トーリー党のサンドウィッチ伯爵は1784年にヘンデル祭を企画し、ヘンデルの作品演奏を旨とした「古楽演奏協会」を立ち上げ、ヘンデルの名前は永遠不朽のものとなる。その点、死後、再評価され、次第にその価値が認められたバッハとは大きく異る。1802年にバッハの伝記がフォルケルによって著されるが、その背景にあるのはドイツの国民主義の高まりとナポレオン戦争であった。

 ヘンデルが活動したイギリスは、大陸とは全く音楽の環境が異なっていた。イタリア人歌手が支配するイタリア・オペラとドイツ人の音楽家による器楽と、庶民的な英語の歌詞による歌曲や合唱作品がイギリスの音楽の世界であった。オペラでは圧倒的にイタリア・オペラが尊重され、ファリネッリなどのカストラートの活躍に湧いていた。

<ドメニコ・スカルラッティの音楽>

 バッハやヘンデルと同じ1685年に生まれたのが、ナポリ派の有名なオペラ及びカンタータの作曲家のアレサンドロ・スカルラッティの息子のドメニコである。父アレッサンドロとは異なり、ドメニコはその後スペイン王家に嫁いだポルトガルの王女マリア・バルバラのためのチェンバロ・ソナタの創作がメインであった。

 スペインの宮廷は早くからフォルテピアノを取り入れており、その意味では、ジルバーマンのフォルテピアノに接していたバッハとも共通するが、両者の音楽は全く異なる。バッハのような重厚な対位法を駆使した音楽ではなく、薄い書法の作風は、バロック時代を脱した新しい傾向を示している。

 <バッハ、ヘンデル、スカルラッティの時代のフランス音楽>

 バッハの活躍した時代のフランスでは、クラヴサン音楽とオペラ・バレエが全盛期を迎えていた。バッハが作品を筆写して知っていたのはフランソワ・クープランである。ルイ14世に仕えたこの作曲家は、シャンボニエールやダングルベールらのクラヴサン音楽の伝統を受け継いで、標題をもつ組曲集を数多く作曲している。

 バッハはクープランの代表作の1つの「諸国の人々」の中の、9つの舞曲からなる第3曲「神聖ローマ帝国の人々」の第4曲を編曲しており、クープランの様式を受容していた。

 このクープランに続くのがジャン=フィリップ・ラモーである。バッハとほぼ生年を同じくするこの作曲家はクラヴサン音楽以上に、「イポリートとアリシー」などのオペラの創作が重要で、ルイ15世のもとのフランスの宮廷音楽の最も大きな存在であった。

 バッハ、ヘンデル、スカルラッティーの活動した18世紀前半はヨーロッパの社会や文化の転換期であった。この3人の作曲家はこの時代のドイツ、イギリス、スペインのそれぞれの国の固有な文化と社会とを音楽で映し出していると言える。


















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