モーツァルトの美の冷酷さ

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<みなぎる想像力と冷笑>

 モーツァルトの創作が1785年あたりを境に一気にスケールアップするということは、衆目の一致するところだろう。同年2月に父がウィーンにやって来た当日に初演されたピアノ協奏曲第20番が、それまでの協奏曲と全く違う劇的な作品である。同じく父がウィーンに滞在していた頃に完成されたいわゆるハイドン弦楽四重奏は、モーツァルトが足掛け5年をかけ、知恵の限りを尽くして完成させた自信作であって、ハイドン本人からも絶賛された。そして1786年には待ちに待ったオペラの仕事である「フィガロの結婚」が初演される。

 このころからモーツァルトは、それまでのように様々な顧客のニーズに合わせて雑多なジャンルを量産するのではなく、全エネルギーをオペラに傾注し始めたように思える。「フィガロの結婚」の翌1787年には「ドン・ジョヴァンニ」がプラハで初演される。モーツァルトが書いたもっとも巨人的な作品だ。このあたりがモーツァルトの創作の力の頂点だったといっていいだろう。モーツァルトの音楽にはそれまでになかったドラマティックな陰影が加わる。壮大さを誇示するようになる。2つのオペラ以外にも、第20番から25番のピアノ協奏曲、1787年に初演された交響曲第38番「プラハ」など、この時期の作品はいずれもこうした特徴を備えている。

 一般に「フィガロの結婚」あたりからモーツァルトは、いわゆる円熟期に入ったということにされている。規模の大きさや作曲手腕の一層のこなれや音楽の大人びた顔つきは、たしかにモーツァルトの作曲家としての成熟の証ではあるだろう。だが「成熟」や「円熟」といった言葉を使ってしまうと見落としてしまう肝心のことがある。それはモーツァルトの人間洞察の「えぐさ」ーふつう人が敢えて通り過ぎようとする人間の負の面を、「人間なんて所詮こんなもんさ」とばかり平然と見つめる冷淡さーとでもいうべきものだ。

 「円熟」とか「成熟」という表現の背後には、人間というものへの楽天的な信頼が隠れている。「人は年齢を重ねて完成へ向かう、より高い人間性に到達できる」という成長神話である。対するにベートーヴェンの後期作品を論じた素晴らしいエッセイの中で、哲学者のアドルノは言った。「大芸術家の晩年の作品に見られる成熟は、果実のそれには似ていない。それらは一般に円熟しているというより、切り刻まれ、引き裂かれてさえいる。概ね甘みを欠き、渋く、棘があるために、ただ賞味さえすればいいという訳にはいかない。芸術家の成熟は果実のそれではない」ー至言である。そしてモーツァルトについても、あまり「円熟」という言葉を使いたくない。


<ダ・ポンテ3部作と愛への不信>

 陰影の深化および規模の壮大さと並び、この時期からのモーツァルト作品の特徴として、「シニシズム」を挙げたい。常にそうだ、という訳ではない。だが時として音楽のなかに、それまででは考えられなかったような冷笑が浮かぶ。音楽が素直でなくなる。「壊れた」という言葉を使いたくなるような表現が出てくる。

 例えば1785年に出版されてハイドンに捧げられた弦楽四重奏の1つ、第19番「不協和音」の出だしの恐ろしく耳障りな音程は、当時の人々には気でも狂ったかのように聴こえただろう(事実この四重奏がある貴族の邸宅で演奏されたとき、主人は1楽章が終わったところで怒って楽譜を破いたという)。「ドン・ジョヴァンニ」の石像の場面(そして序曲の出だし)に於ける不気味な半音階、あるいは下手くそな音楽家をパロディにした1787年の「音楽の冗談」の不協和音も、「壊れた」という表現が誇張ではない例である。しかしモーツァルトのこの時期からの表現の「えぐみ」は、こうした不協和音ばかりではない。この上なく美しいパッセージの背後にも、ただならぬ悪意と冷笑が潜んでいたりする。

 モーツァルトのシニシズムを実感するには、まずはモーツァルトが選んだオペラ台本の筋を知るのが手っ取り早い。「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、そして1790年初演の「コシ・ファン・トゥッテ」ー「モーツァルトの3大オペラ」と呼ばれたり、全てロレンツォ・ダ・ポンテの台本によっているので「ダ・ポンテ3部作」と呼ばれたりするーである。

 人気オペラ作曲家にしばしばあるよう、モーツァルトが持ち込まれた台本に、さして深く考えず音楽をつけたなどと考えてはいけない。モーツァルトは台本選択に相当こだわっていた節があるし、以前の「イドメネオ」や「後宮からの逃走」といったオペラの作曲について父に宛てた書簡を読めば、非常に細かく登場人物の心理を読み込んでいたことは明らかだ。つまり3大オペラの筋ーどれも恐ろしくシニカルな物語であるーは、モーツァルト自身の選択だったと考えなくてはならない。

 端的に言って3大オペラを貫くのは「愛の不毛」のモチーフである。不実であり、猜疑心であり、嫉妬だ。しかも疑念と冷笑は作品を追うごとに深まっていく。

 まず「フィガロの結婚」。かつて熱烈に愛し合い、苦難を乗り越えて結婚したアルマヴィーヴァ伯爵夫婦だが、今や彼らの間に愛はなく、夫は召使フィガロとの結婚式を目前に控えた女中スザンナに手を出そうと虎視眈々、そして妻の方も美少年ケルビーノに心を奪われたりしている。結婚を控えたフィガロとスザンナのカップルもたいがいである。スザンナは自分に言い寄るアルマヴィーヴァ伯爵をとっちめるためとはいえ、よりによってフィガロとの結婚式の当夜に伯爵を逢引に誘い出し、夜の庭で待ちながら「早く来て!」と甘いアリアを歌う。しかも婚約者のフィガロが物陰に潜んでいることを承知で、彼に見せつけるように蠱惑的なメロディを歌う。もちろんこれは全部お芝居なのだが、そうとは知らぬフィガロは新妻の浮気現場を見せつけられて絶望する(もちろん最後はハッピーエンドで終わるが)。

 「ドン・ジョヴァンニ」にも2組のカップルが出てくる。どちらも婚約者の関係だ。ドン・オッターヴィオとドンナ・アンナは貴族のカップル。そしてマゼットとツェルリーナは百姓のカップル。主人公ドン・ジョヴァンニはどちらの女性にも手を出す。まずドンナ・アンナは、ドン・ジョヴァンニに凌辱されかけた挙句、父を殺される。彼女は誠実な婚約者オッターヴィオと復讐を誓うのだが、結局彼らの仲はギクシャクしてしまい、ドン・ジョヴァンニが地獄落ちした後、オッターヴィオの結婚の求めをアンナは先送りする。コケットな庶民の娘ツェルリーナはもっとしたたかである。彼女は明らかにドン・ジョヴァンニに興味がある。しかし自分から誘いに乗ったと言われても仕方のないことをしておきながら、婚約者マゼットにバレそうになると「あれは無理強いだった」と言い立て、「悪い私をぶってぶって!」といって恋人に甘え機嫌をとる。ドラマを通して愛の脆さがあられもなく露呈される。

 「コシ・ファン・トゥッテ」の主人公も2組の婚約者だ。女性のほうは姉妹である。彼女らにそれぞれ恋人がいて、婚約している訳だ。しかし自分たちの許婚の貞操を固く信じている男2人を見て、初老の哲学者ドン・アルフォンソは皮肉る。私は長い間生きて来たが、これまで「永遠の貞操」などというものを見たことがないと。やっきになって反論する男2人。かくして姉妹の貞操を試すゲームが始まる。

 男2人は姉妹に「戦場に行かなくてはならなくなった」と嘘をついて、彼女らの前から姿を消し、2人ともアルバニア人に変装してから、相手を交換して再び姉妹へのアタックを開始する。姉フィオルディリージの彼氏であるグリエルモは妹のドラベラに、本来は妹ドラベラの彼氏であるフェランドは姉フィオルディリージに求愛するのである。結局のところ姉妹はどちらもあえなく陥落する。かくして「コシ・ファン・トゥッテ=全ての女性はこういうことをする」という含意が明らかであり、要するにこれは「全ての人間は愛を裏切る」という話と考えるべきだろう。

 ダ・ポンテ3部作オペラを貫いているのは、あからさまな愛への不信である。「フィガロの結婚」初演は結婚から約4年後。「3年目の浮気」という歌謡曲が昔あったが、一体この間モーツァルト夫妻に何があったのだろう? いわゆる倦怠期か? それにしてもダ・ポンテ3部作のオペラの背後に隠れているのは、倦怠期というにはあまりに生々しい愛への懐疑心だ。

 たしかにモーツァルトの妻コンスタンツェは「悪妻」として名高く、彼女についてモーツァルトの伝記作者たちはさんざん悪口を書いて来た。コンスタンツェは既に結婚前に他の男といちゃついてモーツァルトを怒らせているし(1782年4月29日のコンスタンツェへの手紙で「色男にふくらはぎを測らせたとぬけぬけと自分の前で言ったからあんなに怒ったんだ」と書いている)、浪費家だったとも言われ、モーツァルト晩年には夫をほったらかしにして、頻繁にに金のかかる湯治旅行へ出かけたりしている。

 ただしモーツァルトの死後に再婚してからのコンスタンツェは、しっかり者の妻として振る舞っていたようであり、本当に「悪妻」だったのかは誰にもわからない。モーツァルトのほうが女にだらしなかった(たしかに晩年にはそういう噂があった)から、それへの当て付けもあったかもしれない。ともかく確かなのは、一途に愛を歌いあげた新婚当初の「後宮からの逃走」とダ・ポンテ3部作とでは、余りにも描かれる愛の在り方が違うということだ。


<美のサディズム>

 ダ・ポンテ3部作のある意味で異様な特徴は、劇中に於いて不実の残酷さが際立てば際立つほど、音楽がどんどん美しくなるという傾向である。こういう種類の音楽を書いたのはオペラ史でただ1人モーツァルトだけであって、作曲家としてのモーツァルトの尋常ならざる性向として、強く注意を促したい。

 例えば「フィガロの結婚」のスザンナのアリア。ここでモーツァルトは、まるで空中にかすかに甘い香りが漂ってくるような感覚を音にした。美しいどころの話ではない。キルケゴールはモーツァルトについて「エロスが直接語りかける」という表現を使ったが、このスザンナのアリアもこうした例の1つである。しからばどんな劇状況にモーツァルトは、この罪作りなまでに艶やかな音楽を書いたかと言えば、これは結婚式を挙げたばかりの花嫁が夫以外の男(伯爵)を誘惑する場面なのである。もちろんお芝居ではあるにせよ、このアリアの甘さはあまりに真に迫っている。音楽が美しくとろけるようになればなるほど、お芝居だとも知らず物陰でかたずを呑んでいる夫のフィガロにとって残酷極まり無い状況ができてしまう。絶望している彼をなおいたぶるように、スザンナのメロディはますます無垢に輝く。

 「ドン・ジョヴァンニ」にも美が冷酷と結びつく場面がある。2幕の冒頭である。主人公は昔誘惑して捨てたエルヴィーラという女にしつこく結婚を迫られている。彼はげんなりして逃げ回っているのだが、他方で彼女のお付きの女中にはご執心である。この女中を口説くには、同じ宿に逗留しているエルヴィーラを追い払わねばならない。ドン・ジョヴァンニは突拍子もない計画を思いつく。まずは召使いレポレロに自分の服を着させて、エルヴィーラがいる宿の窓辺で大仰に悔悟のセレナーデを歌わせる。ただし召使がやるのは口パク演技で、実際の声は物陰からドン・ジョヴァンニ本人が歌う。「どうか俺の不実を許してくれ、俺にはやっぱりお前しかいない、もう一回よりを戻そう、下まで降りて来てくれ」と主人が物陰から歌い、召使がエルヴィーラの前で口パク演技をやるのである。もちろん全部がお芝居である。しかしそれを真に受けてドン・ジョヴァンニが悔い改めてくれたと思ったエルヴィーラは、階下まで降りて来て、偽のドン・ジョヴァンニ(本当は主人の恰好をした召使いレポレロ)と手を取り合って姿を消す。邪魔者は追い払ったとばかり、ドン・ジョヴァンニはお目当ての女中にセレナーデを歌って口説きにかかる。

 いかにもややこしく見えるが、実際に舞台で見ると錯綜した筋は一目瞭然、必ずと言っていいほど劇場中の観客が爆笑する場面である。全然似合っていない貴族の服を着て口パク演技する召使。それを真に受け、「なんて悪い人・・・」と言いながらも動揺するエルヴィーラ。物陰で笑い転げるドン・ジョヴァンニ。知らぬはエルヴィーラばかり。これはほとんど「どっきりカメラ」のシチュエーションだ。しかしーこれが何より重要なのだがーエルヴィーラを笑いものにするお芝居がエスカレートすればするほど、音楽はますますとろけるような美しさを増し、その美がエルヴィーラの真心を切り裂く。「フィガロの結婚」の先の例と全く同じ劇状況である。

 同様の例は「コシ・ファン・トゥッテ」でさらに増える。既述のようにこのオペラは女性たちが永遠の貞操を守るかどうか男たちが賭けをして、結局大コケに終わる話である。「全ての女は(そして男も)こういうことをする=コシ・ファン・トゥッテ」と明らかになる。笑えない喜劇だ。

 まず序曲。短い序曲が終わってアップテンポの主部に入ってすぐ。オーボエとフルートがかわるがわるに転げ回るような愉快なメロディを吹く。このメロディはクラリネットやファゴットに継がれ、弦楽器でも変奏され、序曲の間ずっと鳴り続けている。しかし実はこのモチーフは「フィガロの結婚」からの引用だ。それもスザンナが結婚式の当日だというのに部屋に美少年ケルビーノを連れ込んでいるのを見て、意地悪な音楽教師ドン・バジリオが「美人というのはみんなこういうことをするものでございます」と歌う箇所のメロディなのだ。つまり序曲からもう既に全オーケストラが、「女も男もみんなこういうことをするぞ〜(誰も永遠の貞操を守ったりしないぞ〜)」とばかり、芝居の結末を囃し立てている訳である。ただし件のモチーフの引用元を知らなければ、この序曲はただの素晴らしく流麗なセレナーデ風の音楽にしか聞こえないだろう。知らぬが仏。澄ました顔をして恐ろしく底意地の悪い音楽だ・・・。

 無邪気に愛を信じる者への意地悪はまだまだ続く。幕が開いて程なく。永遠の貞操があるかないか侃侃諤諤の議論をしていた男2人と哲学者アルフォンソは、ついに賭けをすることにする。男達は「勝負はもらった」とばかり早速大はしゃぎ。勝った暁には賭け金で何をするか相談し始める。素晴らしいセレナーデを捧げようというフェランドに対して、グリエルモが「じゃあ僕は素晴らしい夕食会を開こう!」と歌うところで、ヴァイオリンにまたしても序曲の例のモチーフが出てくる。愉快に囃し立てるようにして「コシ・ファン・トゥッテ! 今に泣きを見るぞ〜」とからかうのである。だがこれまた引用元を知らなければ、それは煌めくようなフレーズにしか聞こえない。パロディ的デフォルメは、そこにはない。

 さらにあと1箇所、貞操をめぐる勝負がついてから。つまり姉妹のどちらも、別人に変装した相手が実は姉の/妹の彼氏だとも気づかず、あっけなく陥落してしまってから。賭けに勝った哲学者アルフォンソの提案で、「いっそ相手を交換したまま結婚式をやっちゃえ!」ということになる。偽の結婚式が始まる。ここでも知らぬは姉妹ばかり。例のごとくのどっきりカメラ的シチュエーションだ。本来の恋人のことなどすっかり忘れ果て、新しい恋人(再三になるが、本来それは妹の彼であり、姉の彼だ)との結婚にウキウキしている姉妹たち。そこに彼女らを祝福する結婚パーティーの音楽が聞こえてくる。モーツァルトの18番であるところの、シャンデリアが煌めくようなセレナーデ風の音楽だ。そしてここでもまた、音楽が無垢に輝けば輝くほど、何も知らぬ姉妹が滑稽に見えてくる。やがて彼女らが可哀想でいたたまれなくなる。一切パロディ的デフォルメを用いずして、ただひたすら美しいことを通して、音楽は彼女らを優雅にコケにする・・・。


<モーツァルトの喜劇は痛々しい>

 モーツァルトはパロディ的なデフォルメをしないーこれはとても重要な点である。もちろんモーツァルト・オペラにもそうゆう箇所はあるが、少なくとも上に挙げた例にデフォルメはない。音楽はただひたすら美しい。普通オペラ作曲家は、滑稽な場面を描く時、カリカチュアの定型を使うものだ。極端に広い音程とか、コミカルな音型とか、奇妙な音色とか不協和音を使って、当該の人物を戯画にするのである。それをもって「ここは冗談だよ〜」とか「こいつは笑っていいよ〜」という観客へのサインとする。ユダヤ人をカリカチュア化したとされるワーグナーの「ニュルンベルクの名歌手」のベックメッサーは、その典型だ。

 上に挙げた場面にしても、やり方次第では、いくらでもカリカチュア風に出来ただろう。笑いを誘うコミカルな音型を入れておけば、もっと毒のないお約束事的な喜劇になっただろう。しかしモーツァルトはそれをしない。状況はこの上なく滑稽なのに、モーツァルトは本気の音楽を書く。スザンナはお芝居ということも忘れ、本気で伯爵に抱かれてもいいと思っているかのように、甘いメロディを歌う。エルヴィーラはドン・ジョヴァンニに再び言い寄られ(実はお芝居な訳だが)、本気で心乱れている。「コシ・ファン・トゥッテ」の偽結婚式は、姉妹たちの有頂天を一点の曇りもなく描く。彼らはみんな大真面目だ。

 漫才などを見ればわかるよう、コメディアンというものは「自分は笑われる役だ」ということを意識しながら演技する。笑われていくらである。本人が承知で受けを狙ってバカをする訳だから、観客も安心して大笑い出来る。デフォルメされた演技は、「もっと笑っていいよ〜」というサインだ。客は相手を傷つけるかもしれないなどと気を遣わずに笑える。例えばロッシーニの喜劇オペラは、こうした罪のない心地よい笑いの連続である(日本で言えば狂言がそれである)

 しかるにモーツァルトの上の登場人物たちは、自分が笑われているなどと夢にも思っていない。彼らはマジである。これは痛々しい。約束事の笑いを通り越している。かと思えばスザンナやドン・ジョヴァンニのように、お芝居がお芝居とは思えないくらい真に迫っていることもある。それが喜劇を笑えない喜劇にする。


<真善美をあざ笑う>

 ふつう人が音楽のネタになるなどと想像もしない感情や状況を、モーツァルトは音楽にする。「ふつう人が音楽のネタと考える感情」とは、まずは喜怒哀楽だろう。ポピュラー音楽なら(ハードロックは別として)「怒」は抜きで、「喜哀楽」に限定されていると言っていいかもしれない。クラシック・レパートリーだともう少し感情の幅は広く、絶望、祈り、不安、メランコリー、狂気といったものも加わる。しかし「どっきりカメラ的状況」とか「知らぬが仏」とか「ぬか喜び」とか「演技がいつの間にか本気になる」といった感覚を、しかもこのように優雅に音楽にしたのは、音楽史の中でモーツァルトだけだ。笑うに笑えぬ状況の中で露わになる人間の浅はかさやサディズムやおめでたさ。それをモーツァルトはなんのてらいもなく抉り出し、優雅に嘲る。

 「真善美」という言葉がある。真で善きことは美しい、清くて正しいことは美しいという訳だ。しかしモーツァルトは真善美の正反対の音楽を書いた。なぜなら上で見たような場面は全てお芝居、つまり「偽」であり、背後には冷笑と悪意が隠れていて、しかし音楽はこのうえなく美しいのだから。モーツァルトの美は残酷である。











 


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