芸術家とその人生

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<伝記は作品のミステリーを解く鍵?>

 ある芸術家に夢中になると、その伝記が読みたくなる。どんな人がどんな気持ちでこれを作ったんだろう?ー素朴な好奇心が湧いてくる。それに多くの芸術家たちの人生は波瀾万丈の出来事とミステリーに彩られている。だから彼らの人生の謎を解けば作品が判読出来ると、つい私たちは思ってしまう。伝記こそ作品解読の最良の参考書だと考える。

 ただし「伝記による作品解読」というマニュアルは、常に有効な訳ではない。例えばバッハ。作品の中に封じ込められた作者の内面生活などというものを、バッハの作品はほとんど感じさせない。それはただ見事なものとして、ただそこに「在る」。バッハの作品は芸術家の秘められた人生を覗き見る窓ではない。作品はあくまで作品であって、実人生の理解の手引きではない。

 バッハが生きた18世紀の前半といえば、作曲家がまだ「職人」だった前近代である。しかし19世紀に入ると状況は一変する。近代の作曲家は「芸術家」になる。強く「私」を意識し始める。彼らの作品は彼らの実人生へと思いを馳せさせずにはおかない。ジョルジュ・サンドとの恋抜きにショパンの、クララとの婚約抜きにシューマンの、イタリア統一の夢を抜きにヴェルディの、不治の病の宣告を考えずにマーラーの創作を理解できるか? 彼らの作品を聴いていると、私たちは思わず「人生に於いて確かに何かがあったのだ・・・」という気にさせられる。彼らの私生活が覗きたくなる。

 人生の投影を強く意識させる類の音楽を書いた最初の人は、おそらくベートーヴェンだろう。例えば有名なピアノ・ソナタ第14番「月光」。この作品についてはまことしやかなエピソードが大量に作られた。いわくベートーヴェンは「不滅の恋人」とされる謎の女性のためにこれを書いた、月光が照らす夜に出会った盲目の少女のために書いた等々。交響曲第3番「エロイカ」についてのエピソードも有名だ。もともとベートーヴェンはこれをナポレオンに献呈するつもりだったが、ナポレオンが皇帝になったことに怒って、献辞が書かれた表紙を破り捨てたというのである。

 これらが果たして実話かどうかは、ある意味どうでもいい。たとえ実話でなかったとしても、これらのエピソードがまことしやかに語られて来たという事実が重要だ。真剣に考えるべきは、たとえフィクションであったとしても、ベートーヴェンの当該作品を聴いていると、いかにもこうした逸話が本当らしく思えてくるということなのである。作り話だとわかっていても、「人生に於いて何かがあったからこそこの作品は書かれたのだ」と人に感じさせずにおかない、そんな作品をベートーヴェンは書いたということだ。 

 そこにいくと、18世紀の人だったモーツァルトに於ける「人生と作品」の関係は、実に微妙である。もちろんモーツァルトには、ベートーヴェン以後の作曲家ほどの強烈な自意識はまだなかっただろうから、作品を通した自己演出など想像もつかなかっただろう。自分の喜怒哀楽を露出症的に見せびらかすえぐさのようなものーベートーヴェンはさておき、ワーグナーやベルリオーズには確実にそうした傾向があったーほど、モーツァルトに縁遠いものはない。モーツァルトの音楽はもっと恥じらい深い。それにプライバシーを安直にさらすことを潔しとしない貴族的なプライドの高さのようなものがある。フランス革命勃発の2年後に亡くなったモーツァルトは、どれだけ貴族的なものに反抗しようとも、この点でやはり王侯の時代の申し子だった。

 しかしそれでもモーツァルト作品には、ベートーヴェンほどストレートではないにせよ、聴いていて確かにそこから人生が透けて見えた気がする瞬間が存在している。作品でもって人生を表現しようとする積極的な意思が、はっきりモーツァルトにあったかどうかは知らない。むしろそんなつもりは無かったことのほうが多かっただろう。それでもモーツァルト作品からはしばしば、秘められた内面の声が聞こえてくる。たとえ本人に自覚はなかったとしても、聴き手をそういう気にさせる。ここがモーツァルト以前の作曲家ーバッハをはじめとする近代以前の作曲家ーと決定的に違う点だ。


<モーツァルトの創作と母の死>

 モーツァルト作品から透けて見えると思える人生モチーフとして最も印象に残るのは「父」であり「死」であり「女性たち」である。そして実人生の出来事をつい結びつけて聴きたくなる(というか、人生と結びつけないことには説明がつかない気にさせる)作品が書かれ始めるのは、悪夢のパリ旅行以後のことである。旅行最大の目的であった「就活」に失敗し、付き添いの母を旅先のパリで亡くし、父親を激怒させた、あの旅行である。

 パリでは異様に暗い2つの作品が書かれた。ホ短調のヴァイオリン・ソナタ、そしてイ短調のピアノ・ソナタである。イ短調ピアノ・ソナタの出だしの尋常ならざる激しさ。何か切羽詰まったような左手の連打。絶望を叩きつけるようにして和音を左手で打ち鳴らすこうした書法を、モーツァルトは後にも先にもほとんど使わなかった(ベートーヴェンはよく用いたが)。モーツァルトのピアノ曲の左手は原則として、もっと優雅なアルベルティ・バスと呼ばれる分散和音の音型である。

 イ短調ピアノ・ソナタの終楽章に於ける、動悸を懸命に抑えているような調子も、ただ事ではない。時として長調の明かりが弱々しく瞬くが、それは束の間の淡い希望か、それとも死の床についた母の白い顔を照らすロウソクか。モーツァルトがこれほど絶望的な音楽を書いたことは、それまでに1度もなかった。すでに1773年に同じト短調の悲劇的な交響曲第25番が書かれてはいる。だがこの交響曲は、出だしこそイ短調のピアノ・ソナタの予告とも思える激烈さを示すものの、すぐに明るく華やかな第2主題に移動していく。それは壮麗でこそあれ、イ短調のピアノ・ソナタのように不気味ではない。

 このイ短調のピアノ・ソナタを聴くとき、人はモーツァルトの実人生を考えずにはおれないだろう。きっと重病の母を宿に1人残し、仕事のため外出しなければならないこともたびたびあっただろう。外出先で母のことが気になって急に不安にとりつかれることがなかっただろうか? 日に日に痩せていく母を見ながら、パリに来る旅の途上でさんざん女遊びしたことを後悔しなかっただろうか? 就活がうまくいかない自分を責めなかったか? そして何より、「こんなことだと父に一体何を言われるだろう・・・」という不安に怯えなかっただろうか?


<厳父の恐怖>

 このパリ旅行のエピソードは典型だが、モーツァルトの人生並びに創作に於いては、時として「死」のイメージが「父」のそれに結びつくように思われる。父と言っても、包容力ある優しい父ではない。レオポルトがそうだったような、厳格で恐ろしい父だ。

 モーツァルトはパリへ行く途上、父の監視がないのをいいことに、まずアウグスブルクで従妹のベーズレちゃんと思いっきり遊び、次にマンハイムでアロイージア・ウェーバーという歌手に熱をあげ、彼女と結婚すると言い出して父を怒らせた。そしてとどめがパリでの母の死である。怒りが沸点に達した父レオポルトは、「もうお前には期待しない」とばかり、即刻、息子に帰郷命令を出した。人生の悦楽の只中に突如として死が姿を現す、そして放蕩息子の自分は厳父のもとへ引きずり戻されるーこうした強迫妄想が、モーツァルトのその後の人生と創作に於いてたびたび反復されるように見える。

 結婚してウィーンでフリーとして活動し始めて数年、モーツァルトのキャリアは絶好調だった。「楽しくやっていた」わけだ。いかに自分が売れっ子であるか、モーツァルトは父親への手紙で自慢げに書いたりしている。結婚が原因ですっかり疎遠になっていた父レオポルトが、息子の様子を見にウィーンにやってくるのは1785年のことである。何せモーツァルトは結婚の翌年である1783年に里帰りしたきり、父に会っていなかったのだ。心からの再開だったとは思えない。結婚して自活するようになり、もはや「お父さんの良い子」ではなくなった息子を、父はどんな目で見たか。モーツァルトの側にしても、「もうお父さんの世話にならなくていい自分」をことさら見せつけるような振る舞いをしなかったか。さらにいうならば、父の来訪と聞いてモーツァルトは、思い出したくもない過去の亡霊が突然、姿を現したような気持ちにならなかっただろうか?

 こんな想像をしてしまうのも、よりによって父がウィーンに到着した当日の1785年2月11日に予約演奏会でモーツァルトが弾いたのが、ピアノ協奏曲第20番ニ短調だったからである(父はそこに列席している)。全編が死の闇に閉ざされ、時として雷鳴か地獄の業火のごときパッセージが轟く。異様な作品である。レオポルトがこの日ウィーンに到着するということは、予め分かっていたはずである。よりによってこんな作品で父を迎えなくてもいいだろうに。

 自分の晴れ舞台でもって父を歓待するというには、この作品は余りにも暗い。第19番までのピアノ協奏曲の快活さと余りにも性格が違う。朗らかな第19番を作曲した前年12月の末に、モーツァルトはフリーメーソンに入信した。だから父が来る2月までの間に、何か大きな人生観の変化があったとも考えられよう。だがそれ以上に「父がやって来る」ということ自体がモーツァルトに強迫観念じみたものを呼び覚ましたと思えてならないのである。

 楽しくやっている息子の前に突如として姿を現す厳父。そして死。これはまた、モーツァルトの最高傑作であるオペラ「ドン・ジョヴァンニ」のモチーフでもあった。ひたすら快楽を探究する主人公の生き様は、音楽の刹那的な官能と美を求め続けたモーツァルトの人生にピッタリ重なる。そしてドン・ジョヴァンニは最後、墓場から姿を現した石像に地獄へと引きずられていく。石像が「父」ないし「掟」といったものの象徴であることはいうまでもない。このオペラの調性はピアノ協奏曲第20番と同じニ短調だ。第1楽章のシンコペーションのリズムの胸騒ぎも、テンポこそ違うが、「ドン・ジョヴァンニ」の石像の場面とそっくりである。

 レオポルト・モーツァルトが亡くなったのは1787年5月28日。そして「ドン・ジョヴァンニ」が初演されたのは同年10月29日。偶然の符号にしては出来すぎだ。「ドン・ジョヴァンニ」を作曲し始めただろうころに、父が亡くなったのである。死んだ父が亡霊になって自分を連れ戻しにやって来るといった妄想が、作曲中のモーツァルトの脳裏をよぎらなかったはずはない。


<女性たちの肖像>

 だがモーツァルトの作品からほの見えるのは、こんな負の想念ばかりではない。モーツァルトの創作にあって「父」や「死」のモチーフと対を成すのが、色鮮やかな「女性たち」の姿である。死と官能、厳父の掟と女たちの快楽ーそもそもモーツァルトの全作品が、この両極の間に張り渡された細い糸の上で繰り広げられる戯れだったとすら言える。そしてモーツァルトの創作を彩る「女たち」は、しばしばオペラのヒロインに姿を変えて登場する。つまりモーツァルトのオペラには、モデルがいたとしか思えない女性キャラクターが頻繁に登場するのである。

 実際のモデルがいたと考えて間違いない女性キャラクターの端的な例は、オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」(モーツァルトの死の前年である1790年の初演)に登場する姉妹である。気位が高い姉と少し軽率な妹。モーツァルトの伝記を読んだことのある人なら、アロイージアとコンスタンツェの姉妹を連想せずにはおれないだろう。すなわち姉アロイージアがパリ旅行の途上のマンハイムで出会って熱をあげた歌姫の卵、そして妹コンスタンツェが後にウィーンで再会して結婚することとなるその妹である。そしてコンスタンツェについて言えば、「コシ・ファン・トゥッテ」のおよそ10年前、結婚の直前に書かれたオペラ「後宮からの逃走」のヒロインもいる。彼女はモーツァルトの妻となる女性と同名だったのである。このオペラは恋人への熱い想いを歌い上げたアリアで目白押しだ。

 愛の賛歌ともいうべき「後宮からの逃走」にせよ、「父」や「死」への恐怖で満たされた「ドン・ジョヴァンニ」にせよ、アロイージアとコンスタンツェ姉妹の肖像とも思える「コシ・ファン・トゥッテ」にせよ、モーツァルトのオペラには常に明らかな実人生の投影がある。モーツァルトの作品が単に「見事に仕上げられた音楽」という範疇を超えて聴く者に訴えかけるとすると、それはきっと作品からモーツァルト自身の生々しい実体験が透けて見えるからに他なるまい。

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