フリーランスの天才作曲家モーツァルト

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 <自分らしくあるということ>

 モーツァルトは近代的な芸術家の自意識をはっきり持っていた人である。「自分は特別だ」というプライドがその証だ。そしてモーツァルトがザルツブルク大司教との縁を切ってウィーンでフリーになった時、それはまさに近代的な意味での「天才作曲家」が誕生した瞬間であった。天才はフリーでこそサマになる。雇い主の顔色を伺いながら勤め人をやっている天才では恰好がつかない。もちろんモーツァルトとて、終生フリーでいる気はなかっただろう。モーツァルトの狙いはおそらく宮廷に雇ってもらうことであったと思われ、実際かなり後になって宮廷作曲家の称号を得ることもできた。ただしその内実はといえば、宮中の舞踏会のための作曲程度のものであり、まさに絵に書いたような宮仕えだったが、モーツァルトはそのために喜んでメヌエットを書いたりしている。

 しかしモーツァルトは、勤め人をやらないと食っていけない程度の仕事しかないザルツブルクと違って、音楽が盛んな大都会ウィーンに出れば、定職を見つけるまで何とかフリーで食っていけると算盤をはじいていたはずである。食うあてもないのに、自分から雇い主に喧嘩をふっかけるようなお人好しでは、モーツァルトはなかった。自分が本当にやりたいと思う仕事を自分で選べる、自分を本当に評価してくれる人に自分を高く売るーこれこそが芸術家を自負する人間にとって何より重要なことなのだ。

 「自分らしくある」ということーこれはとても近代的な考え方だ。「オンリー・ワンの自分となることができれば、余人をもって代えられない自分であれば、必ずや世間から認められ、そして自由に生きていくことが可能になる」という夢が、近代市民社会のエンジンだったとすら言えるだろう。そして天才芸術家こそは、近代人のこの夢をしてくれるスーパーヒーローに他ならなかった。今日で言えば彼らは、スポーツ選手やアイドル・タレントのようなものだった。一体どうしてこの200年の間に、社会のスーパーヒーローが芸術家からスポーツ選手に交代したのか、その理由はともかくとして、19世紀にあれだけ天才崇拝/芸術家崇拝が広まった理由の1つは、彼らが「社会の夢」を叶えてくれる存在だと思われたことにあった。

 金持ちとまではいわずとも、とにもかくにもフリーで食っていくことに成功した最初の作曲家は、最晩年のハイドンとベートーヴェンである。この2人にモーツァルトを加えて、一般に「ウィーン古典派音楽の3人の巨匠」とされる人たちである。このうちモーツァルトだけは、文句なしの社会的成功を収めることが出来なかった訳だがーこれはモーツァルトが早世したこととも関係があっただろうー、いずれにせよモーツァルトは作曲家が自立できる可能性が見えてきた時代を生きた人なのであって、このチャンスをものにしようとウィーンに出てきた訳である。


<勤め人にならずにどう作曲家は食っていくか?>

 それでは作曲家は、宮廷や教会の勤め人にならずして、いかにフリーで食っていくか?それは楽譜収入とコンサートの売り上げを置いて他にない。例えばハイドンは晩年に2回にわたってイギリスに招待され、そこで自作交響曲を発表して大儲けした。ザロモンというマネージャーがハイドンの新作交響曲を目玉とするコンサートを企画し、それに招かれたのである。一般に切符を売り出し、それを買った人なら誰でもその音楽を聴ける「コンサート」という制度は、実質的にハイドンのロンドン・ツアーをもって始まったといっていい。そしてザロモンこそは史上初の音楽マネージャーだった。要するに「コンサート」は、資本主義的な自由マーケットを前提としており、ハイドンの交響曲は一般市場に売り出され誰でも買うことが出来る「商品」であり、ザロモンはハイドンという資本を元手に大儲けした企業家だった(ハイドンもまた「作品」という資本を使って儲けた)ともいえ、こうしたことはこれ以前にはなかったのである。

 ベートーヴェンについて言えば、彼は「お勤め」を一度もせず食い扶持を立てることができた、音楽史上で最初の作曲家である。周知のように晩年のベートーヴェンは耳が聞こえなくなった。音楽家としては致命的である。難聴に悩まされるようになってからは、当時の音楽家にとってもっとも手堅い食い扶持の1つであった演奏はおろか、ピアノのレッスンすら出来なくなっただろう。それでもベートーヴェンは食いぱぐれたりすることなく、偉大な芸術家としての名声を欲しいままにした。ベートーヴェンの葬儀は半ば国葬のようにして行われた。こんなことは前代未聞であった。ではどうしてこんな事が可能になったかと言えば、1つは楽譜収入、もう1つは「大芸術家」としての圧倒的名声のゆえの裕福なパトロンからの支援があったからである。ベートーヴェンは音楽史で初めて「芸術家」として自立自活したのである。

 思うにハイドンとベートーヴェンは、モーツァルトが夢見て果たせなかったことをやり遂げた人である。モーツァルトは少し早く生まれすぎたと言うことも出来るかもしれない。ハイドンはモーツァルトより20歳以上も年長であったが、とても長生きをした。ハイドンが初めてロンドンで成功したのは1791年。奇しくもモーツァルトが亡くなった亡くなった年である。モーツァルトもあと10年長生きしていたら・・・。そろそろモーツァルトが夢見た時代ー作曲家がフリーでやっていける時代ーが現実のものとなり始めたそのタイミングで、モーツァルトは世を去ってしまった。


<資本主義の黎明期に生まれたモーツァルト>

 ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが生きたウィーン古典派の時代。それは音楽に於ける資本主義の黎明期だった。今では彼らの作品は「クラシックの名作」として、偉大な芸術作品として、恭しく受容されている。しかし彼らの交響曲やピアノ協奏曲やピアノ・ソナタや弦楽四重奏は、特定の顧客のための注文制作ではなく、公開コンサート(一般にチケットを売り出すコンサート)や楽譜出版のために書かれたものであり、つまりマーケットでより広い公衆を相手に自由に売り買いされる「商品」として作られた。「貴族であろうがなかろうが、身分などに関係なく、私の作品に高値を付けてくれる人、私の作品を心から愛してくれる人に、私の楽譜やコンサートの切符を売ります」とやる訳である。お金さえ出せば誰でも自分が好きな音楽を聴ける。こんな今日では当たり前のシステムー資本主義のもとでの経済的自由に基づく市場システムーが生まれつつあったのが、モーツァルトの生きた時代である。

 モーツァルトやベートーヴェンの作品が、実は「マーケットで売り買いされる商品」だったなどと言うと、気を悪くされるむきもあろう。しかし幸か不幸かモーツァルトは、民主主義に伴う新しい社会システムの見るに堪えない負の側面が、まだ露にはなっていなかった時代に生きた。音楽が自由市場で取引される時代というものが、モーツァルトの目にはきっとキラキラと輝いて見えていただろう。もう主従関係といったしがらみに束縛されず、自分の好きな音楽を自由に書いて暮らしていく事が出来る。わがままな雇い主のご機嫌取りなどせずとも、自分の音楽を本当に愛してくれる人に自由マーケットでなら出会える。身分などに関係なく、私心のない芸術愛から音楽を聴いてくれる人なら、きっと僕の音楽をわかってくれるはずだ。こんな期待にモーツァルトは胸を躍らせていたはずである。

 マンハイムでアロイージア・ウェーバーに恋をして、父親に再三「女には注意しろ!」と

警告された際にモーツァルトは、純粋と言えばあまりに純粋な調子で、自分の恋愛観について次のように書いた。「僕は金銭結婚などしたくありません」「貴族と違って僕ら貧しい庶民は、愛し愛される妻を選ぶ事が出来るし、そうする権利があります」。「僕らに金持ちの奥さんなど必要ありません。僕らの財産は頭の中にあるのですから、誰もそれを奪う事は出来ません」

 おそらくモーツァルトのこの結婚観は、モーツァルトの音楽観にもそのまま当てはまった事だろう。僕は金持ちの雇い主のために音楽を書きたくなんかない、僕の音楽を愛してくれる人のために僕は書きたいし、そうする資格がある、僕に金持ちのパトロンなど必要ない、僕の財産は頭の中のインスピレーションの中にあるのだから!ーこれこそモーツァルトがウィーンでフリーの生活を始めた時に抱いていた壮大な抱負ではなかったか。

 ウィーンに出てきて少なくとも数年間、モーツァルトの新生活は順風満帆であった。1784年3月3日の手紙でモーツァルトは、演奏会の日程について誇らしげに父に自慢している。3月だけで19回ものコンサートをやったというのである(ほとんどは貴族の邸宅でのプライベート・コンサートだったが)。そして1784年4月10日の父への手紙には、「こんなに長い間ご無沙汰したことを、どうぞ怒らないで下さい。でも、僕が最近どんなに忙しいか、ご存知ですね?3つの予約演奏会で、僕は大変な名声を得ました。劇場でのコンサートも非常に好評でした。2つの大きな協奏曲を作曲しました」とある。


<予約演奏会は作曲家の個展だ>

 「予約演奏会」は、フリーランスとしてのモーツァルトの活動を理解する上で、とても重要なキーワードである。要するにそれは、オペラ劇場で公演がない期間などに、そこを自分で借り切って事前に予約客を募り、自分の「新作個展コンサート」をすることなのである。

 モーツァルトは自分で予約客を募り、劇場を借り、曲を書き、自分で指揮してピアノを弾くといった具合に、マネージメントと作曲と演奏の1人3役をこなしていたのだろう。3月20日の父への手紙でモーツァルトは、自分の予約会員を列挙し、いかに多くの名士が自分の顧客になってくれているかを自慢している。貴族のお茶会などで注文に応じて余興を提供する私邸でのサロン・コンサートと予約演奏会では、まったく場の性格が違っていた。それは芸人としての余興の提供ではなく、芸術家としての「自分」を表現場所であった。客はモーツァルトの音楽が心から聴きたくて集まってくる人々であった。

 ウィーンに出てきて数年、貴族の令嬢のレッスンをしたり、彼女らのために曲を書いたり、貴族の館でのサロン・コンサートをする合間に、予約演奏会という個展によって自分を広く世間にアピールすることにも余念がなかったこの時代。モーツァルトがおそらくもっとも心血を注いで書いたと思われるジャンルが、ピアノ協奏曲である。

 そもそもどんな大作曲家といえども、書いた作品全てが傑作という訳ではない。バッハやモーツァルトやベートーヴェンのような破格の巨匠ですら、特別に力を入れて書く曲と、ある程度、仕事と割り切って書く曲との区別はしていたはずだ。そもそも限られた時間の中で曲を書く以上、この区別をしておかないと(つまり来た作曲の依頼全てを同じエネルギーでこなしていたら)仕事にならない。18世紀までのように作曲家がまだ芸術家ではなく職人で、注文に応えて次々に「お仕事」として大量の曲を書かねばならなかった時代にあっては、なおのことである。モーツァルトがウィーンでフリーランスとして仕事を始めて数年間、一番力を入れていたジャンルの1つがおそらくピアノ協奏曲だったというのは、このような意味に於いてである。

 当時の作曲家にとってオペラで名を挙げることがキャリアの最終目標だった。オペラ収入は他のジャンルとは桁違いだったのである。そしてモーツァルトは、ウィーンの宮廷から「後宮からの逃走」というオペラの作曲依頼が来て、おそらくそれでもって「やっていける!」と判断し、ザルツブルク大司教のお雇いからフリーになり、また結婚の決意もしたと思われる。ただしそこは生き馬の目を抜くが如きウィーンの音楽業界、すぐに次々とオペラ依頼が来るほど甘くはなかった。そんな時に、ピアノの名手だったモーツァルトにとって、自分の才能を一番強く世間にアピール出来るジャンルが、ピアノ協奏曲だったのである。ピアノ協奏曲は予約演奏会の「目玉」だった。


<ピアノ協奏曲の魅力>

 モーツァルトが立て続けにピアノ協奏曲を書くようになり始めるのはウィーンに出てきた翌年、1782年の末からである。まず11番から13番、ほぼ1年後の1784年初めに14番から17番、同年の後半に18番と19番、1785年に20番から22番、1786年に23番から25番と、モーツァルトのピアノ協奏曲の半分以上が5年以内の間に書かれているのである。11番から13番を除き、いずれも予約演奏会でピアノの腕を披露するための曲だ。ちなみに「フィガロの結婚」が初演される1786年以後、モーツァルトの関心はおそらくオペラ創作に移っていったと思われ、ピアノ協奏曲の数がガクンと減る。

 モーツァルトのピアノ協奏曲で一般に人気があるのは20番以後、つまり1785年以後の作品である。1786年にはオペラ「フィガロの結婚」の、翌1787年には記念碑的大作であるオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の初演が来る。モーツァルトの作風のスケールが目に見えて大きくなるのはこの時代からであり、ピアノ協奏曲にしても20番以後はそれまでと比較にならないくらいドラマチックになる。1つ1つの作品に他と見紛うことのない強い個性が出て来る。1784年の暮れ、つまり19番と20番の作曲のちょうど間に、モーツァルトはフリーメーソンに入信していて、この間に人生観が大きく変わったのかもしれない。

 モーツァルトのピアノ協奏曲のうち、一般には専ら20番以後の作品の人気が高いことに、理由がない訳ではない。これらと比べると、オペラの委嘱が来るのをひたすら待っていただろう雌伏の時期の10番代の協奏曲は、個性という点でやや弱い。結構どれもよく似ている。それに優美な装飾品の如き性格が強く、とても流麗に仕上げられてはいるものの、ドラマチックではないから、聴き手の記憶に余り引っかからないのかもしれない。極上のBGMとして聞き流されてしまう可能性はある。

 それでも私は10番代のピアノ協奏曲がとても好きだ。何が素敵だと言って、人懐っこく甘えるような表情がたまらない。イタリア語でいう「ドルチェ」(周知の通りデザートの意味にも使われる)の甘さだ。どの曲のどの瞬間をとっても、このドルチェが聞こえてくる。20番以後になると、どれもとても立派なのだが、そして深さの次元に於いて以前の作品とは比較にならないのだが、この種の無防備な甘えん坊といった蠱惑的な表情はあまり見せない。もう少し無邪気でなくなる。いわばモーツァルトも大人になったということだろうか。

 例えば第12番の出だし。ここではオーケストラ全体が人の声になって、直接に耳元で話しかけてくる。ふつう音楽というのは眼前で演奏されているのを聴くものであるから、「呈示」という性格を強く帯びる。聴き手にプレゼンテーションされるのである。もちろんプレゼンされる音楽は立派で堂々としているほどカッコいい。だがどうしてもそこには聴き手と眼前の音楽との間に距離が出来る。クラシック名曲の大抵は、この種の「プレゼンされる音楽」だ。しかし第12番の冒頭のテーマは、「どうだ!」とばかりに提示されるのではない。聴き手の耳元で肉声でひっそりとささやきかけてくる。舌っ足らずな甘い声で「どうしたの?」と。ここにいるのは「私」と「あなた」だけ。とても親密な空間が出来る。


<世界中の人と友達になる夢>

 第19番までのピアノ協奏曲にしても、例えば第16番などはとても立派にプレゼンテーションされる類の音楽だ(第14番もそれに近い)。そして晩年の最高傑作である第27番を除き、第20番以後のピアノ協奏曲はプレゼンテーション型が多くなる。それに対して第12番、あるいは第15番の口笛を吹くような始まり、第17番のしなを作るみたいなそれなどは、誰かからふと声をかけられたみたいにして聴きたい。目の前のステージで立派に演奏されるのを拝聴するより、さも誰かがそこに置いてあるピアノで爪弾きを始めたかのように、いつの間にか自分の斜め後ろの方から響きが流れ込んできたかのようにして聴きたいのである。

 こんな風に「自分に話しかけられているような気になる音楽」というものを、私はこの時期のモーツァルト以外にほとんど知らない。きっとモーツァルトは誰かに話しかけたくてたまらない人だったのだろう。自分が音楽さえ奏でれば世界が自分に微笑んでくれる。どんな人でも幸せになってくれる。そう信じて疑わなかったに違いない。実際、モーツァルトは子供時代に、神童としてまさにそういう経験をしたのだから。

 モーツァルトが6曲ものピアノ協奏曲を書いた1784年、予約演奏会の顧客リストには176名ものウィーンの名士が名を連ねていた。ウィーンでフリーとしてやり始めて3年足らずの間に、モーツァルトは見事に「自分の音楽を愛してくれる人の環」を作り上げた。それは雇い主の注文のままに次々と作曲する生活とは全く違う、新時代の音楽家のありようだった。自分の音楽を通して世界中の人と友達になれるーそんな夢がこの時期のモーツァルトの作品からは輝き出している。



















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