モーツァルトのクラヴィーア協奏曲

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 モーツァルトのクラヴィーア協奏曲は計23曲を数えるが、17曲はヴィーン時代に作曲されたもので、それ以前の作品はザルツブルクで作曲された6曲のみである。


 第1作となる「クラヴィーア協奏曲 ニ長調」が作曲されたのは、モーツァルトが18歳を迎える直前の1773年12月のことであった。クラヴィーアの名手モーツァルトがこの歳までクラヴィーア協奏曲を書かなかったのは不思議というほかないが、モーツァルトは既に、7曲のクラヴィーア協奏曲の編曲作業を通じて、このジャンルの創作法を念入りに学んでおり、ニ長調協奏曲の作曲では、その経験が存分に生かされる事となった。実際、この曲は第1作とは思えぬ充実ぶりを示しており、2本のトランペットとティンパニを伴ったオーケストラ編成、3小節を単位とした第1楽章の楽節構造、対位法を導入したソナタ形式のフィナーレなど、他のザルツブルク協奏曲には見られない特徴を備えた、意欲作となっている。モーツァルト自身もこの曲をたいへん気に入っていたらしく、マンハイム・パリ旅行で何度か演奏し、管楽器パートに手を加えたほか、ヴィーン時代には、同地の趣味に合わせた新しいロンド・フィナーレを付けて演奏会にかけている。


 3年後の1776年には、3曲が集中的に作曲された。K238は、前作のK175に比べてコンパクトにまとまった作品という印象を受けるが、独奏パートにはK175と同様の華麗な技巧が盛り込まれており(第1楽章展開部や第3楽章中間のエピソード)、第2楽章の叙情的な旋律や、登場のたびにオーケストレーションが微妙に変化する第3楽章のロンド主題も魅力的である。ロドロン伯爵夫人と2人の令嬢のために作曲されたK242は、3台のクラヴィーア用の協奏曲だが、2番目の令嬢の演奏が達者でなかったために第3クラヴィーアのパートは技巧的にやさしくなっており、他の2台の付け足しといった感がある。モーツァルトが後に2台クラヴィーア用の協奏曲に改作したのも、この理由からであろう。一方、K246は、アマチュアながらクラヴィーア演奏に優れていたリュッツォウ伯爵夫人のための作品だが、独奏パートはK175などに比べると、かなり平易に書かれている。


 自筆譜に「1777年1月」の日付が書かれた変ホ長調協奏曲は、ザルツブルクに来演したフランスの女流クラヴィーア奏者である「ジュノム嬢」の注文で書かれたと伝えられ「ジュノム」の愛称で親しまれてきた。彼女の素性はこれまで一切不明で、ジュノムは長い間、謎の女性と言われてきたが、2003年のミヒャエル・ローレンツの発見により、この女性の正しい氏名と経歴がようやく明らかとなった。それによれば、彼女はフランスの高名な舞踏家ノヴェールの娘で、正しい名はルイーズ・ヴィクトワール・ジュナミであるという。ヴィクトワールはノヴェールの末子として1749年1月にストラスブールに生まれ、父がヴィーン宮廷に雇われたのに伴い、1767年夏にヴィーンに移住。翌1768年9月に富裕な商人のヨーゼフ・ジュナミと結婚し、1812年9月に63歳で亡くなっている。モーツァルトは遅くとも1773年の第3回ヴィーン旅行の時に、ノヴェール父娘と知り合い、ヴィクトワールのクラヴィーア演奏を聴いたと推測されている。当時の新聞記事によるとヴィクトワールの演奏はかなり優れたものだったらしいが、ヴィクトワールがプロの演奏家だったかどうかはわかっていない。ヴィクトワールは76年末か77年初頭(すなわち27,8の頃)に、ヴィーンからパリに向かう途中でザルツブルクに立ち寄り、変ホ長調協奏曲の楽譜を受け取ったと考えられる。モーツァルトは1778年のパリ滞在中にヴィクトワールと再会し、父のノヴェールの依頼で「レ・プチ・リアンのためのバレエ音楽」を作曲している。


 この「ジュナミ協奏曲」は、ザルツブルク時代のクラヴィーア協奏曲の中で、最も独創性豊かな作品と言えよう。第1楽章の冒頭2小節目でクラヴィーアを登場させる斬新な曲の開始法、モーツァルトの協奏曲では初となる短調の緩徐楽章、中間部にメヌエットが挿入されるロンド・フィナーレなど、モーツァルトはこの作品で数々の新しい試みを行なっている。ローレンツによれば、フィナーレの中間部のメヌエットは、舞踏家のノヴェールを暗示したものではないかという。一方、クリフ・アイゼンは筆写譜の研究に基づいて、この協奏曲の低音弦楽器の編成が、チェロ抜きのコントラバスのみだった、という興味深い説を発表している。


 マンハイム・パリ旅行後の1779年(ないし80年)に作曲された「2台のクラヴィーアのための協奏曲」は、作曲者自身とナンネルの協演を想定した作品と考えられている。前述の3台クラヴィーア用の作品とは異なり、2台のクラヴィーアが常に対等な関係で、技巧的なパッセージを交互に披露しあうように書かれている。


 ヴィーン時代に入り、クラヴィーア協奏曲は、モーツァルトの演奏活動を支える最も重要な器楽ジャンルとなった。その最初の作品となったのは、1782年冬から翌年初めにかけて作曲された3曲だが、モーツァルトによれば、これらの作品は「難しすぎず、易しすぎず、ちょうどその中間にあり」、「音楽通だけが満足を得られるようなパッセージが」ある一方で、「音楽に通じていない人でも、なぜかしらうれしくならずにはいられないように」作曲されているという。この言葉通り、これら3曲は全体的に簡素で、親しみやすい曲想を持っており、ヴィーンの幅広い聴衆を意識した作品となっている。また、これらの曲が管楽器なしの弦4部でも演奏できるように書かれているのは、モーツァルトが一般の愛好家に楽譜を売ることを想定したためである。


 演奏会活動が頂点に達した1784年には、実に6曲ものクラヴィーア協奏曲が生み出された。既に1782、3年頃に着手されていたといわれる変ホ長調協奏曲は、弟子のプロイヤーのための作品で、前の3作と同様、管楽器なしの室内楽編成でも演奏出来るように作曲されている。抒情的な第2楽章との鮮やかな対照が印象的な曲である。一方、変ロ長調協奏曲とニ長調協奏曲は、モーツァルト自身が「演奏者に汗をかかせる協奏曲」と呼んだように、クラヴィーアに高度な技巧が要求される作品。管楽器はもはや「任意」ではなく、両曲の随所で活躍し、クラヴィーアや弦楽器と色彩豊かな掛け合いを繰り広げる。この2曲は、緩徐楽章がことのほか美しい。ト長調協奏曲は、プロイヤー用に作曲された第2作。牧歌的な詩情をたたえた名品で、管楽器の使用法はさらに巧妙になっている。モーツァルトは出納帳に1784年5月27日付で「ムクドリ、34クロイツァー、とてもきれいな声!」と記し、このK 453のフィナーレの主題を一緒に書き込んでいる。街角で売られていたムクドリのさえずりに、自分の近作の旋律を聴き取ったモーツァルトが、喜んでこの鳥を買い求めたということなのだろう。3年後の1787年6月にこのムクドリが死んだ際、モーツァルトは追悼の詩を書いて捧げている。変ロ長調協奏曲はおそらく盲目の女流奏者パラディスのために作曲された作品。サリエリとコジェルフの弟子であったパラディスは、1783年から86年の間に、2度にわたってヨーロッパ・ツアーを行い、フランス、イギリス、ドイツ諸都市などで演奏した。K456はパラディスがこのツアー中に、パリで演奏することを前提にして作曲されたものと思われる。ヘ長調協奏曲は、作曲の目的が明らかでないが、1784年12月5日から「トラットナー・カジノ」で始まった待降節の公開演奏会シリーズのために作曲された可能性がある。このシリーズの第2回演奏会がおそらく12月12日に催されており、K 459の「自作目録」の日付が、その前日の12月11日になっているからである。ただし、この演奏会シリーズの主催者や出演者については、何もわかっていない。ヘ長調協奏曲は第3楽章が充実しており、ロンドとフガートの見事な融合が見られる。


 1785年の3曲は、2曲が4旬節の演奏会用、もう1曲が待降節の演奏会用に作曲されたと考えられている。ニ短調協奏曲とハ短調協奏曲は、モーツァルトのクラヴィーア協奏曲中、最も完成度が高い作品に数えられよう。両曲は作曲時期が近いが、極めて対照的な性格を持ち、デモーニッシュな激情が支配的な前者に対し、後者は清澄で高貴な美しさが特徴的である。ニ短調協奏曲が1786年春にザルツブルクで演奏された際、ミヒャエル・ハイドンは声部の複雑な絡み合いと楽曲の難しさに舌を巻いたというが、確かにこの曲に見られる緊密な声部書法、スケールの大きな楽曲構成、過剰なまでの感情表出は、当時の協奏曲の枠組みを大きく超えるものであった。若きベートーヴェンがこの曲を好んで演奏したのも、そうした要素に惹かれたからであろう(ベートーヴェンはこの曲の第1、3楽章のカデンツァを作曲している)。変ホ長調協奏曲は、モーツァルトが協奏曲の分野に初めてクラリネットを導入した作品。K466やK467に比べ、演奏の機会は少ないが、管楽器パートの見事な用法をはじめ、モーツァルトの洗練された作曲技法が随所に見られる秀作である。


 1786年の3曲は、前年と同様、2曲が四旬節の演奏会用、1曲が待降節の演奏会用に作曲されたと推定されている。近年の自筆譜研究が明らかにしたように、ヴィーン時代のモーツァルトは作品を途中まで作曲しておき、必要が生じた時に、それに手を加えて素早く仕上げるという方法である。このことから最近では、モーツァルトの断片作品には、完成を断念したものだけでなく、将来的に完成する予定だった「作曲途上の作品」も含まれているとみなされるようになり、断片作品の重要性が、改めて脚光を浴びるようになった。イ長調協奏曲とハ長調協奏曲もおそらくそうした方法で作曲されたもので、前者は1、2年前、後者は1年前にいったん着手され、その後、間を置いて、1786年に完成されたらしい。K488は古典的な形式美と旋律美が絶妙に調和した作品。一方のK503は、ハ長調特有の華麗な響きと壮大な構成を備えた作品である。もう1曲のハ短調協奏曲に関しては、1785年にアルタリアから出版されたヨーゼフ・ハイドンの「交響曲第78番 ハ短調」からの影響が指摘されている。悲壮感に満ちた堂々たる第1楽章、クラヴィーアと木管の対話が美しいロンド形式の第2楽章、簡素だが印象的な主題を持つ変奏曲形式の第3楽章から成る。


 ニ長調協奏曲は1788年2月に完成されたが、1787年に曲の一部が既に作曲されていたという説もある。この曲が「戴冠式」の愛称で呼ばれるのは、1790年10月、レオポルト2世の戴冠式に合わせて、モーツァルトがフランクフルトの演奏会で演奏したと伝えられるためである。K537の初演についてはわかっていないが、「プルベルク書簡」との関連で紹介したエッジの仮説に従えば、この作品は1788年の4旬節に企画されたカジノ演奏会のために作曲されたもの、ということになる。一方、クリフ・アイゼンは演奏会だけでなく、出版する目的もあったのではないか、と推測している。この曲の自筆譜では、クラヴィーア・パートの左手が多くの部分で空白になっており、演奏の際、モーツァルトがそれを即興的に埋めながら演奏したことを想像させる。1785、6年のクラヴィーア協奏曲に比べると明らかに簡素で控えめだが、独特の魅力を持った作品である。


 モーツァルトの最後のクラヴィーア協奏曲となる変ロ長調の作品は、1791年に完成されたが、タイソンの説に従えば、この曲の大部分は1788年に作曲されていたことになる。初演については、3月4日のヤーン邸ホールの演奏会で、モーツァルト自身の独奏で行われたというのが定説であったが、最近では1月中に既に初演されていたという説が浮上している。ナポリ王夫妻のヴィーン訪問を祝して、1月にヴィーンで複数の演奏会が催された記録があり、特に1月9日のアウアースペルク公爵邸の演奏会では、モーツァルトの弟子のプロイヤーがクラヴィーアを弾いているので、K595はその時にプロイヤーの独奏で初演された可能性がある。エッジは、第3楽章の主題が南イタリアの舞踏であるタランテッラの曲想に似てることから、モーツァルトがナポリ王夫妻を歓迎するために、意図的にタランテッラのリズムを取り入れたのではないか、と述べている。ただし、タイソン説に従うと、この主題は既に1788年に出来上がっていたことになってしまうので、エッジの主張は、あくまでもタイソン説が誤りだった場合を仮定してのものである。この最後のクラヴィーア協奏曲は、澄んだ響きを讃え、淡々とした中に味わい深い情趣が感じられる名作である。













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