音楽による心象の喚起を目指したクロード・ドビュッシー

 フランスの作曲家。中世音楽の手法や、東洋風の音階を用いて、独創的な作品世界を築く。響き、色彩感、リズムなどに独自の感性をみせ、とりわけピアノ曲で新境地を拓いた。印象派の代表的な作曲家であり、現代音楽への扉を開いた一人である。


 貧しい陶器商の子として生まれたものの、ピアノの手ほどきを受けたことがきっかけとなって才能が開花、10歳でパリ国立音楽院に入学した。


 1884年にローマ大賞を獲得してローマに留学したが、作品を「漠然とした印象主義」と批判したアカデミーとは訣別することになる。帰国後マラルメやピエール・ルイスら象徴主義の詩人たちと親交を結ぶ。一時期ワーグナーに傾倒するがバイロイトでワーグナーのオペラ上演に接してからは批判的になり、その結実がオペラ「ペレアスとメリザンド」である。5音音階や全音音階を用いて独創的な音楽を書く一方、グレゴリオ聖歌を研究して教会旋法を新しくよみがえらせもした。常により遠くを目指したドビュッシーは成功した作曲家として過ごしたが、直腸がんのため55歳で逝去。


<教え子の母親と駆け落ちした情熱家>


 ドビュッシーが生まれ育った環境は決して恵まれたものではなかったが、後援者に恵まれたことが幸いした。


 少年ドビュッシーがピアノを学べたのは伯母クレマンティーヌのおかげだが、この伯母は画家ゴーギャンとも親交があった裕福な銀行家アローザの愛人だった。ドビュッシーの才能を最初に認めたのは詩人のポール・ヴェルレーヌの義理の母モーテ夫人で、ショパンにピアノを学んだこともあるモーテ夫人の尽力でパリ国立音楽院に入学がかなったのである。学費を稼ぐ必要があったドビュッシーはピアノを教えたり、時には雇われピアニストの仕事もこなしたが、そんなドビュッシーの雇用主の一人が、チャイコフスキーのパトロンとして有名な富豪フォン・メック夫人である。夫人一家とともにヨーロッパ各地を旅したことは、見聞を広めるのに大いに役立った。


 無名時代のドビュッシーを支えた女性はギャビー・デュポンであったが、6年間の同棲生活はリリー・テクシエの出現により終わりを告げた。リリーと結婚し、1902年にはオペラ「ペレアスとメリーザンド」を初演、レジオン・ドヌール勲章も叙勲されたが、翌年ドビュッシーは突然妻に別れ話を切り出す。教え子の母親で裕福な銀行家の妻エンマ・バルダック夫人と恋に落ちたのだ。二人は殆ど駆け落ちのように、ディエップやジャージー島という海辺のリゾートで夏を過ごした。リリーが離婚を承諾して再婚、エンマとの間に愛娘シュシュも生まれ、幸福な日々が始まった。経済的苦境から脱出するためにブルジョワ女性と結婚したと誹謗する声もあったが、再婚後のドビュッシーは贅沢が身についた妻のために音楽評論や指揮活動も始めて多忙を極め、病死に至ったという説もある。


<言葉が途絶えたところから音楽は始まる>


 ドビュッシーは詩や絵画にも深い造詣を示した作曲家だった。マラルメの「火曜会」に出入りし、ボードレールやヴェルレーヌ、ピエール・ルイスの詩に作曲し、代表作「牧神の午後への前奏曲」はマラルメへのオマージュである。


 「沈黙」にも意味があると考えたマラルメにならい、ドビュッシーは「言葉が途絶えたところから音楽は始まる」と語り、音楽によって言葉では表現出来ないものの喚起を目指した。この姿勢は、象徴主義詩人たちに相通じるものである。


 また、ドビュッシーは印象派の代表的作曲家といわれる。絵画に於ける印象派は、それまで主流であった「古典ーロマン」派を乗り越えるために「束の間の印象をすばやく記録」しようと努め、物語性や情緒ではなく直感と感覚を重視した。画家たちが記録しようとした「束の間の印象」は、音楽にあっては言葉という表現形式に変換不可能な心象ということができる。


 ドビュッシーが目指したものは「心象の喚起」であったが、そのことが例えばポーの小説「アッシャー家の崩壊」のオペラ化を試みながら失敗し、完成したオペラは「ペレアスとメリザンド」ただ1作であることと関係深いと思われる。

 














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