新・旧世界で活躍、チェコ音楽を国際的に高めたアントニーン・ドヴォジャーク

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 チェコの作曲家。スメタナと並ぶチェコ音楽の巨匠。新大陸アメリカでも活躍し、黒人音楽などアメリカ固有の音楽を自作に融合させるなど、新機軸を切り拓いた。クラシック音楽界きっての鉄道マニアでもある。


 父は宿屋兼肉屋を営み、長男のドヴォジャークに家業を継がせようとしたが、音楽を志してプラハのオルガン学校に入学。苦学して卒業後はヴィオラ奏者となり、1862年にプラハ国民劇場管弦楽団に加わった。


 作曲は1861年頃から始め、70年代初頭から注目される。指揮者スメタナから多くを学んだ国民劇場管弦楽団には71年まで在籍、その後は教会のオルガニストを務め、かたわらオーストリア政府の国家奨学金へ応募、審査員ブラームスに認められ、交流が始まる。


 「スラヴ舞曲集」の成功で広く評価されるようになり、91年にはプラハ音楽院教授に就任した。ニューヨーク国民音楽院院長を務めたアメリカ時代には黒人音楽の影響も受ける。帰国後1901年にプラハ音楽院院長になり、脳溢血で没した時には国葬となるなど、最高の栄誉に輝いた。

<外国経験を糧に花開いた才能>


 チェコ国民楽派の開祖スメタナが切り拓いた道を継承・発展させたのはドヴォジャークである。


 スメタナが生涯チェコを拠点とした一方、ドヴォジャークは世に認められたあとは外国での活動も多く、9回にわたるイギリス訪問やイギリスの委嘱を受けて作曲したこと、「新世界」アメリカへ渡ったことなどは特筆される。その活動は、ドヴォジャーク個人の国際的名声を高めただけでなく、チェコ音楽の魅力を広く世界に示すことになった。


 外国経験はドヴォジャーク自身の音楽にも大きな影響を与えた。そもそも最初に高い評価を与えたのはブラームスである。ブラームスは、ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」などを刊行したベルリンの有力出版社ジムロックをドヴォジャークに紹介した。ドヴォジャークは、ここから自作を出版したことで国際的作曲家の仲間入りを果たすのである。


 さらにウィーンの大物音楽評論家ハンスリックから、ウィーンでオペラを作曲という魅力的な誘いを受けるが、これは断っている。そこには、祖国チェコの支配者オーストリアに対する複雑な心境も見て取れる。


 新大陸アメリカでの仕事は多くの成果をもたらした。独特の発展をした黒人霊歌やネイティヴ・アメリカンの音楽など、ヨーロッパにはない未知の音楽に触れることが出来、最大傑作の交響曲第9番「新世界より」はそれらを素材としていると言われている。「家路」の通称がある第2楽章は小学校の下校音楽に使用され、馴染み深い。チェロ協奏曲ロ短調、弦楽4重奏曲第12番などの佳品もこの時期に生まれている。


<3人の愛児の死から生まれた傑作>


 ドヴォジャークは多作の部類に入り、ブルクハウゼル編による主題目録によれば、完成した曲だけで206作にのぼる。ジャンルも多岐に渡っていて、オペラ、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、宗教曲などがある。


 いわゆるワグネリアンでもあって、その大胆な和声法を取り入れ、晩年のオペラ「アルミーダ」で手法を真似たりしているが、成功しているとは言いがたい。


 先輩スメタナは標題音楽へこだわりを見せたが、ドヴォジャークは資質的に異なっていたようで、今日まで人気曲として演奏されている作品は、絶対音楽的な器楽曲が多い。ブラームスやハンスリックの高い評価には最もな理由がある訳である。


 その他では、スメタナが手掛けなかった教会音楽やオラトリオなどの宗教曲での功績がある。1874年から2年間、プラハの聖アダルベルト教会のオルガニストを務めていたが、その頃に3人の子どもたちに次々と死別し、悲嘆の中で書かれた「スタバト・マーテル」はチェコ最大の教会音楽の名作と言われている。














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