アマデウス・モーツァルトの死の謎

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 藝術家には、神童ー天才ー夭逝という、幸福なのか不幸なのか分からない人生コースを歩む人がいる。その典型がモーツァルトだ。


 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、オーストラリアの地方都市ザルツブルクで生まれた。ここは神聖ローマ帝国の中にありながらも、ローマ教皇の直轄地、大司教領だった。父はヴァイオリニストであり、この町の宮廷楽団に勤めていた。この父によってモーツァルトの音楽の才能は見出された。姉が音楽を習っていたのをそばで聴いているだけで、和音を弾くことが出来た。絶対音感があったのである。4歳でクラヴィーア(ピアノの前身の鍵盤楽器)を弾き始め、5歳で最初の作曲をする。こうして神童は誕生した。


 父はこの神童を連れて、ヨーロッパ・ツアーに出かける。田舎町であるザルツブルクから、もっと都会の宮廷楽団で働きたいという自分の就職活動と、神童の興行という2つの目的があったらしい。だが、就職活動には失敗し、父子ともザルツブルクの宮廷楽団で働くことになった。


 モーツァルトが宮廷楽団をやめて、フリーの音楽家となるのは1781年、25歳の時だった。音楽の家庭教師、演奏会での興行収入、楽譜の出版による収入(当時は印税という概念はなく、1曲いくらで出版社に売っていた)、オペラの作曲代で生計を立てていたことになる。印税がないのを除けば、現代の音楽家とほぼ同じである。最初はモーツァルトのコンサートは人気があったが、だんだんと飽きられてしまったという説もある。


 モーツァルトにはさまざまな伝説があるが、中にはフィクションに近いものもある。フリーメイソンに入ったのは本当のようで、借金がたくさんあったのも事実。妻のコンスタンツェは悪妻として有名だが、これは後世の人々が天才モーツァルトを美化するために、悪妻に仕立て上げたとも言える。コンスタンツェはモーツァルトの死後50年生きた。再婚した相手ニッセンはデンマークの外交官でモーツァルトの研究家でもあり伝記を書いた人である。


 モーツァルトのオペラでは「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」などが現在も世界中のオペラハウスのレパートリーとなっている。交響曲は41番まであり、特に最後の3曲は有名である。27番まであるピアノ協奏曲にも名曲が多い。その他、あらゆるジャンルの曲を書いた。生涯で600から700曲、CDにして180枚前後の曲を遺した。楽譜が現存していないものもかなりあると思われるので、本当の全貌は今となっては分からない。35年という短い生涯の割には多作であった。


 音楽史上の革命家としての功績は何だろうか。特に新しい様式を確立した訳ではないが、それまではイタリア語で書かれていたオペラを、ドイツ語で書いたことが上げられる。1782年初演の「後宮からの逃走」が、そのドイツ語オペラである。


 発明したものはないが、音楽に感情を持ち込んだ点が革命であったと言える。聴くものだった音楽は、何かを感じ取るものになり、解釈が必要とされていくのである。

 モーツァルトは最も有名で最も謎の多い音楽家である。その生涯は35年。その短い生涯に作曲した作品は600くらいあり、楽譜が現存しているもの全てを演奏すると、CDにして178枚。65歳まで生きたバッハの場合、同じく現存する楽譜を全て演奏すると、CD156枚、ベートーヴェンは57年の生涯でCD102枚である。


 単純に、枚数を生涯で割ると、モーツァルトは1年に5枚以上、バッハは2.4枚、ベートーヴェンは1.8枚。あくまで単純な平均なので、全盛期には年に10枚以上のペースだったとも考えられる。今のポップス系のミュージシャンでもこんなにもたくさんのアルバムを作る人はいないだろう。


 しかも、モーツァルトはその生涯の3分の1にあたる日数を旅していた。作曲だけではなく、演奏もしなければならなかった。遊び好きだったのでパーティーに出かけたり、ギャンブルしたり、恋をしたり、決して書斎にこもりっきりだった訳ではない。


 そんな多忙な生活をしたので、いまでいう過労死をしたとも思えるが、その死因を巡っては、様々な説が唱えられている。遺体が共同墓地に葬られ、今となっては確認出来ないことも謎に拍車を掛けている。


 死亡説で一番有名なのは、同業者のアントニオ・サリエーリが毒殺したというもの。これは、モーツァルトの死から30年ほど経ってから、亡くなる寸前のサリエーリが、「自分がモーツァルトを殺したと告白した」という噂が流れたために生まれた説である。この噂がウィーンで流れたのは本当なのだが、今日では、サリエーリによる毒殺説はほぼ否定されている。だが、そうなればなったで、どうしてそういう噂が流れたのかという別の謎も生まれる。サリエーリは晩年には精神に異常をきたし、錯乱していたので、深層心理にあった「モーツァルトを殺してやりたい」との思いから口に出したという説もある。


 モーツァルトが世界で最も有名な秘密結社フリーメイソンに加盟したのは事実で、そのことに死因を求める説もある。最後のオペラである1791年初演の「魔笛」には、フリーメイソンの秘儀を、「分かる人には分かる」ように描いた箇所があり、それが組織の掟に反したために殺されたのではないか、という訳だ。しかし、これも荒唐無稽な説として退けられている。あるいは、モーツァルトがピアノを教えていた人妻と不倫の関係になったため、その夫が怒って殺したのだという説もある。


 実際の死の様子はというと、体調が悪くなってから死ぬまでは2ヶ月くらい。全身の浮腫と高熱という病状の中、亡くなった。急死といえば、急死である。その直前に妻のコンスタンツェに「誰かに毒を盛られた」と打ち明けたという説もある。


 ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」と記録されているが、リウマチ性炎症熱との説もあるし、先天的な梅毒だったとの説もある。もともと子どもの頃から病弱だったという説もあるし、当時は今ほど医療が発達していないし、流行病も多い。取り立てて「謎の怪死」という訳でもないのかもしれない。


 死ぬ間際にしていた仕事が、正体不明の依頼主からの「レクイエム」。言うまでもなく、死者のためのミサ曲である。まるで自分のために作ったかのようで、あまりにも出来過ぎた話なので、小説や演劇・映画になるが、これも謎でもなんでもなかった。「レクイエム」の依頼主はある伯爵で、彼の若い妻が亡くなったので、そのミサに伯爵が自分で作った曲を演奏しようと思い、モーツァルトにゴーストライターを依頼したのだった。そういう、表には出せない仕事だったので、謎めいてしまったのである。




























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