ショパンと同時代の作曲家

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 1809年にメンデルスゾーン、1810年にショパンとシューマン、1811年にフランツ・リストが誕生している。このわずか3年の間にそれぞれ個性的な4人の天才音楽家が生まれているということは、まさに音楽史上の奇跡である。しかも彼らはお互いに才能を認め合い、作品の献呈を行って、ベートーヴェン亡き後の音楽界を牽引し、きらめく作品を数多く残した功績は今更ながら驚嘆すべき事である。


 ショパン誕生当時のポーランドは、ロシア、オーストリア、プロシアに領土を分割され、地図上に存在しない悲劇の国家であった。ポーランド人は制約の多い中で暮らし、主権を取り戻そうと蜂起を繰り返すたびに、支配者の弾圧はさらの強まっていく。これでは到底、平穏な芸術文化活動など望むべくもない。地理的にも、ヨーロッパの芸術活動の中心地から遥かに隔たっていて、芸術の発信には圧倒的に不利であった。


 幼少時から卓越した才能を発揮したショパンは、ワルシャワ音楽院時代から、既に自国では、作曲家、ピアニストとしてある程度有名な存在となっていたが、このような祖国にあっては、その才能を世に問うことが叶わない。恩師や家族は、ショパンを国外へ送り出して自由に活動させるべきと考え、本人もそれを意識するようになっていった。


 音楽院を卒業した1829年の夏、ショパンは、若い法学講師ロムアルト・フーべやその知人の青年3名に同行して、初めてのウィーン旅行を実現させた。旅費は小さな寄宿学校を営む父親が出してくれた。


 1829年7月21日にワルシャワを出発し、古都クラコフに立ち寄った後、モラヴィアを横切り、ウィーンに到着したのは7月31日だった。


 幸い、ウィーンには、かつてワルシャワに住んで少年時代のショパンにオルガンを教えてくれた恩師ヴィルヘルム・ヴェルフェルがいた。ヴェルフェルはウィーン音楽界の有力人物たちにショパンを引き合わせてくれた。


 ベートーヴェンが亡くなってわずか2年。会う人、会う人、ベートーヴェンの思い出を懐かしんだ。ベートーヴェンの親友で、彼がこの人の弦楽四重奏団のために、人類の至宝ともいうべき弦楽四重奏曲の数々を書いた、陽気なヴァイオリニストのイグナッツ・シュパンツイヒは、ウィーン音楽界の権謀術数の恐ろしさを忠告してくれた。


 ベートーヴェンと諍いながらも彼の作品を出版し続けたハスリンガーは、ショパンを夕食に招き、ベートーヴェンの第9の初演会場となった宮廷劇場、ケルントナートーア劇場の支配人ガレンベルク伯爵を紹介してくれた。


 伯爵の妻ジュリエッタは、若い頃、ベートーヴェンのピアノの弟子だった女性で、ベートーヴェンからピアノ・ソナタ第14番作品27−2を献呈されていた。この時はまだ愛称はないが、後に「月光」と呼ばれるソナタだ。


 ガレンベルク伯爵は言った。どうです。うちの劇場でウィーン・デビューしませんか。


 ハスリンガーが話を引き取った。それがいい。君がモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の二重奏の旋律をもとに書いた「ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲」ね。あれと「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアーク」を弾きませんか。自作自演はいい宣伝になる。君が公開演奏するなら出版してあげましょう。申し訳ないけれど、出版料は払えませんがね。でも、作品が世に出ればおおいに名前が売れますから。


 では、決まりですね。うちも新人には出演料をお払いできないのですが、演奏会の段取りは任せて下さい。


 こうしてショパンは、8月11日、ケルントナートーア劇場でオーケストラと共演して、自作の「変奏曲」「ロンド」他を弾き、まずまずの成功を収める。この演奏会にはバレエの出し物もあったが、聴衆は、ポーランドから来た若いピアニストの演奏に大きな喝采を贈った。おかげで、18日には追加公演も開かれた。


 ウィーンでは他に、ベートーヴェンの弟子でピアノ協奏曲第5番のウィーン初演の独奏を手掛けたカール・ツエルニーとも知り合い、ワルシャワの家族宛ての手紙に、彼はその作品よりもずっと情にあふれた人ですと書き送っている。


 このウィーン旅行の大成功に勇気づけられ、いよいよ本格的に中央ヨーロッパを目指す決意を固めたショパンは、ワルシャワへ帰ると、外国への手土産としてピアノ協奏曲の作曲を開始する。ピアノ独奏曲ではいかにも地味だからだ。最初に書き上げられたのは、出版があとになったために現在第2番と呼ばれるヘ短調協奏曲、次いで完成したのが、第1番と呼ばれるホ短調協奏曲だった。


 1830年11月2日、20歳のショパンは2曲の協奏曲の草稿を懐に祖国を旅立ち、ウィーンに向かった。前年の成功を足掛かりに、ここで全ヨーロッパに打って出る心積もりだったのだ。


 ところが、ウィーンの空気は一変していた。前年訪れたとき、ウィーンの人々にはワルシャワの未知の才能への好奇心があったが、今や彼らの関心は次の流行に向けられていた。しかも、ワルシャワの革命の火種が大きくなっていたため、ポーランドから来た人間は、よからぬ革命分子ではないかと、疑惑の眼差しを向けられる。その上、物価がおそろしく高騰していて、父が送金してくれた為替もわずかな現金にしかならない。


 ハスリンガーも、昨年約束した「ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲」は出版してくれていたが、新たな出版には応じてくれず、演奏会を開く相談をしようと、ガレンベルク伯爵に連絡を取ると、彼はもう、劇場の地位を失っていた。


 1831年7月20日、ウィーンに見切りをつけたショパンは、次なる希望の土地パリを目指してこの町をあとにした。


 疲れ果てて、9月の末にパリに到着すると、ショパンはまず、巨匠ピアニスト、フリードリヒ・カルクブレンナーのもとを訪れた。入門することにはならなかった、彼の紹介によって知り合ったピアノメーカー、プレイエル社の2代目、カミーユ・プレイエルがショパンを後援してくれることになり、1832年2月26日、ショパンは同社のホール、サン・プレイエルでパリ・デビュー演奏会を開く。


 入場料は、オペラ座が9フランで入場できるというのに、何と10フラン。あまりの高額さに満席とはならなかったが、パリで活躍中のフランツ・リストや、ヨーロッパを旅行中のフェリックス・メンデルスゾーンも来聴して熱心に耳を傾け、著名音楽評論家フェティスも姿をみせて温かな賛辞を寄せてくれた。この演奏会の成功によって、ショパンの名は一躍パリの人々に知られた。


 上級階級の弟子も増えて、高級ピアノ教師として成功を収めていく。ワルツやノクターンなどの小品も女性たちの人気を獲得し、その出版料も彼を潤すようになった。


 デビュー演奏会に来てくれたリストとは、互いに敬愛しあう友人同士となり、翌1833年に「12の練習曲」作品10を出版したときには、これをリストに献呈した。少しのちの話だが、やがてリストがダグー伯爵夫人とパートナー関係となると、37年出版の「12の練習曲」作品25をマリー・ダグーに献呈している。


 1833年にパリへやってきたイタリアのオペラ作曲家ヴィンチェンツォ・ベッリーニとは、出会った途端に意気投合した。もともと、オペラ好きだったショパンは、ベッリーニのなめらかな旋律のつなぎ方にいたく感動して、それと同じことをピアノでも実現させようと、彼のオペラから熱心に学ぼうとした。弟子たちにもベッリーニのオペラを聴きなさいというのが口癖だった。


 1835年の夏、ワルシャワの両親がボヘミアの温泉地カルルスバードに保養にやってくるという知らせが届く。


 カルルスバードは、ワルシャワとパリの中間に位置する中立の地だ。パリ到着後、ロシア大使館への出頭勧告を無視し、旅券延長の手続きを取らなかったショパンは、ポーランド領内に立ち入ることがむずかしくなり、もし入国すれば、再出国が許されない怖れもあった。


 だが、ボヘミアならば、ロシアの官憲の手は及ばない。ショパンはボヘミアへ飛んでいき、両親と5年ぶりの感動的な再会を果たす。


 パリへの帰途、ショパンはドレスデンに立ち寄り、旧知のポーランド貴族ヴォジンスキ伯爵家を訪問した。同家の娘で16歳のマリアと恋に落ちたのはこの時である。


 そのあと、ショパンはライプチヒに回った。4年前にパリで親しくなったフェリックス・メンデルスゾーンが、ここのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任していたからだ。


 10月4日、ショパンの訪問を受けたメンデルスゾーンは、ショパンの手を固く握りしめ、ドイツ1のピアノ教師として評判のフリードリヒ・ヴィークの家へショパンを伴った。


 ヴィークはすでに1831年の初夏、ウィーンのハスリンガー社から出版されたばかりの「ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲」の楽譜を入手して、天才少女ピアニストとしてその名を高めつつある愛娘クララにこれを習得させていた。クララはそれからというもの、あちこちの演奏会でこれを弾き、ドイツに於けるショパン作品の最初の紹介者となっていた。


 メンデルスゾーンがその作曲者を連れてきたというので、ヴィークもクララも、そして、ヴィークの弟子のロベルト・シューマンも夢かと喜んだ。このとき、16歳のクララは、兄のように親しむシューマンの作品をショパンに聴いてもらおうと、シューマンの嬰ヘ短調のソナタ第1番を弾いた。そしてその次に、遠来のショパンに敬意を表してショパンのホ短調協奏曲第1番のフィナーレとエチュード作品10から2曲を演奏した。


 そこでショパンは、返礼として、最近作曲したばかりのノクターンを披露した。


 楽しい時間を過ごしてショパンがパリへ帰ると、何と、ショパンの不在中にベッリーニが33歳の短い生涯を閉じていて、ショパンを茫然とさせた。


 翌1836年夏もショパンは愛するマリアのいるマリエンバードに滞在し、パリへの帰途ライプチヒのヴィーク家に立ち寄ったが、クララとの恋愛の発覚したシューマンが師匠の逆鱗に触れてヴィーク家に足を踏み入れられなくなっていたので、ショパンは別々に2人を訪ねた。


 クララは、ショパンの希望によって、協奏曲を含む何曲かの自作を弾いて聞かせた。するとショパンはクララの「ピアノのための4つの性格的小品作品5」を激賞し、その楽譜を所望する。


 一方、シューマンは、出版されたばかりのショパンの「ト短調のバラード第1番」を話題にして、気負いこんだ口調で絶賛した。僕は君の全作品の中でこれが一番好きです。


 この同じ1836年、リストがベートーヴェンの故郷ボンにこの楽聖の記念碑建立を計画した。それを知ったシューマンは、この計画に賛意を表する意味でピアノ曲を構想する。ソナタの大家ベートーヴェンへのオマージュであるので、シューマンはソナタを書こうと考えたが、結果的にロマンの感情に溢れた幻想味の強い作品となったため「幻想曲」をタイトルとした。


 ただし、ソナタの名残をとどめて3楽章形式がとられ、第1楽章には敬愛するベートーヴェンの歌曲「遥かなる恋人へ」の一節も採り入れられた。シューマンはこの大作を自身の最高傑作と自負し、ベートーヴェン記念碑建立の中心人物フランツ・リストに献呈した。


 2年後の1838年、シューマンは大作「クライスレリアーナ」の出版に際してこれをショパンに献呈した。この作品はドイツ、ロマン派の文学者E・T・A・ホフマンの小説「黒猫ムル」を踏まえ、その作中人物である楽長クライスラーに託してクララへの思いを歌い上げた一大傑作だから、心情的にはクララに献呈されているが、それを踏まえた上で、シューマンはクララの尊敬するショパンに献呈したのだ。


 ショパンは、その返礼に何を献呈すべきか考え込んだ。「24の前奏曲」はカミーユ・プレイエルに献呈してしまったし、「軍隊」を含む作品40の2曲のポロネーズは、身辺の雑務を引き受けてくれている同郷の友人ジュリアン・フォンタナに献呈する約束があった。でも、ヘ長調のバラードならば、まだ誰にも献呈していない。それに、シューマンは以前に「バラード1番」を絶賛してくれたので、バラードが良いだろう。


 こうして、ショパンからシューマンへは「バラード2番」が献呈された。


 1840年にシューマンと結婚したクララは、夫を除けば、メンデルスゾーンを最も敬愛し、次にショパンを尊敬した。リストは、最初のうちこそクララの驚異の対象だったが、やがてリストの派手なヴィルトゥオジティの披歴に激しく反発した。ことにシューマンがクララに捧げた歌曲「献呈」を、リストが技巧ピースに編曲したことを決して許そうとはしなかった。


 そんなクララの心情に気づかぬリストではなかったが、1851年に超難曲「パガニーニによる大練習曲」を出版したとき、それにふさわしい弾き手クララに献呈した。もう1作の超難曲「超絶技巧練習曲」の方は、恩師ツエルニーに献呈している。


 それでも、リストにはまだ借りがあった。1837年にシューマンから「幻想曲」を贈られたままになっていたからである。


 若い頃から長年かかってついにリスト唯一のソナタ「ロ短調」を完成させ出版に漕ぎつけたとき、リストはようやくあの傑作に匹敵する贈り物ができた、と肩の荷をおろし、これをシューマンに献呈した。


 けれども、悲しいことに、ライン川で投身自殺未遂事件を起こしていたロマン派の騎手は、この贈り物を認識出来なかったものと思われる。



 


















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