7歳の作曲家ショパン

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 かつてヨーロッパじゅうに神童として名を知られ、後に大作曲家となったヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとの比較にも、まんざら根拠がないわけではなかった。半世紀前のザルツブルグの小さなアマデウスの場合と同じように、今、ワルシャワで7歳のショパンを見る人々も、驚きのあまり我が目わが耳を疑った。人々は、その非凡なピアノ演奏、指の敏捷さ、即興の鮮やかさについて、この世のものではないと言わんばかりに評判しあったが、おそらく最大の驚異は、これほど幼くしてすでに、当世ワルシャワの音楽家たちの作品にひけをとらないような、1人前の曲を器用に作る才能だったに違いない。少年ショパンが作った最初の曲として知られている「ポロネーズ ト短調」「ポロネーズ 変ロ長調」は、いたって素朴ではあるが、今日の耳にも十分快く響く音楽である。この2曲には、ショパンの母が好んで弾いていた、当時流行のミハウ。クレオファス・オギンスキの影響がはっきりと表れている。同じスタイルながら、むしろオギンスキのポロネーズよりも繊細で上品な感じさえする出来であり、そこに独自の資質が浮かび上がる。というより、ひっそり兆していた。優雅な旋律、無駄のない音型や和声には、十分な魅力、味があり、時として大ピアニストと言われる演奏家でさえ、聴衆の前で弾いてみたいという誘惑に駆られるのも不思議ではない。あどけないショパンの想像力を掻き立てたポロネーズのリズムは、大人になったショパンにとってもとりわけ身近なリズムであることに変わりなく、ポロネーズは終生書き続けられることになる。


 父が譜面に書き取ったこの最初の2曲は、家族や友人たちの評判があまりにもよかったので、そのうちの1曲は印刷に付されることになった。出版費用も含めて、この件を引き受けたのは、ショパンの名親F・スカルベク教授で、彼は早速、ノーヴェ・ミャストにあるマリア御訪問教会の教区司祭であると同時に、こじんまりとした楽譜出版所を経営していたユゼフ・ツイブルスキ神父のもとへ赴いた。この小さな音楽出版社はすでにプロイセン領時代から活動しており、作曲家であり教授であったユゼフ・エルスネルの協力を得て、ポーランドの民族的歌曲などを刊行していた。1817年11月、印刷された最初のショパンの作品「ポロネーズ ト短調」は、ショパンの代父の妹ヴィクトリア・スカルベク伯爵令嬢への献辞を付して、この出版社から出された。まだまだうら若き新人作曲家が首都に出現したことは、当時有数の雑誌「パミェントニク・ヴァルシャフスキ」1818年1月号が、きちんと報じている。同誌「文学時報」の章、「1817年に出版された国内作品一覧」の欄である。


 この舞曲の作者、満8歳の若者は、ワルシャワ高等学校のミコワイ・ショパン教授(フランス語・フランス文学)の御子息にして、正真正銘、音楽の天才なり、至難の曲をいともやすやすと、かつ非凡なる審美眼を以てピアノ上で奏でるのみならず、数編の舞曲、変奏曲の作者でもあり、それらの作も、何より作曲家の幼年を考えれば、音楽専門家諸氏が驚嘆措く能わざる水準なればなり。仮にこの若者がドイツあるいはフランスに生まれていたならば、必ずやあらゆる種類の階層の人々の注目するところとなったであろう。我が国にも天才は生まれている。ただこれを声高に報じる者のないために、世に知られずに終わるだけなのである。この記事の一警鐘として役立たんことを願うゆえんなり。


 これがフリデリック・ショパンに関して印刷された最初の記事だが、匿名の筆者は少年の才能を鋭く見抜いていた。














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