サロンの寵児ショパン

 パミェントニク・ヴァルシャフスキの記事は功を奏した。午後のお茶に、晩餐に、舞踏会にと、それもワルシャワ貴族界の最上級サロンから招待状が降るように舞い込み始めたのである。この小さな音楽家に最初に関心を寄せたのは、ルドヴィカ・チェトフェルティンスカ公爵夫人で、まるで第2の母親のように休日やヴァカンスにショパンを招き、次々と他家のサロンにも紹介していった。親しみを込めて「ショピネック」という愛称を付けられたショパンは、あっという間に社交界のパーティに欠かせぬ花形役者のような存在になっていった。ショパン家の前には、大芸術家のお迎えよろしく、チャルトリスキ家、ラジヴィウ家、サピエハ家ら諸侯の立派な馬車が次々と停まるようになった。誰もがこの神童を自宅に呼んで、客人たちに披露したがったのである。アレクサンドラ・タルチェフスカ(作家クレメンティナ・タンスカの姉)は、日記の中でこう回想している。その晩私はグラボフスカ夫人に招かれていった。なかなかの盛会だった。夜会の間ずっとピアノを弾いていたのが、8歳の子供、若きショパンだった。専門家の言うところでは、モーツアルトに代わるべき、期待の星ということだった。小さな芸術家はロシア皇帝の弟、ポーランド軍総司令官、コンスタンティン大公の居館ベルヴェデルにも呼ばれていった。フリデリックは大公のために軍隊行進曲を作り、大公はこれをオーケストラ用に編曲させて、サスキ広場での軍隊行進で使った。


 有名人「ショピネック」は、外来演奏家の前にも引っ張り出された。ポーランド出身で世界的な名声を得たピアニスト・作曲家で、たびたびワルシャワにも訪れていたマリア・シマノフスカも、ショパンの演奏を聞いている。1820年、ポーランド公演のためにパリから来た大歌手アンジェリカ・カタラーニも、ショパンの演奏と即興に感動した一人である。すっかり感心したカタラーニは、蓋にフランス語で、「マダム・カタラーニ、10歳のフレデリック・ショパンに贈る」と彫り込んだ金時計をショパンに贈った。ショパンはこの時計を終生手放さなかった。











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