ショパンのノクターン(全21曲)

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 ノクターンというカテゴリーを、音楽史上初めて創始、確立したのは、アイルランドに生まれたピアニストで作曲家のジョン・フィールドである。フィールドは生地で、歌曲「カロ・ミオ・ベン」の作曲で知られる作曲家トマゾ・ジョルダーニに師事、ロンドンに移住してからはムツィオ・クレメンティの薫陶を受けた。その後、ヨーロッパやロシアに趣き、創作活動や演奏活動、また熱心に後進の指導を続けた。ロシアでフィールドの演奏を聴いたグリンカは、ビロードの上に真珠の玉が降り注ぐようと驚嘆したという。フィールドは当時のヨーロッパで押しも押されぬ大ピアニストであった。

 「ノクターン」の語源は「ノットウルノ」である。元々は屋外で演奏されたセレナーデであり、夕暮れの音楽だった。モーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」などに代表されるように、主に管弦楽で演奏され、軽快で華やかなものも多かった。それに対し、フィールドが書いたおよそ20の「ノクターン」は厳密な形式を持たず、静かな伴奏の上に自由で甘美な旋律が重ねられていく夜の音楽である。
 そしてフィールドとショパンは、1829年ワルシャワで運命的な邂逅を果たす。青年ショパンは夜想曲の情感と、既に名声を得ていたフィールドの演奏に大きな感銘を受けた。その後ショパンが、パリで著名な大ピアニスト、フリードリヒ・カルクブレンナーの前で演奏した際、フィールドにタッチが似ていると言われ、とても嬉しかったと友人に吐露している。
 フィールドが最初のノクターン3曲を出版したのは1814年である。ショパンと出会った時には既に10曲ほどのノクターンを出版していたが、その情感にショパンは心を寄せ、様式を自らの創作に採り入れた。ショパンの最初のノクターン作品9の3曲が書かれたのは1830年から32年にかけてであるから、ショパンはよほど気に入ったに違いない。

 しかしながら、二人のノクターンが決定的に異なるのは、フィールドのノクターンが静かに繊細に、ただ流れていくのに対し、ショパンのノクターンはロマンチックのみならず、あくまで古典的な構成観に根差した緊密な構造とドラマティックな側面を有していることである。

 作品9(3曲)の出版は1832年。作曲当時、高等音楽学校に通っていたショパンは、同じ学校の声楽科にいたコンスタンツヤに恋するが、その想いを振り切ってウイーンに旅立つ。作品15(3曲)は1832年から翌年にかけて。すでにパリで生活をしており、その基盤が確立しつつあった。
 作品27(2曲)と作品32(2曲)は、ドレスデンでヴォジンスキ家を訪ね、その子女マリアに魅せられたり、初めてシューマンに会った1835年に創作された。喀血し、体調を崩した年でもある。作品37(2曲)はマヨルカ島へ旅した1838年に書かれた。作品48(2曲)は、プレイエル・ホールで公開演奏会を開いた1841年の作で、ショパンの創作は円熟期に入っていた。
 作品55(2曲)は1844年、ショパンの父が死去した年に書かれ、作品62(2曲)は晩年の1846年に書き上げられた。作品72の第1曲になるホ短調はショパン17〜19歳頃の作品であるが、いかにも習作をを思わせる一方で、ショパンの独創性が垣間見られる。
 そして現在は夜想曲に数えられることの多い「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」(第20番)は、自身の「ピアノ協奏曲第2番}を、ショパンの姉ルドヴィカが演奏するための手引きとして1830年に作曲された。映画「戦場のピアニスト」の主題歌としても広く知られている。




















 

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