ショパンの前奏曲(全26曲)

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 ショパンが暮らしていた冬のパリは、暖房用の石炭が出す粉塵や煙が深刻な大気汚染を引き起こしており、咳き込みがちなショパンは医師から転地療養を勧められていた。一方、ショパンと親密になったジョルジュ・サンドの故郷ノアンは、パリから南に300キロほど離れた、のどかな田園風景が続く美しい村である。けれども暖房施設が不足しており、サンドの長男も病気がちであった。そこでサンドはショパンと家族を連れ、地中海に浮かぶ温暖なマヨルカ島で冬を過ごそうと考えた。


 ショパンとサンドの一行は1838年11月、小さな蒸気船で目的地に着いたが、窮屈な思いをすることになる。確かに寒さに震えていたパリと比較してひかり輝く太陽、何種類もの鮮やかな果物、紺碧の海はとても魅力的であったが、同時になかなか届かないピアノや島の住民への不信感等、好まざる環境がショパンの精神を蝕んだ。そして翌年2月、一行は帰国の途につく。


 そこで書かれたのが「前奏曲集作品28」と言われている。確かに曲集は1839年1月22日には少なくとも完成されていた。また第4曲は確実にマヨルカで作曲されている。ゆえに「雨だれ」を含め、マヨルカのエピソードとして多くが語られたのであるが、ショパンの重要な作品の中で、これほど創作過程や目的が不透明なものは珍しい。

 そもそも前奏曲というタイトルが登場したのは15世紀のドイツにまで遡る。オルガン用のタブラチュア(5線譜ではなく、文字や数字による楽譜)であったが、その名の通り、楽器の試奏、調律の確認、ある曲の旋法や調性の準備など様々な役割を担っていた。時代が進むとそれが多様に発展して、J・S・バッハは「インヴェンションとシンフォニア」で15の長短調を示し、「平均律クラヴィーア曲集」に於いて上行する半音階の順序に従うという配置を明確に示す形式を確立させた。

 その後、前奏曲を書いた作曲家は何人も現れた。バッハと同じように24調性を用いた例も、クレメンティ、フンメル、ヴュルフル、ケスラーなどに見ることが出来る。しかし曲集の各曲を、バッハのように明確なプロットで結び付けたケースはない。そこでショパンの登場である。ショパンの前奏曲集の配列は5度循環形式を採っており、まずハ長調を起点として次に平行調のイ短調、その次に完全5度上のト長調とホ短調という堅牢な構築性を採っているのである。バッハが前奏曲集に刻印した造型は、ショパンによってある意味受け継がれたのであるが、そこにはショパンにとってほぼ唯一のピアノ教師であったヴォイチェフ・ジヴニーの存在が深く関わっている。ボヘミア出身のジヴニーは、6歳から6年間ほどショパンを教えたが、何よりバッハの熱烈な信奉者であり、「平均律クラヴィーア曲集」をバイブルとみなしていた。そしてショパンがマヨルカ島に旅行した際に携行した楽譜こそ「平均律クラヴィーア曲集」だったのである。

 それにしてもこれほど短く簡潔で、なおかつ凝縮した完成度を有している作品はそうあるものではない。確かに無作為性をも感じさせる断片的なスケッチ風でありながら、実はショパンの複雑な心象風景を音楽に投影した独創的な24曲の集合体であり、同時に有機的な必然性を持って深く結合している。そこにはショパンが常に抱いていた病気への不安、安らぎと失意、苛立ちや焦燥感などの交錯を、そのまま長調と短調の対比等として音楽に結晶させた劇的なドラマと眩くイマジネーションが明確に存在しているのである。


 第4番はショパンの葬儀で演奏され、第15番は「雨だれ」と呼ばれる。他にも1841年に書かれた「前奏曲作品45」は即興風であり、1918年に自筆譜が見つかった「プレスト・コン・レジェレッツア」も前奏曲第26番とされている。


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