中村紘子氏のショパン・コンクールが築き上げたもの

　ショパンが生まれて、２００年以上の時がたった。

　歴史を紐解くと、時代の折々にさまざまな英雄や偶像が登場するが、時の権力者が変わると地に堕ちたり忘れ去られたりする者も多い。英雄の価値は、時代によっても変化する。

　ところがショパンはこの百年、つまりポーランドが１９１８年に独立国となって以来、単なる不世出の天才作曲家としての価値に留まらず、首尾一貫してこのポーランドという小さな国の民族吟持とアイデンティティを支える基幹となってきた。

　今ではもう私たちはほとんど忘れてしまっているが、２０世紀前半における西欧のショパンの評価というものは、必ずしも今日のようにいわば「絶対的な」ものではなかった。パリで成功しパリに死んだショパンは、輝かしいフランスのピアニズムによってほとんどフランスのものになりかかっていたし、また、ドイツ音楽を知的にして至上のものととらえる派は、ショパンを「女子供の好むもの」「サロン音楽」と低く軽んじた。

　こうしたショパンを、先ずは「父の国」フランスから「母の国」ポーランドに断固取り戻したのが、１９１８年ポーランド独立の英雄にしてピアノ界のスーパースター、イグナツ・ヤン・パデレフスキであった。

　独立ポーランドの初代首相兼外相となったパデレフスキは、疲弊し切って混沌としている国土の上で、いち早くショパンを取り戻す為の準備を開始した。国際ショパン・コンクールの設立、そしてショパン作品の編纂である。これはパデレフスキ版という全集になって、今日、広く使用されている。

　独立国となってから１０年もたたない１９２７年、１週間という今日よりもはるかに小さな規模で、第１回のショパン・コンクールは開催された。以来、第２次世界大戦中の１時期を除いて、コンクールは５年に１度ワルシャワで開催され、回を重ねる度にますますその国家的権威を「国際的に」拡大していった。

　ポーランドは２０世紀の始めに独立国家とはなったが、ナチス・ドイツの占領、第２次世界大戦、そしてソヴィエトの一員として、弱小国としての悲哀を耐え忍んできた。

　中村紘子氏は１９６５年のショパン・コンクールに参加したが、会場に渦巻く異様な熱狂に文字通り圧倒されてしまったことを、半世紀が過ぎた今なお生々しく思い出す。社会主義国の人民として言論、行動、情報の一切の自由を奪われ、日々の食物さえも満足にない、貧しく、夢も希望もない国が、この５年に１度のショパン・コンクールで、民族の誇りを取り戻すのである。その熱気、興奮は西側自由社会のピアノ・コンクールでは見受けられないものであった。

　しかし、ソヴィエトが崩壊し、文字通り自由国家となって２０年以上の時が経過した今日、ショパンを取り囲む世界の音楽状況も大きく様変りしている。もう、ショパン・コンクールに行っても、かつて体験した異常な熱気というものは感じられない。「ショパン」はいわば外貨獲得のための一大産業となってしまった観さえある。

　ポーランドは、２０世紀の社会主義という、情報を大きくコントロールし得た閉鎖社会の中で、着実に「ポーランドのショパン像」というものを築き上げ、現代では楽譜まで「ナショナル・エディション」という形で、権威づけることに成功した。今日では、ショパンをフランスのものと思う人は誰もいないし、ショパンをドイツ音楽よりも知的でない、などという人もいない。しかし、この９０年代のソヴィエトの崩壊は世界の政治、経済の力の均衡を変え、インターネット等の情報の発達とその膨大な量は、クラシック音楽の世界をも大きく変えつつある。

　ポーランドにとって、恐らくこの現在たった今こそが、歴史上初めて手にした自由で平和で満ち足りた日常なのかもしれない。精神的な渇望と鬱屈した思いが、ショパンを国をまとめる基幹という存在にしてきた。しかしその一方、万端あい調ったところで、他ならぬポーランド自身が今までとは違った環境になりつつある。また、ジェネレーションの交替も急速に進んでいる。渇望を知らない満ち足りた世代が社会の多数となる頃に、ショパン・コンクールはどう変貌しているだろう。ショパンの音楽を心から愛する者の一人として、見届けたい思いもする。