前衛音楽、巨匠の名演、ポピュラー音楽

ショパン・マリアージュ(釧路市の結婚相談所)
お気軽にご連絡下さい!
TEL.0154-64-7018
営業時間:土曜日、日曜日、祝祭日の9:00〜18:00
FAX.0154-64-7018
お問い合わせメール:mi3tu2hi1ro6@gmail.com
釧路市浦見8丁目2−16
URL https://www.cherry-piano.com

 20世紀後半の音楽史風景は、「3つの道の並走」として眺められるべきである。これらの間にはほとんど接点がないように見えるが、実はいずれも19世紀の西洋音楽が生み出したものである。第1の道とは公衆を拒絶するヒステリックな不協和音と極度に難解な構造を持つ前衛音楽の系譜である。「作品史としての芸術音楽史」の直接の延長線上にあるのはこれである。しかしながら作品史としての芸術音楽史の存立は、第2次世界大戦後に於いては、もはや自明ではない。言い尽くされたことではあるが、前衛音楽に於ける公衆の不在である。この数十年ばかりの現代音楽は、再び公衆へ接近しようとしてはいるが、疑いの余地ない成功を収めるには至っていない。すでに100年近く前に作られたシェーンベルクの作品からしてそうなのだが、第2次世界大戦以後の前衛音楽で、いわゆる演奏会レパートリーに定着した作品は皆無に近い。せいぜい時々思い出したように再演されてはまたも埋葬されるのが関の山であって、歴史と公衆の審判を文句なしにくぐることが出来た作品数が、第2次世界大戦後になると激減するのである。
 西洋の芸術音楽はそもそも当初より、少数のエリートのための音楽だった。だが、かつてそれらは教会や王侯貴族、そして19世紀に於いては教養市民といったエスタブリッシュメントの後ろ盾を持っていた。それに対して20世紀後半に於いては、こうしたパトロンを喪失した芸術音楽は、一種のアングラ音楽へと先鋭化していったのではないか? つまり20世紀後半の芸術音楽は、かつてのような「公式文化」ではなくなっているということである。現代音楽の歴史的な記述に疑問を抱くのは、芸術音楽のこの「公式文化から一種のサブカルチャーへ」という変貌を、それが見落とさせてしまうからである。ただし、こうした状況をことさらに嘆こうとは思わない。それどころか、もし前衛音楽に何かまだ可能性があるとすれば、それはサブカルチャーに徹することを通してのみかもしれない。あの輝かしいモダン・ジャズは、それが「非公式文化」だったからこそ生まれたものだった。
 この前衛音楽の系譜とは対照的に、20世紀後半に於ける「芸術音楽の王道」となったのが第2の道、つまり「巨匠によるクラシック・レパートリーの演奏」である。これは「公式文化としての芸術音楽史」の延長線上にある系譜だという言い方も出来る。指揮者のアーノンクールは、18世紀までの人々は現代音楽しか聴かなかった。19世紀になると、現代音楽と並んで、過去の音楽が聴かれるようになり始めた。そして20世紀の人々は、過去の音楽しか聴かなくなった」と述べている。たとえばブーレーズがウイーン・フィルを使ってマーラーを録音すれば話題になろうが、彼の新作を首を長くして待っている人はごく僅かだろう。今日の「クラシック」レパートリーのほぼ全ては19世紀後半から20世紀にかけて確立されたものなのだが、20世紀後半に入ると人々の関心は「誰が何を作るか」から「誰が何を演奏するか」へと決定的に移行してしまった。とりわけ1950年年代あたりから、録音技術の飛躍的な発展もあって、いわゆる「新録音」が絶えず話題になる状況が数十年続いた。ピアノ1つとっても、50年代から70年代にかけて、バックハウスやルービンシュタインやホロヴィッツやフランソワやミケランジェリやリヒテルやグールドやポリーニの新譜が続々と現れるという、眩いばかりの豊饒の時代がやってきたわけである。従来のクラシック・ファンが、同時代のよく分からない現代音楽に辟易して、もっぱらこの「巨匠による古典的レパートリーの名演」の方へ関心を移してしまったのも、無理からぬことだっただろう。ひるがえって今日のことを考えると、そろそろ名曲レパートリーの決定版はほぼ出揃ってしまい、巨匠の時代もすでに去り、ネタ枯れの気配がある。

 そして第3に、これまた西洋音楽が20世紀に於いて生み出した系譜の1つとして、アングロサクソン系の娯楽音楽産業を挙げたい。19世紀とは西洋芸術音楽が世界を制覇した時代だったとすれば、この音楽世界帝国を20世紀後半に於いて引き継いだのがポピュラー音楽である。そしてポピュラー音楽ののルーツもまた、意外に思われるかもしれないが、19世紀の西洋音楽、とりわけ世紀後半に大量に作られたミュージック・ホールやサロン音楽の類にある。これらが新世界でアフロ・アメリカの音楽と結びついて生まれたのが、現代ポピュラー音楽の遠い祖先、つまりいわゆるティン・パン・アリーの音楽だったり、ラグタイムの類だったりしたわけである。19世紀末から多くの楽譜出版社がマンハッタン五番街とブロードウェイの間、ティン・パン・アリーと呼ばれる通りに集まり始めたのだが、ティン・パン・アリーの音楽とはここから発信された音楽を指す。実際ポピュラー音楽の大半は、特に旋律構造や和声や楽器の点で、19世紀のロマン派音楽をほとんどそのまま踏襲しているといっても過言ではない。また、市民に夢と感動を与える音楽という美学もまた、そっくりそのまま19世紀の西洋音楽から引き継がれたものだ。感動させる音楽としてのロマン派の延長線上にあるのが、ポピュラーなのである。クラシックとポピュラーは地続きであって、決して世間で思われているほど対立的なものではない。
 ここでいくつかの年号を挙げると、1954年にはフルトベングラーが没し、エルビス・プレスリーがデビューしている。翌1955年には、ブーレーズの「主なき槌」の作曲が始まり、グールドがバッハの「ゴルトベルク変奏曲」で鮮烈なレコード・デビューを果たし、ジョン・コルトレーンがマイルス・デイヴィス・クインテットに加入した。またコルトレーンの初期の名盤「ブルー・トレイン」の録音は1957年で、これはトスカニーニが没した年。あるいはケージが初来日した1962年にはビートルズがレコード・デビューした。もちろんこの時代、クナッパーツブッシュもシューリヒトもクレンペラーもバックハウスもまだ健在だったし、カラヤンやベームは活動の全盛期を迎えつつあった。ホロヴィッツは1953年の演奏会を最後に、一時的にステージ活動を休止していたが。前衛音楽、巨匠の名演、ポピュラー音楽は互いにどれほど無関係にみえようとも、これらは確かに同時代現象であり、そう眺められるべきなのである。
 なお、これらの3つの大きな潮流の他に、ここで少しジャズの問題に触れておきたい。第二次世界大戦以後の最も輝かしい音楽史上の出来事は、1950〜60年代のモダン・ジャズである。大戦前のディキシーランド・ジャズやデューク・エリントンのビッグバンドやベニー・グッドマンのスイング等は娯楽音楽の領域を大きく超え出るものではなかったが、それに対して戦後のモダン・ジャズは一種の芸術音楽化の路線を歩んだ。マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、セロニアス・モンクやビル・エヴァンズ、あるいはバッハ演奏でも知られたMJQなどに於いては、即興はほとんど見せかけに過ぎない。楽譜として書き下ろしていたかどうかはともかく、演奏の細部に至るまで、彼らはあらかじめ相当緻密に設計していたはずだ。またマイルスのいわゆるモード・ジャズでは、頻繁にフランス印象派を連想させる旋法が現れるし、コルトレーンのポリリズム(異なるリズムを並走させる手法)は、ストラヴィンスキー並の複雑さだ。有名なアルバム「至上の愛」には、もはや娯楽音楽の要素はまったくない。ほとんど作品と呼んでもさしつかえない構成の緻密さ、そして複雑かつ独創的な音システムの飽くなき探究の点で、モダン・ジャズは西洋芸術音楽と同様の性格を示しているのである。ただし1960年代半ば以後このジャンルは、フリー・ジャズなどの先鋭的な前衛路線と従来のオーソドックスな娯楽路線とに分裂してしまったように思える。20世紀初頭に於いて西洋芸術音楽に生じたのと同じことが、モダン・ジャズにも起こったわけである。


























ショパン・マリアージュ(北海道釧路市の結婚相談所)/ 全国結婚相談事業者連盟 正規加盟店 / cherry-piano.com

恋の戦は白馬に乗って素敵な出会いを探しに行こう♡ ショパン・マリアージュは一人ひとりの希望や要望に基づいて最適なパートナーを見つけるサポートをします。貴方が求める条件や相手に対する期待を明確化し、その条件に基づいたマッチングを行います。また信頼出来る情報や適切なアドバイスを得ることができ、健全なパートナーシップの形成に向けてのサポートを受けることができます。