女性よりも猫を愛したエチュードの神様 カール・チェルニー

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「子ども特有の目ざとさで、わたしがすぐさま認めたのは、黄色い液体に浸したらしい脱脂綿を彼が両耳に詰めていることだった。私はすぐに、何かを弾かなければならなかった」

 カール・ツェルニーは後年、10歳のとき父親に連れられて初めてベートーヴェンの住まいを訪れた日のことをこう回想している。

 カールをベートーヴェンのもとへ伴った父のヴェンツェル・ツェルニーはピアノ教師で、プラハの北東50キロに位置するボヘミアの小さな町ニーンブルクの出身。一家の姓も本来はチェコ語で「erne」と書き、「チェルニー」に近い発音となる。ただ、カール自身は生涯の大半をウィーンで暮らしウィーンに没したので、その姓はドイツ語では「Czerny」と書かれ、カタカナ表記だと「ツェルニー」となる。

 幼時から父親にピアノを叩き込まれたカールは、ベートーヴェンのもとを訪れた時には、古今の大作曲家の主要ピアノ曲を全て暗譜演奏できるほどの技量を持っていた。それくらいだったから、ベートーヴェンはツェルニーの弟子入りを快諾したが、定期的なレッスンはなかなか困難だった。同伴役の父親の多忙のせいもあったし、せっかくベートーヴェン宅の呼び鈴を押しても、「今、作曲中なので」と断られることもあったからだ。

 レッスンはこの様に断続的なもので、また途中、父親とベートーヴェンの意見が合わなかった一時期はフンメルに師事し、またある時はクレメンティ薫陶も受けた。それでもチェルニーは10代前半の実り多き時期をベートーヴェンに学び、この間モーツァルトのハ短調協奏曲を弾いてピアニスト・デビューも果たす。

 1809年、師匠のベートーヴェンは後に「皇帝」の愛称を冠されることになるピアノ協奏曲第5番を完成させた。ところが、あいにくこの年、ウィーンはナポレオン軍の侵攻を受けて世情まことに慌しく、これを献呈する予定の相手ルドルフ大公も戦乱を避けて疎開してしまい、とても初演どころではない。ようやく1811年の11月にまずライプツィヒで初演の機会があり、その翌年2月15日、ついにウィーンでも初演出来ることになった。このとき、ベートーヴェンが独奏者に選んだのは、20歳の愛弟子チェルニーだった。

 チェルニーはこうして、若くしてピアニストとしての名声を確立したが、生来内気なチェルニーは、人前で弾くことがもともと肌に合わなかったらしく、20代半ばの若さで演奏活動から退き、教授活動に専念するよになった。教師稼業は、つねに衆目に曝されねばならないコンサート・ピアニストよりもはるかにツェルニーに向いていたと見え、的確かつ丁寧に指導するツェルニーは教師としての評判をぐんぐんと高めていった。

 「1819年のある朝のこと、8歳くらいの小さな男の子を連れた男がわたしのところにきて、子どもの演奏を聴いてほしいと頼んだ。青白く虚弱な感じの子どもで、演奏中、身体がぐらぐら揺れるので、私は彼が椅子から落ちやしないかと心配になったほどである。彼は指の運びをほとんど心得てなかったが、自然から彼に与えられた才能には敬服した。また、和声の知識が全然なくても、彼はある天才的な感覚を演奏に盛り込んだ。父親の言うには、自分はエステルハージ侯爵家の下級吏員で、これまでは自分が息子に教えてきたが、今後この小さなフランツの面倒をお引き受けいただけないかと」

 チェルニーはこの男の子フランツ・リストの教育を引き受けることにし、その自己流の指使いを改めさせ正しいメカニックを作ることから始めて、プロフェッショナルなピアニストとして必要なありとあらゆること、例えばステージでは3回お辞儀をすることや、白手袋を着用して登場すること、それをエレガントに脱ぐ作法などまで懇切に指導した。

 実は、リストの父親は、フンメルのレッスン料の高さに息子を師事させることを断念し、ツェルニーの門を叩いたわけだが、チェルニーとて通常のレッスン料はフンメルとさして変わらなかった。だが、リストの才能を見抜いたチェルニーは、なんとレッスン料免除で教えたと言われる。レッスン料免除もありがたいが、それよりも基礎を大切にするチェルニーの教育が稀代のヴィルトゥオーゾ、リストを作り上げたと言っても過言ではなく、もしもこの時リストがフンメルに入門していたら、違う結果となっていたかもわからない。

 リストを育てた後も、チェルニーのもとにはあまたの入門希望者が押しかけてチェルニーの門前は市をなした。とても全ては受け入れられないから数を制限しても、1日に12時間もレッスンに割かれる。弟子のほとんどは貴族の令息や令嬢、令夫人連だから、社交辞令のひとつも口にしなければならない。収入には恵まれても、やはりこれも激務だった。次第に疲れを感じたチェルニーは、45歳の頃、ついに教師稼業を畳む。

 その後の人生を、チェルニーは膨大な量の作品を書いて送ることになる。その全てがピアノ曲という訳ではなく、ピアノ曲の中には協奏曲などもあるが、大半を占めるのはやはりピアノ練習曲である。その中では「理論的・実践的ピアノ教本」全3巻、「チェルニー30番」として知られる「技巧の練習曲」、同じく「チェルニー40番」こと「熟練の手引」、「チェルニー50番」こと「指使いの技法」、「チェルニー60番」こと「ヴィルトゥオーゾの手引」などは、現在も多くのピアノ学習者におなじみだ。というより、苦の種とさえなっている。

 作品のうち、作品番号の最も遅いものは「左手のための新しい30の練習曲」作品861で、師匠のベートーヴェンのそれが130番台で終わっていることからみても、いかに量が多いかよく分かる。作品番号は曲集単位だから、およそ86集あるそれらに収められた個々の曲の数でいえば3000曲以上にのぼることになり、これらの他、作品番号を付されていない編曲作品群も存在するので、全てを勘定することは不可能に近い。

 それほど膨大な作品を書くことができたのも、チェルニーが生来たいへん勤勉な性格だったのと、ベートーヴェン仕込みの速筆術を身につけていたためらしい。

 1834年頃の話だが、イタリアで病に倒れたフィールドが、いくらか癒えてモスクワへ戻る途中、ウィーンのチェルニー宅に滞在した時のこと、チェルニーが部屋中に書きかけの譜面を広げておいて、1段ずつ書いては乾くそばから隣へ移り、1日中それらの間を順にまわって片時もペンを放さず、破竹の勢いで練習曲を生み出しているのを見て、

「こりゃあ、生きているインク壺だ!」

と叫んで、早々にそのもとを立ち去ったというエピソードがある。

 それほど、練習曲作りに忙しかったチェルニーは、師匠のベートーヴェン同様、生涯ついに結婚というものをしなかった。その代わりに沢山の猫を飼っていて、収入の大半は彼らのエサ代と化し、チェルニー自身はいつも、子猫の貰い手探しに奔走していたという。

 1857年7月15日に66歳でチェルニーが亡くなった時、印税その他で、当時のオーストリア皇帝の年収にほぼ匹敵する10万フローリンという大金が遺されていた。しかしまさか、猫に遺産を相続させる訳にもいかなかったから、本人の遺志によって一部は家政婦に贈られ、残りは慈善事業に寄付されたのであった。

 

 



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