ショパンの美学は古典派にあった

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<ショパンに影響を与えたのはバッハとモーツアルト>
 ショパンはピアノの詩人と呼ばれることが多い。この愛称には何となくロマンチックな響きが込められているし、ショパン作品をロマンチックだと思い込んでいる人は殊のほか多く、そう語られるケースがほとんどである。しかし、果たして本当にそうだろうか。
 この命題を検証する前に、古典主義、ロマン主義という言葉の定義を認識しておく必要がある。
 まず古典主義とは、ヨーロッパ史における古代ギリシャやローマ時代を基盤とし、その文化を理想とする概念であり、均整であることや調和が図られていることが根本となる。
 ただ西洋音楽史の中の古典派という括りは、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンなどウィーン古典派を指すことが多く、今回、古典主義とした場合、その性格上、前古典派やバロック時代を含めた包括的な位置付けで考えてみたい。それと言うのも、何よりショパンに影響を与えたのはバッハモーツアルトだからである。バロック時代から古典派までの音楽様式を鑑みると、第1に堅牢な構成観と揺るぎないテンポ感が挙げられ、この2点はこの時代の基礎となった。そして多楽章構成で楽曲が創作されることやソナタ形式が、時代の音楽の根幹に据えられた。形式という概念は、古典派に於いては絶対であり、種類としては他にも2部形式や3部形式、複合3部形式、また変奏曲形式やロンド形式などがあるが、形式の範疇を逸脱することはなかった。バロック時代に興隆したポリフォニー様式はそのまま古典派でも用いられ、さらにホモフォニー様式も広く使われていた。年代を特定すれば、ペーリやカッチーニが声楽作品を書いた1600年頃から、ベートーヴェンが存命した1820年頃までといった見方となるだろう。
 一方で、ロマンという言葉の意味は何か。それはローマ帝国時代にまで遡る。ローマ帝国の言語はラテン語だった。ただ古典ラテン語と、口語としての俗ラテン語があり、時代とともにその差が拡大していった。やがて古典ラテン語を知らない市民たちにとって、それはもはや理解し難いレベルにまで変貌してしまったのである。その口語がロマンス語と呼ばれて文学や音楽に影響するようになるが、つまりロマンとは、ローマ帝国の庶民文化に基づくと言う概念である。

 具体的に音楽に於けるロマン派とは、ベートーヴェンの最晩年、またパガニーニ、ウェーバー、ロッシーニ、シューベルトあたりからマーラーまでの作曲家たちを指す場合が多く、19世紀から20世紀を跨ぐ頃までという認識となる。
 そのロマン派音楽は、感情表現に重きを置いて自由に発想し、かつ楽曲の大型化が特徴と言えるだろう。作曲家は宮廷や教会の束縛から離れ、自身の心情の吐露に委ねられた個性的な表現を聴衆に提示するようになり、芸術を生業とすることが可能となった。楽器としてのピアノは飛躍的に発達し、ヴァイオリンは改良されて、ともに大音量とヴィルトゥオーソ性溢れる演奏は大いに聴衆を魅了した。そして同時に、楽曲の標題化とも結びついていったのである。
 さらにワーグナー、R・シュトラウス、ブルックナー、マーラーたちが活躍し、オーケストラの重厚化、壮大化、長大化にも繋がっていくのだが、古典派では2管編成だったオーケストラが、3管、4管編成となり、大規模な合唱も加えられた楽曲が数多く誕生した。またスメタナ、ドボルザーク、チャイコフスキー、グリーグ、シベリウスといった民族性を重視した作曲家たちもこの時代を華やかに彩った。
 ソナタ形式は広範に取り扱われ、或いは逸脱し、交響詩やキャラクター・ピースなどの自由な発想からの創作が持て囃された。また循環形式や固定楽想、示導動機などの斬新なアイディアも提案された。何ごとに於いても派手な印象は否めない。


<形式の範囲内での新取性を模索したショパン>
 ショパンが生まれ、音楽家として活動した時期は確かにロマン派に区分されている。生涯を自由な音楽家として生き、ほとんどピアノ音楽に特化した創作活動を貫き、おそらく病気がなければ意のままに生きたであろうショパンは、それだけでロマン派作曲家の条件を満たしている。風貌にしても、古典派よりはどう見てもロマン派だ。
 しかし、創作の方向はどうか。最初にショパンがピアノを師事したヴォイチェフ・ジヴニーは、ショパンにバッハ、ハイドン、モーツアルトを教えた。当時バッハはまだ聴衆に知られてはおらず、教材で取り上げられることさえ、かなり時代を待たなければならなかった。偶さかジヴニーがバッハの情熱的な信奉者であったがゆえに起こり得た、ショパンにとっては歓迎すべき必然であったが、このボヘミア生まれの名教師を招いたショパンの父ミコワイの見識でもあろう。さらにミコワイのサロンに出入りしていたポーランド国民楽派の父と言われるユゼフ・エルスネルにショパンはプライベートで学び、やがてエルスネルが校長を務めるワルシャワ高等音楽学校で作曲の指導を受けるのだが、エルスネルもまた古典派音楽にショパンを導いた。ジヴニーは教育の基本にバッハの「平均律クラヴィーア曲集」を置き、エルスネルはショパンに和声と対位法を叩き込んだのである。この「平均律クラヴィーア曲集」を規範として、ショパンは後年「24の前奏曲」を書いたことはよく知られている。


 古典派ではソナタ形式が主流だった。18世紀後半に基本が確立したソナタ形式は、整然とした形式美を有していた。大まかに、2つの主題が主張を持って対立し、歩み寄り、それが緊張と弛緩をもたらす。
 ショパンは3曲のソナタを書いた。「第2番」と「第3番」については極めて有名な傑作として知られるが、第1番は音楽学校に通っていた18歳の時の習作であり、エルスネルからの課題であった。第2楽章や第3楽章には、ショパンらしい萌芽が見られるし、特に第3楽章は叙情に溢れて美しい。しかし第1楽章は、古典的な形式に精通していた師の期待に応えようとしたのであろう。必要な要素を詰め込み過ぎて、逆に効果を半減させている。それでもそういう試行錯誤が「第2番」と「第3番」へと鮮やかに結実しており、ソナタ形式の枠組みの中で実に独創的な名作を生み出したのである。
 このソナタの「第2番」にしろ「第3番」にしろ、息苦しくなるほどの緊張と、優美さに満ちた弛緩のコントラストが全編に湛えられている。この緊張と弛緩の対比は、ショパンの他の作品でも極めて頻繁に登場するロジックだ。例えば「バラード第2番」を見てみると、冒頭、両手のユニゾンから開始され、これ以上無いくらいの簡素さでアンダンティーノの主題が現れる。淡々と、装飾を排除した均整美に溢れた詩情は実に印象的だ。そして徐々に消え入り、分散和音になった刹那、47小節目からは突然のプレスト・コン・フォーコの暴風雨が荒れ狂う。凄まじいばかりのエネルギーの咆哮が静まると、再び安らいだ主題となり、それが繰り返される。こういった絶妙なコントラストは、ショパン作品全体を貫くプロットでもある。

 またショパンは、形式にこだわった。協奏曲、ソナタ、バラード、スケルツォ、エチュード、ノクターン、ポロネーズ、マズルカ、ワルツ、いくつかの例外を除き、ショパンはおよそ古典的な形式を使って創作に向かった。しかしながらショパンの天才は、形式を踏襲するのみならず、その枠組を凌駕し、芸術的に遥か高みの境地へと収斂させたのである。中世の声楽曲であったバラードを器楽曲として再構築し、教育が目的のエチュードに芸術的な抒情性を織り込んだ。フィールドの創始したノクターンに比類なき芸術性を与えたのもショパンの独創性に他ならない。またこのノクターンこそ、バロック時代に流行したモノディー形式(伴奏和音に旋律が乗るスタイル)のひとつの集大成ではなかったか。ポーランドの民族舞曲に清新な風合いと自らの心象風景を投入したポロネーズやマズルカ、そしてワルツや舟歌はそれまでの常識を覆すように斬新な方向性を与えて比類がない。つまりショパンは決して形式をはみ出さず、壊さず、あくまで形式の範囲内での進取性を模索したのである。

 

さらにショパンを語る時、大切な要素がある。それは標題についてである。ショパンは自作ににタイトルをつけなかった。というより、標題をつけることを嫌った。今日、一般に親しまれている、エチュード「革命」、「木枯らし」、「黒鍵」、ポロネーズ「英雄」、プレリュード「雨だれ」などは、後年、愛称として広まったり、出版社が付けたりしたものであり、ショパンのネーミングではない。「別れの曲」などは、日本で生まれたタイトルだ。昭和の時代、ショパンの伝記映画「別れの曲」が公開された。映画は大ヒット、主題曲に使われた「エチュードop.10-3」も人気を呼び、それから「別れの曲」という呼称が一般化されてしまったのである。
 しかしタイトルほど、聴き手のイメージを限定するものはない。だからこそショパンは、古典派の手法である純粋な響きとして作品を創作し、そのイマジネーションを聴き手に全て委ねたのである。一方、ロマン派音楽はその真逆である。ロマン派は、作品に文学や絵画などのイメージを取り込むことを課題とした。つまりそれを前面に押し立てたシューマンとショパンの方向性は、対極と言わざるを得ない。
 もうひとつ、ショパンが愛して止まなかったのは、オペラであり、ベル・カント唱法である。ワルシャワにいた頃からロッシーニに熱狂し、ベッリーニに心酔した。けれどもショパンの興味はベッリーニまでだった。実際、ショパンがパリに初めて到着してすぐ、マイアベーアの歌劇「悪魔のロベール」が大人気となった。ショパンもいたく感激し、また依頼により、友人のチェロ奏者フランコムの協力を得て「マイアベーアの歌劇悪魔のロベールの主題による協奏的大二重奏曲」を書き上げるが、その熱はすぐに冷めてしまった。ショパンは俗悪なもの、平凡さ、突飛さを嫌った。ここにショパンの真の美学が在る。だからこそ友人ティトウスに現代的(ロマン的)なものには興味がないと告白し、ヴェルディのパリ・デビューにも関心を示さなかった。ショパンがロマン派の騎手であるシューマンやベルリオーズをはじめ、同世代の作曲家たちとあまり深く交流しなかったのも、そういう意識だったからに違いない。


<伴奏部の正確なテンポの維持>

 ショパンが弟子を指導する時に、常に注意しなければならないとしたことは、正確なリズムである。必ずイン・テンポで演奏し、リズムに少しでも間延びや歪が出来ることを嫌った。弟子のミクリによると、それは頑固一徹なほどで、いつもメトロノームがピアノの上に置かれていた。具体的には、伴奏部を一糸乱れぬ正確さでテンポを維持し、もう片方でタイミングのずれないルバートや適切なリタルダンドを施したのだという。ともすれば両手ともに動いてしまうのが人間であるから、弟子は常に緊張を強いられた。
 またリストが演奏したショパンのエチュードについて、当時こそ魅了されていたものの、後日そのことに触れて、最後に残るのは、簡素さである。難解なことを全てやり遂げたあと、大変な量の音を演奏した後、芸術の最後の証として残るのは簡素さだ。そこにすぐに到達したいと望む者は、一生辿り着けないだろうと述べている。
 もっと言えば、ロマン派の特質である大規模な造形とは、ショパンは程遠い。協奏曲やソナタ、前奏曲などを除き、ショパンのピアノ作品のほとんどはおよそ10分程度のいわゆる小品であり、その内容は音楽を究極にまで凝縮させてはいるが、ロマン派の特徴のように、多彩な要素を無理やり詰め込んでいる訳ではない。加えてショパンの全作品は、限りなくピアニスティックではあるが、決してロマン派を標榜するヴィルトゥオーソ性だけを追求したものでも無いのである。
 以上のことからショパンの美学は古典派にこそあったのである。最後にショパンの弟子、ジョルジュ・マティアスの言葉を付け加えて置く。ショパンの感性と考え方は古典的だ。想像力は全くロマンティックであったのに。




























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