国産ピアノ第1号の誕生

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 明治33(1900)年1月、日本楽器は、簡素なアップライトピアノを完成させた。アメリカから到着した機械を使って加工し、山葉寅楠が買い込んだ部品を組み込んで製作した第1号であった。最初にアップライトを製作した理由は、比較的安価で、学校教育用として需要が見込めると読んだからだ。
 西暦2000年が、「国産ピアノ製作から100年」と呼ばれるのは、明治33年1月に完成した、このピアノから数えてのことである。
 主要部品の鋳物製のフレームやアクション、鍵盤など多くの部品に輸入品を使っていながら、記念すべき国産第1号と認定された根拠は、音を響かせて個性を決めるピアノの生命とも言うべき響板が国産だったからである。
 同じ時期に製作されたとみられるカメン・モデルのピアノが国立音楽大学に保管されており、製造一連番号は1003番である。このピアノを詳しく調査した結果、先のような使用部品のルーツが確認されたのだった。しかも、この時期のことを記した覚書手帳ともいうべき「ピアノ製造出荷考」と題する直吉のノート、通称「直吉メモ」があって、彼の弟子であり、後に調律師となり全国ピアノ技術者教会会長を歴任した中谷孝男の夫人が写し取っていた。原本は行方不明となっているが、そこには「カメン・モデル立ピアノ1001番(明治33年1月)製造番号1000を付加せり。これは山葉社長渡米(明治32年)して見本品および鉄骨(山葉マーク入特注)およびアクション等買入来りて当社にて製造せり」と記されていた。中谷孝男は、こう解説する。

 「このピアノはつまり3番目になるわけです。これをカメン・モデルといっていたが多分モデルがカメン会社のものであったと考えられます。中谷がこのピアノの完成した年を国産ピアノ完成の年とする理由は響板をヤマハで作ったピアノの最初であるというわけです」
 ちなみに、これ以前に山葉で作られたピアノは、響板も含めたすべての部品や原材料を上海方面から買い入れて加工し、組み立てられたため、一連番号を付けない無番としており、カメン・モデルとは区別していたと「直吉メモ」に明記されていた。

 「カメン」はメーカー名とのことだが、寅楠が渡米した時のアメリカのピアノメーカーの中には存在しない。何を意味しているかはいまひとつ判然としない。
 響板の高音部は板を厚くし、低音部は薄くしていて、しかも中央部はわずかな膨らみをもたせており、裏には補強材ともいうべき響棒が十数本、間隔を置いて張り付けてある。響板をどのような材質や形ににするか、さらにはシーズニングをどうするかによって、ピアノの音量はもちろんのこと、音色さえも大きく変わってくるだけに、極めて重要な役割を果たしている。
 西川楽器は日本楽器より先にピアノを作ってはいたが、この響板は自社製ではなく、輸入品を使っていたために、国産第1号とは認められなかったといわれている。なお、日本楽器の国産第1号ピアノは、響板のほかに、木工類のケースなども国産であった。
 響板以外の多くの部分を、外国製に頼りながら、なぜこれを国産第1号とするかについては異論もあるだろう。しかし、欧米に例を取れば、有名なピアノメーカーでも、アクションやフレームは専門メーカーから買ってきて、自製した響板などと共に組み立てて、自社ブランドとして販売しているところが多いだけに、日本楽器のカメン・モデルに対する国産第1号の認定は、あながち誤りとはいえない。
 この1号が完成する以前に日本楽器で製作されたピアノ、すなわち響板も含めてすべてが輸入部品のピアノには製造一連番号を打たず、無番で出荷し、ヤマハブランドとは区別していたようである。
 また、明治36(1903)年から製作し始めたグランドピアノの製造一連番号は1500から始まっていて、竪型のアップライトと区別している。
 社運を賭ける意気込みで挑んだ寅楠のピアノ製作だったが、予想を超える困難がたちはだかって予定していた生産台数はこなせず、販売台数も伸びなかった。明治33(1900)年から37(1904)年までの年産台数はそれぞれ2台、6台、8台、21台、37台に過ぎない。設備投資額の割には売上が伸びず、ピアノ工場は閑散としていた。

 しかもピアノの構造が複雑でデリケートなだけに、1品ごとの手作り生産を余儀なくされて利益は上がらず、日本楽器全体の業績を引き下げていた。これに引き換え、オルガンの方は年産7,8000台のオーダーで推移し、量産体制を整えて、ピアノの赤字分をカバーしていた。
 逆境にあったピアノ部門だが、直吉や古市を歓喜させる出来事もあった。明治36(1903)年3月に、大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会で、日本楽器の展示場を行幸された天皇の休憩所にあてることに成功したのである。その上、4月20日には、展示されていたピアノが、明治天皇、皇后陛下の目に止まり、お買い上げになられる栄誉に浴した。
 さらにその翌年、アメリカ・セントルイスで開かれた万国博覧会にも出品して受賞し、明治42(1909)年にはシアトルで開かれたアラスカユーコン太平洋博覧会に梨地塗りのピアノを出品して受賞を果たした。翌々年には、ロンドンで開かれた日英大博覧会に七宝蒔仕上げのピアノを出品した。これらはいずれも楽器としての優秀性よりも、日本的装飾美を全面に打ち出すことで外国人の目を惹き付けようとしていた。
 寅楠は、本場のアメリカ仕込みの技術であることに併せて、天皇のお買い上げや受賞を大々的に宣伝して競合メーカーに対する優位性を強調しようと攻勢ををかけた。
 一方、西川楽器の西川寅吉、松本楽器の松本新吉は、寅楠の渡米を知り衝撃を受けていた。特に西川は、寅楠より十数年も早く洋楽器の世界に身を投じて先行していながらも、オルガン生産では日本楽器に大きく引き離されていた。このままでは1歩も2歩も先をゆくと自負するピアノまでも追い越されかねないとの思いを深めた。
 寅楠が渡米した翌年の明治33(1900)年、西川は、21歳の息子・安蔵を渡米させ、ニューヨークのエステー社で1年半に渡りピアノの製造技術を習得させた。安蔵は、続いてバーモント州ブラタレボロにある同社のオルガン製造所にも入り、特にオルガンの各部分および音色の研究に力を注ぎ、修業証書を得て25歳で帰朝した。
 一方、松本新吉もまた、西川と同じ年、自ら渡米して半年ほど滞在し、その間、1ヶ月半に渡りブラドベリー社でピアノの製造技術を学ぶことになる。

 寅楠に続いて、ライバル2社も渡米に踏み切ったわけだが、目的はそれぞれ異なる。寅楠が割り切って工場の見学だけですませ、あとは工作機械やピアノ部品の買い付けに時間を割いたのに対して、西川と松本はピアノ工場に入り込んで、製造技術そのものを身体でもって学びとろうとした。この違いは、経営者として楽器を製造するにあたって、何を最重要視するかの着眼の違いに他ならなかった。
 直吉や古市を擁する寅楠は、製造は自前の技術で何とかなるとみて割り切り、事業家に徹していたようである。あるいはピアノづくりの経験がわずかだっただけに、その真髄を掴み切れていなかったのかもしれない。一方、西川と松本は職人気質が強く、モノづくりの技術そのものにこだわりを見せた。ピアノ先進国アメリカの工場の内部に入り込んで、なんとしてもノウハウを身体でもって習得しなければと、技術の習得にこだわった。

 



















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