世界恋愛史上、最も有名なショパンとジョルジュ・サンドの恋の始まり

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 1838年3月12日、ショパンは珍しく公開演奏会に出た。それもパリではなく、120キロ離れたノルマンディー地方ルーアンで演奏したのだ。ポーランド時代の友人が故国の大学の講座を開くための基金集めとして開く演奏会である。その友人が指揮をしてショパンのピアノ協奏曲が演奏され、他にもショパンは自作を披露した。
 ショパンが弾くというのでパリの音楽愛好家たちが大挙して、120キロ先のルーアンへ向かった。それくらい、ショパンの公開演奏会は稀になっていた。500席を埋めた聴衆から万雷の拍手と喝采を浴びながらも、ショパンはその後も公開演奏会には滅多に出ない。ショパンはこの時代の大ピアニストとしては珍しく、コンサートが嫌いなのだ。
 ルーアンでの演奏会の前後、ショパンはパリでパガニーニと直接会う機会を持った。この天才ヴァイオリニストが亡くなるのはこの2年後で、既に演奏活動からは引退していた。
 そして4月の終わり、ショパンは「あなたを熱愛しています」とだけしか書かれていない手紙を受け取った。差出人はジョルジュ・サンドである。つまりこの頃にはショパンとサンドは再開し、付き合い始めていたのだ。サンドは前年にも体調を崩しているショパンに「ノアンで静養しませんか」と手紙で誘っているので、何かしらの交流はあった。
 二人が本格的に付き合い始めるのはスペイン領事でイタリアからの亡命貴族であるマルリアーニ伯爵邸のサロンで再会してからだ。伯爵の夫人はフランス人だったが夫がイタリアからの亡命者であることからポーランドの亡命者に親近感を寄せていたようで、ショパンもよく呼ばれ、夜会でピアノを弾いていた。さらにマリー・ダグー伯爵夫人のサロンの常連たちも、マリーがパリを出てからはマルリアーニ伯爵邸に出入りしており、サンドはその人脈だった。サンドはノアンが生活の拠点で、パリには住居を持っていない。この春はマルリアーニ邸に寄寓していた。
 この時期のサンドにはマルフィーユという劇作家の恋人がいたが、マルフィーユは子供たちの家庭教師でもあったので子供の世話を頼まれてノアンにいた。
 再会した時、ショパンは28歳、サンドは34歳である。二人は急速に親しくなり、4月の終わりに短い熱烈なラブレターが書かれたのだ。5月8日、ショパンの後援者のひとりであるキュスティーヌ侯爵邸の夜会にサンドとショパンは参加した。ショパンはピアノを弾き、サンドは男装ではなくドレス姿だった。5月12日にサンドは画家ドラクロアに、明日からノアンへ帰るので、今晩夜会を開くから来てくれ、親しい者だけの小さな集まりで、ショパンがピアノを弾いてくれる事になっていますと伝える手紙を出している。

 サンドがノアンに帰るのは息子が病気になったからで、帰りたくて帰ったのではない。ましてや恋人マルフィーユと会いたかったからでもなかった。
 ノアンに戻ったサンドは、会えないだけにショパンへの想いが募り、友人アルベルト・グジマワへ便箋32枚もの長い手紙を書き、ショパンへの想いを告白している。グジマワはショパンとも友人関係にあったので、当然、グジマワからショパンに想いが伝わる事を期待してのものだ。この手紙によれば、ショパンはまだマリアを婚約者と考えているようでもある。それゆえにショパンはサンドとの関係に於いて一線を越えられないようでもあり、サンドはもどかしい。サンドは性的には開放的な女性とされている。一方のショパンは性的には奥手なイメージがある。この手紙は両者のそんなイメージを裏付ける。
 ともあれ6月にはショパンとサンドの関係はパリ社交界では知られていた。パリを遠く離れたイタリアにいるリストとマリーも知っていた。共通の友人である画家のドラクロアが二人の姿を絵に描いたのもこの頃だ。
 二人の知人・友人で何も知らないのは、サンドの恋人にして子供たちの家庭教師でもある劇作家のマルフィーユだけだった。サンドはそれをいいことに、8月になるとマルフィーユに子供たちをノルマンディ旅行に連れて行かせ、自由な時間を得て、ショパンとの仲を進展させた。だが、有名人カップルの噂はやがてマルフィーユの耳にも入った。嫉妬とサンドに馬鹿にされていると感じた屈辱感でマルフィーユは切れた。
 9月になるとマルフィーユはパリへ行き、ショパンのアパルトマンの前でサンドが出てくるのを見張った。彼女が出てくると襲いかかり、首を締めようとした。サンドは通りがかった馬車に飛び乗って難を逃れた。さらにマルフィーユが拳銃を入手してショパンに決闘を申し込もうとして準備しているとの噂も流れ、サンドとショパンは対策を練った。二人が出した結論は「国外へ逃げようだった」この時、ショパンが決闘して殺されてしまったら、この世界には「葬送ソナタ」も「英雄ポロネーズ」も「幻想ポロネーズ」も「舟歌」も存在しなかったであろう。

 二人はどこへ逃げるかを検討した。ショパンは当初イタリアを考えた。しかしサンドが、地中海のマヨルカ島ならば日光と爽やかな風に恵まれ保養にいいと言うので、そこに決めた。
 ショパンはしばらくパリを離れるつもりだったので、収入源であるピアノの家庭教師を全て解約した。プレイエルに頼み、作曲中の「プレリュード集」を2000フランでプレイエル社に売ることにして前金として500フランをもらい、ピアノをマヨルカ島へ送ってもらうことも頼んだ。さらに旅費と当面の生活費のため、銀行家の友人から1000フランを借りた。ワルシャワ時代からの学友で同じように亡命しているユリアン・フォンタナにアパルトマンの管理や、楽譜出版社との交渉、郵便物の仲介など、留守中の全てを託した。いつパリに戻ってくるかは決めていない。
 サンドは夫とは離婚しているので、このカップルはリストとマリーのような不倫ではない。しかし二人は人目を憚り、別々にパリを出ることにした。10月18日、先にサンドが子供たちを連れてパリを出た。
 20日にショパンは後継者のひとりキュスティーヌ侯爵を訪ね、書き上げたばかりの「軍隊ポロネーズ(第3番)」と後にピアノソナタ第2番第3楽章になる葬送行進曲を弾いた。この作家でもある侯爵は同性愛者で、ショパンを後援しているのは友情というよりも愛情からだとの説もある。それ故に彼はショパンと結ばれたサンドに嫉妬していた。彼女にまとわりつく「年下のショパンを誘惑した年増の色情女」というイメージは、彼が増幅させたのだ。男の嫉妬は恐ろしい。
 二人はスペイン国境近くのペルピニャンで合流することになっており、サンド親子は29日に着いて、翌日30日の夕方にショパンが着いて合流した。サンドの手紙にはショパンは「郵便馬車に4晩も耐えた」とあるので、26日に出発したと推測できる。パリからペルピニャンまでは806キロ、馬車で4昼夜、不眠不休の旅だったのだ。サンド親子は12日目に着いてから倍のスピードで、このことが後に体調を崩した原因ともされる。強行軍になったのはマドリッドへ向かうスペインの元首相メンディサバルの馬車に乗せてもらったからだった。

 サンドの息子モーリスは15歳、娘ソランジュは10歳だった。ソランジュはすぐにショパンになつくが、モーリスとはあとあとまで折り合いが悪い。モーリスからみれば、ショパンは母を奪った男である。
 合流した翌31日、一行は31キロ南の国境の港町ポール・ヴァンドルまで行き、そこからは船でバルセロナへ向かい、11月1日に着いた。バルセロナで休息をとり観光をして、7日に船でマヨルカ島へ向かった。直線距離で約239キロである。
 マヨルカ島での暮らしは翌年2月まで4ヶ月ほど続く。最初は風光明媚でいいところと思われたが、外国ゆえのトラブルも続き、決して快適な生活とはならない。こうして、ショパン&サンドという世界恋愛史上、最も有名なカップルは同棲生活を始めたのだった。

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