リストがショパンから受けた影響

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 リストショパンが亡くなってから1年余りたった1851年2月5日から8月17日にかけて、「ラ・フランス・ミュジカル」誌に17回に渡ってショパンについての連載を発表し、修正した後、翌年に単行本として出版した。ショパンについての文献としては最初期のものであり、ベストセラーとなった著作である。評伝というよりもショパンの音楽や人となりを通じて、リストの音楽観やショパン観を展開したものである。なお、現存するこの著作の自筆原稿には、カロリーヌ・ザイン・ヴィトゲンシュタイン公爵夫人の修正が含まれている。
 「ショパンに私達が負っているもの、それは和音の拡大であり、半音階や異名同音による紆余曲折」であるとリストは述べている。ショパンの作品に認められる斬新な和声は、当時の音楽家や批評家を当惑させた。ベルリンの保守的な批評家レルシュタープは、ショパンの「5つのマズルカ」作品7についての1833年の批評で、その不協和音と激しい転調、普通でない調性に嫌悪感さえ示している。ショパンの音楽を極めて高く評価していたシューマンでさえ「ピアノ・ソナタ第2番」の最終楽章を「音楽ではない」と述べている。しかし、第1楽章冒頭について、このような始まり方はショパンの他はないと述べているように、シューマンははっきりとショパンの和声が持つ特異性を認識していた。「不協和音をもって始まり、不協和音を通って、不協和音に終わる」。ショパンの作品には「幻想ポロネーズ」のように、冒頭が主調で始まらないものがしばしばあるが、同じ傾向は1830年代のリストの作品にも認められる。1833年から1834年に作曲され、リストの独自性を最初に打ち出した作品の1つである「詩的で宗教的な調べ」の初稿では、楽曲の前半部分に調記号も拍子記号も存在しない。その点では、ショパンよりも遥かに前衛的な作品である。また晩年に至るまで、リストの作品の特徴のひとつとして、冒頭の調性が不安定であることが挙げられる。この傾向が、ショパンからの影響であるとは断定出来ないが、少なくともショパンとの類似性は指摘できるだろう。
 「ショパン」の第2章は、ポロネーズについて書かれているが、そこでリストは次のように述べている。「ショパンのポロネーズをいくつか聞いていると、運命が不公平であったものに対して、大胆に雄雄しく立ち向かった人々のしっかりした、というよりはむしろ重い足取りが聞こえてくるようである」ここでいう「運命が不公平であったものに対して、大胆に雄雄しく立ち向かった人々」とはポーランド蜂起の失敗を経験したポーランド民族のことだと考えられる。シューマンは、より詩的な表現を用いて、ショパンの作品は「花の陰に隠された大砲」であると評している。民族問題は、理屈で理解する場合と、実際に渦中に於いて経験として理解する場合とでは、全く意味合いが違う。自らの民族による独立国家が存在しなかった当時のポーランド人の心情、独立へ向けての文字通り切なる願い、それはショパンの音楽の根底に脈々と流れ続けている重要なテーマである。その事をリストは感じ取っていたことがうかがえる。なぜならば、リストが自らの祖国と考えていたハンガリーもまた、ハプスブルク帝国の支配をうけていたからである。その意味で、リストの「ハンガリー狂詩曲」も同種の音楽である。

 ショパンのマズルカやポロネーズ、リストの「ハンガリー狂詩曲」は、国民楽派の作品の範疇には決して入らないが、その先駆的作品だと言える。大国に生まれた作曲家たちが書いたいわゆるトルコ風、ハンガリー風、スペイン風といった単なる異国趣味の音楽とは明らかに一線を画したものである。やはりこの点でも、ショパンとリストの音楽は性格をともにしている。
 ショパンの音楽作品は、和声の問題を除くと、一般に古典的な傾向を示している。例えば音楽以外の芸術領域との接点がほとんど認められず、その大部分の作品は伝統的な形式で書かれている。一方で、ショパンの未完の著作「ピアノ教則本」によれば、彼が音楽芸術を思想や知覚、感情を表現するものであると考えていたと思われる。これは、ベートーヴェンの「田園交響曲」とも共通する考えであるし、おそらくは19世紀にはある程度、一般的な認識であったと思われるが、リストもまた、音楽は感情の表現であるとみなしていた事を付け加えておきたい。
1830年代前半は、ショパンとリストはしばしば行動を共にし、同じ舞台に立ったことも1度や2度ではなかった。たとえば二人は、1833年の4月にはベルリオーズ主催の演奏会に賛助出演しているし、12月15日にはヒラーと共にバッハの「3台のクラヴィーアのための協奏曲」を共演している。翌年のクリスマスには、モシェレスの「4手のためのソナタ」とリストの「2台ピアノのためのデュオ」をいっしょに弾き、1836年12月13日のショパン主催の夜会では、モシェレスの「4手のためのソナタ」変ホ長調を弾いた。そしてショパンは1833年に出版された「エチュード」作品10をリストに献呈している。1830年代後半になると、リストがパリを離れたこともあって、二人の交流は冷めていったようだが、それでもリストはショパンに対する敬意を失うことなく、リスト自身の演奏会に於いてしばしばショパンの作品を取り上げ、その普及に努めた。 

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